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電子書籍
野球
2023/12/06 18:25
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投稿者:タタ - この投稿者のレビュー一覧を見る
野球が好きなので、面白かったです。あんまり知ることのない世界なので、いろいろと勉強になり助かります。
2023/08/26 08:35
投稿元:
慶應野球部の部訓凄い。「凡人は習慣で1日を送る。天才はその日1日が生涯である。毎日が本番。」押忍!
そして、高校野球自体に、教室の中だけでは決して手に入らない、次の3つの価値があると考えています。 ① 困難を乗り越えた先の成長を経験する価値 ② 自分自身で考えることの楽しさを知る価値 ③ スポーツマンシップを身に付ける価値 慶應義塾高校野球部では文武両道を実現するため、甲子園常連校にありがちな深夜まで及ぶ長時間の練習などは課しません。そんな中でも、2018年、激戦区神奈川県の代表として、春夏連続で甲子園に出場しました。
そのため慶應義塾高校野球部では、1から10まで教えることや、手取り足取り指導するといったことはしていません。それよりも、選手自身がどのように打ちたいのか、どのように守りたいのか、どのように投げたいのかを自分で考えたほうがいい。自分なりの課題を見いだし考えていく中でコツをつかみ、自分なりの答えを見つけていくことに価値があるのです。 もちろん、打ち方や投げ方、守り方を細かく教え込んだほうが正しいという考え方も理解できます。すぐに結果を出すには、そのほうが近道かもしれません。しかし、その選手自身が何かをつかんだかと問われると、「監督やコーチの言う通りにしていたらできました」という答えしか返ってこないでしょう。それでは、もし仮に将来プロ選手になったとしても、何か問題に直面したときに自分で考える力や習慣が身に付いていないため、大成することはおろか、一定の結果を残すことさえも難しいと言わざるを得ません。
スポーツマンシップには、人間としての基本的な在り方という意味合いがあり、特にスポーツにおいてそれを身に付けやすいと言えます。 以前、指導者としてスポーツマンシップについて学ぶ機会があり、その価値観に深く共感しました。相手、ルール、審判を「尊重」し、敬意を持って接する。「勇気」を持っていろいろなプレーに挑戦し、強い相手にチャレンジしていく。どんな結果になろうとも、「覚悟」を持って、きちんとそれを受け入れる。こうしたことがスポーツマンシップだと認識するようになりました。 特に負けたときが重要で、そうした難しい状況でこそ、その人の本当の人間性が出ます。礼儀正しく相手を称えられるのか。審判やグラウンドの状況、チームメイトの所為にすることなく、敗戦を正面から受け入れられるのか。このようなスポーツマンシップがいま現在問われており、高校生が野球を通じて身に付けるべきことではないでしょうか。
「困難を乗り越えた先の成長を経験する」「自分自身で考えることの楽しさを知る」「スポーツマンシップを身に付ける」。この3点こそが高校野球がもつ価値や本質であり、これらを指導者が大事にしてこそ、未来が拓かれていくと信じています。
そもそも子どもは、自然と成長していくものです。時折、「あの選手は俺の教え子だから」といった態度を取る指導者がいますが、それはまったくの見当違いで、子どもの心身は未熟な部分が多いからこそ伸びしろがあり、大人が特に手をかけなくても成長していきます。大人の役割は、その成長の邪魔���せずに手助けすること。これがとても大事です。多くの大人がよかれと思い、子どもにあれこれと手を出しがちですが、それは逆に子どもの成長を阻害しているのではないでしょうか。
野球に関しても同じで、投手の配球を中心にデータを集めることがありますが、「最後はデータよりも感性を優先しよう」と指導しています。打席に立ったときに、相手投手のストレートがデータ以上に速いと感じたなら、データ上の狙い球はストレートでも変化球に切り替えて何の問題もありません。つまり、全体を100としてデータが50を超えることは絶対になく、データを集めて選手に必要なことを伝えたとしても、それは実際には50未満で、やはり感性のほうが上回っていなければ現実には対応できないのです。
です。 まず根本的なことを記せば、坊主頭にしていること、それ自体は大きな問題ではありません。より真剣に考えなければならないのは、「高校野球と言えばやはり坊主頭が主流。そこから飛び出るのは嫌だな」と考えてしまう同調圧力、あるいは「昔から坊主頭が当たり前なのだから、それでいいじゃないか」という旧態依然とした習わしに倣っただけの思考停止。
つまりは「右へならえ」で済ませてしまって何も考えない、疑問を持たないことが問題であり、しっかりと議論をした上で「坊主頭でやっていく」と決めたチームであるならば、それは何も間違いではありません。
ます。「野球はそもそもスポーツであり、基本的には楽しむもの。だからこそ坊主頭にしなければならないという強制はおかしい」。こうした考え方が慶應には根強く、それがいまでも引き継がれているのです。
慶應義塾には、「独立自尊」という言葉があります。周囲の意見に左右されず、自分の足で立ち、自分の目や耳で情報を集めた上で、自分自身の考えをきちんともつという意味です。そして自分の中に独自の考えがあることを自覚できれば、周囲の人間にも彼、彼女なりの考えがあるということが理解でき、結果として、他人を尊重できるようになります。
ただし、いま私がそう思えるようになってきたのは、学校を卒業し、社会人として生きていく中で徐々に得られたものですから、高校生の年代で成熟するはずがありません。だからこそ、高校時代から少しずつでも伝えていくことが大切で、いますぐには完璧な理解ができなかったとしても、大人になるにつれて、あるいは大人になってから真意を理解してくれればよいのです。そういう意味でも、目先の結果を求め過ぎないように注意しなければいけないのです。
しかし少なくとも、必要最低限のことは報告、相談できる関係性や、選手側が言いやすい環境を作ることはとても大切です。そのためには、指導者側と選手が上下関係にならないこと。そうなってしまうと、そこに現れるのは一方通行の伝達や命令で、選手は服従、従属するだけとなり、それを正常なコミュニケーションと呼ぶことはできません。旧来の高校野球の組織では、こうした一方的な伝達・命令が当たり前でしたが、これを双方向型に変えていくことが理想です。指導者側から伝える場合もあれば、選手から言うケースもある。よりフラットな関係性を慶應義塾高校野球部では目指しています。
このような関係性を構築するために必要なことは、選手の話を聞く姿勢をもつこと。決して「ケガするなんて使えねえなあ」などと言ってはいけません。それでは、選手は「言っても無駄」だと感じてしまい、ますます意思疎通が難しくなるだけです。またケガの症状、経過報告については、完治して復帰するまでのプロセスを共有する必要があります。指導者が病院や治療院を責任を持って紹介し、どのような診断がくだされ、どのような治療が行われたかをきちんと報告させる。それこそが指導者としての務めです。 すると選手は、「正直に言ってよかった」「いい先生を紹介してもらえたから早く回復できた」と感じて、指導者に対する信頼感を高めます。
