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作者の生い立ちを追いながら、言葉と表現についての考えを説いている。
読書歴の浅い私には難しかったが、それは難解でわからないという諦めではなく、いったいどういうことなのかもっと噛み締めたいという、今までにない感覚であった。
人の悩みは結局は人間関係の悩みだ、と聞いたことがある。
そんな人間関係を築くために必要な言葉。
当たり前だと思っているコミュニケーションツールを、私達は粗末に扱ってはいないか。
オンライン化によって顔の見えないコミュニケーションが増えた今だからこそ、言葉からこぼれ落ちたものに思いを馳せ、表現すること、そこに込められた想いを汲み取ることを大切にしたいと感じた。
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だれかの「生きづらさ」に目を向ける40冊
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https://libopac.akibi.ac.jp/opac/opac_details/?reqCode=fromlist&lang=0&amode=11&bibid=2001010136
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人はクオリアを感じることで環世界の移動もしくは拡張を行うとして、著者の幼い頃の遊び、学生の時の学問、社会人となっての仕事そして娘が誕生しての父親など自分の環世界の軌跡を言葉で紡ぎます。言語はクオリアの最大公約数としながらも、わかりあえなさをお互いに受け止め、それでもなお共にあることを受け入れるための言葉の大切さを説きます。テーマに対してのメタファーの使い方が難解で、二度読むことになりましたが、環世界、クオリアそして言葉についての新たな視点を垣間見た気がします。
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ナヴェンの祝祭、共話と相槌の頻度、タイプトレース、モンゴルの白い馬。どれも今の社会と人生において考えさせられる素晴らしいエピソードだ。
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アートと経済と学問
つながる先端には
明るいもの、あたたかいものが
生まれそう
つなげる言葉は
個→普遍
普遍→個
両面をもつ
柔らかにしなやかに
つながっていきたい
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みんなが認識している世界の間には、「わかりあえなさ」が横たわっている。これを埋めるべき隙間と見るか、新しい意味が眠る余白と見るか。このような認識の在り方一つで、世界はもっとやさしくなれると思う。言語、コミュニケーション、表現について、深く追求したくなる一冊です。
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著者の自伝的スタイルを取りながら、分断が深まる時代において再び他者と共にあるために、他者と重なることでより豊かな生を実感できるようになるために、その思想的な道案内がなされる。
テクノロジーを個人の能力を拡張するためだけと捉えるのではなく、他者を繋ぎ、他者と深く理解しあえるようになるにはどのように考えれば良いか。過去の先人たちの研究も紐解きながら、その思想的堆積の上に新たな道標が立てられている。
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年末に本当に久しぶりに訪れた東京駅前の八重洲ブックセンターの入り口に平積みにされていたところ手にとって読んでみました。書店を訪れるとこうした本との出会いがあるのが嬉しいです。
筆者は、多文化共生、哲学、言葉、アートやテクノロジーといったマルチな話題を中心に、自身の娘への命の紡ぎに思いを馳せます。娘の誕生により自分の死が予祝されたことを感じた、という著者の冒頭のコメントが、なぞかけのように心にひっかかりながら読み進めるうちに、その理由が後段で語られます。娘との言葉を通したコミュニケーション、その過程が重要で、それによって自分の命が娘の中に生き続けるであろうこと。
