紙の本
基礎研究の重要性
2020/02/07 11:54
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投稿者:nekodanshaku - この投稿者のレビュー一覧を見る
基礎研究を忘れれば、イノベーションの基盤は失われる。基礎研究に投資することが未来への投資となる。しかし、日本の最近の政府主導型の投資には、科学技術を経済成長に役立てようとする「出口志向」であり、それに伴う「選択と集中」により、科学研究の現場は、疲弊どころか、縮小し、過疎化に向かおうとしている「限界研究室」の態である。それを訴えるルポルタージュである。
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現代において「科学技術立国 日本」という姿を真と捉えているものは多くないだろう。基礎科学を中心としたノーベル賞の受賞は、その姿が是であったかつての残滓として、もう数年は続くのかもしれないが、その先どうなるかは分からない。
本書は科学技術立国がどのように幻想の産物となり果てていったのかをアカデミアや製造業・情報通信などの民間企業のトップや研究者たちへのインタビュー、中国をはじめとする海外の科学技術に対する注力具合やその投資の実態などに基づいてまとめられたノンフィクションであり、幻想の崩壊を実感できる優れた一冊。
これを読むと、崩壊しつつある日本の科学技術をどう立て直すかは、文科省に代表されるアカデミアや、経産省に代表される民間企業など、各組織が個別に取り組むだけでは解決不可能であり、国家レベルで取り組むべく重要な政策的イシューであるということを痛感する。
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藤村修三・東京工業大教授(イノベーション論)は「たとえば量子コンピューターのように純粋な基礎研究は産業構造すら変える可能性を秘めているが、日本企業の研究はその逆を行なっており、どんどん出口(商品化)に近くなっている」と指摘する。(p.47)
新たな知見を求める基礎研究と、安全かつ均一な細胞を大量培養し、品質を厳しく管理するストック事業とでは、細胞培養の施設基準や運営の仕方、人材に求められる資質が大きく異なる。このことから、研究・教育を主とした大学の研究所で両方を行うよりは、前述したような「民間企業ではあり得ないミス」は防げるかもしれない。しかし、iPS細胞は化合物で作る薬と異なり、細胞提供者の1人ひとりによって品質にばらつきがあるなど未解明の部分も多く、再生医療の関係者からは「製品として売り出すような備蓄には時期尚早」という声も根深い。大学から切り離したとしても、この課題は残ったままで、ストック事業がうまく回る保証はないのが現状だ。(p.99)
運営交付金は基礎体力をつけるための、いわば「ご飯」だ。法人化直後から、必要な経費を(国立大への)不信感ゆえに削ってしまったのは大きな問題だ。ゆとりのないギシギシした中で「いい研究しなさい、実用的なことをしなさい」と言っても、もう体力がない。何でも「これは余分だろう」とカットしていったらダメだ。研究にはある程度、余裕も認めないといけない。効率、成果を求めるのでは、将来のともしびを消してしまうと思う。(p.180)
気候変動対策を否定し、国際協調を軽んじるトランプ政権を生んだ現在の米国の風潮とは対照的な考え方にも見えるが、久能氏は「新しい価値観と伝統的な男性社会の価値観とがせめぎ合っているのが今の米国。どちらが残るか分からないが、米国は日本が思っているより柔軟な社会。20年、30年かけて世の中が変わっていくと期待している人は多い」と分析する。(pp.242-243)
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日本の科学者、技術者は恵まれてない、って話。資源のない日本は技術で食っていかないといけないのに、それを育てる制度、予算、社会風土が全然ない。尊敬もない。
ある研究者がつぶやいたという。
「もし将来、子供ができたとしても、研究者になることは勧めないな」
これは心に刺さった。
いつの間にか日本に先進的な研究はほとんど見当たらず、中国が毎年のようにノーベル賞を取るようになってから気づいたのではもう遅いんだ。今すぐ変えないと!
