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【人には、おそらくは誰にも多かれ少なかれ、忘れることのできない、そしてその実態を言葉ではうまく人に伝えることのできない重い体験があり、それを十全に語りきることのできないまま生きて、そして死んでいくものなのだろう】(文中より引用)
作家の村上春樹が自身の父親について記した短編作品。過去について多くを語らなかった父親はいったいどのような生涯を歩み、村上春樹に何を遺していったのか......。イラストは台湾の漫画家・イラストレーターでもある高妍。
読み終わったあとに「ふぅ」と一息つきたくなるほど濃縮された著書の思いが感じられる一冊。「自分にとってかけがえのない人のことほど実は何も知らないものはないんだろうな」という思いを抱きながらの読書となりました。短いながらもどこまでも奥深い作品です。
久しぶりに村上作品に没入したくなってしまった☆5つ
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いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼き付けられることになった。ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として。言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを――現代の用語を借りればトラウマを――息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は<引き継ぎ>という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?(pp.52-53)
たとえば僕らは夏の日、香櫨園の海岸まで一緒に自転車に乗って、一匹の縞柄の雌猫を棄てに行ったのだ。そして僕らは共に、その猫にあっさりと出し抜かれてしまったのだ。何はともあれ、それはひとつの素晴らしい、そして謎めいた共有体験ではないか。そのときの海岸の海鳴りの音を、松の防風林を吹き抜ける風の香りを、僕は今でもはっきり思い出せる。そんなひとつひとつのささやかなものごとの限りない集積が、僕という人間をこれまでにかたちづくってきたのだ。(pp.88-89)
そしてそれはまだ幼い僕にひとつの生々しい教訓を残してくれた。「降りることは、上がることよりずっとむずかしい」ということだ。より一般化するなら、こういうことになる――結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す。(p.94)
言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそと。(p.96)
僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間――ごく当たり前の名もなき市民だ――の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ。そしてその結果、僕がこうしてここにいる。父の運命がほんの僅かでも違う経路を辿っていたなら、僕という人間はそもそも存在していなかったはずだ。歴史というのはそういうものなのだ――無数の仮説の中からもたらされた、たったひとつの冷厳な現実。(p.99)
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歴史のかけらを背負って生きていくということ。
村上春樹さんの個人的なお話でありながら、一方で、「私たち」の物語でもあること。
うん、うん、とお話を聴くように読みました。
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父と筆者との関係性についてのエッセイ。
父に比べて、学業が劣っているとの二人の了解。
そのうえでの、人生の過ごし方の相違。
10年前までは、戦争帰りの気難しいいおじさんが
いたなあ。
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村上春樹の父親とは。記憶を書き付けることで、鎮魂歌的な意味合いがあるのかもしれない。長年モヤモヤしていた、戦時中の父の生活、退役して学校の先生になったこと、その後も毎朝仏に祈ることを日課としていたことなど、想像と解釈で父と会話しているかのようにも感じる。そして、もっとも大事なことは、父が村上春樹に影響を与えてきたことを刻んでいるところだろう。関西出身ながら、タイガースファンではないところ、父が情熱を抱いていた俳句、村上春樹は先生には向かないと言うが、言葉を大切にする仕事を結果的に選んでいるということなんだと思う。結果は集合的な何かに置き換えられる、でもその結果は偶然、でもたった一つしかない無限の可能性の中の一つとして選ばれたかけがえのないものである。具体的にあえて書いていくことで、抽象と一般化をするという、現代文学に一石を投じてくれているような気がした。
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「ねじまき鳥」にとくに顕著だが、一般に米国文学の影響が強いとされる村上春樹の小説に、ときに仏教的な世界観を感じることがある。
他のレビューにも書いたが、毎日のルーティーン、掃除、ひたすら井戸の底で瞑想。禅の修行そのもののようにも思える。
だから、何かのインタビューで、村上春樹の父が宗派は違えど僧侶だったと聞いてある意味合点がいくものはあった。
静謐な文章。
著者近作、たとえば「巡礼の年」あたりの、さすがに技巧的すぎるのではという文体に疲れ気味、という古くからの村上読者にとって、とても心地よいリズムが戻ってきた、と感じるのではないか。
個人的には「ウイスキーであったなら」を思い出した(私にとっては、あれが至高の文章)。
そして、やはり「ねじまき鳥」から顕著になった、幻想としての「中国での戦争」の影。
初めて村上春樹の本を電子書籍で買った。
厚さや残りページなど、「手触り」のないなかで物語はややあっけなく終わりを迎えた。紙の冊子だったらもう少し結末に向けて速度を落として読んだのに。
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村上春樹が父親について語ったエッセイです。
「騎士団長殺し」においても、主人公の父親の話が出ていますが、符合するような内容だったな、と感じたりもしました。
様々な個人的な事を語りつつ、それを普遍性な部分まで昇華させる、という村上春樹の語り口は相変わらずですし、村上春樹が好きな方は読んで損の無い文章かな、と感じました。
父親が戦争中にどの軍隊に所属していたのか、という話は若干冗長かなと感じたりもしましたが、村上春樹自身が誕生するのは明らかに戦争が影響していた、というのを浮き彫りにするには必要な描写だったのかも知れません。
ともあれ、久しぶりに村上春樹の文章を読めて楽しかったです。ただ、文章量が少なくてあっという間に読了してしまったことだけが不満ですかね(笑)
