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ナチスドイツ配下でのユダヤ人の虐殺は、アウシュビッツなどの強制収容所だけではなかった。東欧やソ連、南欧などで、警察予備隊がユダヤ人の強制移送とともに大量の銃殺を行っていたことが知られている。
本書は、そういった警察予備隊のひとつである第101警察予備大隊に関する起訴状の中に書かれている約125名の司法尋問書を分析したものである。著者はホロコーストに関する公文書や裁判記録を長年にわたり研究を続けていたが、この起訴状ほど心をかき乱される衝撃を受けたものはなかったという。司法尋問という性格上、その証言には虚偽も混ざっていることだろう。また、終戦から時間が経った後の尋問であったことから記憶の混乱や抑圧もあったはずだ。しかしながら、これだけ多くの人の証言であるならば整合性を丁寧に確認して総合することで多くの真実が浮かび上がってくることが期待できる。それが、本書の著者がやったことだ。
対象となった第101警察予備大隊の特徴のひとつは、彼らが決してナチスのエリートでも心酔者でもなく、また反ユダヤの信念を持っていたのでもなく、さらにナチが政権を取った後の極端な教育だけを受けたわけでもないドイツの普通の30代~40代の男性を中心とした部隊であったことだ。そのことが本書のタイトルが『普通の人びと』となった理由でもあり、またこの本の論考が貴重なものである理由のひとつになっている。どのようにしてそういった普通の人びとの集団が殺戮を日常として受け入れ、実行していったのか、について複合的な理由が分析されている。
まず鍵となるのは、最初にユダヤ人に対する大量殺戮が行われたユゼフフの町での実行命令を下すための集合において、大隊長のトラップ自身がその命令に対して躊躇を覚えて苦悩していたということだ。そして、そのことを周りに隠すこともなく、さらに任務が実行できないと思うものは実行前に自ら申し出ることを促し、それを避けられるようにしたのだ。その機会に対して、12人のものが実際に任務の実行忌避を申し出た。
それは12人しかいなかったというべきなのかもしれないが、一方でその行為が軍の命令に背くこと、また仲間に対して裏切り者であり臆病者であると思われたくなかったこと、そして、自分が手を下さなかったからといってユダヤ人たちの運命に変わりはないだろうと思えるであろうこと、またもしかしたらまだ無抵抗なユダヤ人を銃殺していくということがうまく想像できなかったこと、などを考えると限られた数であったことはある意味では想定された反応であるとも思える。
一方、さらに重要なことは、そのことにより、もしどうしてもできない、するべきではないと思ったのであれば、少なくとも自らは手を下さなくても懲罰に掛けられることはないということが認識されたことである。これは重要なことであった。絶対的な強制を伴わずして、その殺戮は行われたということであるからだ。この選択肢があったことは何人かのものにとっては重荷となったし、何人かのものはアルコールによって心を麻痺させる必要を感じていた。さらにそれが本当のことかわからないが、誰も見ていないところでは見逃したし、子どもにはあえて弾を当てないようにしていたともいう。
しかしそれでも、そういったユダヤ人への集団殺戮は継続し、そして常態化するにつれて、最初にあった抵抗感が薄れていき、部隊は多くの町で銃殺を繰り返していったのである。
「大量殺戮と日常生活は一体となっていた。正常な生活それ自体が、きわめて異常なものになっていたのである」
司法尋問調書の分析からは、殺人に対する繊細な感覚が最初の殺戮以降急速に鈍化していったことが見て取れる。銃殺の実行を志願する兵の数は常に必要とするものの数よりも多かったという。したがって、いつでも強く拒否すれば避けることができたにも関わらず、そして実際に忌避した人はいたにも関わらず、第101警察予備隊の普通の人びとの多くはある意味では進んで射殺を続けていったのである。人は多くのものに慣れていく。そして、「殺人も人が慣れることのできるものであった」のである。
あとがきに書かれた次の言葉がそこで起きたことと、起きうることを正確に記述しているかもしれない ― 「人びとは、自分の行動と矛盾しない新しい価値観を選ぶことによって、価値観を変えることができるのである。かくして殺戮が日常業務となるにつれて、信念の殺戮者が出現してくるのである。権威と信念と行動の関係はたんに複雑なだけではなく、不安定であり、時の経過につれて変わりやすいものなのである」
そして最終的に大隊の約500人が直接手を下した犠牲者の数は約38,000人、さらにトレブリンカ強制収容所に移送したものは約45,000人に上ることとなった。
