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なにより、邦題が洒落ていていい。原書は『The Black Russian』と味気ないものなのにね。
著者ウラジーミル・アレクサンドロフ、名前からも分かるが、亡命ロシア2世のアメリカ人。自身(の祖先)がアメリカに渡った人生と、逆にアメリカ大陸からロシアへ渡った本書の主人公フレデリック・ブルース・トーマスの人生に、なにか感じるところがあって筆を執ったのだろう。実に微に入り細に入りフレデリックの親の代から続くファミリーヒストリーを綿々と綴っていくノンフィクション。
奴隷解放直後とはいえ、まだまだ黒人差別の激しいアメリカ南部に生まれたフレデリックが、シカゴやニューヨークで高級レストランやホテルのボーイとして働き、ロンドン、パリを経て、ロシアに渡り、興業界で名を成し財を築くなんとかドリームと言えるような半生。
フレデリックの巧みなところは、同じ資本家に使われるにせよ、一流ホテルのボーイや、観光サービス業、高級ナイトクラブ経営と、自分のトイメンの相手が上流階級となる職種を選んでいる嗅覚だろうか。今風の表現を使うなら“意識が高い”と言うのか。「子どもの頃から両親の農場経営の話を耳にして育った」 「両親の資金計画や取引について」門前の小僧だった、そんな幼少期が体験が活きているということか。
ロシアで成功を掴み、このままフョードル・フョードロヴィチ・トーマスというロシア人となり生涯を終えるのかと思えば、世の中は、第一次世界大戦、そしてロシア革命と、激動の時代を迎える。以下は、ロシアで成功を掴む前の本書の中の表現であるが、
「歴史の力が生身の人間に姿を変えてモスクワの通りという通りを闊歩したときも、フレデリックは音楽と笑いに満ちた世界の入り口に立って、歓迎のしるしに両腕を広げ、休憩を求める人たちを見せの中に招き入れればよかった。」
最終的には、”歴史の力“に翻弄されていく様が描かれる。ロシアからさらにトルコへと亡命し難を逃れるフレデリック。コンスタンティノープルでナイトクラブを経営し不死鳥のごとく復活するかと思わせるが、革命に見舞われ、オスマントルコ帝国滅亡に巻き込まれる。
なんと劇的な人生だろうか。時代に翻弄されながらも己の才覚で時世を読み次なる手を打っていくしたたかさに舌を巻く。
昨今、こうした市井の無名の人物に光を当てた書物、映画作品に触れることが増えたきがする。このフレデリック・トーマスも、著者による見事な発見だと思う。歴史上の人物から見ていた世界史とはまた違った視点で時代の趨勢を感じることが出来るのも本書の素晴らしい点か。
映画化の話もあるやに聞く。 巻末の解説で沼野充義教授がこう語る。
「私はトーマスのこのようなロシアの広い「魂」(ドゥシャー)は、アメリカ南部の黒人の「魂」(ソウル)と響き合うのではなかったのか、と密かに考える。語学的にいっても(冗談のように聞こえるかもしれないが)、世界中で私の知る限り、「魂」と言う言葉を頻繁に好んで使うことで際立っているのは、ロシア人とアメリカの黒人である。そうだとすれば「ソウルフル」なアメリカ出身の黒人の魂が、「広い魂」の本場ロシアと出会った、その稀有な記録が本書だとも言えるだろう。」
魂で響き合うロシア人に、この稀有な人生を全うした黒人の物語を、映画化してほしいものだ。
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アメリカ南部で生まれたフレデリックの伝記.といっても,フレデリックが誰かを知っている人はいないと思うが,彼は19世紀後半にアメリカ南部で生を受け,その後,ニューヨークのレストランでのボーイとしての生活を経て渡欧し,イギリスやフランスを経て,帝政時代のモスクワでレストラン経営者として華々しい成功をおさめる.しかしロシア革命に巻き込まれ,ほぼ無一文でイスタンブールに逃げざるをえなくなる.彼の地で再び事業を成功させ,初めてトルコにジャズをもたらし,「ジャズのスルタン」とまで呼ばれるようになるものの,最後には外国文化(あるいは海外資本)への統制を強めるトルコ政府の朝令暮改に翻弄され,さみしく刑務所で一生を終える.彼のこのような一生を波瀾万丈を描いた物語である.