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村上氏の父親の実話を通して、戦争について、また彼自身について語られている。
自分がこの世に存在していることを改めて考え、不思議さ、有難さ、儚さ等、様々な感情が引き起こされた。
この世界情勢が不安定な時期に出会えたことに縁を感じる。
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人生は紙一重である。が、その一重の重みは計り知れない。自分が「ここに生きているという営み自体が、実体を欠いたただの儚い幻想のように思えてくる。」だから「平凡なひとりの息子」であっても、「思い」や「歴史」を「受け継いでいく」という「責務」がある。それは「あっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失」う「一滴の雨水」で、「集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても」「僕という個体の持つ意味合い」があるのだろう。
村上春樹さんでさえも、父親とのことを書くのにこれだけ時間がかかったのだと思うと、自分が父のことを振り返えられないのも致し方ないが、一滴の雨水の責務は忘れないようにして生きたい。
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20200502 本屋さんで棚に置いてあって手に取った時には買うことを決めていた。自分の家族の事なのに変わらぬ冷めたトーンで淡々とつづられて休むタイミングが取れずに一気に読み終わった。家族の事なのに世界の話になっているような不思議な読後感でした。
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良かれ悪かれ、父から何かしらを受け継いで
きているのでしょう。
気づかないうちに、
ふとした瞬間に、
恐らく色々な物を受け継いでいるんだろうなぁ。
最近父になり、
考えさせられるようになりました。
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村上春樹、自分の父親を語る。その父は20代に太平洋戦争を体験し、3度の招集を受け中国にも赴いている。父の所属した部隊について調べはじめ、中国での戦争、特に南京戦へと話しが及ぶ。このあたりで『文藝春秋』掲載時は立ち読みを止めたっけなあ。別に村上春樹に、戦争を、南京大虐殺を語って欲しくはないと、なんとなく思ったからだった。
でもこのエッセイは、そうした戦時下の状況の調査報告でもなく、ましてや南京虐殺が事実であったか否かの検証でもなかった。自分の父親が、戦時下で人生の選択を余儀なくされ、また、大陸での壮絶な体験が戦後、父親の日々の暮らしになんらかの影を落としていたと振り返る。3度の招集を受けても生き残り、それを“幸いに”と記しつつも、一方で、父親がが除隊した部隊の残りの戦友はビルマで玉砕したとも語る。また、両親が一緒になったクダリでは、母親の許嫁は戦死したことも語り、故に、生き残った父と、許嫁に先立たれた母が所帯を持つことで、自分が生を受けたのだと。
ご両親の境遇を丁寧に語れば語るほど、如何に自分の存在は偶然の幸運に恵まれたものであるかが浮かび上がるが、だからありがたやありがたやとしないところが村上春樹流。それだけの幸運の背後には、数多の不幸(と言っていいのかは分からないけど)の存在を思わせる。わずかにどこかでボタンの掛け違えたのか、あみだくじの岐路での選択を違えたか、幾千もの水の流れのごとき運命がが、どこをどうたどって自分というものの中に流れ込んでいるのか、その不思議を想わざるをえない。
著者は後半、そうした一個人の人生を「名もなき一滴」に喩える。
「言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。」
「集団的な何かに置き換えられて」というあたりは、ちょっと説教臭く、世に迎合しない村上春樹っぽい思想が垣間見えなくもないが、「一滴の雨水の責務」として個の思い、考えはしっかり持たねばとも思う。
一見、『私の履歴書』の3日目までくらいの内容かと思われたエッセイに意外な思想を滲ませるあたり、さすがの筆致。
過去作品でときおり滲ませる中国に寄せる思い、あるいは仏教的な発想は、父親の影響からきたものというのも分かって面白かった。『騎士団長殺し』にも、登場人物の日本刀で捕虜を斬首する戦争体験が語られていたが、これもまさに幼少の頃に聞いた父親の体験だったんだなと驚く。
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村上春樹さんの新刊は、父親について語ったエッセイ集。村上さんの父親について語られる話は、ほとんどが「戦争(第二次世界大戦)」に関することで、「戦争」というものが 人の生き方やパーソナリティを変えてしまう怖さが語られる。猫を棄てる話から始まり、猫が木に登ったまま消えてしまった話など猫関連の話も多い。全体的に読みやすく、エッセイの合間に挿入される挿絵がいいかんじでハマっていると思った。
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わたしの中で村上春樹は永遠の35歳なのだが(おそらく熱心にエッセイや作品を読み込んでいた時の村上春樹の年齢が刷り込まれたのであろう)、実際には還暦をとうに過ぎ、71歳なのだ。
この年齢になったからこそ書けた手記なんだろうなぁとつらつら考えた。
【心に残った文章】
僕は今でも、この今に至っても、自分が父をずっと落胆させてきた、その期待を裏切ってきた、という気持ちを---あるいはその残滓のようなものを---抱き続けている。
でも当時の僕には、机にしがみついて与えられた課題をこなし、試験で少しでも良い成績を取ることよりは、好きな本をたくさん読み、好きな音楽をたくさん聴き、外に出て運動し、友達と麻雀を打ち、あるいはガールフレンドとデートしていたりする方が、より大事な意味を持つ事柄に思えたのだ。もちろんそれで正しかったんだと、今になってみれば確信を持って断言できるわけだが。
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著者が自身の父について記憶と下調べをベースに回顧する。著者の父は青年期に戦争を経験し、実際に何度か徴兵、出兵した。戦争について多くを語らなかった父ではあったが、数少ない父からの情報や、在籍していた部隊の史実から想像される情報から父が戦争からどのように影響を受けただろうかを語る。
父にインタビューをしたわけでもなく、多くの情報はないが、著者の美しくスムーズな文章と少ない情報を徹底的に下調べした事実から、戦争の惨さや戦死しなかったとしてもいかに一塊の青年を傷つけただろうかが想像できる。
著者が後段で語る。"我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある"
非常に短い本で、感動する小説でも笑えるエッセイでもないが、パパッと読んで、日本の歴史や、父子の関係、などについてぼんやり考える軽いおやつのような本。