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・ゾラ「引き立て役」◎
なんだっけ、いつかのニュースで見た「ドブスを守る会」を思い出した。
女性の美を引き立たせるためにひときわ醜い女を雇って1時間5フランで貸し出す商売を考えた!という話。
こんどは引き立て役の苦悩にスポットライトを当てたいなどと作中書いているが、書かれてないということは、やっぱりただ単にこれ書きたかっただけでしょ(笑)
なんか、いいなと思った。開放的で。
今の日本でこういうの、書いちゃだめなんですよ。たぶん。
・深尾須磨子「さぼてんの花」×
あぁ、だめだ~ぁ。女の自意識じんましん系の話だ。
苦手だ。受け付けん。詩人の自意識は、かなりやばい。知ってるのだ。
・ミュッセ「ミミ・パンソン」○
そもそも「巴」これ、「ともえ」と読んでいて、「ともえ」ってなんやねんと思っていたんだけれど、「巴里」の「巴」であったらしい。
というわけで三篇ともパリの話だ。
医学部のウジェーヌは熱心なキリスト教の信仰心でもって、人々の享楽や怠惰など戒めつつ、ちっとも遊ぼうとしない。マルセルはそんな彼を目覚めさせようとお針子のミミ・パンソンとくっつけようと画策する。
あしたの食うものにも困るのに、一夜の饗宴に蕩尽する。これがパリジャン&パリジェンヌなのか? とりあえず「しゃれおつ」と言っておけば問題ない。
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「引き立て役」
形を変えてありそうな話。
何かを貶めることによって見栄をはり、奢るという人たちは、日常生活でもよく見かける。
その奢れる姿は滑稽なのだけれど、そこに依存してしまう醜さも、悲しい。
双方の姿に、愚かさを感じる。
己だけで堂々と存在できないのは、自由でないな、と思う。
「さぼてんの花」
文章がかたくて、まるで男性が書いているかのような雰囲気だった。
文中からは個人主義や自由を愛する知的さが伝わってくるが、当時としては新しすぎる感覚だったのではないだろうか。
年齢・国籍・言葉など、多くの垣根を越えた、人と人との関係。
人間としての根本の部分で人に恋をする。
かたい文章は強さの象徴かもしれない。
さぼてんの花は、見事に咲いたのだ。
「ミミ・パンソン」
底抜けに明るく、底抜けに奔放で、底抜けに一直線な女の子たち。
その姿は愚かでもあり、魅力的でもあり、豊かでもある。
生命力と若さを感じた。
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ゾラ『引き立て役』は現代では完全にコンプラ違反で出版できないですね。
ミュッセ『ミミ・バンソン』、ついこの間まで元気だった人が死にかけて、またあっという間に元気に復活するって、そんなのある?ご都合主義もいいところじゃないかと思ってしまったが、誰も突っ込まないのだろうか。
『サボテンの花』、寡婦の私が久々に好みの男に出会って情事に至る、その描写が最高。
94/100