ここで、社会集団における規範がどのように強化され、受け入れられるのかという問題が見て取れる。普通の人びとが、実際にユダヤ人を迫害するにあたっては、その行為の正当化が必要である。しかし、その正当化は容易になされていった。ジョン・ダワーの『容赦なき戦争』を引きながら、戦争においては人種差別的ステレオタイプに基づくプロパガンダによってその残虐性を簡単に引き出すことができることが示される。ユダヤ人を戦時において敵と見なすことによる正当化、人種的観点から下等であると見なすことによる優越感、搾取や略奪・財産没収による経済的な利益、などがその残虐性の発露を容易にしていた。
「彼らはたいてい、自分が悪いことないし非道なことをしているとは考えていなかった。なぜなら殺戮は正当な権威によって認可されていたからである。たいてい彼らは考えようとさえしなかった。それがすべてである」ー このように書かれるとき、まったく同じ論理がアイヒマンにも当てはまることが理解できる。
日常の集団における行動においても、外からの順応への強い圧力とともに、積極的に集団への順応を優先しようとする内からの動きがあることはほとんどの人に認識されるところであると思われる。日本でも「空気を読む」という言葉によって、順応する理屈さえ差し出されたのであれば、一定の範囲で道徳的規範に集団論理を優先させることはあるだろう。それが無抵抗な人の大量殺人であってでさえもである、ということがこの本に書かれたことの恐ろしさである。
「ほとんどすべての社会集団において、���間集団は人びとの行動に恐るべき圧力を行使し、道徳的規範を制定する。第101警察予備大隊の隊員たちが、これまで述べてきたような状況下で殺戮者になることができたのだとすれば、どのような人びとの集団ならそうならないと言えるのであろうか」
実際に第101警察予備大隊の隊員による調書からはそのことが強く読み取れるのである。順応の拒否は、拒否するものからですら正当化されていなかった。逆に順応を拒絶することも、集団の順応を正当化し強めることもあるほどであえる。
「多数のドイツ人は大量殺戮に参加し、非順応であると取られることを避けるために、彼らの感情を隠蔽したのであった。参加しなかったドイツ人は、臆病で女々しいという汚名を甘受したが、それによって逆に戦友たちの強靭な論理を正しいと承認することになったのである」
なお、第101警察予備大隊の同じ調書をもとにしながらも、そういった一般にも通ずる人間心理ではなく、戦前のドイツ人のヒトラーへの心酔を含む反ユダヤ主義の深層における浸透に見たゴールドハーゲンの著書『普通のドイツ人とホロコースト』への反論に多くの紙幅が取られている。当時「ゴールドハーゲン論争」とも言われたこの議論は、訳者あとがきでの内容でも書かれているように、もはや論争としては決着したものと考えてもよいものだと思う。ホロコーストは、特殊な環境においてのみ起こりえた事件であると捉えるのはおそらく正しくない。一度起きたことは、もう一度起きる可能性はそれが起きる以前よりも高い。それが社会において集団として実行されたのは「普通の人びと」によってであったということについて怖れを抱く必要がある。実際にそれを体験した人がこの世からいなくなったときにこそ、ここに書かれた論考とそれぞれの事実に対して謙虚に正当な怖れをもって受け止めることから始めないといけないはずだ。イアン・カーショウは「アウシュビッツへの道は憎悪によって建設されたが、それを舗装したのは無関心であった」と言ったが、その無関心の先に「普通の人びと」が順応して行った無抵抗な人びとへの殺戮行為があることは忘れてはいけない。
人間の生命の侵し難い尊さや、人類の平等に基づくヒューマニズムといったものは、決してどのような時代でも当てはまるような真実ではなかったし、何の前提もなく成り立つような公理でもない。少なくともたった75年前の当時の先進国ではそうではなかった。それは、むしろ不断の努力と共同幻想によって獲得された不安定なものと考えるべきものなのかもしれない。「普通の人びと」が語った言葉が著者の心をかき乱したのはそのためであったのだ。
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『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別 』(ジョン・ダワー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4582764193
『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(ハンナ・アーレント)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4622020092
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あとがきの半ばくらいから皮肉キレッキレで笑った。P328「死の行進に幅広い関心をもたらしたのは、ゴールドハーゲンの著作の欠陥を補うに足る功績の一つである」この一文好きすぎる
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本好きの友だち二人がお薦めしていたので購入…したあと積読になっていた。
