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『いのちは のちの いのちへ』(著:稲葉俊郎)
付箋部分を抜粋します
・ウイルスや病を敵とみなして闘うのではなく、ウイルスや病ともいかに共存して生きていくのか、そして共存、共生して
いくための場や共同体、社会とはどのようなものかを一緒に考えたいのだ(p5)
・そこで立ち止まって、まず考えてみてほしいのだ。困った時、反射的に病院に行く行為はあたりまえのことなのだろうかと。
・・・中略・・・まずはじめに耳を傾けるべきは自分の体や心の声、そのものではないだろうか(p22)
・人間の体は実に多くの部分から全体性が作り上げられていて、まさにこの一瞬一瞬にも複雑かつ精妙かつ絶妙に、全体の
バランスが維持され続けている(p33)
・もし不機嫌にしか対応できない医療者がいた場合、問題を個人に求めるよりも、その人の悪い部分を引き出すような余裕のない
環境こそが改善すべき問題点なのではないだろうか(p34)
・部分だけで人を診てしまうと、人生という全体像を見失ってしまう。「部分」は必ず「全体」の流れと分かちがたい
ものなのだから(p37)
・なぜ今、自分は心地よい感じたのだろうか。なぜ今、自分は心地悪いと感じたのだろうか。頭は満足していたのに、自分の体は
拒否反応を示したのはなぜなのだろうか。こうして自分の中にわき起こる純粋な感覚を、頭の理屈で簡単に合理化してあたりまえの
ものとしてしまわず、新しい発見をするように自分の心を動かし、新たな意味づけを試みてみよう(p42)
・何かしらの不調が起きた時「病気があるか、ないか」だけに目を向けるのでは不十分だ(p43)
・怒りや悲しみというマイナスの感情からも、私たちは多くを学ぶことができる。怒りの感情は何を守ろうとし、何を回避しようとして
生まれてきたのだろか(p50)
・喜怒哀楽、人間にはいろいろな感情がある。成長していくためには自分のものとして統合していかねばならない(p51)
・ずれや違和感というアラームに気づくためには、感覚としてのセンサーが自分の外側だけではなく自分の内側へも開いていることが
前提になる(p71)
・楽器のチューニングをしないと、楽器本来の音色が鳴らないように、私たちも自分自身の調律を行わないと、本来の力を
発揮することができない(p72)
・相手の話を退屈だと思いながら心を止めて聞いてると、そのことは相手にも伝わる。頭と違って、心や体は無意識の水路を介して
コミュニケーションしているからだ(p120)
・ただ、人を元気にする、街を元気にする、生きているだけで充分だと元気づける、というような仕事を動詞として見直してみれば
職業名などのジャンル分けはそれほど重要ではないことがわかる。むしろ、足かせにもなり得るものだ(p124)
・誰かが見ているから、誰かが見ていないから、というように評価の軸を外側に置くのではなくて、自分の内部に価値基準や
判断基準が生まれてくることが「質」の問題にも通じている(p126)
・「個」と「場」がいい緊張関係を築けるように、お互いの距離を更新し続けること。愛の本質は距離なのだ。嫌いになったら
好きになれる距離まで離れればいい。距離を取り過ぎたと思ったら、好きになれる距離までまた近づいてみて、居心地のいい
距離を測ればいい(p185)
・ただ、大事なことは「つながっている」事実よりも、「つながり方」であり、自分と他者がどういう通路で繋がるのか、
ということなのではないだろうか。そして、「つながり」には常に距離感こそが大事なのだということも忘れてはならない(p241)
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医師の立場から考えた、いのちの哲学のような内容で、病院は病気を治すためではあるが健康になるために存在していないことを、場づくりによって個人を尊重し合い、他者の意見を反対するのではなく他者の存在を受け入れ、いのちで繋がる社会を求めたい思いが伝わりました。哲学だけでなく、アート、自然、仏教的な要素が入り、大人のSDGsの語りがとても勉強になりました。