多文化にルーツを持つ筆者が、ドウールーズという哲学者の「領土化」「再領土化」というコンセプトを引き合いに、さまざまな言語や文化を行き来することによる世界観の拡がりを楽しんでいることが読み取れます。またそうした個人の多面性が「分人」として語れらますが、これは作家の平野啓一郎氏の講演でも以前述べられていたことを思い出しました。「分人」がドウールーズの定義した言葉であることを本書を読んで初めて知りました。
ベイトソンという別の哲学者の考える「コミュニケーションは、生命的システムの相互作用」という考え方が、筆者と娘のコミュニケーションに示現していく様も描かれ微笑ましく思いましたが、本書の副題である「わかりあえなさをつなぐために」というのが、コミュニケーションや言葉の持つ本来の意味であろうことを思い起こさせてます。フランスの教育制度で、哲学の教育を受けた著者らしく、弁証法が用いられてまとめられているように思いました。日本と西洋の会話の違い、「共話」と「対話」の件はとても興味を惹かれました。
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【本書の概要&感想】
筆者のドミニク・チェンは、娘が生まれ育つのを間近に見て、自分がもう一度生まれ直す感覚を味わった。その感覚の正体とは一体何なのかを、筆者の半生をトレースしながら追いかけていくエッセイになる。
この本のテーマは「環世界」。環世界とは「それぞれの生物に立ち現れる固有の世界」のことであるだ。
人間は母語によって異なる環世界を持っている。言語によって虹が5色だったり7色だったりするように、言語というインターフェースの種類に応じて世界の認識の仕方が異なる。
そして多言語話者である筆者は、複数の言語を話す人間の中では異なる言葉と環世界が混じり合うことを発見した。
環世界の風景は人間によって異なる。様々な環世界と触れ合うことで、意思の疎通が容易になるだけではなく、対話する相手から引き出せる知識も増えていく。
これが筆者が重要視する第2のテーマ「領土化」だ。領土化とは、今ある領土から踏み出し未知の領域に触れることで知識を獲得する行為のことである。
インターネットが発達する今日においては、異質な環世界との交わりが増えると同時に、異なる価値観を持つ人間同士が分断される危険性が存在する。
しかし、「この2つの動向は一見矛盾するようでいて、人間の社会が新しい言語を獲得するために通過する必要なステップを共に指し示している」と筆者は論じている。
SNSの発展による社会の分断が叫ばれてから久しい。個々人はみな意識の中に異なる環世界を有し、それを融和させるのは不可能に近い。
だから、「対話」ではなく「共話」なのだ。一人の人間の中でさえも、立ち上がって来る環世界は言語によってバラバラで、時には衝突し合う。であれば、他者との間で環世界を一つにまとめようなどという試みがどうして成功し得るだろうか。世界を「わかりあえるもの」と「わかりあえないもの」で分けようとするところに無理が生じるのだから、わかりあえなさを互いに受けとめ、それでもなお共に在ることを受け入れる、それが人と人との関わり方の本質なのではないか。
ドミニク・チェン氏は自分の感覚を言語化するのが本当に上手いと思う。多言語話者として生きてきた彼に現れた、言語とコミュニケ―ションの間の感覚の齟齬を、言葉に表出されなかった微妙な心模様、「クオリア」として読者に示そうとしている。
この「何となく」の感覚を伝えるのは本当に厄介なものだ。文章にしたためるという行為は頭の中に浮かんだクオリアを紙に翻訳する作業である。いくら自分の中で本質的部分を突いたクオリアが生まれようとも、それを手に伝えペンを動かし紙に記す間に、言語化できない部分が零れ落ちて世界に霧散していく。
しかし、筆者はプログラミング、哲学、アートといった様々な「言語」を多重的に学ぶ中で、言葉のふるいの目をどんどん細かくし、自分の環世界を複雑ながらクリアなものに変えていった。この素晴らしい筆力はこの経歴あってこそだ。自分もこのような微細かつ力強い文章が書けるよう努力を重ねていきたい。
以下、本書の詳細をまとめたメモです。
【本書の詳細】
環世界…それぞれの生物に立ち現れる固有の世界。
領土化…未知の領域へ向けて足を踏み出し知識を獲得すること。人々が知識を獲得する際には、領土を脱した後に別の場所を再領土化する繰り返しが行われている。
クオリア…「この感じ」。人々の感覚意識体験のこと。
人間が他の動物と異なるのは、身体世界の環世界の上に自然言語という言葉の環世界を持っていることである。これらの環世界は、異なる母語ごとに風景が変わる。複数の言語を話す話者の中では言葉と環世界が混じり合う。言語というインターフェースの種類に応じて世界の認識の仕方が異なるのだ。
