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『ヤクルト・スワローズ詩集』の冒頭5行目でさらっと自虐ギャグを披露する村上さん。
タイトルにもなったチャーリー・パーカーをはじめ、ジャズ・ミュージックに詳しければ割増で面白くなるんだろうな。クラシックも同様で、元村上さんの音楽ガールフレンド・現詐欺犯罪者のF*さんと繰り広げるクラシック談義は、作曲家の名前は分かっても演奏者は殆どちんぷんかんだった。
「なんだか妙だな」と感じるシュルレアリスティックな世界観の中で、現代国語の解釈問題やルッキズムなど今の時代に問いを投げかける要素が小説内にちりばめられている。村上さんの夢世界で生きながら、現実世界の地もきちんと踏みしめる頼もしさはこれらの短編にも健在だった!やっぱり私は彼の作品が好きだ。
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ひさびさの一人称。現実と虚構の境目が曖昧で怖くなる。ノルウェイの森を彷彿とするいくつかの描写。
それにしても、小説全体に濃厚な死の気配が漂っており、そのことがとても恐ろしかった。
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石に漱ぎ流れに枕す。
夏目漱石の由来となったと言われる故事ですが、
本書一つ目の「石のまくら」は少し漱石と猫を想起させる表現がまぎれてる気がした。
名前はまだないと言うより、「もうない」と言う表現の方があってるような気もするが、それはちょっと言い過ぎかな。
それに他の短編が漱石かと言うとそうでもないし、なんとなくなんとなくだった。
猿並みのブスと人より人をしてる短編があったり構成自体も、どこか身近な異界に優しく身を委ねさせてくれる。その時の気分で気になる話が変わるのかな?
個人的に神戸に住んでいたことがあり、高校は大阪にあったので、「クリーム」や「ヤクルトスワローズ詩集」の舞台はすごく面白い。「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」「騎士団長殺し」もそうだったけど、少し境界的な、特殊な土地柄の舞台設定を偲ばせるのは村上春樹の上手いところと思っていて、僕自身が水墨画家なんて余白を扱う人間からするとマージナルやらリミナリティやらの文章に触れるとテンションが上がってしまう。
ファッション的にもキャラクター的にも「一人称単数」のスーツをたまに着る設定もまさにと肌感覚だし、最近じゃバーで酒嗜む程度になってきたし本も開いたりもするので、もはや恥ずかしくなる。女に絡まれたことはないけど、絡まれないようにウォッカギムレットは人がいないときに頼むとしようか。
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石のまくらに 大学3年生アルバイト
僕はその頃阿佐ヶ谷に住んでいて彼女の住まいは小金井にあった。だから四ツ谷の駅から一緒に中央線快速に乗って帰った。
一週間後に彼女の「歌集」が郵便で送られてきた。歌集のタイトルは「石のまくらに」、作者の名前はただ「ちほ」と記されていた。
あれから長い歳月が過ぎ去ってしまった。…そしてそんなものごとをいつまでも記憶に留めていることに、その変色した歌集をときおり抽斗から出して読み返したりすることに、いったいどれほどの意味や価値があるものか、僕にはわからない。正直言って、本当によくわからないのだ。
クリーム 十八歳 浪人生 ピアノ演奏会の招待状
リサイタルの会場は神戸の山の上にあった。阪急電車の**駅で降り、バスに乗って曲がりくねった急坂を上っていく。山頂近くのバス停留所で降りて、少し歩いたところに、ある財閥系の会社が所有運営する小ぶりなホールがあり、そこでリサイタルがおこなわれるということだった。そんな山の上の不便なところに-閑静な高級住宅街だ-ホールがあるなんて初めて耳にしたが、もちろん世の中には僕の知らないことがたくさんある。
…
駅前の花屋で適当な花を選んで花束 誰もいない建物・鉄扉