ホロコーストについて、ドイツ警察予備大隊の隊員たちの証言をもとに客観性、信ぴょう性に重きを置きつつ、なぜそういうことが行われたのかということを検証している。
淡々と、当時の警察大隊がどういった事情で編成されたのか、そしていかなる指令系統で命令が下され、それがどのように末端隊員まで伝わり、実行されたのか。そしてユダヤ人の虐殺がどう実行されていったのが描写される。
最初の方、ユダヤ人を全員射殺することを涙を浮かべて説明するトラップ少佐。やりたくないものは名乗れという。そんななか、不器用に始まった「指令の実行」。そこには殺されていくユダヤ人と、射殺という行為を不器用ながらこなしていくドイツ人の描写が続くのである。辛い。読むのが辛い。何が辛いのか。自分だったらどうなのかということを考えると辛い。読み始めて二日目ぐらいにふと気が付いた。自分は、「自分がなんの正当な理由もなくユダヤ人であるというだけで殺されることを想像して恐いのだ。辛いのだ。」ということに気が付いた。「なんの正当な理由もなく」と書いたが理由があったらいいのだろうか。そういうことではないが、殺されても仕方がないと思えるなにかがないことへの恐怖だ。自分がそれまでの人生で積み上げてきたもの。作り上げてきたもの。得てきた能力。そんなものは命を長らえるためになんの役にも立たないのだ。いつも法話で聞いていることではないか。自分はこの本で死の表現があるだけの数、死ぬことを想像し、それを恐れた。
もう一方で気が付いた。「殺す理由があったら殺してしまうかもしれない」ということに対して理解がある自分。それはわかると思う自分。ドイツ人の中には、職務放棄に近く、殺人行為に参加することを拒否する人たちがいた。自分だったらどうだろうか。人を殺すのは嫌だ。嫌だったら申し出ろと言われる。でももともとは国の命令だと。でも申し出てもいいといわれる。男としてできないといえば臆病者といわれ、仲間外れにされる。この後どんな不利益があるかということもあるが、この仲間と集団で行動していかなければならない中で、自分だけできないという勇気があるか。
「理由があればいい」というのは、会社員としてそういう習性が叩き込まれているから。会社の方針に沿うものであり、上司が言うことであれば、従っていくべき。できないといったら無能であるということ。これは生死に関わることではないからいいが、でも基本的にこういう考え方が染み込んでいる自分に気が付く。コンプライアンスの問題があるので、法的におかしなことをさせられることなんて会社員にはない。でも自分の生き方に立ち返ったときに、こういう選択でいいのだろうかという場面に直面することはある。そのときに自分の判断基準はどうであろうか。そういうことも考えさせられた。給与をもらっている分働くだけ。でも全体のためにこうしたいという想いもある。そういう自分の気持ちに正直に行動できているだろうか。生きるか死ぬかのことを考えていたら、毎日の生活のそれくらい、真摯にやれよ!と思う自分がいた。
最初は殺人に心を悩ませていた隊員たちが、次第に淡々と業務として行うようになる。それも人間がなんでもしでかす存在であるということをまざまざと見せつけられるようだ。それは、自分。
殺す方の立場で考えたら、このようにいくらでも想像して言葉が紡ぎだされてくる。でも、殺される側を想像したとき、死の後はわからない。でも殺される自分には不条理しかない。なにも説明できるものは残らないのだ。恐ろしい、心底恐ろしいと思った。そして仏法を聞いていてもそうなる自分なのだなということを痛感する。
祖父が戦地で殺されかけた時の話を思い出した。祖父を助けるために同僚が敵兵を射殺した。祖父は助かった。敵兵は死んだ。そういうことが生々しく自分の目の前に浮かんできた。その時祖父が死んでいたら、自分は今ここにいない。正月に家族と話していた時に、自分と弟は祖父の戦争の話を最期よくきいていたが、娘である母はまったく聞いたことがなかったとのことだった。孫だから言えたのだろうかと思う。
特筆すべきはこれは”増補”であり、初版から25年後にほかの研究者の発表と批判、年月を経て新たに出た証言、検証結果などを総合して再度実態を明らかにしている。一回書いたから終わりではなかったのだ。どうしてこのようなことが行われたのか。人間は恐怖で支配されなくとも、時に残酷な集団となりえるということを社会的実験からも検証をしているところがすごい。もう二度と繰り返さないために。忘れないために。
開館間もないベルリン・ユダヤ博物館に行ったことがある。こういった書籍を読んだ後に行くべきだったと悔やまれる。
正直自分は戦争がどういうものであったのかということを歴史の授業と何冊かの本と、祖父母の話からしか知らない。そして読んだ本がどういった立場で書かれたものかも気にせず読んでいたと思う。これからは自分がこの世界をどう見ていくかについて、歴史を客観性をもって振り返る本を読むように心がけたいと思う。
ユダヤ人が、ドイツ人がということではなく、この本を読んで自分は殺され続けるのか、殺し続けるのか、ぜひ確かめてほしい。
