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「少しでも安い原材料」
「最も安く製品化できる場所」
の裏には、
低賃金労働や安全性の不安、不当な買いたたきなどがある。
現状、このような儲けを最優先する資本主義、金融資本主義的な価値観が主流である。
しかし、2025年以降、サステナビリティ的価値観が主流になると著者はいう。
『ミレニアム世代(2000年以降に成人した世代)は、これまでの資本主義に非常に懐疑的で、サステナビリティを重視する価値観を大事にしている。そのミレニアム世代の人々が、2025年を境に生産年齢人口の過半数を占めるから』だそう。
資本主義がサステナビリティ主義に完全に取って代わられる、とは私は考えない。資本主義が完全に崩壊するとも考えない。
ただ少なくとも、持続可能性を重視する人が今より遥かに増えていることは間違いないだろう。
ならば企業は、変化した顧客の価値観に対応する必要がある。
世の中の変化を見越して事前に取り組むのか
世の中が変化した後に、事後的に対応するのか
この2つでは意味合いが全く違う。
事前の取組みは「あの会社の考え方、方向性」として捉えることができる一方、事後的な対応では「顧客に受け入れられるため」というニュアンスで受け取られても仕方がない。
「それは儲かるのか」という視点だけの在り方から、
「それは儲かる、かつ持続可能なのか」という二刀流の判断基準を意識しなければならない。
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大学生の時、バングラデシュでソーシャルビジネスに出会った著者。後に自ら興した会社で、ただ儲かるのではない、持続可能なのかを判断基準にした事業を推し進める。2025年に世の中の価値観が変換することも予測。
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2011年東日本大震災やミレニアル世代が世の中を変える。
物不足だったころは性悪説だったが物などある時代はシェアリングエコノミーなど性善説を前提に世の中を変えて言っても良いのではないか。
SDGsにも日本には三方よしなどが昔からあるため取り組みやすいのではないか、と言っていることに共感した。
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・2025年で、資本主義社会(金融資本主義)から持続可能なビジネスつまりサステナブルビジネスに社会の構造が変わる。
・貧困や飢餓や環境に対する取り組みを企業が社会貢献のアピールのためではなく、本気で行なっていく時代が来る。
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2025年ミレニアル世代によって世界は変わる!
本物のサステナブルとはこうゆう事か。出雲社長の志が伝わる良書だと思う。サステナブル企業日本代表かな?
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ユーグレナがミドリムシの会社だとは知っていたが、ソーシャルビジネスの会社だとは知らなかった。多くの会社のサステナビリティ活動は表面的だったり下手するとグリーンウォッシュだったりする印象だか、ユーグレナは本気でサステナビリティが会社の存在意義になっているようで素晴らしいと思った。
2025年にはミレニアル世代が生産人口の過半数を超えるので金融資本主義ではなくソーシャル/サステナブルビジネスが主流になるというのが著者の信念。そうなればよいと思うが本当にそうなるのか私は疑ってしまう。他にも本書には「私は信じています」という表現が何度も出てくる。起業家というのは信念の人なのだろう。こういうのは自己予言的な面もあると思われ、変化を信じることによって実際に変化を起こす著者のような人の方が、変化を信じないことによって実際に変化を妨げる人よりよいと思う。著者によれば、2025年以降になっても金融資本主義による成長を追求するのは宇宙ビジネスに挑む特殊な人だけになるという。こういう話は他の科学者からも聞いたことがある。宇宙産業以外で成長を目指すのは的外れな時代なのだろう。
本書で一番面白かったのが、「演繹的なITや金融、帰納的な農林水産」という節。グローバル化、金融資本主義、GAFA、バナナ農業等は、一つの正解を全世界に一律適用する演繹的な方法をとるが、これは持続可能ではない。一方、農林水産業は基本的に一つの理論によるのではなく、現場の個々の事例から試行錯誤を繰り返す帰納的な方法をとり、これは多様性を生み持続的である。日本は演繹的な発想とは相性が悪く欧米には勝てないが、これからは帰納的な発想が大事になるのでチャンス。というような話。私は法律に携わる仕事をしているが、法律も基本は演繹的だと思う。法的三段論法とか。ただ、欧米は演繹的、日本や東洋は帰納的と必ずしも言えない気はしている。例えば英米の判例法は帰納的、日本の中央集権の官僚制は演繹的ではないのか?また、欧米のビジネススクールでは、帰納的な試行錯誤を推奨していないか?このあたりは突き詰めて考えても面白そうだ。演繹・帰納の話は、本書の直前に読んだ「言語の本質」にもあって、自分の中で繋がった感覚がある。
なお、本書には「身体性」というワードが随所に出てくるが、これも「言語の本質」にも出てきた。この言葉の濫用は論理軽視に繋がる気がして個人的には少し警戒している。
また、本書には「ハイブリッド(いいとこ取り)」という発想も随所に出てくる(ソーシャルビジネスはNPO/NGOと株式会社のいいとこ取り、ミドリムシは植物と動物のハイブリッド生物でありその培養は農業でありながら指数関数的に増えるという金融資本主義的な面もある、都市と地方のハイブリッドな働き方、科学と哲学のハイブリッド、世代のハイブリッド等々)。一方、プロローグでは、コロナ禍の外出自粛下でのGo To トラベルを二兎を追うものだと批判もしており、この辺りの考えをどう整理したらよいのかは疑問に思った。
科学と哲学のハイブリッドは、本書では複雑系という切り口から導かれる。感染症は複雑系。複雑系という正���分布に収まらないもの=自然界のものは、フィードバックが無限にかかっているので統計的に処理できない。だから、原理的に科学では解決できない。このような事柄については、科学ではなく宗教や哲学で考え続けていく必要がある。というような流れ。
世代のハイブリッドということを語っているのも興味深いと思った。ジェンダーより、世代や地域のダイバーシティの方が重要という著者の意見には目から鱗が落ちた。環境問題はグレタ氏のように上の世代の批判になりがちだが、著者はもう少しバランス思考。世界が変わってしまうことを不安に思ったり、これまでの世界=金融資本主義に疑問を持っていたりする上の世代にも配慮・期待する姿勢がある。ただし、ビジネスでの成功体験を語る上の世代に対しては、上っ面の金儲けの方法を語るのに等しく、それは下の世代に伝えるべきことではないと手厳しい。
本の最後には著者が信奉するムハマド・ユヌス氏のメッセージ。著者よりもユヌス氏の方が課題解決や起業に前のめりな印象。