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8人のコラムニストによる、平成にまつわる考察・コラム。
どれも個性的で、自分と同世代の人が多く共感できる内容も多数。
田房永子のやつで、女子高生ブームの話があったけど、私服の学校に通っていたということもあるのか、良くも悪くもそのブームの渦中にいた記憶は私にはない。
コギャルもデートクラブも援交も、異世界の出来事と感じていたし、自分自身が消費されて傷ついたという感覚もない。
ある意味でとても牧歌的というか、高校時代の環境が恵まれていたということなのか?と思ったり。
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やたら「平成最後の」とまとめにかかってくる改元ブームには興味がまったくないけれど、川添愛やブレイディみかこがなにを書いているのか興味があるので買ってしまった。
それぞれに自分の身近なところから「平成」の30年間を振り返って書いているが、全体には人間がどんどん疎外されていってじり貧な30年だったといえるのだなと改めて思った。そんななかで、みうらじゅんの文章は短いながらも、「昭和の悪しき風習が誤解によって花開いたのが平成」で「ゆるキャラこそが平成遺産」というまとめはなるほどだった。
わたしはずばり団塊ジュニア、ロスジェネ世代だが、8人の書き手(一人は写真家)のうち上の世代二人、ロスジェネ四人、その後の世代二人というのが絶妙な感じだった。
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平成の終わりのタイミングを狙った一冊。でありながら、時代を総括することを否定する武田砂鉄さんの文章が一番面白かった。他の人、とりわけみうらじゅんの手抜き感も逆にすごい。SMAPが安室奈美恵が平成の終わりとしてかたられることへのアンチとして、神田うので平成を俯瞰する、その偏屈ぷりが最高でした。武田砂鉄、最果タヒの著作は読んでみたくなった。
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平成遺産。なんともサブカル臭のする本です。みうらじゅんの名前が入っている事で一気に胡散臭さが漂うのですが、他の人は大真面目に論じているので逆にみうらじゅんが浮きまくっています。しかも数枚のやっつけ原稿なので相当がっかりしました。もっとがっつりかましてくれるかと思ったのに・・・。
各々の中の平成を取り出して論じていますが、割とあっさり忘れてしまいそうな内容でした。ざっくりと楽しんで読みつつ、自分の中の平成ってどんなんだったかなあ、と考えながら読みました。
他の論客達の文章を小出しに読めて、他の本を読む為のガイドとしても良いかもしれません。個人的には武田砂鉄、ブレイディみかこの本が読みたいなと思った次第です。
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「平成」を語ることのなかった8人による主観の平成。寄稿者により、記憶であったり、思い出であったり、平成論であったり様々。気になる書き手さんがいたら手にとってみては?
最果タヒさんの寄稿「阪神淡路大震災」と「私の平成。私の流行。」武田砂鉄さんと最果タヒさんの対談『「平成」でくくる意味なんであるのかが』特に印象に残りました。
「そんな事が平成にあったの?」と思う事もしばしば。当然の事ながら、書き手の世代、書き手の環境によって「平成」のイメージが全く違うので、そこが新鮮でした。
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平成とは、どういう時代だったのか。
人によって、いろんな見方があるんだなあと
素直に感心しながら読む。
どういう切り口で語るかで個性が出る。
改めて、冷静に俯瞰で見れば、
やっぱり変わった時代だったんだな。
そんな中で、わたし達は青春を過ごしてきてんだな。
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最果タヒさん、文章つまらない
武田さんとの対談も、なぜかつまらない
ブレイディさんも、なんだろう、つまらない
全体的におもしろくなかったけど、栗原さんは、いつもと同じでおもしろい
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平成の終わりに著名人たちが平成時代を総括する。
平成が終わってはや3年、平成時代とは何だったのか。振り返ってまとめよう、という(よくある気がする)本。著者は、武田砂鉄さん、ブレイディみかこさん、最果タヒさん、みうらじゅんなどの著名人で、その分野がそれぞれちがうので、違う視点から平成時代を見ているのが興味深い。おもしろい、と思ったのはブレイディみかこさんの、流行語大賞からふりかえる平成。イギリスと日本の2つの拠点を持つブレイディさんならではの視点から、新自由主義が台頭した平成という時代を捉えた。JKが消費し尽くされた時代として平成を表現した田房永子さんの章もおもしろかった。残念ながら令和になってもJKは商品であり続けている。マチズモな男社会が続く限りは優良な商品であり続けるのだろう。
そんなこんなで平成という様々な視点が述べられた後、そうして時代で区切ることの馬鹿らしさをぶち上げるのが最終章の武田砂鉄さんで、え?じゃあ今までの章って何だったの??ってなったりする。ただし言うこともよく理解できて、平成は昭和の続きに過ぎなくて、平成の始まりの時も終わりの時も昨日と変わらない日々が続くだけで、時代の区切りはほとんど全ての日本人にとって不連続的なものではなかっただろう。そういう視点から平成、そして「時代」というものも考えさせられた。
人生の大半を過ごした平成という時代、自分にとってはどんな区切りだったのか、ぼんやり考えてみるのも一興だが、一方で僕は元号などという非合理的なシステムは、少なくとも官公庁で早く廃止してもらって、情緒の世界で使われ続けてほしいと切に願っている。そういう社会である間は生産性もジェンダーも人権もずっと昭和のままであろうよ。