紙の本
植民地軍の高麗に攻められた日本
2021/12/08 20:59
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投稿者:浦辺 登 - この投稿者のレビュー一覧を見る
韓国政府の要人が「日本の植民地支配を一千年忘れない」と発言した。このニュースがテレビで流れた時、画面に向かって「二度の蒙古襲来から一千年経っていないから、日本もあの残虐を忘れていない」と呟いた。蒙古といいながら、日本に攻め込んできたのは高麗人だからだ。
蒙古襲来こと元寇について、歴史教科書、年表には文永11年(1274)、弘安4年(1281)に二度の元寇襲来があった。更に、いずれもの襲来時、「神風」が吹き、一夜にして軍勢が消えてしまったとは記される。しかし、男や老人は虐殺、女は慰安婦、子供は奴隷として連れ去られたことなど、一行も記述がない。この事実を韓国政府の要人が知っていれば、「日本の植民地支配を一千年忘れない」などとは、口にはできないはずだ。
本書は全6章、260ページにわたって、「蒙古襲来」の実態が述べられている。まず、第一章において日本人がモンゴルに抱く先入観が覆される。それは、言葉、文字、文学作品に至るまで、詳細な分析。
次の第二章において、日本人は同じアジア人種として中国、朝鮮、モンゴルを見る傾向がある。けれども、国家、社会制度が日本とは明らかに異なる事が解説される。「家」を基軸にする日本、「血」を重視する中国、朝鮮、モンゴル。この事を読みながら、昨今、しきりに主張されるグローバル化だが、日本は「家」という制度によってグローバル化を実現していると思い至った。
では、なぜ、現在、日中韓の間で歴史認識が対立するのか・・・。日本では諸外国にとって都合の悪い歴史は消され、中国、韓国では歴史が捏造されるからだ。これでは、いつまで経っても平行線をたどるしかない。その背景が第三章で具体的に説かれている。第四章では、蒙古襲来こと元寇襲来での日本側の状況が述べられる。それは、鎌倉幕府であったり、日蓮上人の『立正安国論』であったりする。このあたりは、日本史の教科書でも少しは聞き知っている。ここで、今も福岡市周辺に遺る「防塁」が紹介されることで、文献だけではない現地確によって史実が立体的に浮かび上がる。
そして、終章。ここで、本書刊行の目的である「歴史に何を学ぶか」という要点が述べられる。ただ単に知識だけを詰め込めば良いというだけでは残念。過去から今につながる事実から、今、起きている問題に、いかに向き合うか。特に「歴史は繰り返す」という教訓に従えば、本書を読了し、外交においても活用しなければならない。タイトルは蒙古襲来でも、本書は外交問題にいかに対処するかの提言書である。なにしろ、隣国は簡単に取り替えられないのだから。
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モンゴルや朝鮮、中国の歴史の専門家による蒙古襲来に関する研究書。「元史」や「高麗史」をもとに、モンゴル側から蒙古襲来を研究し、フビライが日本攻略に興味がなかったこと、蒙古襲来は高麗人が中心であったことなど、興味深い記述が多かった。研究が精緻で学術的である。
「モンゴル人は「元朝秘史」の成立年をできるだけ古いほうへと解釈したがります。より古い時代に成立したとしたいがために、1192年成立説や1200年成立説などもあるぐらいです。しかし、それらの説にはさすがに無理があります」p29
「漢字は時代と場所によって発音がずいぶん異なるので、目にすれば意味がわかる漢字も、発音されたのを耳で聞いただけではどのような漢字なのかがわからない」p34
「「女真」は自分たちをジュシェンと言い金帝国を建てた。モンゴルが撤退後自立しマンジュという種族名を名乗り「満州」となる。「韃靼」はタタール」p42
「「中国」という国家は1912年1月に建国された「中華民国」までありませんでした。古い時代には中国という国家も土地も存在しなかったので、なるべく使いたくないのです」p57
「モンゴル帝国が遊牧騎馬民の部族連合だと一口に言っても、実にさまざまな部族の人たちがいるのだということを忘れてはならない」p69
「モンゴルには日本で考えるような上下関係はありません」p78
「モンゴルの(統治の)やり方は、支配地の人々が使う言葉、宗教、税金の徴収の仕方でさえそのままにして、代官を置くだけです。だから「代官制」です」p86
「倭国(わこく)が朝鮮半島の北の方まで軍を送り、朝鮮半島の情勢に影響したのを証明している「物」があります。「広開土王碑(好太王碑)」です。「広開土王碑」とは、高句麗の王・広開土王を讃えるために、広開土王の息子が建てた石碑です。414年、広開土王が亡くなった翌々年に、鴨緑紅西岸の今の中国吉林省輯安(しゅうあん)に建てられました。碑文のなかの「倭は辛卯(391年)をもって来りて海を渡り、百残(百済)・新羅を破り、もって臣民となす」という箇所はとても有名です。高句麗が百済まで来てしまったので、日本が攻めていったという図式です」p93
「百済は同盟関係にあった「倭国のタカラ王」に援軍を要請しました。「倭国のタカラ王」とは、日本の斉明天皇です。663年、斉明天皇が百済を再興するため朝鮮半島に派遣した軍は、唐の軍に海上で敗れ、大打撃を受けました。これが白村江の戦いです」p96