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毎日新聞の連載記事が元となった一冊。取材が基本なので多くの関係者の主張が紹介されるに留まるが、この20年の日本の科学界の歩んできた衰退の経緯を振り返るのにはとても便利。いわゆるPDCAのCの部分だけど、日本には基本的にこのCは無くてPDのみのドードー巡りが続いているのかもしれない。官僚の無謬性の原則というやつかもしれない。犯人捜し、責任追及をしても仕方ない(本書では何となく犯人が特定されている)が、この20年の敗戦への道を精査して、どうしてこうなったかを理解することは大事だろう。
この本を読んで、「(官邸)トップダウンによるスピーディーな意思決定、効率化」って、要は、社会主義体制、共産党独裁的に近づけていこうってことだなって感じた。いくら優秀なトップによって目の前の短期的な問題の解決が達成されても、長期に渡れば権力が腐っていくのは歴史の教えるところ。上の目ばかり気にして、やがて誰も何も考えなくなってしまう。
1995年の科学技術基本法のスタートから、その後の科学技術政策は全て、経済発展のための科学・技術という発想だったようである。科学者・研究者がしだいに意思決定から排除されていき、今やすっかり経済・産業政策に成り下がってしまった。内閣府に集められた”有識者”の年配の方々らが、現場も知らずに自分らの経験で教育”改革”を主導してかき回しているのは、昨今の大学入試改革の混乱でも周知の通り。
また、国立大学法人化と基盤経費削減は、時期が一緒なのでセットのように見えるが、セットとして始まったわけではなかったようだ(「遠山プラン」での法人化では基盤経費は確保することが付議されていた)。法人化の前から、国の財政難から国立大の基盤経費の削減は議論されていて、法人化によって寄付やらその他の事業による収入源を得る自由を確保するためにも、終盤で国立大自身から手に平を返して法人化を推進した面もあるようだ。
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SIPやImPACTに対する「成果を意識するあまり、テーマが小粒になってしまった」という批判は、研究開発に携わる立場として、心に留めておきたい。
日本の大学は資金難と、外部資金調達などによる研究時間不足でまともに研究できる環境ではないらしい。雇用条件や労働環境も一般企業と比べて劣悪である様子。組織として疲弊しているし、個人として幸せになれないという印象を持った。今後もしアカデミアを目指すことになったら、海外を選ぶべきだろう。
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「Japan as No.1」と賞され、科学技術立国と呼ばれ、米国らの基礎研究にフリーライドと揶揄されながらも実用技術で世界市場を席巻した日本もいまや四半世紀以上前の話。論文数ではトップグループの後塵を拝し、実用化では他国に抜かれる一方である。こうした背景として他国躍進のほか、国家戦略の失策、大学改革を本書は指摘する。毎日新聞社編のため綿密な調査と鋭い洞察が光り、偏りのない多方面に渡るキーマンへのインタビューが内容に厚みを与えている。
本書は良書だが、但し額面通りに受け取るには注意が必要だ。「昔はよかった」的な論調になっているが、そもそも昔の日本が科学技術関係者にとってハッピーだったのか。潤沢でない科学予算、国家主導のミスリード。そうしたなかでソニーやホンダなどのイノベーティブな民間企業、NECや日立などの重鎮民間企業の基礎研究が花開き、日本礼賛の時代を謳歌できたのである。また中国やシンガポールといった国家戦略として集中投下して一気に先進へ躍り出る国や米国シリコンバレーのような文化や土壌が整っている国と対比して日本を悲観しているが、他国の科学技術も褒められたものではない。不安を煽り現状を憂うだけではなく、世界のなかでの日本という国の科学技術をもう少し中立かつ客観的に論じる必要があるだろう。ということで1点マイナスにした。
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大学で理系学部を専攻していたため、今の日本の科学力の低下は憂いている。本書ではこれまでの政策や関係者のインタビューから、日本の科学力の凋落を分析している。
特に基礎研究をおざなりにし、出口のある研究に注力する今の姿勢では、今後さらなる科学技術の発展が見込めないため、タネを撒くように、基礎研究にも力を入れてほしいと思う。
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日本の科学の情勢について、まとめた内容。
良くも悪くも新聞的な本なので、体系的な背景や提案などは薄いのだけど、現状を捉えるにはいいかなと思う。
科学や教育は長いスパンで物事が見る必要があるけれど、そこに政治が絡むと短期的成果を求められるから、相性が悪いなあと感じる。
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【まとめ】
1 論文数の減少
日本のGDP当たりの論文数はラトビアやトルコと同じくらい。豊田長康・鈴鹿医療科学大学長は、14~16年のデータを分析し、「データ上は、日本は科学技術立国とは言えない」と言い切る。豊田氏によれば、全分野の論文数の合計を比較すると、米国、中国、韓国など欧米やアジアの主要約20カ国の中で、日本が唯一、02年ごろから停滞または減少している。人口当たり、もしくはGDP当たりの論文数も増えておらず、他国に追い越されている。引用数上位1%の影響力の大きな論文に限れば、オーストラリア、カナダ、イタリアにも抜かれ、4位から9位に転落している。年間平均論文数は10年前に比べ約3,900本も減少した。
2 企業の失われた30年
・フラッシュメモリーの生みの親である東芝は、需要に柔軟に対応しきれなかったため先行者利益を生かせず、サムスンの後塵を拝し続けた。01年に市場から撤退した。