私であれば、まずはその投手と話をします。ただし、どう話すかは非常に難しい。「投げたいか?」と聞けば「投げたい」と答えるでしょうし、「将来のことがあるので、投げたくありません」と言われたら、それはそれで違うだろうと思ってしまいます。そして、それ以上に考えなければならないのが、チーム全体の問題。監督とその投手だけで決めず、部員全員で話し合うことも一つの手段ではないかと思います。
そこで解決策の一つとなるのが、数年前から議論されてきた球数制限を設ける方法です。そのルールの中で投手をローテーションさせていけばよいため、指導者がすべての責任を背負う必要がなくなります。2020年の春から「1週間で500球以内」というルールが定められました。最善の解決策という気はしませんが、指導者を含めて高校野球に携わる者が皆で考えていく議論の入り口に立ったことになります。
その一つとして考えられるのは、指導者が、自分が学生時代に受けてきた指導を踏襲してしまうという点にあります。野球ばかりでなく、家庭環境、親や教師との関係などにおいて体罰を受けることが当たり前だった場合、その経験が根幹となり、自分が指導する立場となったときに、選手にも同じことをしてしまうのです。 こうした指導者は、時代の違いを認識できておらず、さらには指導方法の引き出しを増やす努力も怠りがちです。そのために他のより良い指導法を身に付けられず、「俺は体罰を受けながらうまくなったし、強くもなった」と過去を美化した結果、本来は尊重し、愛すべき選手を肉体的にも精神的にも傷つけてしまうのです。
自身、選手に手をあげることはありませんが、言葉であえて強く言うケースはあります。体罰がないのは当然としても、きつくも言わず、すべて優しい口調だけで指導が成り立つのかと言えば、それは難しい。ときにはあえて強く、きつい言い方をすることも、コミュニケーションの引き出しの一つだと思います。 いまは少しでも強い言葉を使うと、「言葉の暴力だ、パワハラだ」と言われかねない時代です。しかし、そこにおもねっているだけでは、指導が前に進んでいかない部分も正直あります。人前で叱ってはダメ、大声で叱るのもダメ、嫌みを言うのもダメ。これでは「頑張って」くらいの言葉しか掛けられなくなり、本当の意味での成長を促すことは難しいと思います。 多少の強制が伴い、選手も少しばかり「嫌だな」と感じたとしても、そこから徐々に良い習慣が生まれ、選手の成長やチームの方向性の統一につながることもあるのです。
一人ひとりの選手に関心をもつ接し方 選手への言葉かけ、選手とのコミュニケーションという意味では、私は選手をよく見る、よく観察することを心がけています。そして、その上で話しかけるなどの意思疎通を図っていますが、選手を「見る」「観察する」という行為は、話す以上に重要だと感じることもしばしばです。
しかし、こうした私の至らない部分を補ってくれているのが学生コーチです。彼らは全員、慶應義塾高校野球部出身で、部内のことをよく理解してくれています。彼らを含めたスタッフが総勢約15名在籍しており、私の2つの目だけではなく、30以上の目で100名の部員を見られる体制を整えています。学生コーチの役割については後述しますが、彼らの〝目〟があることで、私自身、本当に助けられています。
報告、連絡、提案、質問、意見。そのいずれにおいても、選手が常にそうしたいと思えるように、日々、地ならしをしていく。そのきっかけとなるのが、選手をよく観察した上での日頃の会話なのです。力で押さえつけるような古いタイプの指導者像を脱却し、選手に関心をもち対話的なコミュニケーションをしていくことが、これから一層重要になってくると考えます。
しかし、チームというのは本来、選手と一緒に作っていくものだと私は考えます。選手の意見にも耳を傾けるべきで、ときには議論を戦わせることも必要でしょう。あるいは選手に委ね、選手たちだけで重要事項を決定させるような、〝精神的なゆとり〟も指導者は持っていなければなりません。 大切なのは、選手あるいはチームがいかに成長していくか。成長とは、目先の結果である勝ち負けだけではなく、前述したように高校野球を通していろいろな経験をすることであり、その価値自体を高めていくことです。このような基準、視点を持っていれば、上から押し付けるような指導には決してならないと思います。 高校野球には〝時間がない〟。それが事実であったとしても、選手を信じて待つ姿勢こそが重要なのです。
この経験は本当にたくさんのことを教えてくれたと思います。自分たちでサインを考えることの楽しさとやりがい、そして自分たちで決める以上、実行できなければいけないという責任感。大げさではなく、高校野球を現役でプレーしていた当時における一番の思い出で、とても大きな転機となりました。
この経験は本当にたくさんのことを教えてくれたと思います。自分たちでサインを考えることの楽しさとやりがい、そして自分たちで決める以上、実行できなければいけないという責任感。大げさではなく、高校野球を現役でプレーしていた当時における一番の思い出で、とても大きな転機となりました。
大人が選手を自分好みのストーリーに当てはめようとする、いわば、青春の押し付け問題。これも高校野球が抱える、そして解決していかなければならない大きな課題の一つです。高校野球はシンプルに言えば、高校生がただ野球をやっているだけですが、真夏の風物詩やお祭りのように捉えている人が多く、もはや非常に巨大なエンターテインメントとなっています。新たなヒーローの出現や感動的なゲームを望むファンがいて、また、それを売り込んでいこうとするメディアの存在もある。そこで過剰に膨らまされたドラマに、それを望むファンが喜んで食いつく。こうした土壌が高校野球にはあると思います。
これまで皆さんが見てこられた〝ザ・高校野球〟とは異なりますが、新たな形を提示していき、旧来の価値観に揺さぶりを掛けることが目標であり、また私の使命だとも思っています。
ただ私自身、いまの高校野球は嫌いなところがたくさんあります。 それゆえに現状を変えていきたいからこそ、指導者として高校野球に携わっています。 繰り返しになりますが、高校野球には大人が作り出した強い固定観念があります。全力疾走、汗、涙……。それらを良識ある大人であるはずの関係者やメディア、ファンが求め、高校生が自由な意思で身動きをとれない状況はおかしいと言わざるを得ません。
これは日本人の特性なのかもしれませんが、少なくとも高校野球が助長している部分はあると思います。こうしたところにも一石を投じるべきで、「高校野球がこんなにも変わった」と認知されるようになれば、そこが風穴となって日本のスポーツ界や、もっと言えば日本社会そのものが変わっていくイメージも持っています。
