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難解な哲学書をわかりやすく解説している本書では、近代哲学の二大難問であった「物心問題」と「主客一致の問題」について見解を示したもの。人間が認識できるものには限界があって、神の存在などは知り得ないという結論であったが、彼が現代に生きていたら違った答えになるのではないかと思った。
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「カント『純粋理性批判』」西研著、NHK出版、2020.06.01
131p ¥576 C9410 (2020.07.05読了)(2020.05.26購入)
【目次】
【はじめに】哲学の歴史を書き換えた一冊
第1回 近代哲学の二大難問
第2回 科学の知は、なぜ共有できるのか
第3回 宇宙は無限か、有限か
第4回 自由と道徳を基礎づける
カント哲学を読むためのキーワード集
☆関連図書(既読)
「永遠平和の為に」カント著・高坂正顕訳、岩波文庫、1949.02.20
「啓蒙とは何か」カント著・篠田英雄訳、岩波文庫、1950.10.30
「道徳形而上学原論」カント著・篠田英雄訳、岩波文庫、1960.06.25
「カント『永遠平和のために』」萱野稔人著、NHK出版、2016.08.01
「カント『純粋理性批判』入門」黒崎政男著、講談社選書メチエ、2000.09.10
「ヘーゲル・大人のなりかた」西研著、NHKブックス、1995.01.20
「ニーチェ『ツァラトゥストラ』」西研著、NHK出版、2011.04.01
「「幸せ」について考えよう」島田雅彦・浜矩子・西研・鈴木晶著、NHK出版、2014.05.30
「ルソー『エミール』」西研著、NHK出版、2016.06.01
「プラトン『ソクラテスの弁明』」西研著、NHK出版、2019.08.30
【内容情報】(出版社より)
近代哲学の最高峰が、手に取るようにわかる!
カントの主著『純粋理性批判』は、哲学のあり方を根底からひっくり返すインパクトを持つものの、専門家ですら読み進めることに困難を極める一冊。重要性も難解さも哲学史上の最高峰だ。しかし晦渋な言い回しを西研流に解きほぐしてみれば、カント哲学の核心は思いのほか明快だった!私たち人間は何を認識し得るのか?ア・プリオリとは何か?人間に備わる悟性とは?西洋哲学の最重要古典が「100分de名著」にいよいよ登場!
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これ以上に分かりやすくこの本を理解するのは無理だろうという本のように思えた。それでもゆっくり消化しないとなかなか落ちてこない。
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今まで何度も表層舐めてきたが、ニーチェやデカルトなどはどうにか味そのものはわかったものだ。ただいくら舐めてもカントだけは全く無味無臭でちんぷんかんぷんだった。
哲学をどうにか味わうためにはその言説の動機を知ることが一番だということを教えてくれた。
なるほどフランス革命の最中、科学と宗教と権威を価値判断することが必要だったわけだ。
ニーチェの激しい主張と比べ、カントのそれは非常にヒューマニズムに溢れ優しく、その分理解させるパワーが弱かったのであろう。
定言命法などの道徳や倫理にスポットが当たりがちだが、実はこの純粋理性批判は認知、特に科学や宗教哲学の限界ということに最もボリュームを割いていることが分かった。この前提があるからこそ最終章の道徳倫理の理論が証明され生かされる。本当に難解だった物自体とかアンチノミーなどもすっきりと腑に落ちた。
さらにこの後のフッサール、さらには構造主義、ポストモダンに至るまで、確かにカントなくしてはありえなかったのも理解できる。
エッセンスを抽出するという以上の啓蒙がある。番組とテキストの優れた価値は本当にありがたい。
下手に市民講座とか大金払って受けるよりも何倍の知見が得られるはず。
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カント哲学は非常に難解であるけれど、読み解けるとトコトン腹落ちできる。
「道徳的に生きることを最高の生き方とするだけでなく、道徳的に生きるところにこそ人間の自由がある」
この言葉の意味を噛み締め、味が滲み出て感じ取れたとき、カント哲学に魅了されると思います!