ぼくは彼女にかつがれたのかもしれない、そこではっとそう思った。どこからともなくそういう考えが頭に浮かんだ-いや、直観したというべきだろうか。
四阿の向かい側のベンチにいつの間にか一人の老人が腰掛けて、まっすぐこちらを見ている。
…「中心がいくつもある円や」
…「フランス語にクレム・ド・ラ・クレムという表現があるが、知ってるか?」「クリームの中のクリーム、とびっきり最良のものという意味や」
しかし老人の姿はもうそこにはなかった。あたりを見回してみたが、人影らしきものはどこにも見えなかった。もともとそんな人物は存在もしなかったみたいに。ぼくは幻を見ていたのだろうか?いや、それはもちろん幻なんかじゃない。彼は間違いなく目の前にて、雨傘を堅く握りしめ、静かな声でぼくに語りかけ、不可思議な問いかけをあとに残していったのだ。
…そこで起こったのはどうにも不可思議な、説明のつかない出来事だったし、それは十八歳のぼくを深く戸惑わせ混乱させた。いっとき自分を見失ってしまうくらいに。
チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ
…これは僕が大学生の頃に書いた文章の冒頭だ。生まれて初めて活字になり、僅かなりとも稿料というものをもらった文章だ。
…そこでこの話はいったん終わる。ここからが後日談になる。
仕事でニューヨーク市内に滞在しているときに、時間が余ったので泊まっていたホテルの近くを散歩し、イースト14丁目にある小さな中古レコード店に入った。そしてそこで僕はなんと、チャーリーパーカーのコーナーに「Charlie Parker Plays Bossa Nova」というタイトルのレコードを見つけることになる。 35ドル値札
ホテルの近くのスペイン料理店に一人で入ってビールを飲み、簡単な夕食を取った。そのあと近所をあてもなく散歩しているとき、突然僕の中に後悔の念���湧き起こった。やはりあのレコードは買っておくべきだった。たとえそれが意味のないまがい物であったとしても、かなりのオーバープライスだったとしても、とにかく手に入れておくべきだったのだ。曲がりくねった僕の人生のひとつの奇矯な記念品として。僕はその足でもう一度14丁目に向かった。急ぎ足で行ったのだが、レコード店は既に閉まっていた。シャッターに取り付けられたプレートには、平日は午前11時半開店、7時半閉店と書かれていた。
翌日の昼前にもう一度そこを訪れてみた。
…「きっと何かの間違いだろ。そういうレコードはうちには置いていない。ジャズ・レコードの買い入れと値付けは、私が一人でやっているし、そんなものを目にしたらいやでも覚えているはずだ」
もうひとつの後日談。
そのずいぶんあとのことになるが(実を言えばかなり最近のことなのだが)、ある夜僕はチャーリー・パーカーが登場する夢を見た。
…夢から覚めたとき、枕元の時計は午前三時半を指していた。もちろんあたりはまだ真っ暗だ。部屋に満ちていたはずのコーヒーの匂いはもう失われていた。
あなたにはそれが信じられるだろうか?
信じた方がいい。それはなにしろ実際に起きたことなのだから。
With the Beatles
それは一九六四年、ビートルズ旋風がまさに世界中を吹き荒れていた時代の出来事だ。
高校 彼女は美しい少女だった。
心臓が堅く素速く脈打ち、うまく呼吸ができなくなり、プールの底まで沈んだときのようにまわりの音がすっと遠のき、耳の奥で小さく鳴っている鈴の音だけが聞こえた。
高校の薄暗い廊下、美しい少女、揺れるスカートの裾、そして「ウィズ・ザ・ビートルズ」。僕がその少女を目にしたのはそのときだけだった。
初めてのガールフレンドは、小柄でチャーミングな少女だった。
彼女の自宅へ … 妹は僕に対して、あまり好ましい感情を持っていないようだった。顔を合わせるたびに彼女は、いつも奇妙に感情を欠いた目で-冷蔵庫の奥に長いあいだ放置されていた魚の干物がまだ食べられるかどうかを精査するような目で-僕を見た。
…彼女のお兄さんに初めて会って話をしたのは、一九六五年の秋の終わり頃のことだった。
