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冒頭を読むだけでも一読の価値がある。”毎日””所定の量””必ず何かを報道し発言しなければならず””印刷物として半永久的に残り””改訂や再構成を許さない”という性質は、この文章が書かれてから50年経ちまるっきり変わってしまったメディア環境下においても依然として極めて特異なのだということに気づく。
そしてその新聞に対する愛がすごい。真摯で辛辣で。誤報と虚報の違い、”そう見えるがそうではない”ということの論証するのためのメディアであるべきという論は膝を打つ。
特に”二度失明した”小卒の一兵卒若林典三郎さんの話が印象的だった。厳しく批判しながら「どうか新聞社の方々、言葉は殺すというこの恐ろしい言葉を片時も忘れないでください」と結ぶ。これだけ洞察できる知性をもちながら評論家ではないのだ。
グローバリズムに対する慧眼も驚くばかり。
特段まえがきもあとがきも注釈もないが、今読むべき本としてあえて発刊されたことをうれしく思う。
P12 新聞とは不思議な存在でありある意味ではきわめて気の毒な存在と言える。[中略]毎日、所定の”量”の報道と発言をしなければならぬ。しかもそれがすぐに消える演説や放送と違って、印刷物という「厳然たる文書」として半永久的に残り、時には永久に残るのである。そしてそれは、後代の改訂や再構成を許さず否応なくそのままに残ってしまう。
P17 何かを話さねばならぬ、という点では、最初に述べた新聞と同じように、教師もきわめて「気の毒」な存在と言える。[中略]掲げるイデオロギーは簡単に捨てたり拾ったりできるという点も同じである。
P54(田中角栄と新聞の)共通点を要約すれば、まず無哲学・無思想、根は通俗道徳の頑固な信奉者で、そのため思索は不可能、思索がないから長期の予測や見通しは一切できないが、「頭の回転が速く」目前の現象にはすぐさま機敏に対応し、「決断と実行」という〇×方式で「結果だけをスパッと出すタイプ」だから。[中略]また両社とも一貫性がなく、そのためある一点に問題を絞って少し長期間にわたってその跡を検討してみると、〇×の付け方がまことに平然と逆転している。
P74 ”臭”とは「正義に汚染されて」鮮度が落ちた証拠であり、そしてその”臭”がないという点こそ(深代惇郎)氏が持っておられた資質であり、これがいまの新聞に最も欠けた点だということ
P112 報道が「時々刻々」となることは致し方ないが、それで終わるのならテレビに任せておけばよい。新聞は、ある時点でそれを総括して、全体像を示し、それによって国民の誤認を一掃したうえで、その正確な全体像に基づいて一つの主張を掲げるべきではないか。
P138(成田が「飛行場設置に伴う諸問題」から「打倒すべき権力のシンボル」となって)反権力闘争となると、新聞は不思議とそれを評価し、心情的一体化を示し始める。
P140 日本の新聞の大きな特徴は、記事・論説を書くにあたって、自分が過去にどのような報道をしたかを、全く無視するという点にあるのかもしれぬ。もちろん、朝日の論説委員が朝日の記事を信用しないのならそれでよい。しかしもしそうでなく、自己の報���を事実の報道だというなら、「論説」はその「自分が報道した事実」に立脚して書かるべきであろう。
P153 彼(小卒の鍛冶工で軍隊にとられたヘイタイさんであった若林さん)の前にあらゆる種類の庶民の見方、正義の見方、常に「弱い者、抑圧された者の側に立ち」弱きを助け強きをくじく現代の”顔役”たちが、入れ替わり立ち代わり現れては去っていった。[中略]彼が救済者願望を抱き続けたとて、誰がそれを非難できよう。非難すべきは、昔ながらの無責任な”顔役”たちではないのか。
P184 (真に国際性を高めるということは)絶対に画一化でも標準化でもなく、その逆つまり併存化なのである。そしてその併存性が「文明」であろう。意識の画一化・標準化は、一言で言えば「未開人と同じ状態」になることである。
P186 語法はけっして虚偽の報道、すなわち意識的な不正直な報道ではない。
P192 マスコミは、この擬制の上にさらに擬制を重ねて「情を感じうる範囲」を極限まで広げうる機能を持っているのである。そしてこの擬制の擬制である「実情感知」範囲は無限に広げられ、そこに「虚構の実情」を創出しうるのである。そしてその虚構の実情に対する「正直」がそのまま「事実の報道」への虚偽となりうるとともに、受け手もその「正直」を絶対化して事実の報道を逆に拒否するという状態すら招来しうるのである。
P201 言葉を人間に例えるなら、一方(テレビ映像を見ての論評)は生きて動いている人間からの総合的印象であり、他方(テキストをもとにした論評)は活字となって固定してしまったもの、いわば「言葉の遺体」の精密な解剖結果を見せられるような印象だからである。
P205 祭儀とは、宗教改革・印刷術の始まるまで、いわば1520年つづいた人類の大部分における大量伝達方式、いわば「古代のテレビ的・顔文一致伝達方式」だからである。
P212 実際は「活字に基づく文字による大量伝達」のほうがはるかに歴史が浅く、したがってきわめて崩壊しやすいはずである。
P212 「活字のテレビ化」いわば広い意味の「顔文一致体」を生み出した、そしてそれが活字の特徴である非合理性の排除を希薄にした。という点ではある種の「内容的駆逐」を招来した。そしてそれが最も強く表れているのが新聞記事のテレビ化である。
P234 中世とは「そう見えるものは、そうである」時代であった。
P242 この際、映像的伝達では不可能で、活字にだけできることがあるとすれば、それは「そう見えるが、そうでない」と言う論証だけなのである。人々の全てが完成的判断に走りやすい映像的伝達の中における活字的伝達の任務は、むしろこの面にあり、映像的伝達を活字でなぞってそれを固定化してしまうことではない。
[中略]筆者と編集者に求められる能力は、映像的伝達の手法を模倣した活字の映像化能力ではなく、資料の構成能力とそれに基づく論証能力である。これだけが逆に、映像的伝達の世界から読者を活字の世界に引き戻す力があり[中略]そして論証能力とは実は論争能力なのである。