紙の本
考えるって面白い
2020/03/08 13:06
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投稿者:せきた - この投稿者のレビュー一覧を見る
正解はきっとないのだろう。自分を基準にもがいてもがいて答えを導くしかない。「考える」ってそういう営み。正解を探すこととは違う。だからこそ大切だし面白いのだろう。
プラグマティズムにこういう説明があるのかと膝を打った。
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答えを出せず悶々とする自分を肯定していい。その言葉を頭の中で繰り返しているうちに涙が止まらなくなった。
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本書は、2018年6月10日~11日、きのくに国際高等専修学校において、高橋源一郎を迎えて行われた授業を元に再構成されたもの。
きのくに国際高等専修学校とは、「広く国際的な視野を持ち、自分自身と社会について深く考えたい人のために、少人数で社会問題、国際問題、英語などを重点的に学習する学校」。
特徴として「学年がない」「時間割に普通の教科の名前がない」「宿題がない」「先生と呼ばれている大人がいない」「大人の給料に差がな」「廊下がない」「学校と地域社会との壁がない」「堅苦しい儀式がない」「校長室がない」「お金もない」を挙げており、きちんと文部科学省の認可を受けた正式の学校であるとのこと。
「学年がない」ので高校○年生を対象にした授業、という明確な切り分けは出来ず、本のタイトルにある「17歳の特別教室」から推測するに、17歳前後の少年少女を前にした授業ということになるのかな。
内容は高橋源一郎と生徒たちの会話で成り立っている。
1日目が「たぶん、読んじゃいなよ!」2日目が「なんとなく、書いちゃいなよ」という授業になっている。
簡単に要約すると1日目は本の中にいる大切な先生の紹介、2日目は文章上達の方法、ってところだろうか。
まぁ、この学校の校風からして「授業」という表現自体が間違っているのかも知れないけれど。
あまり詳細に書くとネタばれになりそうなので辞めておくが、僕がもし中~高校生だったら「ああ、こういう授業を受けたかったなぁ」と心の底から思う。
ここには暗記をしたり、方程式を習ったり、先生の質問に「先生の期待している」返答をしたりする姿は全くない。
その代わり、自分自身で「論理的」に考え、「常識」を疑い、「恥」をかき、お互いを「理解」する大切さなどを教えている。
本書の帯には「学校では教えてくれない本物の知恵を伝える白熱授業」とあるが、まさに「知恵」の大切さを説いているように思える。
しっかりと身に付けた「教養」も大切だけれど、その「教養」を正しく使えるための「知恵」がなければ意味がない。
そんなことを教えているように思える。
まさに「答えより問いを探して」なのだろう。
余談になるけれど、「小説に『誤読』はない」という、とても勇気づけられる教えがあった。
僕のように、小説を読んで「あれ、こういう受け取り方でいいのかな」なんて思い悩むことがたまにある人間にとっては金言ですね、これ。
もうひとつ、とある書籍から木村センさんという方の文章が紹介されている。
僕が今までに読んできたどんな文章よりも、胸をギュっと締め付けられる、いつまでも忘れることの出来ない美しくも重たい文章だった。
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読むことと書くこと。そして、書いたものを読んでもらう、聞いてもらう。そして、感想を言ってもらうことで、文章力は向上するということを心に留めておきたい。
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「きのくに子どもの村学園」(きの校)グループの「きのくに国際高等専修学校」で、タカハシさんが二日間行った授業をもとに本にしたものだ。
授業を行ったこの学校は僕らの視点では、とても変わっている。まず学年がなく複数の年齢の子供が一緒に学んでいる。時間割も普通の教科の名前がなく体験学習が大半、宿題もチャイムも試験も通知簿もない、また、「先生」と呼ばれる人はおらず大人はみな「さん」付けで呼ばれる。廊下もなく、入学式も卒業式もない。ともかくその理念からとても「自由」な学校なのだ。タカハシさんはこの学校の方針にほれ込んで、自分の子供をこの学校に通わせている。
いつか「ここでの「大人」と「子ども」の関係は、「作家」と「読者」の関係に似ている」と気が付く。まず「子ども/生徒」があっての「大人/先生」であり、そこには相互の「信頼関係」が生まれていなければならない。読者がいなければ、読書という行為自体が生まれないのだ。読書は強制ではないし、作品が生みだされた後は、「作家」の手から離れて「読者」の手にゆだねられる。
そして、タカハシさんはここで授業を行うことにする。
まずタカハシさんは次のように語りかける。この本のタイトルにもなった考えだ。
「ほかの学問たちは答えを探すのが仕事。そして、答えより問いを探すのが、文学と哲学の仕事です。たいていの学校では教科書で正解を勉強して、後でテストに正解を書くと100点がもらえるでしょう。文学と哲学はそういうことはしません。そもそも正解があるのか、を考えるのです。それが、「問いを探して」ということです。ぼくはそれがいちばん大切だと思っています」
これこそがタカハシさんがこれまでの学校に持っていた違和感でもあった。そして、きの校で見つけたものでもあったのかもしれない。
正解がないということはおよそ人生においてそうなのだが、特に小説については当てはまる。「小説に誤読はない」として、タカハシさんは次のように語る。
「そこに書かれている文字はどんなふうに読んでも自由なんです。作者さえ気づかなかったことに読者が気がついて、作者のぼくが影響を受ける。それくらい、小説の世界は広い。そこに何が落ちているのか、作者だってわからないんですからね」
それではそのときに導いてくれる先生は誰かということになり、タカハシさんは「本の中に先生がいる」と伝える。そして、皆さん自身の先生を探しにでかけようと、語り掛ける。そういうことでいえば、自分にとってはタカハシさんが先生なのかもしれない。
