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なぜ基礎研究が大切なのか、好奇心のおもむくままに自由な精神で行った研究が、後の社会に大きな恩恵をもたらすことが多々あることが、わかりやすい言葉で語られている。
基礎研究に対する研究費の配分の減少については、日本人のノーベル賞受賞者のインタビューでも何度も耳にしているが、短期的な実利を第一優先する政治家や株主が社会を動かしているかぎり、いくら科学者が基礎研究の大切さを説いても、平行線を辿るばかりだろうな…
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翻訳が秀逸。スラスラ読める。
タイトルも論旨を的確に表している。
フレクスナーの方は基礎研究重視の古典とも言える。
ジョンズホプキンスに大学院が出来たことをアメリカの大学に研究活動が大学に導入されたとすれば、そこから約半世紀が経った中で既に応用研究への過度な資源の集中に警鐘を鳴らしているこの論考は研究活動の本質を描き出していると言える。
ただ、この論考の本質は単に基礎研究を擁護することにあるわけではなく、科学者の好奇心への敬意にあるのではなかろうか。
一方、ダイクラーフの方はフレクスナーの論考をなぞりながら、フレクスナーの生きた時代から今日までの科学の発展に基礎研究が果たした役割の大きさを説く。
重要なのは、基礎か応用か、の二者択一ではないことを論じていることだろう。
「知識は唯一、使えば使うほど増える資源なのだ。(30ページ)」といったフレーズに、今日の科学知を考える新たな視点をもたらされるのは評者だけではないだろう。
ただ、やや物足りない感じも覚える。基礎か応用かの二者択一に陥りやすいこの手の論考においては、お互いの主張を踏まえ切れずに議論が噛み合わないことが多いが、本書も、特に後から書かれたダイクラーフの方に、もう少しこの点を意識した内容となればこの手の議論のフェーズを変えることに資すると思われるだけに、少し残念である。
また、科学を担う側がそれを享受する側を啓蒙するというエリート主義的側面も感じられる。この辺りをどう捉えるかは、読者によって判断に分かれる部分であろうと考えられる。
しかし、全体として描かれる「学者たちの楽園(100ページ)」からの研究の重要性を謳うメッセージには深く共感できる。上述で指摘した噛み合わない議論を前に進めるためにあたっては、その立場如何によらず、議論の土俵を整える役割を果たすことのできる一冊になることは間違いないだろう。
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エイブラハム・フラクスナー、ロベルト・ダイクラーク「役に立たない科学が役に立つ」読了。科学とは本来実利を主目的とするのでなく、根源的な知的欲求から取り組むべきである事を再認識できた。科学の理想郷であるプリンストン高等研究所にフレクスナーの強い理念が込められている事もわかった。
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基礎研究や好奇心に基づいた研究がいかに大事かを説いたエッセイの日本語訳である。気持ちはわかるし言っていることも十分理解でき、支持したいのだけれども、結局現状を変えられる力はあるのだろうかと少し無力感を読了後に感じた。自身も理系で研究をした人間で、基礎研究にお金を使ってほしいと思う気持ちは言葉にできないくらい大いに持っている。しかし一方で基礎研究の重要さが分からないとか、資源の配分には限界があるとか、資源の配分先を決める評価の仕方が難しいとか、色んな困難のせいで実現されないでいる。私たちは何をすればいいのだろうか?基礎研究が大切だと訴えるだけでどうにか変わるのだろうか。
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本当に役に立っている科学は原理の発明。それは、まだ世の中への有用性が見えている訳ではなく、知的好奇心がドライブとなり発明に至る。そこからその原理を活かして、新しい価値に発展する機会が、その後の天才たちにもたらされる。
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基礎科学の重要性を説く啓蒙書。現代の生活が便利になったのは技術の進歩の恩恵であり、その技術の発明者が賞賛されたりするが、その根底には基礎となる科学理論が必要である。経済優先の現代では費用対効果が重視され、経済的な恩恵とは結び付きにくい(一般人には判りにくい)基礎科学理論は軽視される傾向がある。しかし、役に立たないと言われてもその重要性は今も変わっていない。そのことを認識すべきということだ。
読書好きの中にも、仕事に役に立たない知識は要らないとノウハウ本ばかり読む人がいる。しかし、現実はノウハウ本に書かれていない事象が発生することが多い。役に立つか立たないかは、後になってみないと判らない。逆に「役に立たないと思った本が役に立つ」こともある。知識はどこかで役に立つと考えて読むことが必要だと思う。この本を読んでそんな事を考えた。
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書かれている内容には同意します。
が、現代社会において、「役に立つ」科学が求められているのは、科学の研究にかかる費用がどんどん高くなっているからではないかと思っています。
「役に立たない」科学を盛り上げるには、そのための資金が必要になります。