こうしたことが起こる原因はやはり大人、指導者に大きな責任があります。口では「子どもたちを勝たせたい」と言いながらも、結局は自分が勝って評価されたいという欲求を満たすために、小学生や中学生に前述したような過剰な負荷をかけてしまうのです。まさしく高校野球にも通じる〝大人のエゴ〟です。
「いままでやってきたのだから、いまさら何を変える必要があるの?」「これでうまく回ってきたのだから、何も変える必要がない」。理由を問えば、大半はこのような意見が返ってくるでしょう。しかし、いまになって気付けば、野球界の中では当たり前だったことが、他競技ではまったく非常識となっていて、完全に取り残されてしまっている状況です。 ここから脱却するためには、野球を外から見る客観的な視点がなければいけません。私は他競技の指導者とも頻繁に会うようにしていますが、それはやはり野球界の常識だけに染まらないようにするためです。例えば「なぜ、野球はそんなにも長時間の練習を課すのですか?」と問われたときに、「この世界の常識ですから」と答えてしまえば、それはただの思考停止です。なぜ野球では実現不可能になっているのかを考え、いかに無駄を省くかまで考えを巡らせなければ、何の進歩もありません。
この親子間の距離の近さは、親が先回りして子どもの行く道にレールを敷いてしまうという問題にもつながってきます。例えば、小学6年生や中学3年生の夏にチームが負けた場合、中学や高校に入るまでの約半年の間に、野球塾に通わせる保護者がかなりいます。〝子どもの野球が習い事になっている〟という問題は前述した通りですが、中学生や高校生でも類似する問題が起きているのです。
ん。例えば会社で何らかの試練があったときに、自分なりの解決策や、自分の行動に対する責任が持てず、挙げ句に上司や同僚に責任をなすりつけ、少しきついことを言われただけで「パワハラだ」と訴えるような大人になりかねないと思います。だからこそ、部活動を通して、適度にきついことを言われたり、適度に嫌���経験をしたり、挫折したりすることは絶対に必要です。
学校に行く時期は社会に出るための準備期間です。それを小学生は小学生なりに、高校生は高校生なりに経験しておかなければ、いきなり大きな海を泳ぐことはできません。難しいことではありますが、適度に厳しいこと、適度にうまくいかないこと、適度に挫折することを経験させてあげるのが、部活指導の務めであると自覚しています。
その意味では、私が監督を務める慶應義塾高校野球部も非常に苦労しています。慶應は坊主頭を強制していないので、〝旧式〟を重んじるファンからは「髪の毛を切ってから、出直してこい」というような野次を飛ばされることもあります。いまだに高校生は坊主頭で全力疾走して、汗と涙の物語を紡いでいく。こういうイメージが強いがために、エースが連投するチームの躍進が注目される傾向が強いのでしょう。
〝選手一人ひとりを大切にする〟ことの要は、一人ひとりに自分の頭で考えさせることだと、私は解釈しています。集団として管理しやすいという理由から、皆と同じことをさせたり、柔軟性のない一律の物差しで「そこからはみ出ている、はみ出ていない」というような判断をするのではなく、各個人の考え方や体格などの個性を尊重した指導にあたる必要があります。 つまりは、一人ひとりに違いがあることを認めた上で、大切にするということ。その〝大切にする〟とは、考える習慣をきちんと身に付けさせることが、私なりの答えです。「
さらには練習試合や公式戦で、「今日はどんな継投のイメージですか」「もうそろそろ、次の投手を作っておきましょうか」など、こちらが伝えようと思っているタイミングで、自ら聞きに来てくれました。場合によっては、継投まで提案してくれることもあったほどです。 そのタイミングは非常に絶妙でしたし、彼のそうした姿から、ブルペンキャッチャーの仕事に誇りを持ち、極めようとしてくれていると感じました。この彼の姿勢が、チーム全体にとってとても頼りになったことは言うまでもありません。
自分の役割、あるいは自分にできること、自分の強みを深く考えた上で自覚し、そこに磨きをかけることでチーム内に居場所を作っていきました。 自分の売りは何か、また何をアピールして自分の存在感を出していくべきか。これは社会に出てからも同じで、そのためにはまず己を知らなければいけません。またそれは言われてやることではなく、まずは自分で気付いてほしいという思いがあるので、こちらから「君はもうレギュラーにはなれないから、ブルペンキャッチャーとしてやってくれ」とは決して言いません。彼はそのあたりを自ら察して、自分の役割をまっとうしてくれたという意味で、すごく印象に残っています。
しかし現実はそうならない中で、腐ることなく、いま与えられた自分の立場の中で何ができるか、チームのためにどう貢献できるかと頭を切り替えることがすごく大事です。 下級生のサポート、同級生への叱咤激励、対戦相手の偵察やデータ分析、あるいはスタンドでの応援の指揮。こうしたことが積み重なってチームは成り立ちますし、自分のやれることを見つけて誇りを持って取り組むことが、ベンチ入りできなかった最上級生の使命です。���割や居場所や出番は違っても、すべての選手がチームに貢献していると自覚できるような組織にしていくことが理想であり、それを目指しています。
学生コーチには常々、「どんどんやってみなはれ。責任はこちらが取る」と言っています。そうすると彼らは、私が知らないこと、気が付かないようなことまでどんどん提案するようになってくるのです。
もちろん監督自身がマンツーマンの熱血的な指導を施してもよいのですが、慶應義塾高校野球部の場合は、10名以上在籍する学生コーチが個別に、ノックやピッチング練習などで選手と向き合ってくれています。そのため私は、それらの個別練習がうまくいっているかどうかを見極めたり、コーチの配置を決めるなどのチーム全体をまとめる仕事に専念することができます。そういう意味では、選手やチームに真摯に向き合ってくれる学生コーチたちには感謝の思いしかありませんし、チームにとって絶対に不可欠の存在と言えます。
自分の役割、あるいは自分にできること、自分の強みを深く考えた上で自覚し、そこに磨きをかけることでチーム内に居場所を作っていきました。 自分の売りは何か、また何をアピールして自分の存在感を出していくべきか。これは社会に出てからも同じで、そのためにはまず己を知らなければいけません。またそれは言われてやることではなく、まずは自分で気付いてほしいという思いがあるので、こちらから「君はもうレギュラーにはなれないから、ブルペンキャッチャーとしてやってくれ」とは決して言いません。彼はそのあたりを自ら察して、自分の役割をまっとうしてくれたという意味で、すごく印象に残っています。
こうした状況もあって、彼は「どこかで出番が来る」という心構えをしながら、常にいつ出番が来てもいいように準備をしていてくれました。「え!? この場面で行くの? 嫌だな……」と思っていたら、恐らく良い結果は出なかったでしょう。しかし自分の役割を認識し、心も体も準備を怠らなかったことが好結果に結びついたのです。
