投稿元:
レビューを見る
本書は著者の修士論文を基にしているそうだが、それまで公衆サウナの研究はほとんどされていなかったそうだ。
例えば、20世紀のヘルシンキ市内公衆サウナの店舗数の推移に関して、1907年から1985年までの系統だった統計は無く、筆者はその推移の正確な検証は絶望的だと言っている。
サウナはフィンランド語で、ロウリュもフィンランド語だと改めて知った。
フィンランドのサウナは日本のそれとは違い、温度も60~80度で、冷水プールは無く、12分計は無い。
日本の風呂に感覚としては近いそうだ。
フィンランドについて知っている事は、ムーミンの生まれ故郷、サンタクロースの村がある事、首都がヘルシンキ、携帯通信会社のノキア、
それくらいが思いつく事で、サウナ発祥の地である事は何となく知っていたものの、公衆サウナがつい最近までほとんど廃れていたという事は知らなかった。
建築家アルヴァ・アールトについて言及されていて、彼の文化的サウナ(クルットゥーリサウナ)という概念の見直しが始まっているそうだ。
投稿元:
レビューを見る
フィンランドの公衆サウナの話。ソンパサウナの話が面白い。ゆるい。おそらく冬の厳しさを共有してるからこれができるのでは、とも思った。
投稿元:
レビューを見る
いつかフィンランドに行ってサウナを体験したいと思っていたので読んでみた。
日本のサウナより室温が低いらしいが、ロウリュがデフォらしいので物足りなくはないのかな。
アウフグースがフィンランドではなくてドイツのものとは知らなかった。てっきりフィンランドだと思っていた。
そう言えばサウナハットを被っている写真も見当たらなかった。
ロウリュと外気浴が必ずあり、サウナ室にテレビがないのは素晴らしいが、水風呂がないのはどうなのだろうか。サウナの本体は水風呂だと思うので。フィンランドに行くなら冬に行って、水風呂代わりに凍った湖に飛び込みたい。
投稿元:
レビューを見る
フィンランドにおける公衆サウナの歴史と再興、そして現代の社会における公衆サウナの可能性について記した本。
大事なことは、この本はただのフィンランドの公衆サウナの紹介ではなく、公衆サウナを軸とした現代のフィンランドにおける公共性の変化とその可能性・日本との比較といった若干社会科学的なテイストを持った論文になっている。実際にこの本で論じられている内容は著者の修士論文?もベースになっていると思う。
フィンランドと言えばサウナ。サウナはフィンランド文化の代名詞…というイメージがあるが、フィンランド都心部においてもかつて数百件あった公衆サウナだが、現代に残るかつての公衆サウナは3件しか残っていないというほど衰退していた。
そんな中公衆サウナを復興させんと様々な取り組みをしている人たちと、「ロウリュ」や「ソンパサウナ」に代表される新しい公衆サウナの台頭、なぜ衰退していたはずの公衆サウナが今になって社会に受け入れられ始めたのか…という内容が細やかに解説されている。
色々な観点で公衆サウナの可能性について論じられていたが、特に印象に残っている内容は以下の二つ。
■新しい「サードプレイス」としてのサウナ。
ファーストプレイス:自宅
セカンドプレイス:職場
サードプレイス:カフェや図書館など、「一人の個人」としてくつろぐことができる文化的な書きに満ちたコミュニティ空間。
サウナが○○の家の人でもなく、○○に勤務している人とでもなく、所属の看板を取り外した完全なる個人を開放できる居場所としての可能性を秘めている(そしてそれは現代の若者が渇望しているもの?)。
■フィンランドにおける公衆サウナ発展のカギとして
「赤の他人への信頼」
元々フィンランド人はシャイで、「自分はあなたに干渉しないからあなたも私のことをほっといてくれ」というタイプの民族性。
この属性が良い方に捉えれば「必要以上に他者に干渉せず、一旦信頼することができる」ということになる。
他者に対して信頼し、心のガードを緩めることができれば余計な金・時間・労力を削ぎ落とし、合理化を図ることができる物事がこの世にはたくさんある。
(この話は耳が痛い!今仕事で多くを割かれている内容の根本はこの逆の考え方によるものだから。日本人が一番持っていないもの)
フィンランド人が持っている「精神的・人間的な」豊かさ。その要因の一つが「他者を信頼すること」に端を発した社会全体に漂う楽観性である。
これらを踏まえて日本の文化的な可能性はいかがだろうか。日本人は浴槽に浸かるなどの点においても、入浴にかなり重きを置いている民族としてはフィンランド人と似通っている。しかし、この精神的な豊かさを享受するための「他者を信頼する」という能力はフィンランド人に比べて著しく劣っている(仕方ないことでもある…それによって日本のカチカチの秩序はたもたれているのだから)。
では日本人はフィンランド人のように「他者を信頼する」ことができないからオープンマインドな文化空間を作ることは不可能なのか?