判断が遅れた要因には、東芝が家電から原子力まで多種多様な部門を抱える総合電機メーカだったことが挙げられる。投資のバランスをとる必要があり、他部門の不振で思い切った意思決定が難しかった。
長内厚・早稲田大教授は、「東芝に限らず日本の大手企業の多くは、技術的な優位性があればビジネスでも優位に立てるという思い込みから、同じ失敗を繰り返している。自ら開発した技術がそのまま製品の価値になった70~80年代の成功体験が忘れられないからだろう。経営の課題を全て技術の問題として解決しようとしてきたところに問題があった」と指摘する。
東芝は18年に半導体事業の子会社「東芝メモリ」を売却し、稼ぎ頭を失った。
・JSTは、国から研究開発費の出ていた「IGZO」の使用開発権を、サムスン電子に売却した。JSTは、当時まだ海外との契約実績が乏しく、サムスンと契約を結ぶ前に国内のメーカー複数社に契約を打診していた。だが、国内メーカーから色良い返事はなく、結果的に、英科学誌ネイチャーに論文が発表された04年当初から関心を示していたサムスンが先行した。
JSTで知的財産の管理や企業との交渉を担当する幹部は、「海外の有力企業の中には世界中の社員に大学の研究成果を探させ、いち早く自社製品に取り込んでいるところもある。日本企業は社外からの技術導入の動きが遅い」と指摘する。契約交渉の場にも、海外企業は幹部が来ることがあるのに対し、日本企業はいつも担当者レベルしか来ないという。「意思決定のスピードが違う」のだ。
・企業の研究開発が、「ものづくり」に代表されるような、すぐに利益には結びつかない長期的な基礎研究を縮小し、「サービス」のような、より短期的・応用的なものへと移っている。
・藤村修三・東京工業大教授は、「たとえば量子コンピューターのように、純粋な基礎研究は産業構造すら変える可能性を秘めているが、日本企業の研究はその逆を行っており、どんどん出口(商品化)に近くなっている」と評する。
・富士通佐々木社長は、「かつてない速度で社会が変化している。(そのため、以前のような長期的な研究開発は行わず)2~3年やって研究を続けるかどうかを判断する」と��研究のスパンがより短くなっていることを認めている。
3 選択と集中
内閣府が主導する大型研究開発プロジェクトは、社会にイノベーションを起こす目的が強調されており、研究のプロセスよりも成果を重んじる「出口志向」が強まっていると言える。これらはまさに、財務省が言う「選択と集中」の代表例のような事業だ。研究資金を「選択と集中」した結果、ハイインパクトの研究成果や、経済発展につながるイノベーションが起きれば、狙い通りの展開と言えるだろう。だが、これら内閣府のプロジェクトで狙い通りの成果は出ておらず、その検証すら不十分なのが実情だ。
過去の実績を当てにして研究費を配分しても、期待通りの成果が出るかどうかは分からない。科学技術政策アナリストの小林信一氏は、「日本では00年代後半に特定のテーマや研究機関に資金が集中する傾向が強まった。海外でも『選択と集中』を政策目標として位置付ける国は多いが、日本のような極度な集中はみられず、米国では00年前後から見直しが始まった」と指摘する。
かつて、iPS細胞は日本発の万能細胞として注目を集めた。しかし今では、山中教授が主導で進める「iPSストック事業」が支援打ち切りに合っている。
再生医療全体で見ると、世界はES細胞を中心に研究が進められており、日本の研究環境はガラパゴス化している。ES細胞には人の受精卵を使って作製するという倫理的問題があることから、日本では医療への使用を長らく認められていなかった。これを認める指針が施行されたのが14年で、京大のチームによる医療用ES細胞の作製計画が17年6月に了承された。意思決定が非常に遅く、この間に海外と大きく差が開いてしまった。
政府は、国立大やその研究者に「自ら稼ぐ」ことを求め始めている。国から大学に配分される運営費交付金が年々削られたことが、その発端だ。調査では、国立大の研究者が外部資金なしで実施した研究の割合は04~06年の24%から、10~12年の17%に下がっている。外部資金への依存度がますます高まっている。
また、大学教授は日々の講義や大学の運営業務、学内の会議でびっしり埋まり、自らの研究に当てる時間が少なくなっている。事務作業に追われればいい成果をあげられず、競争的研究資金を得ることがますます難しくなる、という負のスパイラルに陥っている。
4 政治と科学の関係
多様性が大事なのは、自然と社会そのものが多様だからだ。将来大化けするような研究をしようとすれば、多様性の中に隠れている何かを探さねばならない。そのような気の長い研究をできるのは大学だけであり、「選択と集中」で効率の良い研究だけが大事だと思っていると、本当に大事なものを見失うことになる。
悪い結果が出ているにもかかわらず、方針を改めようとしないばかりか、さらにアクセルを踏もうとする根本的な要因は、科学技術政策が政治イシューになっていないからだ。
政権交代前後、各政党に科学技術政策についてアンケートを行ったが、自民党も民主党(当時)も科学技術を経済成長に役立てようとする「出口志向」に変わりはなく、政策にも大きな違いはなかった。実際、政権交代を経ても、総合科学技術会議や宇宙政策委員会といった、政権の科学��策のブレーンとなる組織の有識者メンバーは大きく変わらなかった。
「カネにも票にもならない」科学技術分野に関心を持つ国会議員は少なく、与野党間でも大きな議論にならないとなれば、幅をきかすのは官僚の論理だけとなる。官僚は基本的に間違いを認めない。「行政の無謬性」というやつである。必然的に、過去の政策の検証も十分に行われないまま、いったん決めた方針が踏襲されることになる。最近になってようやく「根拠に基づく政策立案(EBPM)」という言葉が霞が関でも言われ出したが、裏を返せば、今までそのような考え方はなかったという証左である。
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【読書前メモ】
取材記事を元に書籍化した作品。ここ数十年の日本の科学史とそのビジネス転用(主に衰退)が記されている。