彼の両親は当時のアメリカ南部では黒人として例外的な経済的成功を収めるのであるが,人種差別的な法廷闘争に破れ,彼はニューヨーク,さらにはイギリスに移動する.当時,イギリスでは黒人は差別されておらず(ただし,被差別の役割はインド人が担っていた),またその後のロシアでも同様であった(被差別者はユダヤ人).そのような国で無ければ成功はもちろんあり得なかったのであるが,アメリカの黒人差別からは最後まで悩まされることになる.
モスクワとイスタンブールではレストラン(いわゆるクラブ,あるいは一昔前のキャバレー)経営で大成功を収めるのだが,いずれも戦中戦後の混沌とした時期に,時流に乗ったコンセプトを打ち出せた結果であり,その後の更なる混乱で逃亡や破産に追い込まれるのは必然だったのかもしれない.
乞う.映画化.
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フレデリック・ブルース・トーマス、1872-1928。南北戦争の後奴隷解放宣言を経てすぐのこの時代に、アメリカ南部からヨーロッパへ渡り、各地で言葉や所作を身につけながら興行師として成功し巨万の財を成した黒人がいたなんて。フィクションかコミックかというほどの波瀾万丈。面白かった。
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あまりにも魅力期なタイトルだったので手にとってみた。第一次大戦前にモスクワとイスタンブールで活躍していた黒人興行師がいた、という話。作者は亡命ロシア二世の大学教授でアメリカにおけるロシア文学研究の第一人者。たまたま主人公の存在を知って伝記を書いてみたくなったということらしい。主人公の両親は解放された奴隸なのだけどやり手でミシシッピでかなり大規模な農場を経営していた。しかし取引相手の白人農城主に農園を騙し取られ、訴えるのだけど、そして勝訴するのだけども上告され、結局農園は弁護費用のカタに取られてしまう...。しかたなくメンフィスで下宿屋を始めた父親だが下宿人に惨殺されてしまい…主人公はレストランの給仕として働き始める。サービスマンとして優秀だった主人公、メンフィスからスタートしてシカゴを経てニューヨークからロンドンに。当時の欧州では黒人が珍しかったこともあってアメリカにいる頃のような差別を受けないことを知ったので欧州を渡り歩いた結果、モスクワに腰を落ち着け給仕から最終的には流行りのレストラン兼クラブのオーナーとなる。呼び物としてミュージシャンや芸人を目利きしてステージに送り込んでいたことから興行師と言われてるわけだがこちらもかなり好評でモスクワの一等地に住居を構えるまでになるのだが革命で一文無しとなりまさに身一つでイスタンブールに逃亡、そこでもクラブを開き再起を図りいいところまでいくのだがトルコの革命などの結果、最後は落ちぶれて死んでしまうというかなり波乱万丈の人生。現代においては無名の人物だけどこういうフィクションであれば逆に嘘くさくなるほどのストーリーを見つけてまとめた手腕が素晴らしい。非常に面白かった。
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原題black russian
無類に面白い知られざる放浪人の伝記。ジャズの記述はあったっけという程度。トーマスの軌跡を列挙すると、メンフィスーシカゴーNYーパリーブリュッセルーリビエラーモスクワーオデッサーコンスタンティノープル。
あとがきにある彼の実子ミヒャエルが役者として活躍していたというので調べてみると、大作の端役が並ぶ中なんと「愛の島ゴトー」に出ていた。
以下メモ
南北戦争後のリコンスラクション期、当時としては珍しく土地を所有する両親ルイス、インディアのもとにフレデリックトーマスは生まれる。ルイスは土地を担保に借金を重ね綿花栽培で富を築くが、金持ちの白人から詐欺にかけられそうになり、裁判に労力を費やす。鉄道敷設利権などの絡んだ白人弁護士の助力で優位に裁判は進むが、転居先のメンフィスで営んでいた下宿の家賃未払いを巡って口論の末、ルイスは斧で頭を叩き割られて殺される。