覚える言葉の数だけアクセスできる感覚が増えていき、意思の疎通が容易になるだけではなく、対話する相手から引き出せる知識も増えていく。知識の領土が拡張される感覚である。
これは人間の言語だけでなくプログラムなどの機械語を習得するときにも当てはまる。
筆者はプログラミングでバグを体験していたと同時に、身体のバグである吃音を経験していた。また、多言語話者として各言葉のクオリアが混じり合う感覚を覚えていた。多種多様な環世界に触れた経験が、今の彼を作り上げている。
筆者は大学時代書き言葉にハマり、たくさんの哲学の論文を執筆していた。リアルタイムな反応を強いる身体的コミュニケーションの世界と異なり、自分のペースで記述することは、それが大きな安らぎの源泉であったのだ。
また、執筆することで、クオリアは受容するものではなく作り出せるという感覚――表現行為が自己のアイデンティティを創発するという実感も生まれた。
哲学の論文を書きながら感じたことは、言葉でしか記述できない事象もあるが、言葉の網からこぼれ落ちる事象もまた、世界に満ち溢れているという事実だった。
その後、カリフォルニアの大学のデザイン・アート学科に入った筆者は、ネットで様々な作品や表現を観て、模倣して、作ってを繰り返すうちに、己のスタイルを萌芽させていく。当初は稚拙であっても模倣を繰り返すことで、対象と自らの差異をあぶり出し、固有のパターンを獲得し、世界を表象するための言語を構築していった。
そうした構築のための行為を、言語だけでなくあらゆる表現行為にまで射程を拡大すれば、途端に世界の密度が高まって見えてこないだろうか。広く創作と名付けられるあらゆる営為の数々を、表現者が感知した新たな環世界を認識するための言語構築とみなせば、世界は表現の数だけ「異世界」で溢れているともいえる。
その後ウェブサイトやアプリ開発を通じて、日常的に使っている言葉だけではなく、使う技術によっても、個としての世界の認識の仕方、他者との関係の築き方が変わって来ることを知る。わたしたちはむしろ他者と関係する方法を探るためにこそ、情報技術を活用すべきではないだろうかという考えに至った。
筆者が大きな影響を受けたのは文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンである。ベイトソンの思想は個からではなく関係性から考える思想だ。ベイトソンは、生物の成長の歴史がそのかたちに表出することを「プロクロニズム」と呼んだ。ここから、自らの成り��ちのパターンを知れば、異質な他者と自分自身を結ぶパターンを知ることにつながると考えた。
「プロクロニズム」の観点から、言葉を話す⇔取り込むというフィードバックを考えてみよう。
非言語的な無意識と言語的な意識の連関は、相互にフィードバックを連絡し合う、ある種のサイバネティックなループ構造を成すシステムとみなせる。身体の外界からのさまざまな情報刺激が体内に取り込まれ、意識の俎上にあがる流れと、世界にあらわれた自らの言動がふたたび無意識へとフィードバックされる流れが並走している。世界の全ての事象は関係しあい、私達が使用するコミュニケーション手段そのもののフィードバックを受けて、認識が変化する。
筆者はこの「認識の変化」の表出を、家庭内でわざと日本語を話さずにフランス語だけを話すことで、父と娘との間にだけ固有の言語的な環世界が生成されたことにより実感した。自らの認識方法を変えることで、相手との関係性をデザインし直したのだ。学習行為とは個の中だけで行われるのではなく、他者との関係性のなかで発達する。
同時に、変化する二人の関係性そのものが、一つの共通の環世界を形作る感覚も実感した。
今日、インターネットを介して、わたしたちが見知らぬ他者と接触する機会はますます増えているが、そこでは新たな関係性が紡がれる可能性と、異なる価値観を持つ人間同士が分断される危険性の両方が見られる。しかし、この2つの動向は一見矛盾するようでいて、人間の社会が新しい言語を獲得するために通過する必要なステップを共に指し示している。
結局のところ、世界を「わかりあえるもの」と「わかりあえないもの」で分けようとするところに無理が生じるのだ。そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け入れるための技法である。
差異を強調する「対話」以外にも、自他の境界を融かす「共話」を使うことによって、関係性の結び方を選ぶことができる。近代社会では、長らく対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引すると考えられてきたが、今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。