ところで、本書はカント哲学の長所・短所が述べられており科学的である点が個人的に好印象でした。
是非ともオススメしたい1冊です。
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(memo)
人間を尊重し、(神の存りきの道徳に基づき)道徳的によく生きる、近現代人の礎、底流となるカントの思想の概略を、短時間で端的に伝える一冊。神の存在や道徳を無視しては、科学的とされるアプローチはその大前提を失い、悪徳、醜悪に陥る。神や道徳に纏わるものを前時代的だと否定して、新たなセオリー・体系を発見できることがあったとして、真実と少しでもコネクトしているならば、新たな名前のその背後にあるのは、アップデートされた定義でしかないかもしれない。
あと、時間・空間自体がアプリオリに存在するわけではないし、時間の方向性についても感性による直観に依る。ここで因果律は崩壊しているのだけれど、人の感性が時間を一方向に流れるものとして、直観しているので、他者との科学的事実の擦り合わせは因果律に基づいて行っていく。
(P102) 権力者や宗教者が「正しい」ということを無批判に受け入れて従うのは、権威のいいなりになっている(他律)ことで、道徳的価値はまったくない
権威や伝統が道徳的に正しいかどうかを主体的に吟味し、理性的判断に基づいて行動を選択(自律)するところに自由はある
自由とは「何が善いことなのか」(何が私の能力を進歩させ、何が他者の幸福に貢献するか)と自らに問いかけながら生きること
(P119) 科学の知を絶対視すると、人間の生の独自の在り方は見失われてしまい、よりよい生き方など二の次に 科学は現実世界の性格な写し(真理)でなく、人間がつくったもの
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哲学の領域を、「答えが出る領域」と「答えが出ない領域」とに区分し、宇宙の始まりとか神の存在といった袋小路にはまり込むことを回避できるようになった。
つづく…
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冬休みバスケット買いの2冊目。
私たち人間は、何を、どのように知ることができるのかーー。
このことについてのカントの考察を分かりやすく伝えてくれました。
具体例を挙げてくれるので、とても分かりやすかったです。
神や死後の世界に触れているところは、
4年前に読んだ「生きがいの想像」に通じていると思いました。
悟性、アプリオリなどの聴き慣れない言葉が登場したり
感性、理性が普段と違う意味で使われていたりしますが
用語録もあるので抵抗なく読み進められると思います。
(それでも何度も行ったり来たりしましたが)
ニーチェに興味が出たので、
次に挑戦してみようと思います。
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カントって明るい哲学なんだなと感じたが、一方でどこか行きすぎたところもあるんだなあと思った
自然科学を確かなものとするために書かれたという意図を意識しながら読むと、細かい部分は単なる厳密な手続きなんだなと流せると分かったことが大きいかな
数学の定理の証明を、常に一言一句追ってるわけではないのと同じかしら
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空間・時間の枠組みのなかで与えられる直観と結びついた認識は、正しい(客観的)認識でありえます。間違うこともあるので「ありえる」としかいえませんが、実験や観察でもって検証することで、より正しい認識をつくっていくことができます。これにたいし、感性による直観と結びつかない思考、つまり概念のみを頼みとする思考は、客観性という立地をもちえません。
空間と時間という枠組みでもって直観できない対象とは何でしょうか。たとえば、神の存在や魂の不死、さらには宇宙空間の限界などです。これらを旧来の哲学は語ってきましたが、しかしこれは「直観なき思考」の暴走であって、答えの出ない底なし沼にはまり、合理的に共有されえない独断論に陥ってしまうーーカントはそのように指摘したかったのです。
ですから、直観と概念を完全に切り離したことはかなりの無理がある、と私は思いますが、そこに「思考の暴走を説明するため」という正当な動機があったこともうけとめる必要があります。
