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あの日、北海道にいて車に乗ってたので全く揺れに気づかなかった、、、
今の旦那から「大丈夫?」って連絡がきたけど何が大丈夫なんだ?って思った。
家に帰って揺れてることにはじめて気づいてテレビをつけたら、すごい光景で。
小説だけども、実際に起きたことでもあるし。
あの日のことを改めて考えた。
被災地…
天災の被災地と戦争の被災地
2種類の被災地があることに改めて気づいた。
主人公は、みんなに助けられてよかった。
モリオがいい人でよかった。
自分より小さな者が困ってたら心配で手を差し伸べる。
でもこの当たり前のことが、不審者と思われてしまう今日…
複雑だなぁ。
とりあえず
いっぱい、ご飯を食べよう。
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映画のノベライズなので小説に比べて心情の掘り下げがあっさりしている印象。
狗飼恭子氏の作品は、主人公が逡巡しつつも流されたり奮い立ったりしながら、ゆっくりと自分の心の核に向かっていくところ(でも最後にその核さえも変化していくのだという希望が見えるところ)がすごくいいと思ってるんだけど、今回はちょっとその辺が駆け足な気がする。
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2020年1月31日。
岩手県出張の最終日、駅に入っていた本屋さんでこの本を手に取った。
いろんな本屋の棚を眺めるのが好きだ。
盛岡駅の本棚は、宮沢賢治と、マタギ、震災などの本が多く並んでいた。
3.11。
わたしはそのとき鹿児島の高校生で、
部活中、音楽室にいた。
東北地方で大きな地震、津波があったらしい
ということを知った。
すごく不穏だった。その後、けっこう。なんだかその頃の記憶があんまりない。
そして2019年4月16日、
熊本の大学に進学したわたしは
深夜の電話中、ベッドの上で家ごと揺すられた。
そのまま休校、住んでいたマンションには"要注意"の黄色い紙が貼られ、体育館でしばらく過ごすことになった。
この本に出てくるほどの喪失感はない。
喪ったものが、それへの向き合い方が
わたしは違ったということなのだろう。
ただ、確実に染み付いた思考はある。
避けられないものもある。命が終わるのなんて一瞬だ。
みんな死にたいと言いながら台風が来たらしっかり対策をし、スーパーからはものがなくなる。
飲みの帰りの横断歩道で、車にひかれて死なない確証はないのに。
楽観的観測に基づく死にたいゲーム。
当時は生きることに
食べることに一生懸命だったから、忘れていた。
東京に来て、わたしも次第に仕事に追われそんなゲームに参加していたように思う。
途中の、お酒を飲んでいる2人を見つめるハルのシーンが心に残った。
"モリオは答えなかった。答えずに透明なコップを手にして、透明な液体を飲んだ。今田さんも飲んだ。2人のコップには、同じように見える液体が注がれている。
あれはわたしには水に見える。でも、本当はお酒だ。他者に見えるものと本人の飲み込むものは、同じに見えても違うかもしれない。悲しみもそうだ。モリオの悲しみと今田さんの悲しみは、きっと違う。わたしの悲しみとも、光代さんの悲しみとも。
みんな笑っているけれど、みんな悲しみを飲み込んでいる。それぞれの悲しみを。たくさん。"
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いきなりネタバレだけど、倒れた叔母さんほっといて旅に出るんか~い!とツッコミたくなった。
岩手にも広島にも思い入れがあるので、その辺は入り込んで読めた。 震災にしても戦争にしても、自分が生き残っても人生は大きく変わってしまう。
人の傷を癒して、少しでも生きようという気持ち、ご飯を食べようという気持ちにさせるのは、人との出会いと優しさなのかな。と思った。