■フレデリック修行時代ーアクアリウム、テロ時代
シカゴで給仕の仕事を始める。当時シカゴは万博を控えて好景気、黒人の人口は少ない。ホテルの客はすべて白人、南部よりも差別はましだが、給仕はすべて黒人で皆呼び名はジョージ。
ニューヨークはマンハッタンに移動。移民が多く、93年の徴兵暴動以来黒人に人気のある街であった。黒人人口は1%ほど。ブルックリンでベルボーイ長に。
1894年、音楽教師のすすめでロンドンへ。そしてパリ、ブリュッセル、リビエラ、など3年放浪する。パスポート、ビザ無しで行ける欧州6カ国滞在後、ロシアはサンクト行きを決意しブダペストでパスポート、ビザを取る。その際黒人であることは問題にならず、土地柄か「ユダヤ人でない」と記録する。
1901年、30になろうという頃25歳のドイツ人ヘドウィグと結婚し翌年には最初の子供をもうける。教会に申請した結婚の記録には、トーマスがローマカトリック教徒であると残す。一家はクレムリンを中心に放射状にのびるサドーヴォエ環状道路の北西地域、当時最も人気があった大衆演芸場のあった凱旋広場付近に住まいを定める。
まもなくアクアリウムという娯楽庭園のメートルドテルに就任。
1904年日本海軍が旅順沖に停泊中のロシア艦隊を奇襲し日露戦争勃発、翌年ニューハンプシャー州ポーツマスで講和会議開催。
当時のアメリカではロシアへの印象は悪かった。
1先制的絶対君主への嫌悪
2ロシアでのユダヤ人差別
以上の理由からニューヨークの銀行家たちは日本に多額の融資をした
1905年初頭「血の日曜日事件」から、ロシア全土にデモが発生、農民、少数民族が蜂起、軍内部でさえ反乱が起きる。ニコライは国会の設置を約束する一方、実行に移されないまま10年がすぎる。
12月、アクアリウム劇場の包囲事件。6000人が集会し、騎兵隊と小競り合いの末、家や柵をつかったバリケードを築く。その後アクアリウムの経営者はフランスに高跳びし、劇場は低迷をはじめる。
一方のフレデリックは1904-1906までモスクワにいなかった可能性がある。サンフランシスコに向かう途中マニラにいた、というのちの証言がその根拠(後述のアメリカ市民権を求めた嘘の可能性あり)。
ロシアでは革命、テロの気運が吹き荒れ、1906社会革命党員によって役人、警官、市民1400人が殺される。1907は3000、1908は1800人。
一方この間政府は数千人の革命家、テロリストを逮捕処刑した。
フレデリックはモスクワの名店ヤールレストランで働き始め、1908年にはメートルドテルになる。連日お祭り騒ぎ、浪費、それに伴う巨額のチップで、順風満帆にみえたが、1909年三人目の子供イルマを産んだヘドウィグが合併症で死去。34歳。ラトビア出身の28歳ヴァリを乳母として雇う。
1911年暮、フレデリックをふくむ三人がアクアリウムの経営を引き継ぐ。フレデリックはフョードルフョードロヴィチトーマスを名乗る。欧州各所の劇場を下見し、施設を立て直し、雑誌新聞に広告を打って1912年夏好評のうちに開業を果たす。秋の決算では現在の価値で100万ドルの純利益を記録。不思議なことに彼の肌は、問題視されなかった。
同じ秋、勢いフレデリックは次なる事業に乗り出す。時代遅れの劇場の経営を引き継ぎ、ベル・エポックのパリ有名レストランにちなんだマキシムと改名して、金ピカ、シャンデリア、ビロードの内装で公演を打った。その際3つの教会が隣接する立地上開演が危ぶまれたが、ほぼ予定通りにことがすすんでいる。著者はモスクワ特別市長官をうまく懐柔したのではないかと類推する。この頃朝まで続く劇場経営の連日の激務で、肺炎にかかって2週間生死の境をさまよう。
