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フランス現代思想の研究者であり、浄土教の僧侶でもある著者が、法然や親鸞、一遍らの思想の意義について、哲学的な観点から考察をおこなっている本です。
「大衆の原像」という概念にもとづいて戦後思想の開拓をおこなった吉本隆明は、『最後の親鸞』などの著作を通じて、親鸞が越後において民衆のなかへと入り込んでいったことを重視する解釈を提示しました。著者は、こうした良基の解釈を踏まえつつも、親鸞が発見した「衆生」は即自的な存在ではなく、連帯しうる潜在性をもった人民であるという解釈を示そうとします。そのために著者は、ドゥンス・スコトゥスからドゥルーズやナンシーに継承された「このもの性」(haecceitas)をめぐる思想を参照しています。
また著者は、日本における浄土思想の展開のうちに、計量可能性の地平を超越する可能性を見ようとしています。カント倫理学に計量可能性の発想が含まれていることを見抜いて批判をおこなったニーチェの議論が参照されるとともに、永山則夫の裁判をケース・スタディとして、原初の暴力にもとづいて成立した「法」の地平をたしかめるとともに、その地平を越える「赦し」の可能性が求められています。
西洋哲学を背景に日本の仏教思想を解釈するという試みは、ハイデガーに依拠した京都学派をはじめ、デリダに依拠する森本和夫、ウィトゲンシュタインに依拠する黒崎宏らの道元解釈が知られていますが、本書もひろい意味ではそれらと同様の試みとみなすことができるように思います。仏教学の研究者の立場や宗乗の立場とは異なる、自由な解釈の試みとして、本書のような議論にも一定の意義が認められるべきではないかと思います。