さて、直観できる世界を離れ、どんどん暴走していく思考のエンジンとなるのが『純粋理性批判』というタイトルにもある「理性」の働きです。普段、私たちが使う「理性的」という言葉のイメージとは、ある意味正反対かもしれません。カントは、糸の切れた凧のようにコントロール不能に陥ることもある理性について、きわめて独創的で、実に面白い考察を加えています。そして、なぜ暴走するのかという理由もあきらかにしています。
ところで、答えの出ない「世界全体」について、なぜ人間は知ろうとするのでしょうか。そして限界が「ある」とか「ない」とか結論づけたがるのでしょうか。そのことをカントは、理性の「関心」によって説明しようとします。
理性の働きは推論をすることです。しかも、推論に推論を重ね、際限のないところまで行こうとする。そのとき、理性には二つの関心があるとカントはいいます。
一つは「完全生」を求めることです。理性による推論は、世界全体を完結した完全なものとしてつかもうとします。なぜでしょうか。世界の全体がつかめると、そこに「自分」や「現在」を位置づけることができて、安心できるからです。
さまざまな民族が「世界創造」の神話をもっていますね。日本の古事記にもイザナギ、イザナミの二柱の神様がいて、本州や九州など国土をつくったという話があります。世界はそもそもどこから来たのか、という問いに答えを与えられると、人は満足するでしょう。「なるほど、こうやって世界が始まり、さまざまな時代を経て現在に至っているんだな」と。このように、世界全体を思い描くことができると、安心します。「有限説」はこのような関心にもとづいています。
一方で、理性が過去を知ると、「その前は?」「さらにその前は?」「そのまた前は?」と遡りたくなる。世界の果てがあるといわれれば、「その向こうは?」と問い続けようとします。限りなく問い続けることで真理に近づこうとする、という探究心も理性の関心のひとつです。そうしてこの問い続ける関心からすれば、有限説は探究をストップした不完全なものにすぎない。そうみなすところから「無限説」が生まれてくることになります。
つまり、有限説と無限説の違いは、理性のもつ二つの関心の二側面、「全体を知って安心したい」と「もっともっと問い続けたい」という二つに由来しているのです。
この関心の指摘は非常に鋭いと思います。世界全体の問いについて、現象界(空間・時間)を超え出たものだから答えが出ないのだ、というだけでなく、理性というものの関心から説明されることで、皆さんも納得が得られたのではないでしょうか。
もっとも、自由は理論的に亜人間が認識しえないもの、とされます。しかし実践し行為する立場からすれば、自然の法則に縛られない人間の自由があることを、私たちはみなわかっている、とカントはいいます。
ーータチの悪いうそをついた人を、なぜ人々は非難するのだろうか。もちろん探せが、いろんな理由が指摘できるだろう(たとえば、力あるものから脅されてそうしたのかもしれません)。しかし、それを無視して理性による意思決定ができたはず、と人々は信じる。だからこそ、うすをついた人を非難するのだ、と。
このように、私たちは「実践」する立場では自由の存在を信じている、というのです。
ところで、「道徳的に行為する」というと、何か「正しいとされること」があらかじめ与えられていて、ひたすらそれに従うというイメージをもつ人がいるかもしれません。もしそうだとすれば、これはとても不自由ですね。これと、カントのいう道徳的行為とは違います。
カントによれば、権力者や宗教者が「正しい」ということを無批判に受け入れて従うのは、権威のいいなりになっていることで、道徳的な価値はまったくありません。そうではなく、権威や伝統が道徳的にた正しいかどうかを主体的に吟味し、理性的判断にもとづいて行動を選択するところに自由はある、とカントはいいます。そして、他人の意見に無批判に従うことを「他律」(ヘテロノミー)、自分自身の主体的で理性的な判断に従うことを「自律」(オートノミー)と呼んでいます。
つまり、カントにとって「自由に生きる」とは、人の言いなりにならず主体的に考える姿勢であり、そして主体的な判断に従って道徳的に行為することなのです。押さえておきたい点は、カントのいう自由とは「勝手きまま」「欲望の解放」ではない、ということです。自由とは「何が善いことなのか」(何が私の能力を進歩させるか、何が他者の幸福に貢献するか)とみずからに問いかけながら生きるところにあるのです。
このような仕方で、カントのなかで道徳が自由と結びついていることがお分かりいただけたと思います。そして、ふだんの生活でも主体的な道徳的判断が大切でiあるという点については、多くの読者も納得してくださるのではないでしょうか。