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本作は享年33歳とする、主人公の墓碑銘を記した冒頭の1ページに始まる。佐脇良之は前田利家の弟で、三方ヶ原の戦いに徳川方で参戦して討死した実在の武将。そんな良之がもし生存したら何を為したかという仮定のもと、物語の幕が開く。全6章、319ページ。三部作の第一作とされている。
三方ヶ原で重傷を負いながらも奇跡的に一命をとりとめ、家康の計らいにより療養する良之は、かすみという若い女性の看病もあって深い傷を徐々に癒しつつあった。過去に侍として満足な働きができず忸怩たる想いを抱く良之は、家康の後押しも受けて「自由な一人の男、一人の武士」、一浪人として亡くなった信玄の息子で跡取りである勝頼の命を狙うことを決意する。かすみに別れを告げて浜松を後にする良之は、道中で出会いを重ねながら、武田家の本拠地である甲斐を目指す。
帯文の引用文や謳い文句からは、全編通して深刻で孤独な主人公の内面を描いた小説を予期しました。前半については、自身の功績に満足できない良之の葛藤や、殺人について内省的に思いを巡らせる場面も多く、ある程度はそのような流れでした。ストーリーが動く後半以降になると、殺陣や無邪気なヒロインの活躍、有名武将の登場など、一般に時代小説に期待される娯楽的なシーンも増えました。とくに呑気で可愛いヒロインの存在が、作品に朗らかな印象を与えています。全体としては、時代小説らしいエンタメ要素を裏切らず用意したうえで、死も意識する若くない主人公の自己実現のテーマを共存させた作品として読みました。文章は、会話文や改行の多寡は気にならない加減で、スムーズに読み通せました。普段、歴史小説を好んでいる方にも楽しく読まれそうです。
良之の「生涯に一つでよい、何かをこの世に遺しておきたい」という想い、主君を離れて浪人として事を成そうとする試みは、現代人が組織を離れて個人になる決断にも重なります。史実では妻子があったらしい33歳の良之が、本作では独り身である設定は読んでいて不自然にも感じたのですが、先に書いた良之のある種、現代的なモチベーションを成立させるために必要な改変だったかと想像しました。なお、三部作の始まりである本作は続編を期待させる形で終わりますが、とくにキリの悪い幕切れではありません。