また、タカハシさんは、文章がうまくなるためには、それが読まれるものであると意識をして書くことで十分だという。もしかしたらみんなが先生なのかもしれない。だからこそ、タカハシさんは文章を添削しないという。添削をしたら上手い文章が書けるようになるということではない。そして、それは望ましい「先生」と「生徒」の関係も作ることがない。
授業の中では、晩年の小島信夫や木村セイの文章が紹介される。これまでのタカハシさんの著作の中でも何度か紹介をされてきたお気に入りの言葉たちだが、改めて子どもたちに向けて紹介するとなると一種の緊張感というものがにじむ。
紹介される彼らの言葉は間違いだらけである。ただ、その文章は添削されるべきではない、というのもわかる。正しい文章というものは存在しない。怪我をして体を壊した木村センが遺書を書くためだけに自ら字を習い、そして書き綴った言葉についてはそれがすべてであり、誤りを正しくするという行為はまったく必要のない行為である。
「問いを探して」というのは、その前にすべてを肯定する、ということも含まれているのかもしれない。
鶴見俊輔の自殺に関する息子とのやりとり、ル=グィンの「左ききの卒業祝辞」など、タカハシさんのお気に入りの「先生」に改めて会うことができたのも収穫でもあった。
いまだどっぷりと「正解を探す」世界にはまり込んでいる身を顧みて、ふとこれでよいのだろうかと思うこともある。子どもたちもまた「正解を探す」世界にいる。そこを突破した先には「問いを探す」世界が待っていて、そこでうまくやっていけるものと期待をするのだが、はまり込んだ「正解を探す」世界が与える影響の強さは自分が身に染みている。でも、子どもたちはすでに新しい先生を見つける旅に出ているのかもしれない。もはや親としては、よい出会いをと願うだけなのかもしれない。
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そうか!
本を次々に読みたくなってしまうのは
本の中に先生を探しているのかもしれない!!
新しい気づき。
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自分が若いころ、こんな特別授業があったら、ずいぶんためになったと思う。言葉から感じること。言葉で表すこと。その面白さと、難しさに触れられる内容でした。よい本です。
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自分で問うってどうなんだろう。
論理だけじゃなくて、想像力豊かに考えること。この想像力ってどうやって養われるんだろう、と考えた一冊。
読むこと、書くこと、書いて読んでもらい質問されること、指摘されること、全てが自分の力になると分かっていても書く以降は恥ずかしさ故になかなかできていない部分。「誰かに見られることが人を成長させる」改めて理解できた。
本を貪って今年も先生を沢山見つけて色んな感情を引き出していこうと思う。
高校生との対話形式で構成されているので、かなーーーり読みやすいです。
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学校で二日間かけて行った授業(講演)を文字に起こしたものです。渋谷の109の店員は人から見られるから可愛い。だから文章も人から読まれれば上手くなると言う話が面白かったです。
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人生観 哲学だと思う。
たくさんの引用をもとに考え方のヒントを与えている。ライブで聴いていたらおもしろいのだろうに。
文章は見られてうまくなる。109のショップ店員が毎日見られているから意識するのと同様に。
木村センさんの遺書。文字が書けないでいて就学前の孫に教えてもらって最初で最後にしたためた自分の思い、遺書。孫の立場だとトラウマになるよなぁ。と。
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こんな授業を受けてみたいし、こんな学校にも行ってみたい。何を教えて何を学ぶのがいいことなのか、ぼんやりした気持ちになりました。でも、それは全然いやな気持ちじゃない。考えるって楽しいことですね。
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和歌山にある
「きのくに国際高等専修学校」
での
ゲンちゃんこと
髙橋源一郎さんと高校生たちとの
授業の記録
本来の「学校」が
ここに あります
(と 私は思いました)
今、日本の「学校」に
携わっている人、
関係している人、
感心のある人、
絶望している人、
全ての人に
目を通して欲しい
一冊です
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いまのビジネスパーソンには問題解決力より問題提起力・発見力が求められる、などとかまびすしい。書店のビジネス本コーナーには、この類の書籍がいくつも並ぶ。
この軽いブームよりずっと前に、子どもたちにこうした力を身につけてもらおうと設立された学校が本書の舞台。学年を取っ払った寮生活などユニークな点はいろいろあるけれど、いちばんのポイントは先生の位置づけ。この学校では先生はほぼ何も教えない。考えるヒントを与えるのが主な役割。唯一教えるのは「正解がない」ということも世の中にはある、ということ。だから、“いつも答えを持っていて、それを提示する”という従来の先生の定義からすると、これは大きなパラダイムシフトになる。これはいまの先生にとっては辛い。教えてはいけないとなった時点で、思考停止に陥ってしまう先生が続出するのでは。
今はビジネス界の専有物になっているコーチングなども、今後は先生の必須スキルになってくる。そんな時代は思ったより近いのかもしれない。
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読み終わって、あまりにも「常識」や「当たり前」に囲まれて、自分の頭で考えることを放棄してしまっていたのではないか、もっと考えなくちゃいけないのではないか…と、しみじみと思った。
子どもを(人を)否定してはいけない。
もっと、本を読もう。
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個である自分を大切に守り抜こう。そう勇気づけられた。自分の外側にある物差しで、自分を小さくしてしまわないように。