スポーツマンシップとは尊重、勇気、覚悟の3つの要素で構成されています。〝尊重〟とは仲間、対戦相手、審判、ルールを尊重すること。〝勇気〟とは失敗を恐れずに挑戦すること。〝覚悟〟とは最後まで全力を尽くしてどんな結果も受け入れること。これらを複合してスポーツマンシップと呼びます。
卑怯な手を使って勝つ確率を高めようとするのは、その後の人生の考え方に大きな影響を及ぼすはずです。「結局バレなければいい」「うまくやったもの勝ち」という人間を育てることになりかねません。こうした経験を高校生にさせるのは罪深いことだと思います。
その上で、「勝ち(勝利)にも価値(勝ち方)にもこだわる」ことが重要だと考えます。スポーツマンシップと勝利を両立するために、手段を選ばずに勝利を目指すのではなく、勝つための手段を選ぶ。汚い手段を使ってまで勝とうとしてはいけません。きれい事や理想に聞こえるかもしれませんが、それを目指さない限り、選手たちは本当の意味で野球を面白く感じられないと思います。そうなれば選手は自然と、「どうすれば正々堂々と戦って勝てるのか」を考え始めるはずです。
これは野球に限ら���、すべての大人に当てはまります。少し時間がかかったとしても、大人が我慢して、子どもの失敗を許容できるか。いまは目先の数字、成果や結果ばかりが求められる時代だからこそ、この姿勢は意味を持ちます。世の中の出来事は、数字で測れることばかりではありません。大人の仕事にしても、数字を残す人以上に、地道に信頼関係を作ったり、多くの人が嫌がるようなことをできる人が本当は評価されるべきです。こうした意識、姿勢を持って、どれだけ我慢して選手と向き合えるか。そこが指導者として試される部分ではないでしょうか。
妥協我慢泣き寝入り
対人知能
頭のいい交渉術
交渉相手を自分のファンにしてしまう
彼女が喜んで予定を会わせてくれる
有利な合意
あの人がよい、この人は信頼できるとおもわせる
さらに付け加えれば、自分で自分の幸せを理解していることも大事です。これからの社会は多様性が重視され、人それぞれ追求する幸せが違う時代になっていきます。お金、家庭、仕事のやりがい……。多様な価値観の中で、何が自分を幸福にさせるかを分かっていないと、本当の幸せはつかめません。つまり、集団の中にいて満足していると、皆と一緒にいることで生まれる相対的な価値観ばかりを重視するようになり、ふと一人になったときに、本当の幸せが分からなくなってしまうのです。大学受験や就職活動、人生の転機となる場面で、それはより顕著に表れます。
現実がそうであるなら、やはり高校生までに一定の勉強をして、論理性を高めたり、思考回路を柔軟にしたり、考え方を増やすことは非常に大切です。それが将来の可能性を広げ、選択肢を増やしてくれるのですから。
私自身も、大学卒業後は3年間NTTに勤め、法人営業を担当し、会社員を経験しています。野球からは大きく離れてしまった時期ですが、いま思い返せば、現在の高校野球の監督業につながる貴重な経験をさせてもらったと思います。
特に感じるのは一人の無力さ、そしてチームで協力し、調和を取りながら物事を進めていくことの大切さです。外に出てお客さんと接することの多い部署だったのですが、仕事をスムーズに進めるためには、他部署の人たちと連携を取り、社内に数多くいる専門家からアドバイスをもらう必要があります。その上で現場に同行してもらったり、あるいは工事を行う場合には、技術者など専門部署の協力を仰がなければなりません。この経験を通して、自分一人でできることは限られていると痛切に感じましたし、これはどんなチームや組織でも同じだと思います。
「どう思っている?」「どうしたいの?」「なぜ、いまはそのプレーを選択したの?」など、プレーの結果を褒めたり、叱ったりするのではなく、意図を聞きます。「それはダメだ!」や「これはこうしろ!」と言っても、選手の心には本当の意味では響きません。結局のところ、自分自身で気付くのがもっとも大切です。そのためにはやはり本人がプレーに対して意図を持っていなければいけませんし、聞かれたときには答えられるように、普段からしっかりと考えていなければいけません。普段の思考とプレーの意図は直結しますから、〝問いかけ〟は指導者として必須の行動です。
考える。意見をもつ。理解する。スポーツはこうした作業を頭の中で繰り返していくことが、本来あるべき姿です。スポーツは、体を動かすとともに大変高度な知的作業でもあるのです。
「いまのは振り遅れた。次のストライクに備えて、バットを短く持とう」「もう少し打席の後ろに立とうかな」「いや、少しだけポイントを前に設定して振ってみようかな」 野球は一球と一球の間に約15秒の〝間〟がある競技ですから、その〝間〟を使って、このようにしっかりと考えなければいけません。9回まで想定すれば両チーム合計で300球近くになりますから、頭を働かせたか否かの違いは当然、大きなものになります。
選手を大人扱いしているからこそ、こちらが驚くような提案をしてきてくれることもあります。2019年度に卒業した吉田豊博は、手術を余儀なくされるほどの故障を肘に抱えて、最後のシーズンはプレーを断念したにもかかわらず、野球やチームへの気持ちを途切らせることなく、ある方法でチームに貢献しようとしました。 その方法とは、さまざまなデータをより細かく分析していくセイバーメトリクスです。 彼が2年生の冬、A4用紙20枚ほどのレポートを持って、私のところにやって来ました。聞けば、夏から秋にかけてのすべての練習試合のスコアブックなどを見直して集計し、打率や防御率といった一般的な数値ではなく、セイバーメトリクスのOPS(打撃での貢献度)などの非常に細かい指標をすべて算出してきたというのです。こちらが頼んだわけではなく、それにもかかわらず感動するほど精密なもので、大変に驚きました。数値や成績ばかりでなく、理想の打順や、投手のタイプ別診断といったところまで内容は多岐にわたり、大学生でも簡単には作れないようなレベルのものでした。 理由を聞けば、もともと野球を分析的に見たり、数字で考えるのが好きなタイプで、それを自分が所属するチームで試してみたかったそうです。またプレーで貢献できない分、こうした分析的な視点でチームを見ることで貢献しようと考えたようでした。
例えば盗塁のサインが出された場合、「分かりました。そういう指示なら走ります」と思うだけの選手と、「そうですよね。そろそろ盗塁のサインが出ると思っていました」と先読みをして納得する選手では、後者のほうが、頭が働いていることは明白です。このような無言の会話が常に行われるチームが理想の一つと言えます。
頓挫はしましたが、これは継続的なテーマであり、本来は監督が逐一サインを出さなくても、また究極的には監督がベンチにいなくても勝てるチームが理想の姿だと考えています。他
だからこそ慶應義塾高校野球部は、〝好きだからやっている〟〝だからこそ努力できる〟〝だから苦しいことも頑張れる〟という基本姿勢でいたいですし、こうした考え方を提示していくことが部の役割ではないかとも思っています。 また、その姿勢は、慶應義塾高校野球部のテーマである「エンジョイ・ベースボール」につながってきます。これはただ楽しく野球をしようということではなく、より高いレベルの野球を楽しもうという意味です。その高いレベルに到達するためには、自ら進んで取り組むという意識がすごく大事で、そちらのほうが最終的には高いところに行けるのではないでしょうか。