芥川龍之介の歯車を朗読 「君は朗読するのがうまいな」と彼は感心したように言った。…「内容をよく理解していないと、ああいう読み方はなかなかできんもんや。とくに終わりの方がよかった」
…
僕のガールフレンドのお兄さんと再び出会ったのは、それから十八年くらいあとのことだった。十月の半ばだ。そのとき僕は三十五歳になり、妻と二人で東京で暮らしていた。東京の大学を出てそのままそこに落ち着き、仕事も忙しくなり、神戸に帰ることももうほとんどなくなっていた。
僕は修理に出した腕時計を受け取るために、夕方前に渋谷の坂道を上っていた。ぼんやり考え事をしながら歩いていたのだが、そのときすれ違った一人の男に、背後から声をかけられた。
…「サヨコはなくなりました」と彼は静かに切り出した。僕らは近くのコーヒーショップの、プラスチックのテーブルを挟んで座っていた。
僕とガールフレンドはその日、六甲山の上にあるホテルのカフェで別れ話をすることになった。僕は東京の大学に進んでいたが、そこで一人の女の子を好きになってしまったのだ。思いきってそのことを打ち明けると、彼女はほとんど何も言わず、ハンドバッグを抱えて席を立った。そしてそのまま振り向きもせず、早足で店を出て行った。
その結果、僕はケーブルカーに乗って一人で山を降ることになった。彼女は白いトヨタ・クラウンを運転して戻っていったのだと思う。見事に晴れ上がった日で、ケーブルカーの窓から神戸の街がくっきり一望できたことを覚えている。とても美しい風景だった。でもそれはもう、僕が見慣れたいつもの街ではなかった。
それがサヨコを目にした最後になった。それから彼女は大学を出て、ある大手損保会社に就職し、会社の同僚と結婚して二人の子供をもうけ、やがて睡眠薬をまとめて飲んで、自ら命を絶ってしまったのだ。
遅かれ早かれ彼女と別れることになっただろうと思う。とはいえ、彼女と一緒に過ごした何年かを懐かしく思い出すことができる。彼女は僕にとっての最初のガールフレンドであり、僕は彼女のことが好きだった。女性の身体がどんな風になっているのか、それを(おおむね)教えてくれたのも彼女だった。僕らは二人で一緒にいろんな新しい体験をした。おそらく十代のときにしか手にすることのできない素晴らしい時間を共有もした。
でも今更こんなことを言うのはつらいのだが、結局のところ、彼女は僕の耳の奥にある特別な鈴を鳴らしてはくれなかった。どれだけ耳を澄ましても、その音は最後まで聞こえなかった。残念ながら。でも僕が東京で出会った一人の女性はその鈴をたしかに鳴らしてくれたのだ。それは理屈や倫理に沿って自由に調整できることではない。それは意識の、あるいは魂のずっと深い場所で、勝手に起こったり起こらなかったりすることであり、個人の力では変更しようのない種類のものごとなのだ。
それを最後に、彼にはもう会っていない。我々は偶然に導かれるまま、二度顔を合わせた。二十年近くの歳月を間に挟み、六百キロばかり距離を置いた二つの街で。そして我々はテーブルを挟んで座り、コーヒーを飲み、いくつかの話をした。それでは普通の茶飲み話みたいなものではなかった。そこには何かを-僕らが生きていくという行為に含まれた意味らしいものを-示唆するものがあった。でもそれは結局のところ、偶然によってたまたま実現されたただの示唆に過ぎない。それを越えて我々二人を有機的に結び合わせるような要素は、そこにはなかった。
「ヤクルト・スワローズ詩集」
テレビで野球中継を見るのはそれほど好きじゃない。テレビで試合を見ていると、いつも何か一番大事なものを見逃してしまっているような気がする。つまりセックスに喩えれば……いや、それはやめよう、何はともあれ、テレビの画面で見る野球からは、ほんとうに心を躍らせるものが失われている。僕はそのように感じてしまう。箇条書きにしてその理由は説明しろと言われても困るけど。
神宮球場まで歩いて行けるというのが、僕が東京で住まい探しをするときの重要なポイントになる。