あらゆる存在を他の存在との関係性のなかで捉えられれば、ある存在の記憶が他の存在との関係性の歴史に織り込まれている風景が展開する。
だから、今日、たとえ人々を「接続」しようとする情報技術によってむしろ「わかりあえなさ」が増大しているのだとしても、私たちは逆に、さまざまな分裂を超えて、他者と共にあることを実感しながら生きられる未来をも作れるはずなのだ。
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予想以上に「自伝」的な要素が多くて、途中までは違和感を持ちながら読み進めていました。
が、他の学者の理論の紹介を、生い立ちや時代背景から紐解いているのを読み、そして最後のまとめ章を読んでいるうちに、
冒頭の方で描かれていた、高校三年生で書いたという哲学のレポートと、今回の書籍が、基本的な構成では一致しているように感じ、そして気づきました。
娘の誕生によって感じた自分の死への予祝、というとにかくその一点を、思考、思想にいたった理由も含めて、より深く伝えるための手法だったのだと。
ここまでしっかりと哲学のバックボーンのある、現代アーティスト、起業家は稀なのでは。すごいです。
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詩的な話から始まる。
良著の予感
フランス、日本、アメリカの文化横断的な観点からの視点が面白い。
メモ
言葉に関する洞察。
表音文字と表意文字。
言葉によって知覚も異なる。ニュアンスも。
弁証法。
正反合。ある主張と反論、二つのエッセンスを比較の上第三の項へ統合。
生物の成長の歴史がそのかたちに表出することをプロクロニズムという。自らの成り立ちのパターンを知れば異質な他者と自分自身を結ぶパターンを知ることにつながるのでは
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生命や関係性をめぐる思考について、自伝のようなスタイルをとりつつ、分断が深まる現代において、いつでもそばに置いておきたくなる本。
母語によって、それぞれの環世界が決まっている。環世界とは、それぞれの生物に立ち現れる固有の世界のこと。母語や暮らす社会が異なると、同じ虹を見ていても、 7色だったり、4色だったりする。どちらも間違いではなく、どちらかだけが正解ではなく、どちらも正解である。人と人の間にはこのようなギャップがよく起こっている。
「そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。『完全な翻訳』などというものが不可能であるのと同じように、わたしたちは互いを完全にわかりあうことなどできない。それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる。」(P.197)
命を持つもの同士、意識ひとつで互いの関わり合い方を選ぶことができる。選び直すことができる。同じ環世界を持つもの同士でまとまり、異なる環世界をもつ他者と、喧嘩や分断などしないで、わかり合えないままもっと相手を尊重しあうことができれば、この先にも希望があるように思う。少なくとも、この本は希望を感じさせてくれる本である。
モンゴルのエピソードが最高〜
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とても心が暖かくなる。在宅勤務に伴いネットに接する時間が増え、本書でいうフィルターバブルに自分が陥りかけていることを実感した。
snsやメディアでは結婚・育児についてネガティブな意見が溢れている。しかし、この本を読んだ後は結婚っていいものだな。子育てもいいものだな。と心から思えた。よい。他人と積極的に関わりたくなる。
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幅広い知識をベースに、情報科学を人文学的に解説してくれて、とても親しみを感じながら読むことができた。
共話の概念、終わらない贈り物、そしてわからなさへの希望など、共に在る社会を創るヒントに満ち溢れていた。
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言葉に説得力を受けた。子供を持つことじゃなくてこういう感覚を持つ体験はなんだろう。
進化を人間社会に当てはめるのがおっかない理由に、思考停止、現状肯定になることに加えて進化の多様性と無駄の認識の折り込み方の難しさがあるのは納得。
執筆時間10分で遺言を書く話が面白かった。