個人とチームのバランス 選手たちが野球を楽しみながら取り組めるようにするために、監督、指導者がするべきことは、「選手が何を目指しているのか。その目標に向かってどれほど進歩しているのか」をじっくりと観察することです。選手はそれぞれ、「こういうふうに打ちたい」「こういうふうに投げたい」など、独自に考えるものです。そうであるにもかかわらず、指導者が余計な指示を与えたり、余計な指導を施してしまうと、選手は主体性を失ってしまいます。仮にうまくいったとしても、それは決して自分でつかんだものではなく、さらに悪い結果が出た場合には「監督がそう言ったから」という言い訳を口にし、責任転嫁を始めがちです。
社会で活躍できる人の共通点として挙げられるのは、自分を客観視できること。自分なりのアイデアを持ち、自分自身の強みを知っていて、それを伸ばす努力ができる人は、社会に出てどんな仕事に就こうとも通用します。
感覚としてもっているのは、選手一人ひとりが正しい方向に努力できるように、ドローンの視点で斜め後ろあたりから見続けてあげること。選手個人もチーム全体も、努力の方向性が間違っていないかどうか見守ってあげる。それが間違っていた場合、無駄な努力になってしまいますから、正しい方向に導いてあげるのが指導者の仕事だと言えます。
「任せて、信じ、待ち、許す」 私は選手に対して、「任せて、信じ、待ち、許す」という態度を指導における信条としています。
ただし、目先の勝利と一人ひとりの何十年後の成長のバランスを考えると、目先の勝利だけにとらわれるのは選手のためにはならないでしょう。型にはめ込んで言うことだけを聞かせ、分刻みのスケジュールですべてを管理するのは、選手を将来的に大きく伸ばすという意味では間違っているのではないか、というのが私の考えです。もちろん、さまざまな考え方があって当然ですが、私自身は選手を信頼した上で勝ちたいと思っています。
野球はルールに則って勝敗を競い合うスポーツですから、勝利を目指すことは大前提です。その上で選手一人ひとりを野球でも、人間としてもいかに成長させていくか。勝利と育成。その究極の両立を実現させることが、指導者としての目標、原点であり、私自身も含めて多くの方が悩まれていることだと思います。
指導者に物事を多角的に見る力さえあれば、一面的にはダメに見える選手にも、良いところが見えてくるようになるのです。選手のいろいろな面に光を当て、さまざまな角度から見てあげられる指導者がいい指導者だと思いますし、私自身、そうなるために努力を続けています。
これは野球に限らず、すべての大人に当てはまります。少し時間がかかったとしても、大人が我慢して、子どもの失敗を許容できるか。いまは目先の数字、成果や結果ばかりが求められる時代だからこそ、この姿勢は意味を持ちます。世の中の出来事は、数字で測れることばかりではありません。大人の仕事にしても、数字を残す人以上に、地道に信頼関係を作ったり、多くの人が嫌がるようなことをできる人が本当は評価されるべきです。こうした意識、姿勢を持っ��、どれだけ我慢して選手と向き合えるか。そこが指導者として試される部分ではないでしょうか。
慶應義塾全体で目指す人物育成の大きなテーマとなっているのが「独立自尊」。簡単に言えば、個人個人が自分で判断して、考えて、行動するということです。高校生への野球指導で根幹になっているのと同じように、小学生であってもその年齢なりに考えて行動してほしいと思っています。
指導者は結果だけを見るのではなく、プロセスや意図、積極性といったものを評価してあげなければいけません。もちろん結果を出すのは大事なことですが、その途中で失敗やミスがあるのが野球であり高校生です。「失敗してもいいよ」「結果だけを見ているわけではないよ」ということを意識して、私は指導にあたっています。
です。人間は基本的に自分がしてきた経験の中で生きているので、実際に経験していないことをどれだけ取り入れていけるか。そこに貪欲であることが優秀な指導者の条件の一つだと思いますし、自分が成長すれば、当然、それは選手にも還元されていくはずです。
その結果として得られるのは、一つの物事を多角的に見られる視点です。例えば試合に負けたとき、「こんなミスやあんなミスがあった」「こんな準備が足りなかった」「相手のここが素晴らしかった」「次はこんなふうにしなければならない」など、一つの敗北からたくさんのことが見えてくるようになります。その数が多ければ多いほど、良い指導者と言えるのではないでしょうか。
それでも可能な限りは、一人ひとりの課題に合わせた〝オーダーメイド〟の練習を行っていくべきでしょう。守備が課題であればノックを多く、コントロールを高めたい投手であれば体のバランスを向上させるトレーニングなど、それぞれの課題やウィークポイントに見合った〝オーダーメイド〟の練習に臨むべきです。 こうした練習を実現させるためのキーワードは、選手の〝目的意識〟です。
また、選手と常にコミュニケーションを取り、「いまはどんな意図、目的で練習をしている?」と聞くことも、指導者にとっては大事な仕事です。もし選手からの回答が適切なものでないと感じれば、その都度話し合って、修正を施していきます。
もちろん監督自身がマンツーマンの熱血的な指導を施してもよいのですが、慶應義塾高校野球部の場合は、10名以上在籍する学生コーチが個別に、ノックやピッチング練習などで選手と向き合ってくれています。そのため私は、それらの個別練習がうまくいっているかどうかを見極めたり、コーチの配置を決めるなどのチーム全体をまとめる仕事に専念することができます。そういう意味では、選手やチームに真摯に向き合ってくれる学生コーチたちには感謝の思いしかありませんし、チームにとって絶対に不可欠の存在と言えます。
学生コーチには常々、「どんどんやってみなはれ。責任はこちらが取る」と言っています。そうすると彼らは、私が知らないこと、気が付かないようなことまでどんどん提案するようになってくるのです。
例えば同じホームランでも、「なんとなく来た球を思い切り振りました」という一発と、「投手が変化球のコントロールに苦しんでいて、カウントもボールが先行していたので、次は直球でストライクを取りに来ると思い、それを待って打ちました」という一発では、まるで意味が違います。打撃に限らず、守備も、配球もすべて同じです。意図がなければ、次に同じような場面が来たときに再現、または修正ができない。
1打席目は打ち取られたけれど、もう一度そのボールが来れば打てるという自信と判断。さらには「打たせてほしい」と直訴できる勇気。負ければ終わりのトーナメントの最中、しかも東海大相模という強豪を相手にした究極の状況の中で、彼がそうした判断を瞬時に行って、勇気を持って私に言いに来たことに心から尊敬の念を抱きました。
どうすれば多く得点でき、失点を少なくできるかという状況判断が連続して起こるのが、野球というスポーツです。そのため、指導者がすべての場面においてサインで動かしてしまうと、選手は「サイン通りやればいい」という受け身の姿勢になってしまい、まさに指示待ち族を大量生産するだけに終わってしまいます。