翌年1913年1月乳母のヴァリと結婚、アクアリウム近くの新築アパートに引っ越す。子供に満足な教育を与え、複数の外国語を習得させた。一方結婚した頃から、エルヴィラ・ユングマンというドイツ人芸人と出会う。歌手、踊り子で、西欧州のヴァリエテ劇場でかなりの成功を収めていた。二人の間には1914に第一子、翌年には第二子が生まれ、1918年正式に結婚する。
フランスの演目の著作権料の支払い協定交渉がはじまり、無断で演目、楽曲を使用していたモスクワの劇場もつつき回される。間に入ったエージェントが無能だつたこともあり結局1ルーブルも支払わずにすむ。
テキサスはガルベストンの巨人ことジャック・ジョンソンヘビー級ボクサーチャンピオンを招致しようと画策する。ところが白人ボクサーを打ち負かし無類の白人娘好きだったジャクソンを憎む白人は多く、未成年の白人娘と関係したとしてジムクロウ法で逮捕されてしまう。フレデリックらは莫大な賞金でマッチを組んで、なんとか欧州に連れてくることに成功する。
WW1勃発
ロシア国籍取得。アメリカ市民権も取得したまま。ドイツ系の妻の国籍を偽り、営業利益を何千人もの負傷兵に寄付し愛国ムードに便乗。
ロシアでもざるの禁酒法が施工され、当局への賄賂、密売が横行。膠着した西部戦線の長い塹壕戦とは真逆の一進一退の東部戦線、ガリツィアを巡る攻防、トルコ軍艦オデッサ侵攻。
ドイツ人(のちその他の外国人)排斥ムードが生まれ、破壊、暴動が起きる。フレデリックは、多数の愛国イベントに参加し、事業も相変わらず好調。
戦争が始まって1年で100万が死に、100万が捕虜となった。ニコライ二世は自ら戦争の指揮を取りに軍司令部に移動し、首都は権力の真空を招き、ラスプーチンに操られたアレクサンドラ后妃は大臣を相次いで更迭。あちこちでストライキがおき始める。唯一最大の軍事的勝利ブルシーロフ攻勢て50万人の死者を出す。
フレデリックは西への渡航が難しく、南部へのスカウト旅行に出る中、オデッサが気に入り瀟洒な別荘を購入。1917年2月クレムリンから1マイルの不動産を700万ドル相当で購入。
その一週間後ペトログラード二月革命勃発、帝政崩壊。都市ではラマルセイエーズが唱歌され、臨時政府樹立。劇場が接収され「モスクワ国立劇場」に改称、一方卑猥劇「ラスプーチンの幸福な日々」など帝政を揶揄する喜劇が流行。
7月フレデリックは第一ギルド商人会員となり兵役など免除特権をうける一方でブルジョワの烙印を自らに課す。アクアリウムに兵士の劇場を併設、演目は演劇、クラシックなど高尚文化中心。
ペトログラード十月革命勃発、ケレンスキー逃亡、レーニンが凱旋帰国、警備が少なく被害は僅少。一方モスクワでは白兵となり被害5000人。
権力を掌握したレーニンは3月ブレストリトフスク講和で国土、産業の放棄に合意し戦争から離脱。
ヴァリは夫をニグロ呼ばわりし、ボリシェヴィキのコミッサールの愛人に殺されかかる。ミハイルとエルヴィラと4人の子を連れ、オデッサに。ドンコサックの本拠地南西部で白軍が組織される。アクアリウムは軍に接収され、マキシムの大劇場は国有化され、フレデリックは食堂の経営だけを許され、支配人として雇われる側に。
チェーカー創設、監獄解放、グレゴリオ暦採用。
1918初夏支配人を解かれる。街ではコレラ、チフスが流行、ドイツ大使の暗殺、ニコライ一家処刑。
メショーチニキ(かつぎ屋)の闇市に出入りし、モスクワを脱す。オデッサでも監獄は解放されており、ギャングが横行。つかのまの自由の気風。
1918.11.11ドイツ降伏。12.17連合軍艦隊がオデッサに到着。1800名上陸、戦車、大砲、装甲車、飛行機、モロッコ、アルジェリアのズアーブ兵3万、ギリシア兵士。計7万が20マイルに渡って展開。ところが2月にはボリシェヴィキの勝利に終わる
■コンスタンティノープルへ、ステラ開業
ステラ開業、ダームセルヴーズ女給、ロシア貴族のセイレンの蔓延とその追放運動。