僕は京都生まれたが、生まれて間もなく阪神間に移り、十八歳���なるまでそこで暮らしたら。夙川と芦屋。暇があれば自転車に乗って、あるときは阪神電車に乗って、甲子園球場まで試合を見に行った。…僕の中で、野球を見ることと球場に足を運ぶことは、疑問をさしはさむ隙間もなく、ぴったり一体化されていった。
だから十八歳で阪神間を離れ、大学に通うために東京に出てきたとき、僕はほとんど当然のこととして、神宮球場でサンケイ・アトムズを応援することを決めた。住んでいる場所から最短距離にある球場で、そのホームチームを応援する-それが僕にとっての野球観戦の、どこまでも正しいあり方だった。純粋に距離的なことをいえば、本当は神宮球場よりも後楽園球場の方が少しばかり近かったと思うんだけど……でも、まさかね。人には護るべきモラルというものがある。
1982年 ヤクルト・スワローズ詩集自費出版 ナンバー入りの500部 今では貴重なコレクターズアイテム 僕の手元には二部しか残っていない。もっとたくさん取っておけば金持ちになれたのに。
なにはともあれ、世界中のすべての野球場の中で、僕は神宮球場にいるのがいちばん好きだ。一塁側内野席か、あるいは右翼外野席。そこでいろんな音を聞き、いろんな匂いを嗅ぎ、空を見上げるのが好きだ。吹く風を肌に感じ、冷えたビールを飲み、まわりの人々を眺めるのが好きだ。チームが勝っていても、負けていても、僕はそこで過ごす時間をこよなく愛する。
僕は球場のシートに腰を下ろし、まず最初に黒ビールを飲むのが好きだ。でも黒ビールの売り子の数はあまり多くない。見つけるまでに時間がかかる。ようやくその姿を認め、手を高く上げて呼ぶ。売り子がやってくる。若い痩せた男の子だ。栄養が足りないように見える。髪は長い。たぶん高校生のアルバイトだろう。彼はやってきて、まず僕に謝る。「すいません。あの、これ黒ビールなんですが」「謝ることないよ。ぜんぜん」僕はそう言って彼を安心させる。「だってずっと黒ビールが来るのを待っていたんだから」
謝肉祭(Carnaval)
彼女は、これまで僕が知り合った中でもっとも醜い女性だった-というのはおそらく公正な表現ではないだろう。彼女より醜い容貌を持つ女性は、実際には他にたくさんいたはずだから。しかし僕の人生とある程度近しい関わりを持ち、僕の記憶の土壌にそれなりに根を下ろしている女性たちの中では、彼女はいちばん醜い女性だったと言っておそらく差し支えないと思う。
…
僕はある友人の紹介でF*と知り合った。そのとき僕は五十歳を少し過ぎていた。彼女は僕よりたぶん十歳くらい年下だったと思う。
…それはサントリー・ホールでおこなわれた演奏会の休憩時間で、僕はロビーでたまたま男性の友人に出会い、彼はF*と二人でワインを飲んでいた。
…F*と初めて顔を合わせて、僕の心にまず浮かんだのは当然ながら、なんて醜い女性だろうという思いだった。しかし彼女はとてもにこやかで堂々としていたので、そんな風に思ってしまったことを僕は内心恥じた。
トルストイ小説アンナ・カレーニナ/幸福な家庭、不幸な家庭
僕が二度目に彼女に会ったのは、やはりコンサートの会場だった。…会場を出てタクシーを待っているところで、彼女に後ろか���声をかけられた。…
「ねえ、少し歩いたところにいい店があるんだけど、もしよかったら少しワインでも飲みに行きませんか?」と彼女は言った。
「いいですよ」と僕は言った。まだ夜は早いし、音楽に今ひとつのめり込めなかったフラストレーションのようなものが僕の中に残っていた。誰かと一緒にワインを一杯か二杯飲んで、良き音楽について語り合いたい気分だった。
…無人島に持っていくピアノ音楽
「シューマンの謝肉祭」と僕は最後に思い切って口にした。
十歳ほど年下の女性とそんなに頻繁に会っているとなると、普通であれば家庭内で一波乱持ち上がりそうなところだが、僕の妻は彼女のことなど気にもかけなかった。彼女の容貌が醜かったことが、その無関心の最大の理由であったことは、あえて断るまでもないだろう。僕とF*との間に性的な関係が結ばれるかもしれないというような疑念は、妻の頭には毛ほども浮かばないようだ。それは彼女の醜さがもたらした、なによりの恩典だった。物好きな人たち、と僕の妻は考えているようだった。