できれば、自分は、その資金のための力になりたいと思っているのですが、もう少し(まだまだ?)時間がかかりそうです。
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即効性を重視した科学の応用範囲はせまいが、一見役に立たないと思われる科学が、のちのち人類の役に立つ。束縛のない研究の重要性に気づいてほしい。
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短期間で結果のでる研究が増えている中、基礎研究のように現時点における用途不明な研究の大事さを説く本である。
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「研究は役に立たねばならない」論争は昔からよくなされているようで、現在でも必ず話題になります。「研究は役に立たなくていいんだよ」という言説の源流はどこにあるのか、誰に教わったんだい?という疑問に一部答えるのがこちら。「役に立たない」科学が役に立つ、とフレクスナー博士が言っておったんですな。ついでに、なんでそう思うのかも記してあります。
結局のところ、役立つかどうかは置いといて、知的好奇心に応じて自由に研究するのがまず大事、という話。今風の意見に、役立ちそうな研究も役立たなそうな研究もうまくポートフォリオ書いてやればいいじゃん、という話がありますが、どういうポートフォリオ書くのかも難しい話ではあります。そこまで来たら、いろいろなバリエーションを許容して、どんどん淘汰するのがよいのでは?という話がでるのですが、望ましい結論はおそらくこれのような気がします。フレクスナー博士の意見に戻っちゃうわけですな。
このあたりの現代的な議論は、佐倉統 先生の「科学とはなにか:新しい科学論、今必要な三つの視点」(講談社ブルーバックス)を読むのがよいかもしれません。
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この本の内容をより現代的かつ未来志向な文脈で語ったのが、暦本純一「妄想する頭 思考する手」だと思う。
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The Usefulness of Useless Knowledge
http://www.utp.or.jp/book/b510449.html
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とても良い本だった。
当日、国や政府の方針で研究者達の環境は厳しかった。しかし、それを変えたのがフレクスナーであり、プリンストン高等研究所。
研究者達は周りの雑音が耳に入らない、自由な環境で研究を進め、その時も地道な研究が今の世の中を支えている。
そして、研究者達はそれを悪用しようと考えてなく、原爆や化学兵器など、悪用考えたのは国や政府だということもわかった。
今の日本の大学は研究費も自由度も少ないと聞く。だから日本が海外より医学や学問で遅れを取ってる部分もあるのだろう。
とても考えさせられ、歴史の裏側を知れるとても良い本でした!
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100年以上の探知で考えると基礎研究は確実に世の中の役に立っている。人々はその恩恵にあずかっている。スマホを使って目的地まで道案内してくれるのは100年前に量子力学や相対性理論が見いだされたから。ネットで安全に買い物ができるのは古代数学者が発見した素因数分解を現代的に活用して暗号があるから。
アインシュタインらが1933年にプリンストンに到着して、世界の知識のバランスを劇的に変えた。フレクスナーもユダヤ人。
アインシュタイン、創造力は知識よりも重要だ。なぜなら知識は今私たちが知り、理解していることに限られるが、創造力は世界の全てを包含し、私たちがこれから知ること、理解することまでを含むからだ。
基礎科学には支援する価値があることを一般の人に納得さえるのは難しい。それにはこの世界を学者の目で見ることの目的や価値を広く知ってもらう必要がある。その目的と価値を伝えるのに最適な立場にあるのは研究を行っている科学者自身だ。科学への公的支援を向上させるには、科学社自身が世間に向かって声を発し、現在探求されている科学の最前線の何がそれほどエキサイティングなのかを伝えん明ければならない。
アインシュタインは1939年の万国博覧会の演説の冒頭で、大衆を科学に引き入れることの大切さを強く訴えた。一方、フレクスナーはそのような人目につく役割を担うのは得意ではなく、学者は孤独な環境にあってこそ能力を最大に発揮できると信じていた。
科学と社会との幅広い対話が必要になるのは財政支援を得るためだけではない。若者の心をひきつけ、研究に参加さえるためにも必要。
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役に立たないことが役に立つことにつながる可能性があることを一貫して述べている本。ただその細部にはそれぞれの研究者の思いだったり、プライドだったりが垣間見える。 またとても納得したのは、細々とした研究成果を多方面であげる、それをまとめて説を唱えた人が偉大な研究者のようになるというところである。DNAの二重螺旋構造の発見もまさにその例である。ただ偉大な発見を求めず、ただ自分の探究心のみで研究をすることが本当の偉大な研究者なのではないか、と考えさせられた。