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もはや何気なくテレビと呼んでいる四角い画面は、そもそもtele-(遠くを)vision(見る)として誕生したものです。1926年世界に先駆けて「イ」の文字を送受像することに成功した高柳健次郎は、その技術を「無線遠視法」と名付けたそうです。この本は戦後、日本人の遠くを見る欲望をエネルギーに発展をしたテレビを材料に、見る対象としての東京の変遷を論ずる「メディア都市論」です。サブタイトルの「戦後首都の遠視法」という視点が極めて面白かったです。ちなみにパリが十九世紀における「写真都市」なのである、という読み解きからの延長で東京は「テレビ都市」と位置づけています。東京は極めて二十世紀的な首都なのかもしれません。つまり、それはインターネット都市にはなりきれなかった、という指摘にも思えます。本書の章立ては見事なフレームになっていて、第1章 東京にはすべてがあるー〈東京〉措定の時代 1950年代〜60年代 第2章 遠くへ行きたいー〈東京〉喪失の時代 1970年代〜1980年代前半 第3章 「お台場」の誕生 〈東京〉自作自演の時代 1980年代後半〜1990年代 第4章 スカイツリーのふもとで 〈東京〉残映の時代 2000年代〜10年代 という整理がものすごく腑に落ちました。一部分ではありますがテレビ史に燦然と輝く脚本家たち、向田邦子、山田太一、鎌田敏夫、倉本聡、板元裕二の流れもテレビと東京の関係を語る補助線として納得感ありました。読後、東京タワーからの1964年オリンピック、という組み合わせのリバイバルとしての東京スカイツリーからのTOKYO2020が残映の時代のあがきのように感じ、アフターオリパラが心配になります。まあ、NHKがデジタルサイマルにシフトするきっかけにもなり、日本発のメディアコンソーシアム型放送の最後になるのでしょうが…たまたまですが、直前に読んだ「二重らせん」で描かれたメディア利権の裏側、「総中流の始まり」で描かれた中流という意識の誕生、と重なり合って非常に深く楽しめた読書になりました。でも、さらに感じたのは、本書に書かれている東京史って東京という都市が安定していたから起こった歴史で、これからは災害という要素が歴史の全面に出てくるかも、と心配性な妄想でした。
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先日逝去された田中邦衛氏の「北の国から」
を多くの人が名作として記憶に留めていると
思います。
あれこそ「地方から見た東京」も極北とも言
える作品です。
主人公の純はドラマの初期の頃、ナレーショ
ンで彼から見た東京と北海道の差を語らせて
いました。
それだけでも視聴者には「ドラマ」になった
のです。
本書は「テレビ」というメディアが東京とい
うものを、どう映して来たかを語っています。
今では考えられないですが、テレビ創世記に
は、東京は浮浪者などが存在する光と陰のあ
る街として、その陰の部分を大きく取上げて
いる時期がありました。
それから1970年代には、東京よりも地方へ
と視点を移して、日本再発見的な、今でも
BSあたりで流される番組が作られたりして
いたのです。
そしてバブルを迎えると東京は憧れの場所に
なり、今もまだ膨張し続ける巨大都市へと
繋がっていきます。
この本を読むと、東京こそテレビにとって
最高のコンテンツであることが理解できる
一冊です。
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テレビと東京の関係性を読み解く本。昔は東京をどう見せるかをコントロールし、「東京とはこうだ!」を視聴者に示してきた。それが発展し、今度は「東京とはこうだ!」を映すだけでなく、それをテレビが作り出してしまうところまで進んでいく。一方で今は東京への価値観が変わり、目的を果たす為の単なるプラットフォームになり、みんなが東京を客観的に判断できるようになった。
こう考えた時に、プラットフォームとしての東京が、自分にとって価値があるのかどうか。単に勤務地があるから、持ち家があるから、といったことを抜きにしたとき、果たして自分にとって東京に価値があるのかは疑問が残る結果になった。
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テレビ越しの東京史
~戦後首都の遠視法~
著者:松山秀明(関西大学准教授)
発行:2019年12月9日
青土社
著者は東北大の工学部の学歴があるが、読んで見ると社会学的分析本だった。あとがきに、入学後に建築学で挫折し、社会学や都市論への文系転身をしたとある。東大の大学院で「東京都とメディア」を研究テーマにし、この本は博士論文を修正・加筆したもの。
創世記のテレビが語られる際、必ず「街頭テレビ」が引き合いに出される(猪瀬直樹の「欲望のメディア」など)が、著者はそれ以上に重要なのが1959年の「皇太子御成婚パレード」だという。