「668年わが国初の成文法典である「近江令」が制定されます。この「近江令」で「日本」という国号が初めて採用され、倭国は「日本」と名乗ります」p97
「将軍に迎えた皇族が成人すると、その周りにどうしても幕府に不満をもつ反対派が結集してしまいます」p130
「(フビライの使者を追放)モンゴルは攻めてこようとしているのが明らかなので、返書をせずに使者だけを追放したのは、このときできる最良の方法だったのです(口実を与えない)」p137
「(モンゴル人の柔軟性)フビライだけでなく、ロシアに行ったモンゴル人も、イスラム教徒を支配するようになったモンゴル人も、みな同様に同じ時代に、行った先の土地に馴染んで、その土地���になっていきます。そうしたモンゴル人が一握りの支配層としてその土地の君主になり、その土地の自主性や伝統などには文句をつけず「それでいいよ」というやり方を採ったのです」p148
「(モンゴル人の撤退(1368年))済州島の人々は、高麗王の命令は聞かず「高麗はイヤだ。モンゴルの方がよかった」というぐらい、モンゴル贔屓だったという話が伝わっています」p152
「(ウランバートルの国立歴史博物館)民族博物館と名前を変え、蒙古襲来絵詞の複写も外されていた」p183
「日本を訪れるモンゴル人は必ずというぐらい、常立寺に墓参りに行きます(処刑された元からの使者5人の墓)」p188
「蒙古襲来に参加したモンゴル人はほとんどいなかった」p223
「敵対勢力を押しとどめておくのは、朝鮮半島の39度線まででなければだめなのです。39度線あたりまでが、沿海州や満州から人間が陸続きで行き来のできる、大陸の文化圏だからです。明治時代の元老たちにはそれがわかっていました」p227
「(朝鮮人)自国の権力者に裏切り続けられる国民は性格がひねくれても仕方ないところがあります。幸福な日本人にはそうしたことが全然わかりません」p246
「日本人の反省好き」p249
「大陸においては、弱い者を攻撃するというのが当たり前」p250
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モンゴルといっても種族は単一ではない。テムジンの死後、ハン国は分立するが元が本家ということではない。などトリビアは少しあったけど、新たな知見は乏しかった。この本が書きたかったのは何だろう。朝鮮の国史が捏造されていて、民族性にも注意が必要というなら、そういうタイトルで論じてほしい。知りたかったのは、フビライは日本以外に台湾やジャワにも侵攻している。日本へは、1267年に初めて使節を派遣して以来、文永弘安の役を挟んで、1286年に断念するまで、20年もの間、侵攻を諦めていない。これを高麗が勝手に推し進めたこととは到底思えない。フビライの海洋への野望・構想が知りたかったのに。
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宮脇淳子先生の倉山満愛合あふれる一冊です(笑)
どんだけ他人の著作を連呼するんや
さて、モンゴルです、専門家です
世界史はモンゴル帝国から始まるの名言をもつ
岡田英弘先生の愛弟子にして奥様宮脇淳子
(何があったのだろう・・・想像中)
伝えたいのはモンゴル人の人間性(強さ)
日本人の人が良すぎる反省クセがどれだけ世界の
人に変な態度をとらせているか
外国人の態度が悪いのは日本人のせいなのだ
反省しなきゃ(←コラ)
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神奈川県藤沢市の常立寺に元から来て切られた死者の墓があるとを初めて知った。
モンゴルの高麗侵入により高麗の中に三種類の区別を作ってしまつた。
①元との接触が始まってからモンゴルの家来になった人、
➁朝鮮半島の北側の人たちで途中からモンゴルに寝返ってモンゴルに組み入れてほしいと申し出た人
➂最後まで残った高麗の人
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蒙古襲来と言っても、多民族で主力が高麗南宋、目立った将帥も多くないので元朝としてはさほど重要でもない、と。
立ち位置や文面が偏るのと、さほど目立った内容もないので軽く。
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元寇、という言葉はかなり時代が下ってから頻繁に使われるようになったもので、蒙古襲来と呼び習わされてはいたが、それは正確ではないのでないか。
モンゴル帝国の版図に置いて、確かに支配者はモンゴル人であったが、実際には多種多様な民族を擁していた。支配地域の住民に、支配させていたのであって、実際、日本に攻めて来たのはモンゴル人が主体ではなかったようだ。
元が攻めてきたことに違いはないので元寇だが、決して「蒙古襲来」ではなかった。
高麗人その他。
指令を出したのはフビライではあったろうが、進言したのは官僚であったり。
そもそも、元にあって、日本襲撃は、そうそう重要度の高い施策ではなかったようで。
高麗人たちの、事大っぷりと、訳のわからん上下感は相変わらずだったようで。