答えは私はまだ分からないが、日本にも公衆サウナのような文化空間を先に浸透させれば、あとからパブリック志向は芽生えることはあるかもしれない…そんなことを考えたくなる。
この本は現代日本社会に足りないものと、それを満たすためのヒントを示唆しているように思えた。
投稿元:
レビューを見る
サウナの本場フィンランドと日本の入浴文化の違いや、公衆サウナがなぜ今復興してきているのかを長年フィンランドに在住して両国の入浴文化の違いを研究し続けてきたこばやしあやなさんが執筆。
今改めて公衆サウナブームが来ている要因としては、サウナが日々の疲れを癒し、自分と向き合ったり、人とコミュニティを図ったりサードプレイスとしての役割を果たしており、社会的価値が高まっている。
また、今や公衆サウナは文化を形成する力もあり、一時は公衆サウナ絶滅寸前までになったが、クリエイター達(建築士等)の働きでモダンなサウナが台頭してきたり、他文化とのコラボレーションもあり、人気を盛り返している。
街の文化となり地元民と国際観光客をもつなぐ場所にもなっている。
本書では第3章で各サウナのオーナーのインタビューがあり、どのような経緯で発展してきたかを紹介している。
中でもヘルシンキ・サウナデーという年1であるイベントがフィンランドにはあるようで
その日は赤の他人を自宅等のプライベートサウナに招待して一緒に入ったりもするという内容である。
日本では考えられないことではあるが、
フィンランド人の考えとして他人を信頼する力が長けているからなし得ていると分かる。
他人を信頼する事でそこにお互いの配慮が行き届き、思いやりが重なりセーフティネットが形成され安心が生まれる。
なので、自由に気持ちよく関係性を築くことができている。
これはサウナに限らず、社会的に見ても他人を信頼する事で、幸福度が増すことにつながると思う。
日本人は他人を信頼することでのリスクに恐れているが、信頼する事でのメリットを優先的に考えるとより人生も幸せになってくると思う。
このように本書では、サウナを通してフィンランド人の国民性から幸福度がトップランクの国の所以まで理解でき、そういった考え方は日本人も学ぶべき姿だと感じた。
投稿元:
レビューを見る
いつかフィンランドにサウナ巡り旅に行く時は携えて行きたい一冊!ただ、真っ裸で混浴…入れるかなあ…???!
フィンランド在住でサウナを愛し、研究した方ならではの著です。
サウナの歴史は興味深く、日本の銭湯と同じで、一時は衰退し、地元の人、サウナ好きの人、デザイナー等様々な人によって再建、または新設され、今や、地元人のみならず、場所によっては観光客も多いサウナができている事。
興味深いのは、日本とフィンランドで不具合への対処の違い。日本では、それを取り締まる方向に行くのに対し、フィンランドでは、それを受け入れ、どちらかというと、その不具合対策のルール作りに縛られない不自由を受け入れる。
これは国作りにも影響しますねえ。
たくさんきれいな写真満載なのですが、、多くが白黒で小さいのが残念。カラーで大きく見たかったです。
誤記発見 p122 誤:うろんな 正:いろんな
投稿元:
レビューを見る
最近、箱根湯寮に行ったのでサウナに関する本が読みたくなったので、読了。
お手製の蒸気を浴びるロウリュは生活習慣。
サウナは体調が整う!