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原著初版1992年、あとがきを加えた第2版が1998年、更に「25年の後で」という文章が2017年追加された。
ナチスのユダヤ人大虐殺を扱った著書として非常に有名で、いろんなところで言及されており、とりわけ社会心理学系の本にはあの有名なミルグラム実験と共に、よく引用される。
普通に善良なドイツ市民が無残な虐殺を行ったというテーマで、それはハンナ・アーレントの「凡庸な悪」というテーマにも隣接しそうだが、本書を通じアーレントへの言及は全く無い。
歴史上の限定的なプロセスについてのルポルタージュになっており、中心的に記述されるのは、30代から40代の至極普通のドイツ男性の寄せ集め500名ほどで編成された「第101警察予備大隊」が、ポーランドにおけるユダヤ人虐殺を遂行する経緯である。歴史上の事実をたどりながら、考察は当然心理学的な部門にもまたがってゆくだろう。
ポーランド内の様々な街をたどってユダヤ人たちを銃殺していく。労働力になりそうな男性の一部は労務のほうに送り込まれるが、病人・老人・女性・子どもたちは即刻射殺される。隊員たちは当初殺人行為にかなりの抵抗感を持つが、作戦が重ねられるにつれ次第に麻痺してゆくようだ。より効率的に・殺戮者の心理的負担も減らすべく、ガスで一気に殺す絶滅収容所に送り込むようになるが、それでも、大量射殺行為は延々と続く。何百人、何千人と一気に殺され、その数字を見ていく内に読んでいるこちらも麻痺していく。
この大隊の司令官はヒューマニスティックな人物で、殺戮に当たって涙を流したりする。隊員の1割ほどは「こんな仕事は私には耐えられません」と申し出てそれが意外にも許され、別の任務に回されることがあったようだ。変に真面目な日本軍なら決して許されなかったろう。
大量殺戮の行われた日の夜は隊員に酒がふるまわれ、みんな大いに飲んで思考を麻痺させた。考えこむ隙を与えず、機械的な作業を続行させるのである。
著者の解釈によるとこの大隊に属するドイツ人たちはもともと、反ユダヤ思想に染め上がった人々ではないのだが、命令に従う組織集団として、黙々と虐殺を実行していったのだった。先述のように良心の責めに我慢できず作戦から外してもらうことも可能だったのだけれども、状況的に、自分が殺人に参加しなかったとしてもそれでユダヤ人の命が幾らか救われるわけではなく、単に自分の担当する殺人行為を他の仲間に押しつけるだけになるので、いろいろ計算してみて結局多くの者は粛々と虐殺をこなしていったらしい。ちなみにユダヤ人だけでなく、丸腰の一般のポーランド人も相当数射殺されている。
殺戮に嬉々として・快楽を感じつつ参加したのは、本書中ではたった一人の士官だけであり、こういう心性の方が例外である。だが、ほとんどの隊員が膨大な射殺を行ったことに変わりはない。
著者の考察によると、当時の一般的なドイツ人の多くは、反ユダヤ思想に洗脳されていたわけではなかった。ナチスによる障害者や老人、そしてユダヤ人の殺戮が始まった時、そのことに気づきながらも、多くのドイツ市民はユダヤ人たちの運命に「無関���」を決め込んだ、というのが著者の分析だ。この冷淡な「無関心」こそが、ナチスの傍若無人な悪行を支えたのである。日本人も国政選挙に当たって無関心による沈黙を守ったり、なんだかんだ言い訳をしながら敢えて投票を棄権したりするような人間が多く、それは特徴ある日本の「あきらめ」の文化傾向の現れでもあるが、このような層こそが、政治の悪を支えているのだと気づく者は少ない。「朝鮮人皆殺し」などと書いたプラカードを掲げてデモが行われても、それを全然取り締まらないのが日本である。どこかで一歩すすめば、虐殺が繰り返されるだろう。日本の近年の中央官僚たちが文書の改ざんや隠蔽を大々的に行って悔いず、一方良心が咎めて自殺した同僚に対しても平然として鉄面皮を決め込む状態も、ある意味、野蛮な時代の到来を証明している。
本編の最後に、著者はこう書いている。
「すべての現代社会において、生活の複雑さ、それによってもたらされる専門化と官僚制化、これらのものによって、公的政策を遂行する際の個人的責任感覚は希薄になってゆくのである。ほとんどすべての社会集団において、仲間集団は人びとの行動に恐るべき圧力を行使し、道徳的規範を制定する。第101警察予備大隊の隊員たちが、これまで述べてきたような状況下で殺戮者になることができたのだとすれば、どのような人びとの集団ならそうならないと言えるのであろうか。」(P.304)
史実を具体的に記述しつつ、人間性についての極めて重大な疑惑を思索させる、やはりこれは優れた書物であった。
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その仕事はしたくないって? あのね,あなたがしなければ結局誰かがやることになるんですよ。しかもあなたがそうやってその仕事を否定すれば,頑張っている先輩や同期の努力を踏みにじり,いろんな人に迷惑がかかる。それでもいいの?