ノーサインで試合を進めていた場合、私が「ここで盗塁すればいいのに」と考えていた場面で、実際に選手がスチールを試みる。あるいは、仮に私が盗塁のサインを出したとしても、それを受け取った選手が「そう来ると思っていました」と思えば、これもベンチと選手の意図が一致したことになります。ベンチ、走者、打者で意図の一致が起きれば、成功率も間違いなく上昇します。
いずれにせよ、いま行われている練習は何のためにやっているのかという意識が高まると、意図が生まれてきます。その結果、変化が生まれてこなくてはいけませんし、何のための練習なのかということを、選手一人ひとりがはっきりと言えるようになっていかなくてはいけません。「キャッチボールをやっています」ではなく、「キャッチボールでは芯で捕ることを意識していて、素早い握り替えを身に付けようと努力しています」などと言えるのが理想。
自分がプレーヤーだった高校生のときは、どうしてもチームのことよりも自分のことに目が向きがちでしたが、コーチという立場になると、チーム全体を良い方向に導くためにはどうすべきか、そのためには選手一人ひとりをどのように成長させるべきかといった、より俯瞰的な視点で野球やチームを捉えられるようになりました。そしてその中で、学生コーチである自分は何ができるのか。そのようなことを日々考えているうちに、現役でプレーしているときよりも野球が一段と面白くなっていったのです。
だからこそ一人ひとりが自分のやりたいことだけではなく、チームのために自分はいかに貢献できるかという視点を兼ね備えなければならない。そして、当時コーチだった私は、チームをそういう方向に持っていけるかどうかに面白みを感じました。
私自身は、選手たちに「物事をシーソーで捉えてはいけない」という言葉を使って、こうした問題と向き合っています。勉強を一生懸命に頑張ると野球がおろそかになる、あるいはその逆も含めて、2つの選択肢でどちらかを取ったがために、もう一方がダメになる考え方を戒めています。これは勉強と野球の関係に限らず、個人と全体、攻撃と守備など対極で捉えられる事柄にはすべて当てはまる���思います。 このように、どちらかに振り切ったがために一方をおろそかにしてしまうのではなく、「X軸とY軸で捉えなさい」と伝えています。X軸とY軸とは中学校の数学で学ぶ関数のグラフのことで、どちらか一つのこと(X)を頑張ったときに、それに比例する形でもう一つのこと(Y)も伸びていく。二者択一ではなく「二刀流」のイメージです。それを理想として目指しなさいというのが、私自身、ひいては慶應義塾高校野球部の哲学です。
例えば「どうすれば、バットがボールに当たるようになると思う?」と聞いて、その選手なりの答えを引き出してあげます。お互いにディスカッションしながら答えにたどり着くという意味では、双方向のコミュニケーションが重要であり、それこそがコーチングです。
最終的には選手自身に気付かせたり、その選手が努力を始めるように持っていく。こちらが答えを与えるのではなく、本当の答えは本人の中にあり、それに気付かせてあげるのがコーチングの基本的な考え方ではないかと私は解釈しています。
こうした場面がもう一度来たときに、どうすればいいのだろうという話し合いが始まりました。捕手としては自分が投げさせたい球をしつこく要求する、あるいはタイムを取って2人で話し合う。またタイムを取って監督である私に意見を求めるなど、いろいろな選択肢があったかと思います。 どの方法を選択してもよいのですが、少なくとも捕手が「こちらのほうがいいんだけどな」という思いを残したまま投手に引きずられたのは非常に後悔が残りますし、投手の生井も、自分の投げたい球で抑えたいという欲求は理解できたとしても、あの場面では捕手を信頼するべきだったという反省もあります。その一方で、もっと厳しい球、もっといい球を投げられるように力を付けることも、投手としてやるべきことです。唯一の答えがあるわけではありませんし、だからこそ「あのときどうすればよかった?」と聞いて、コーチングを施すことに意味が生まれます。
それに対して、私が「こうしたら抑えられる」なんて、とても言えません。彼らが「ここを強化していこう」「ここをポイントにしよう」などと悩みながら歩みを進めているのを見守り、ときに一緒に議論しながら夏の甲子園を目指しました。こうした選手の成長をその隣で見ているのは、監督である私にとって一番楽しい時間でもあります。また私自身にも新しい学びがあり、選手と一緒に成長しているような実感がありました。
また打線も、もっと打てるようになるために、選手やコーチから「速い球を打つために、こうしたいです」や、「追い込まれたカウントでの練習をやりましょう」などといった提案をしてくれて、そこにも面白さを感じました。
2年間の研究では明確な結論は出ませんでしたが、それでも現在の指導に生かされている部分は多くあります。例えば投手に対して、「自分の100%で投げたとしても、意外といい結果は出ない。だから少しだけ力を抜いて投げてみなさい」と、研究結果を下地にしたアドバイスができます。この〝少し〟が難しく、抜き過ぎてしまうと一定以上の力のあるボールを投げることはできません。そのさじ加減を選手が習得できるように、最高のパフォーマンスを出すための秘訣を一緒に探る努力は続けていきたいと考えています。
チームの勝利、個人の成長という目標を達成させるためには、選手個々で各人に見合った理想像を描かせなければいけません。そのためにはまず、選手自身の正しい評価となる自己評価をきちんと設定させてあげることがとても大切です。
このようにして、自己評価と他者からの評価をある程度すり合わせていかなければ、社会に出てからつらい思いをするのは、その選手です。自分の立ち位置をしっかりと把握するために、自己評価を正しくできる人間にしてあげることも、指導者の役割だと考えます。 また、年に2回ほど、自己分析シートを書かせることも試みています。自身の長所や短所、いまは何ができて、何ができていないかなどを書かせて、それをもとに個人面談を行うという形です。その際に、自分では強みだと思っている部分も「悪いけど、たいしたことない」と伝えたり、逆に弱みと思っている部分に対して「いや、それをうまく使えば逆に長所になるよ」といったように、アドバイスをしていきます。
だからこそ正しく自己評価をし、他者からの評価とすり合わせて、目指すべき理想像や具体的なイメージを作っていく。すると正しい努力ができるようになるのです。
さらに、このようにグッと伸びる選手がチーム内にいると、他の選手にも「こうすればいいのか」という気づきが増え、つられて伸びていくということが起きるわけです。
2人に共通して伝えたことは、「強みを生かしてほしい」ということでした。瀬戸西は守備がうまく、動きもよかったので「守備のスペシャリストになってほしい」、西澤は視野が広く、賢く、投手を鼓舞できるタイプだったので、「いいキャッチャーになれるから、自信を持って自分の思った通りどんどん投手陣を引っ張ってくれ」と伝えました。