…十月に入ってしばらく、F*からの連絡はなかった。…十一月がやってきて、人々はコートを着るようになった。彼女と付き合うようになってそれほど長く連絡の途絶えたのは、初めてのことだった。
…
テレビに映っている彼女を最初に目にしたのは妻だった。そのとき僕は自室で机に向かって仕事をしていた。
「なんだかよくわからないけど、あなたのガールフレンドがテレビのニュースに映っているわよ」と妻が言った。
…大型詐欺事件の共犯
…僕は新聞や週刊誌で事件の行方をフォローしていたのだが、それもまるで水流が砂地に吸い込まれるように次第に先細りになり、やがては消えていった。
シューマンの謝肉祭が演奏されるコンサートがあれば、僕は未だにできるだけ足を運ぶのにしている。そしていつも客席を熱心に見回し、あるいは休憩時間にロビーでワインのグラスを傾けながら、彼女の姿を探し求める。
品川猿の告白
僕がその年老いた猿に出会ったのは、群馬県М*温泉の小さな旅館だった。五年ばかり前のことだ。鄙びた、というか老朽化してほとんど傾きかけたその旅館に宿泊したのは、たまたまの成り行きによるものだった。
僕は思いつくまま行き当たりばったりの一人旅を続けていたのだが、とある温泉町に着いて列車から降りたときには、時刻は既に午後七時を過ぎていた。秋もそろそろ終わりに近づき、日はとっくに落ちて、あたりは山間部の土地特有の濃紺の深い暗闇に包まれていた。嶺から吹き下ろす冷ややかな鋭い夜風が、かさかさという乾いた音を立てて、手のひらほどの大きさの落ち葉を路上に転がしていた。
僕は唯一の荷物である大きめのショルダーバッグを部屋に置くと、町に出て(とくにそこでゆっくり寛ぎたいと思うような部屋ではなかった)、近くの蕎麦屋に入って簡単な夕食をとった。そこ以外に、付近で開いている飲食店は一軒も見当たらなかったからだ。ビールとつまみを何品かとり、温かい蕎麦を食べた。決してうまい蕎麦ではなかったし、だし汁も生ぬるかったが、これもまあ贅沢は言えない。空きっ腹を抱えて眠るよりは遥かにありがたい。
建物や設備の貧相さに比べると、温泉は思いのほか素晴らしかった。湯は薄めた形跡のない濃厚な緑色で、硫黄の匂いも昨今類を見ないほど強烈で、身体が芯からほかほかと温まった。
…
猿がガラス戸をがらがらと横に開けて風呂場に入ってきたのは、僕が三度目に湯につかっているときだった。その猿は低い声で「失礼します」と言って入ってきた。それが猿であることに気づくまでにしばらく時間がかかった。
…
「小さい頃から人間に飼われておりまして、そのうちに言葉も覚えてしまいました。かなり長く、東京の品川区で暮らしておりました。御前山のあたりです」
…
「もしよかったら、少し君の身の上話を聞かせてもらえないだろうか?」…「お客様は確か二階の「荒磯の間」にお泊りでしたよね?」
…〈I♡NY〉とプリントされた厚手の長袖シャツにグレーのジャージのトレーニング・パンツという格好
…「あるときから、私は好きになった女性の名前を盗むようになったのです」
僕は別れ際に猿に千円札を一枚チップとして手渡した。
…昨夜の追加のビール代を払いたいと言ったが、彼女は追加のビールなんて出していないと言い張った。だいたいうちには自動販売機の缶ビールしかありません。瓶ビールなんて出せっこありませんよ。
それから五年が経過した今、そのときノートブックに書き残した覚え書きを元に、こうして品川猿の話を書き起こしているのは、つい最近いささか気がかりな出来事に遭遇したからだ。もしその出来事がなかったら、僕がこの文章を書くことはなかったかもしれない。
赤坂にあるホテルのコーヒーラウンジ/旅行雑誌の女性編集者、たぶん三十歳前後で、なかなか美しい女性だった。小柄で髪が長く、肌がきれいで、大きなチャーミングな目をしていた。有能な編集者でもある。そしてまだ独身ということだ。
…「妙なことをお訊きしますが、私の名前はなんでしたっけ?」
「どうしてか、自分の名前が急に思い出せなくなったんです。まるでブラックアウトしたみたいに」
…しかし悪いとは思うのだが、彼女に品川猿の話をすることはやはりできない。