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BRUTUS202111合本掲載 評者:田野大輔(社会学、歴史学)
東洋経済2022430掲載 評者:田野大輔(歴史社会学)
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何百万人ものユダヤ人を虐殺したのだから処刑に関与した人間は極悪人ばかりだと思いたいが、この本を読むとそうではないというのが良くわかる。
組織の歯車に収まってしまうとおぞましい程の蛮行も気にならなくなり、しまいには効率的で淡々とした殺戮者となってしまう。そこには順応への圧力や面子を失うことの恐れなど自分にも見に覚えのあることが関係しており、けして他人事として切り捨ててはいけない問題だと思いました。
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初刷をはじめ途中までは第4SS警察擲弾兵師団を「警察近衛師団」という意味不明な「訳語」を使っていた。第三帝国時代の研究書の翻訳にはマニア向けの知識は必要だといういい例だ。どうしてそういう「訳語」が生まれるのかは知らないけれど。
増補で記されたページで読み取れるように著者やホロコースト記念館、ヤド・ヴァシェムなどは第三帝国時代の制服について知識がなかったらしいので被写体が着ている制服が持つ意味を見抜けなかったようだ。特に399頁の写真とバー=ゾウバーの「モサド・ファイル」に掲載された写真は明らかに連続写真なのにヤド・ヴァシェムはポーランドなのかチェコなのか、映っているユダヤ人は誰なのか無茶苦茶な「写真鑑定」をしている。第三帝国時代を「制服の帝国」を評した書名の本があるようにヒトラーから強制収容所の囚人に至るまで決められた制服があり、それらがマイナーチェンジを繰り返した上に勲章や記章類が沢山あるので被写体が着ている制服がどこの所属なのか、身に着けている勲章や記章類がいつ制定されたものなかが分かれば、ある程度は時期を見分ける事が出来るものだ。
ダニエル・ゴールドハーゲンは偽書「断片」を見抜けないのでガス室のある「マイダネクにはユダヤ人の子ども向けの保育園があった」と見做しているようだ。それではゲットーと強制収容所の区別がつかないし、第三帝国時代の警察はSSと一体化している事も知らないフォーサイスの「オデッサ・ファイル」といい勝負だ。
これは行動部隊でも言える事だが警察部隊は「殺す」事が目的なので強制収容所の幹部や看守達と違って「殺される」側からは顔も名前も覚える事が出来ないので「零時」の後に英軍占領下の警察で勤務出来るのだろう。
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メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1788725187074240940?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
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図書館で借りた。
『普通の人びと』と聞いて、何を思い浮かぶだろうか。表紙やサブタイトル「ホロコーストと第101警察予備大隊」となればピンとくる人は多いだろう。第2次世界大戦のナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺に関するドキュメンタリー・レポートだ。
当然ながら楽しい話やウキウキする話ではない。生々しく、悲劇的な歴史だ。
ざっくりとユダヤ人虐殺について知っていることはあっても、具体的な中身について知らない人も多いのではないだろうか。アウシュビッツという名の強制収容所があったことくらいは私も知っていたが、それ以上は知らなかった。
私がこの本から得られた発見は、ナチス側の一担当から見た観点。意外と警備は薄かったりだとか、トップのアイヒマン以下、どのようにこなしていたのかというのを薄っすら感じとることができた。実行側であっても、人間模様があることは留めておきたいものだ。それこそ2024年現在、「ロシア・ロシア人は全員悪者である」という偏見を持ってはいけない。
負の歴史ではあるが、教養として知っておきたい事項の一つ。