こうして責任や権限を持たせると、高校生は本当に伸びます。最後はすべて監督が決めるという仕組みでチームを作ると、選手はいつまでも自立せず、監督頼みのチームになってしまいます。そうではなく、「最後は一人ひとりが勝負するんだ。だから基本的に自分が思った通りやっていい。最後の責任はこっちが取るから」と伝えるだけで、選手の心の躍動感が違ってくると思います。
とは言え、それでは話が進まないので、選手のどこを見ているかという点で一つ挙げるとすれば、〝安定した態度や集中力で練習や試合に取り組めているか〟を注視しています。私がその場に居るか居ないか、コンディションがよいかどうかなどの条件の違いで、すぐに態度や集中力に変化が出てしまう選手はなかなか信用できません。
どんな状況、コンディションであろうとも、最低限このくらいはできるといった安定感や、そうするための努力ができるかどうかはよく見ています。
その波が大きい選手は、将来的に芸術家や芸人など、ある分野では花開くかもしれませんが、確率が求められる野球というスポーツの中で、チームを勝たせるために安定的に貢献できるかと言えば、それは少し難しいところがあるでしょう。
本番の試合でも、精神的動揺が少なく安定した状態で臨めるかという点を大事にしています。心を整える力です。 いいプレーがあったときにはテンションを高く保てたとしても、ちょっとしたエラーで極端に気落ちしたり、打たれてベンチに帰ってくるとまったく元気がなくなったりという選手は、チームスポーツを行う上ではやはりマイナスになります。いかにチームにマイナスを与えず、常に前向きでいられるかどうかはとても大事です。練習試合、さらには公式戦になると、そういう波はより出やすくなるので、ことさらよく見るようにしています。
のは、「取り返そうと思うのもダメ。落ち込むのもダメ。次は次だと切り替えて、いつもの状態でやりなさい」ということです。これこそが本当の意味での前向きな思考であり、波を小さくして心を平らにすることだと思います。
ホームランを打たれた投手が気落ちして、次の打者にフォアボールを出し、また打たれてしまい、大量失点というのが高校野球でよく見られるパターンです。しかしそこで、「まだ1点入っただけだ。次の打者を打ち取れば問題ない」と思えることが何よりも大事。落ち込んでもいけませんし、「絶対に抑えなきゃ」と力んでもいけません。
例えば、春夏連続出場に成功できた2018年の夏の北神奈川大会準決勝は、強豪・東海大相模との大一番でした。こうした否が応でも緊張感が高まるゲームでは少しリラックスさせてあげたいので、「お客さんがいっぱい入っている球場で試合ができるのは幸せだよね」という話をしました。また相手が相手だけに、選手は勝てるかどうか不安に思っている部分もあるので、相手の弱点を伝えて、そこを突けば十分に勝負できるという話もしました。
ちょうどいい緊張感を明確な数字で表すことはできません。緊張のし過ぎもいけませんし、逆に緩い状態でも落とし穴にはまります。野球に限らず、スポーツは適度な緊張状態の中でこそ一番いいパフォーマンスが発揮されるものなので、選手の緊張の度合いを正確に把握し、何を言うべきか、あるいは何も言わないほうがいいのかを判断していくのです。
良い指導者とは状況によって、今日はこれ、明日はこれと自身の引き出しからいろいろなカードを出せる人のことをいうのではないでしょうか。私自身、そういう意識を強く持っています。
絶対にやらなければいけないのは、終わった試合を次にどう生かすかということ。
このケースでは、チームの雰囲気を感じ取り、私ではなく選手から先に話してもらったことが重要だったと思います。
では、いい練習とは何かと言えば、その日の練習を自分が納得するまでやりきるということです。試合において自信が持てるかどうかは、自分自身が毎日やれることをやりきったかどうかで決まるので、毎日いい練習をするしかありません。それを毎日積み重ねれば、やれることはやってきたと思えて、打席やマウンドに立てる。また、そういう選手に対してなら、メンバー外の選手も「頑張れ」と言って送り出せると思います。
では、いい練習とは何かと言えば、その日の練習を自分が納得するまでやりきるということです。試合において自信が持てるかどうかは、自分自身が毎日やれることをやりきったかどうかで決まるので、毎日いい練習をするしかありません。それを毎日積み重ねれば、やれることはやってきたと思えて、打席やマウンドに立てる。また、そういう選手に対してなら、メンバー外の選手も「頑張れ」と言って送り出せると思います。
の対戦相手である高知商業のビデオを見せて、「次の相手は強い、大変だぞ」と相手を大きく見せて、そこにぶつかっていくための戦う気持ちを作ってあげるべきだったと、いまさらながら感じています。
また試合が近くなると、グラウンド全体を攻撃側と守備側それぞれ9人の合計18人で占有した練習を行わざるを得ない状況も出てきます。その際、残りのメンバーはグループ分けを行って、ウエイトトレーニングとティーバッティングを交互に行わせたり、あるいは勉強させるためにあえて見学させることもあります。 こうした組み立ては、私の日課です。その日の練習が終わったあと監督室に戻り、あれこれと思案を巡らせながら、翌日の練習メニューを組み立てていきます。「この時間に守備の練習をしたらどうだろう」「投手がこの練習を先にするのなら、外野には別のメニューを割り当てないといけないな」などと考えていき、気が付くと2時間近く経っている日も少なくありません。
大切なのは、選手が自分の頭で考えて判断し、プレーしているかどうか。ミスが起こったとき、私はその選手に「いまはなぜ2塁に投げたの?」などと聞きますが、返ってきた答えにその選手なりの根拠や考えがあるかどうかを重視します。 つまりは、表面的にそのプレーがうまくいったかどうか、アウトになったのか、セーフになったのかという結果だけを見るのではなく、どういう意図や狙いがあってそのプレーを選択したのかということが重要なのです。仮にアウトにできたとしても、もっと良い選択肢があったのかもしれません。そのことに選手本人が気付いているかどうかが大事で、目の前で起きたプレーに対して、「ナイスプレー」「それじゃダメだ」と言うだけなら誰でもできますし、それはチーム全体を司る監督の仕事ではありません。
繰り返しになりますが、それは間違いなく、野球以外の選手の将来にも役立ちます。会社、家庭、人間関係、いずれにおいても人間である以上、ミスから逃れられません。そのミスを次にどう生かすかが大事なのは野球と同じで、将来においても役に立つというヒントを選手に与え続けたいと考えています。
また時折、「そもそも、これって何のためにやっているの?」と聞いてみて確認することもあります。