一人称単数
クローゼットを開けてどんな服があったのか点検・せっかくこうしてスーツを着たのだから、この格好で少し外に出てみようかという気持ちになる。
…私は中華料理をまったく食べないので(どうやら中華料理で使われている香辛料の中に、アレルギーを引き起こすものがいくつかあるみたいだ)、彼女は中華料理を食べたくなると、親しい女友達を誘ってどこかに食べに行く。
気持ちの良い春の宵だった。空には明るい満月が浮かんでいた。通りに並んだ街路樹は緑の若い芽をつけ始めていた。散歩するにはちょうど良い気候だ。しばらくあてもなく街を歩いてから、バーに行ってカクテルでも飲むことにした。いつも行く近所の馴染みのバーではなく、少し足を延ばして、これまで一度も入ったことのないバーに入ってみた。
…ウォッカ・ギムレット
十五分ほどあとには、彼女は私の隣のスツールに座っていた。カウンター席がだんだん混み合ってきて、新たに入ってきた客に押されるよう���、そこまでスライドしてきたのだ。
…
「そんなことをしていて、なにが愉しい?」と彼女は尋ねた。
「洒落たかっこうをして、一人でバーのカウンターに座って、ギムレットを飲みながら、寡黙に読書に耽っていること」
私はたぶんそのまま勘定を払って、一刻も早くそこを退出するべきだったのだろう。それがこの手の状況における最良の対応であることはよくわかっていた。この女性は何かしらの理由があって私にからんでいるのだ。おそらくは私を挑発している。
…
「思い当たることはあるはずよ。よくよく考えてごらんなさい。三年前に、どこかの水辺であったことを。そこでご自分がどんなひどいことを、おぞましいことをなさったかを。恥を知りなさい」
手早く現金で勘定を払って店を出た。女はそれ以上は何も言わず、私が出ていくのをただじっと目で追っていた。
…階段を上りきって建物の外に出たとき、季節はもう春ではなかった。空の月も消えていた。そこはもう私の見知っているいつもの通りではなかった。
…
「恥を知りなさい」とその女は言った。
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村上春樹さんの久しぶりの短篇集。
どの短篇にも、独特な比喩があり、遊び心もある。
タイトルの『一人称単数』が示す通り、収められた八編の短篇はすべて一人称で語られる。
村上春樹さんも、もう71歳(!)
『猫を棄てる』を読んだ時に感じた、「父の死」が影響しているのか、単に年齢ゆえか、これまでの人生を見つめ直し、自身の体験したことを物語の要素に加え、俯瞰する姿勢が、この『一人称単数』の短篇ごとに少なからず現れているように感じる。
不思議なことに、全編通じて、「これはフィクションなのか?それともエッセイなのか(あるいは「私小説」なのか)?」と思ってしまうくらい、そう、「品川猿の告白」でさえ、村上春樹さんが体験したことをもとに書いているのではないかと、思った。
「石のまくらに」
和歌が出てくる不思議な短篇。
個人的には、あまり、すとんと心に落ちてこなかった。
再読すれば、変わるかもしれない。
「クリーム」
18歳に経験した出来事について、年下の友人に語っているという設定。
不思議な体験。催されるはずだったピアノリサイタル。しかし、そこには誰もいなかった…。そして、「中心がいくつもある円や」という言葉を残す老人。
「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」
ありもしないジャズレコードの寸評をもとにした短篇。しっかりとした、本当に存在しそうな寸評。そして、後年、体験することとなるもの。
エッセイのような短篇と強く感じた作品の一つ。
物語の中に、一つの創作(ありもしないレコードの寸評)をもって、話を進めるのは、すごい。
「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」
冒頭の7行。人は誰でも遠い昔の好きだった人、それがたとえ、名前を知らなくても、しっかりと記憶されているものだと思う。