1920秋白軍がボリシェヴィキに敗れ黒海沿岸まで追い詰められる。ヴランゲリ率いる白衛義勇軍の残党10万、一般女性2万、子供7千人、が劣悪な環境で港に足止め。さながらアーキペラゴと著者。ロシア人女性が花を売り歩くチチェキパサーシュ(花の小径)とロシア料理店の乱立。フレデリックの店にも仕事問場所を求めた亡命ロシア人が押し寄せる。フレデリックは再三アメリカ市民権を求めてパスポートの申請をするも繰り返し却下。長女オリガが結婚してルーマニアのブカレストで貧しいと聞いては毎月金を送金。
ムスタファ・ケマルとトルコ国民軍がギリシア軍ついで連合国占領軍を破り大統領に就任。
フレデリック、パスポートに見切りをつけ、新店舗マキシムを立ち上げ最盛期。禁酒法のアメリカから来た観光客が黒人の待遇に目をみはる。カファロドローム(ゴキブリレース)のミシェル、メチター、トロツキー、プラシャーイ、リュリュ活躍。
1922ケマルの国民軍がトルコのアジア川全土を奪還、アメリカ総領事館は650名の���メリカ人保護を発表(ヘミングウェイの名前もあるがフレデリックはなし)。スルタン制の廃止、ローザンヌ条約により連合軍のコンスタンティノープル撤退決定。再び旅券の打診をするも却下、23年10月連合軍撤退完了、トルコ共和国誕生、首都アンゴラ。フレデリックは長男をロシア人をうけいれていたプラハに留学させる。
1925ユルドゥズ宮殿にカジノが開業され、触発されたフレデリックはスタンダード・オイルとくんだハギア・ソフィアのジャズ神殿化計画を目論むも幻に終わる。
アルコール税、外国語看板税、などトルコ民族主義ムード。貧しさからオリガへの送金・連絡中止。
1927、54歳、首が回らなくなりアンゴラに高跳び。成長途上の新首都を視察、秋、債権者たちがマキシム差し押さえ、給仕補として糊口をしのぐも、結局捕まりアンゴラで投獄。約25万ドルの借金。
同じ頃ユルドゥズカジノが閉鎖。外国人専用であることや税金の未払いゆえとされる。その後博物館となる。
28年6.12収容先で急性気管支炎をこじらせ死去。翌日カトリックラテン墓地に埋葬
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図書館でジャケ借りしたんだけど面白い。しかしその面白さは実は自由の国アメリカの抱える矛盾としての人種差別が作り出した面白さとも言えるのではないだろうか。もし、これが白人のアメリカ人が第一次大戦、ロシア革命、トルコ革命の時代のエンターテイメント界で成功したという話だったらどうだろう。もちろん大きな変革の時代をくぐり抜けることにはなっただろうけど、このフレデリック・トーマスの人生のようなドラマ性は感じられなかっただろう。読み手の差別意識が強ければ強いほどこの本から受ける驚きは大きくなるという皮肉な仕組みだ。
虐げられたディープサウスの黒人農家に生まれ、両親も自分たちの才覚で時代を乗り越えて成功に浴したこともあった。その息子が、気の回る性格や人種差別のメンタリティがさほどない外国人との出会い、ヨーロッパへの渡航した後、そこで感じた人種のくびきからの解放といった経験を積み上げて飲食エンターテイメントの世界で才能を開花させ成功する。それを追っていく快感は、アメリカの恵まれない黒人という出発点の認識が強く影響している。
そして彼の晩年を早めたのもアメリカ領事館の差別的な態度だった。トーマス自身はそんな自らの母国において最も激しい差別の視点を自らの事業においては活用できる場合もあったが、領事の個人的な感覚に強く影響される当時の官僚機構にはそんな自虐は通じなかった。
この本を読み終えて考えたのは不思議とロシアやトルコのことではなくアメリカのことだった。国是として自由を喧伝しながら、その中には、あからさまな差別、もしくは抑圧された差別が今でも明確に存在するアメリカ。そんな差別がなければ人種のような枠を超えた才覚を羽ばたかせる人はどの人種にもいることをトーマスは証明している。
トーマスの子孫がフランスで女性下着のブランドで成功しているらしい。まさに著者が書いているように、トーマス本人は喜んでいるだろう。