一つひとつのプレーに高い意識を持ち、それが終わったあとに丁寧に振り返って、次にどう生かしていくのか。ミスが出たときには、そのミスをどう扱うのか。いかに次に生きるように働きかけられるかが、他校との違いを生むと信じています。 そのために、全体練習のメニューの中に、できる限り個人練習の時間を作るようにしています。例えば、コーチにスイングを見てもらったり、ボールを転がす形のノックを受ける。あるいは、やわらかいボールやバドミントンのシャトルでバッティングを行うなど、個人で特に伸ばしたいところや、自分で弱点だと思うところを補うための時間です。私としてはこうした時間を、一日の中で短くてもよいので、必ず確保してあげたいという思いがあります。全体��習と個人練習、そのいずれにおいても意識を高く持って取り組むことができれば、特別な練習メニューは必要ないと言えるのではないでしょうか。
私はその中で、叱られた選手のフォロー役に回ることが多くありました。練習後に、「あのとき監督がああいう言い方をしたのは、君にそのプレーをする上での大事な視点が欠けていたからだよ。だから、そういう視点を持てるように頑張っていこう」など、監督が言わんとしていることを噛み砕いて、きつく言われた選手に伝えるような作業を繰り返していました。あるいはモチベーションが落ちかけている選手には、再び前向きになってもらえるような言葉がけをするなど、フォロー役をしながら、チームスタッフにはさまざまな役割が必要であることを強く実感しました。
私も指導者としての成長を目指しているので、選手には「一緒に頑張ろう」ということを口に出して伝えています。 当たり前のことですが、自分自身を完璧に見せたり、偉大に見せたりする必要はまったくありません。
自分が日々少しでも成長できることは喜びや楽しみであり、だからこそ高校野球の監督を続けています。多くの指導者の方にこうした楽しさを感じてもらいたいと思いますし、指導者が成長していかなければ、チームも成長していかないのではないかという思いは強く持っています。
そして、初めてチームに所属したのは、中学で慶應義塾普通部に進学してからのことになります。このとき幸運だったのは、実戦的なプレーの練習をたくさんさせてもらえて、野球をとても勉強できたことにあります。ランナーを置いた状態でのノックの練習などで、「走者はこう進むから、次はボールをこっち
2023/09/18 08:35
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今年の夏の甲子園を制した慶應義塾高校野球部、監督による監督術、高校野球との向き合い方を著した本。3年前に書かれた本だが、今夏の優勝でまたよく読まれているようだ。
内容は、現代のスポーツ(特に若い人たちの団体戦)に関して、基本的な姿勢を著し、現代では当たり前であると一般人には思えることがわかりやすく書かれている。
3年前に書かれているので、内容も少し古いなと感じるところもあるが、旧態依然とした野球指導をしている人たちや親世代も多いのだろうと感じる。
スポーツ指導者の基本のキ、を伝える一冊だ。
2023/09/27 12:07
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スポーツの新しい価値観を学ぶことができた
知っているようで知らない、スポーツの価値と呼ばれるものを知ることができる
指導者も、選手もこのようなかんがえでスポーツに関わればいいのになぁと思える一冊
2023/11/14 20:26
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2023年の甲子園(夏)に優勝。
夏の甲子園は一夏の一戦にかける思いが伝わり感動をもらえるので毎年楽しみに拝見していますが、甲子園に出場する選手達は小さい頃からプロさながらの野球漬けのイメージ。
慶應義塾とはいえさすがに甲子園出場、ましてや優勝するほどの結果を残すためにあらゆる犠牲を払って野球にかけなければ勝てないのでは?他の名門校の違う何かあるの?そんな事が気になり本書を手にしてみました。
●心理的安全性
→押しつけではなく選手の考えを尊重
●野球への危機感
→少子化、野球を子供にさせることの負担、野球以外のスポーツの台頭、子供たちは野球を楽しんでいるか?
●高校野球の再定義
→高校の部活動で野球をすることの意義
高校野球の経験を通して、考えること、成長すること、スポーツマンシップを身につけること
高い目標をもちながら理想を追求する。
甲子園常連校にさと比較して圧倒的に練習時間がない中で、どう質をあげて練習ができるか?1つ1つに高い目的意識をもって練習メニューをくみ、一人ひとりに合わせて野球に向き合う部分に感銘を受けました。
野球以外も通じるマネジメントのあり方。
この手法や考えが正確ではないとは著者も述べられていましたがとても学ぶべきことが多い内容でした。
2024/02/02 21:43
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考え方リスペクト。
大人の「こうやっときゃ良い」黙れ。誰がするか。と思って生きてきたから(草)子どもたちには自分で感じて思って、考えて、行動して。って思って、言うて育ててて。パパやママが「えぇえええ!」て仮にこの先反対ちっくなこと言うても絶対自分を貫いて!って言うてるけど、ほんまこんな監督に、指導者に出会って欲しい。
答えって一つじゃないから、毎回自分で悩んで、選んで、やって、違ったらまた違うやつやってってどんどん失敗と経験と成長してって欲しい。
自分で選ばせるけど、育児放棄にはならんようにある程度気づかせつつ、って感じの指導法もほんまリスペクト。
社会で活躍できる人の共通点が、自分を客観視できる事。て言うてはって、私がめっちゃ欠けてるところやーーーって反省もした。今年のモットー「自分を客観視する癖をつけて、自分の強み見つけて、そこ伸ばす努力をする」にする!ママも頑張って成長する!我が子たちも毎日楽しく!ふぁいと!!
2024/02/25 15:17
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意外と普通の内容だった。「部員の主体性」「指導ではなく考えさせる」そうしたフレーズは、割と現代的なコーチング手法として語られることです。もう少し具体的なエピソードやすったもんだが読めると良かったです。
2024/03/02 22:40
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息子が12年間野球をしてきて、私も野球のあり方についていろいろ考えてきました。
森林さんのおっしゃるように、私も野球を通して考える力をつけ成長できることが何よりも野球をすることの価値だと思います。
どんなスポーツでも、どんな社会においても、こうであるべきという固定観念に縛られず、自分で正しいと思うことを実践して変えていこうとするのは大変なことだと思います。
まして「甲子園」など国民的に「らしさ」を求められている野球においてはいろいろ反発もあることでしょう。
息子も野球を通して、よく考え、試行錯誤をして壁を乗り越えることを学ぶことができてよかったとなと思います。
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