胸にしっかりとビートルズのLPレコード「ウィズ・ザ・ビートルズ」を抱えた女の子の記憶。名前を知らない、そして、もう再び会えない女の子。
そして、高校生の時に付き合っていた女の子とそのお兄さんの話。
再会できた人と、もう再び会えない人。
「『ヤクルト・スワローズ詩集』」
個人的には、どこか村上春樹自身のエッセイを読んでいるかのように感じた。
いろいろとチャーミングな表現が多い。
「謝肉祭(Carnaval)」
まず、冒頭の書き出しがすごい。醜い女性の話。シューマンの「謝肉祭」が好共通項。
「品川猿の告白」
別の短篇集に収録されている「品川猿」の人生を知ることのできる短篇。ありえない話なのだけれど、なぜか、村上春樹さんが、ほんとうに温泉地でこのような体験をしたんじゃないかと思うほど。そして、後日、ある女性編集者とのエピソード。そう思わせる不思議な力がある。
ここまでは、「文學界」に随時発表されたもの。
「一人称単数」
唯一の書き下ろし。
「私」に対して、じりじり詰め寄ってくる女性の存在。
女性に投げられた言葉。
「私」が抱く“長く鋭い針で突かれた”感情。
そして、不穏な空気。
久しぶりの一人称での小説。
また、『騎士団長殺し』とは違った、新しい一人称形式の長編小説への布石となるのか。
個人的には、「「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」」「『ヤクルト・スワローズ詩集』」「一人称単数」が、好き。
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「異性との刹那的な出会い。」
「小洒落た固有名詞の引用。」
「主人公の平凡さの強調と、対をなす様な「陰」の世界。」
「性描写の美的感覚。」
どの文章も映画を読んでいるように頭にありありと情景が浮かぶ。好きとか嫌いとかじゃなくて純粋に表現力と感性に感動する。
たまたま谷崎潤一郎のあとに、この短編集を読んだけど、勝手に似てる感じがした。
そこそこハイソな人間の書く、人間的だけど非現実的で現実的な世界。
後で自分の小ささを恥じるとして、今の直感的には「なんかうざい」
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普段の暮らしのなかで一人称の語りにじっくり耳を傾けることってどれくらいあるんだろう.SNSに垂れ流される何人称かもわからない記号の羅列に晒されてで生きる私にとって,ひさびさに読む村上春樹の語りからは違和感を感じ続けて読み終えた.
そろそろ長編が読みたい.
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日常と非日常、現実と非現実との境界が曖昧になる村上春樹らしい物語。
読んでいるうちに現実感が揺らぐ体験だ。
P.207『現実と非現実があちこちででたらめに位置を交換するような感触があった。』 (品川猿)
P.225『漠然とした違和感のせいであるようだった。そこには微妙なずれの意識があった。自分というコンテントが、今ある容れ物にうまくあっていない、或いは、そこにあるべき整合性が、どこかの時点で損なわれてしまったという感覚だ。』(一人称単数)
およそ現実では了解が難しいメタファーだかイデアだかに触れる、無意識の領域が前意識領域まで浮上したなにかに触れる物語であるようにも思う。
そしてそういった物語はやはりモノローグでなければ体験できず、その現象から距離を置いてしまうと一気に現実検討が働いてしまう。
だからこそ村上春樹の物語の主体は他者(特に女性)との距離感が侵犯的なのかもしれず、だからこそ一人称単数であるのかもしれない。
そんなことを考えてしまう。
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2020.18th
村上春樹の文章は読んでて心地いいですよね!読解力がないので、理解できない部分は多いですが。。
本のタイトルにもなっている「一人称単数」が一番村上春樹らしい作品かな?と思いますが、どの作品も気持ちよく楽しめました!