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ありふれた内容。
きれいな言葉でつづられていますが、医師独自の視点でもう少し深い内容が欲しいと思う。
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医療の話しというより、社会論的です。
いのちについて様々な角度から考える本。
「世の中こうなれればいい」という話しもあるので
人によっては理想論のように感じることもあるかもしれませんが、確かに...と感じるものも多く、本当はそれが叶う世の中になればいいのにとも思います。
ああ、しっかりされた良い方だなというのが率直な感想。(何様感ですみません汗)
知識も現実世間も様々なことを知っていて、
本当に必要な核心をつかんでいる。
賢人という印象でした。
いのちの向き合い方について、
社会に問いかける深い1冊
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この本とは、運命的な出合いだったな、と思っている。
そのとき最寄りの本屋さんで、”アノニマ・スタジオ 20周年フェア”をしており、そのコーナーの本棚には、デザイン展如く、素敵な装丁の本が並んでいた。その光景に心が躍ったし、これも出合いだ、と思い、一番にビビッときた本を手にとった。
『いのちは のちの いのちへ -新しい医療のかたち-』
驚いた。今のわたしが読むべき本なのでは・・
病院で働いていると、現在の医療(病院)の在り方について、違和感を感じる。
対症療法じゃ、根本的改善にはならないよね・・
救命が幸せに直結するとは限らないんだな・・
どうして健康より目先の仕事を優先する風潮なの?
医療って、何のためにあるの??
予防医学の教育をもっとすべきだし、個人の幸せを、健康をもっと尊重すべきだし、、とは言え、現実的な具体案というのは思いつけないし、そんな綺麗事だけで経済は成り立たないのだろう。
理想と現実って、どうしてこうもうまく折り合いがつかないのだろう。
こんなぐるぐるした思考が、出口を見つける手がかりとなるような地図を、見つけた気がした。
最初は、なんだか抽象的すぎる?と思ったが、その抽象概念こそが大切なのだと気づいた。この概念を元に、具体的な何かを創造するのは、その場にいる、わたしたちなのだ。著者も述べていた。
本来的に私たちは全員が違うからこそ、場自体もいろいろなかたちが誕生し得る。だから私は、固定化した具体的なかたちで表現することができない。(p.247)
具体例も紹介されており、「ホスピタルアート」=病院の中で、アートの力を生かそう、という、頼もしい試みがあることを知った。欧米の「1% for Art」(=公共建築などにかかる費用の1%をアートのための費用として必ず使おう)という考え方をもとにしているという。
そういえば、神戸の街も、最近なんだかアーティスティックになってきている。ただの”目的地”や”通り道”ではなく、”心が動く場”になっている。アートがこうして生活の中に入り込んでくるのって、こんなにわくわくすることなんだ。
また、グサッと刺されるようなことも教えてもらった。
私たちは「名詞としての仕事」に就きたかったのだろうか。例えば、人を元気にしたい、人の役に立ちたい、楽しく過ごしたい、など、素朴な思いが核にあるのではないだろうか。それは簡単に職業や仕事という概念におさまりきらない、人の思いが発端にある。(p.124)
わたしは、資格がもつ名詞としての仕事に、とらわれ過ぎていた。どの業種も職種も関係ない。それぞれに無限大の可能性をもっているのだと思えた。自分が、仕事の幅を狭めていたに過ぎなかったんだ。
わたしは大きな社会に組み込まれた一員でしかなく、その流れを変えるにはあまりにちっぽけで無力だ。でも、こうして新しい医療の在り方を模索し、発信している方がいて、新しい概念を生み出している方、それを実践している方がいることを知った���きっとみんな、ぐるぐる考えながら、やっている。それに、声をあげて賛同したい、と思った。変えることをゴールにするから、1歩目を見失うのだ。変えられなくとも、「今の医療の在り方に異議あり!こんな考え方もあるよ!」って、発信することは、できる。