サウナをアイテムとして「木製の桶と柄杓」「ビール」がある。
日本だと、これにコーヒー牛乳が加わるな。
時計を必要としない。
日本でサウナ行くと、どこでも分時計が掛けられている。
本音を話せる場。サードプレイス。
雑談はストレス発散になる。
24時間年中無休・無料の場もある。
無料だと、ありがたみが薄れそう‥。
有名な都市は2つ。ヘルシンキとタンペレ
担い手はクリエイティブなプロ市民。
日本だと、企業が介在する。
ライバルは都市型プライベートサウナやスポーツ施設
投稿元:
レビューを見る
不調が続いていたなか、本書で少し持ち直した。(今は完治しています^ ^)
自分自身全然サウナーではないけど、小さい頃はサウナの木の匂いが好きでプールの後とかによく利用していた。
サウナ文化研究家でありフィンランド在住の著者が、現地の公衆サウナ事情や歴史についてまとめている。
その修士論文で現地の大学院を首席で卒業しているだけあって、良い感じで構成に厚みがある。読書中それらにふむふむと耳を傾けては、あの匂いに思いを馳せている感じだった。
公衆サウナの位置付けは、日本とフィンランドで異なる。
日本人でありながら初耳だったのが、公衆浴場の営業を行う際には都道府県知事の許可・浴場組合への加盟が原則との事。その代わりに、自治体からの継続的な支援を受けられる。
フィンランドの方は「自律的な民間経営」が基本体系、料金設定等の縛りがない代わりに持続可能な運営への手腕が試される、というもの。(このシステムは元々ロシアの業態なんだとか…!) ヘルシンキ市内の老舗サウナに対しては、市から助成金が支給されるなど例外もあったりする。
サウナ文化が盛んかと思いきや、10年程前までは下火が続いていたらしい。前述の老舗サウナも「伝統的な事業の維持」という名目で支援を受けている。
最盛期の写真に写っていた、市内の店先で外気浴をする人々の後ろ姿が微笑ましくもうら寂しかった。
「本来のフィンランド・サウナは、『すべての肩書きから解放されて、万人が等しく快楽を享受するべき場所』という(中略)平等・平和思想に守られた空間」
フィンランドの人々にとってサウナは「サード・プレイス」に匹敵、ロッカーを設けていないなど他の利用客との信頼関係で空間は成り立っている。
「万人」で言うと…
・2016年ヘルシンキ市内にオープンした「ロウリュ」(フィンランド語で「蒸気」)という施設では、男女別の伝統に逆らった混浴制を導入。(無論水着やタオルは要着用) 当初は反対の声も多かったが、誰もが同じ空間を共有できるというコンセプトのもと新時代のサウナを興したのである。
「人里離れた、湖のほとりに立つ小屋」の印象がやっぱり強いため、アクセスしやすい方が我々外国人にも嬉しい!
・同じく市内の「サウナ・アルラ」では、難民キャンプに暮らす人達を開店前のサウナに無料招待している。同じひしめき合う空間でもここまであたたかみが違うのかと考え込んだ写真があった。
シャイで寡黙な国民性を持つ彼らが解放的になる瞬間というのが、飲酒とサウナ。掲載されている写真には水着やタオルを身につけ、中には一糸纏わぬ利用客の姿が(遠くからだが)写り込んでいたりする。しかしシャイらしい表情は一片も見当たらない。
「ととのう」だけの目的で通っているわけではない。「独り」にも「輪の一部」にもなれる場所へ自分自身を解放しに来ているのだと、木の香りと一緒に伝わってきた。