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「品川猿の告白」大笑いしながら読みました。この中では一番のお気に入り!で、このお話、身近にいる素敵な女性に話してみたい。実はね…なんて。(^^)
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村上春樹の短編集。自伝のような内容からエッセイのような内容まで幅広く、この何とも言えないグラグラとした感じが村上春樹っぽいな、と感じたりもしました。
一方、村上春樹特有の比喩(たとえ)に、私自身、あまり切れ味の良さを感じる事が出来ませんでした。これは、自分の感受性が変わったのが一番大きいとは思います。言い換えるなら村上春樹が研ぎ澄ました感性と、私の育ててきた感性がズレているんだろうな、と思います。
本の内容自体は非常に面白く、読み始めればグイグイと文章に引き込まれてしまい、村上春樹の筆の強さ(豪腕ぶり)を存分に味わえますね。そう言う意味では、今作も非常に楽しめました。
長編も含めてあと何作品、新作が読めるのか分かりませんが、引き続き村上春樹の新作を楽しみに待ちたいと思います。
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なぜか村上春樹の短編小説が好きである。むしろ長編小説よりも好きかもしれない。ちなみにエッセイも好きである。思考回路が少し常人と違うのではなく、きっとイメージ力が常人より優れているから、個性的で愉快なメタファーが、長編小説よりも頻出するんだろうと思う。
短編小説は長編小説のようには主人公との付き合いが長くないし、物語もあっという間に終わってしまう。なのでその分だけ、少し頑張らないと記憶に残らないし、面白くないとエッセンスとしての小説が味わえない。短いけれど濃縮されているから、きっと短編小説は面白いのだ。いや、どの作家の短編小説も面白いというのではなく、むしろほとんどの作家については、長編小説より短編小説のほうが面白いなんて思いもしない。
でもよく言う<短編小説の名手>とは、小説作りがとても上手いのだろう。そういう作家は多くはないけれど、そんなに少なくはない、というのがぼくの印象だ。
『石のまくらに』は、『ノルウェイの森』の流れのような不思議な出会いと別れの小説だ。ヒロインの性格を印象的に見せるのが、彼女の創る和歌なのだが、村上散文ワールドには珍しい一面である。
『クリーム』は、新手のハードボイルド・ワンダーランドかもしれない。不思議な出来事を体験する主人公は、その意味を考え込まざるを得なくなる。その考えこむ不思議そのものがテーマとなっているような一篇だ。
『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノバ』は作者の好きなジャズがテーマ。バードが1955年に亡くなっていることや、ボサノバが初めてブレイクしたのが1962年という情報は個人的に勉強になったが、だからこそ生まれる矛盾のテイクが、あり得ないレコードがファンタジックな道具となった一篇。
『ウィズ・ザ・ビートルズ』は本書中一番長い作品。ぼくの少し上のベビーブーム世代はビートルズのヒット曲に「壁紙のように囲まれて」育ったのだそうだ。ぼくがビートルズを聴き始めた途端に解散してしまった。そういう音楽の話から物語は懐かしい恋愛体験と、その現在へと時の流れを感じさせながら移行する。読出しと読み終わりの印象が全然異なる作品だ。
『ヤクルト・スワローズ詩集』では「ぼく」が村上の姓で登場。ジャイアンツ戦以外はいつでも空いている神宮球場のスローな野球観戦が好きで、スワローズ詩集を自費出版して遊んでいたという。散文作家による韻文の少し首を傾げたくなる(笑)詩が沢山登場するサービス篇。
『謝肉祭』では、醜い、と明確に形容する女性との出会いと別れを語りつつ、人間の本質や魅力の謎に迫る、少し哲学的な作品は、驚きのラストで終焉する。
『品川猿の告白』はこの作家によくあるSF的で変な話。こういう面白さに引きずられて次々と読み進んでしまうのが、村上ワールドなんだろうな。現代の寓話というにはリアルすぎて、ひょっとしたらあり得そうな感覚に陥ってしまうのだ。
『一人称単数』は、ことによると本書中、不思議さではナンバーワンである話かもしれない。本作だけは書き下ろしだそうで短編集のタイトルにもなっている話で、しかも落としどころが掴みにくい作品。作者は読者を化かして、この一冊を切り上げたかったんだろうか? だから最後に持ってきたのだろうか? 一番化かされているのは、化けたつもりだった主人公であることに間違いはないのだけれど。
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ひとつひとつの話は好きじゃない。1話目で読むのを辞めようか迷う。
しかし、『短編集』というジャンルの使い方は凄まじい。
例えるなら、『スイミー』みたいな。それでその目(スイミー)はきっと最終話なんだと思う。
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何編かの自伝のような小説を含む。「品川猿の告白」がいいな。久しぶりの品川猿。そして、「ヤクルトスワローズ詩集」のようにカープを書いてくれる人はいないか・・・。
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久しぶりの村上春樹の小説を読んだ。
何時も思うのだけど、村上春樹は最初は退屈に感じる。そして最後は引き込まれる。
短編集は正直言って引き込まれることなく読み終えてしまった。