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自閉症と文学の相性。
文学とは、心のモヤモヤを、あえてそのまま
表現しようとする試みである。
「知覚可能な抽象」
自閉症者は、超具体の世界に住む。
今ここに生き、情報を選択しない。
抽象が理解できない。
文学は、知覚可能な抽象として、
自閉症者に抽象のあり方を指し示す。
例えば、詩のリズムは、予測可能性により、
自閉症者に安心を与える。
今ここに生きる自閉症者に、未来を見せる
可能性を秘めている。
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自閉症者がどうこう以上に、”読むとはどういうことか”について考えさせられた。
私はどう読んできただろう。。。
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いろいろなタイプの自閉症者6人それぞれと、共に小説を読んだ記録。自閉症の子は特殊な能力を持ってる子が多いよね、なんて軽く言ってしまっていたことを反省する。そんな安易なことではなかった。彼らの読書体験を追うことで、その複雑さ、並外れた感受性や洞察力に出会う。
なんてえらそうに感想を述べているけど、専門的な言葉も出てくるし、論文的な内容でもあるので、難しいところも多々。以前読んだ『クシュラの奇跡』をもっと学術的にしたような。
でもそんな私のような読者にも伝わってくるのだ。やっぱ小説ってすばらしい、ってことが。
ーーー
文学的な言語は海のように揺らめき、私たちは思考を構成する言葉の周囲を泳ぎ回ったりその底に潜り込んだりできる。
ーーー(p108)
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印刷された言葉に身を浸すのは、砂漠の水のようなもの。本だけが言葉の発し方の理解につながる道。
ーーー(p129)
あと、音楽や詩(つまりリズム!)は、脳が仮説をたてるときの助けになる、馴染みある音楽を聞くと運動系が活性化することが明らかになっている、というのも興味深かった!アスリートが競技前に音楽を聴いたりするのも、プロ野球の応援歌があったりするのもそういうことなんだ、きっと。
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すんなり理解できるほど
こちらに力がなかったのが残念〜。
読書を通じて自閉症者の内面を知ることは
お互いの理解を深める一助になる
…らしいと何とかわかりました。
何人かの自閉症者と小説を読み
学生と教授のゼミのように
物語の意図するところなどを語り合うのですが
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』に
挑戦した章がおもしろかったです。
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脳科学に興味を寄せる文学教授が、自閉症者と一緒にアメリカ文学を読んでみた記録。
面白かった、という感想は、本文中で「僕が本気で傷ついた会話を楽しみのために消費してほしくない」と語る人がいるので憚られるのだが、それでも面白かったと言わせてほしい。ニューロティピカル(脳神経的なマジョリティ)が「自閉症者に文学の意味がわかるのか」などと議論しているあいだにも、言葉は読まれ、新しく解釈され、遊ばれているというワクワク感。もっとこの世界の新しい見方を教えてほしい、と思ってしまった。自閉症者の読み方もクィア・リーディングであると教えてくれる本である。
「消費してほしくない」と言ったのは、著者サヴァリーズの養子であるDJだ。彼は話さないASDでありながら一般の大学へ進学した。上記のセリフはサヴァリーズがDJの半生を綴った本を出版した際に、彼が言った言葉だという。一方、12歳にして自著を出版するという実績を持ちながら、大学から入学を拒否されたティトという青年もいる。彼の切実な訴えに応えるかたちで、サヴァリーズは週一のスカイプ授業を開始し、ついに自身が講師を務める大学の創作コースにティトを(ウェブ参加というかたちで)招待する。
学ぶことに対するティトの飢え、自らの可能性を他者が決めることに対する怒り。そうした感情が創作コースでの『白鯨』読解に結びついていく。物語の進行上、殺されるのが必然のように描かれる鯨にティトは深く感情移入する。それは単に自閉症者が人間よりも動物に入れ込みやすいという要因だけではないと思う。マジョリティが生みだした、自分たち向けではないものに囲まれ続けているストレス。"病気"であるがゆえに奇異の目で見られ、医師や研究者から常に"観察" "分析"される。社会が彼らを扱う手つきを考えれば、自閉症者が人より動物にシンパシーを感じるのは当たり前なのだと思う。
プログラマーで、自分でもSF小説を書くというドーラと一緒に『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を読む第3章は特に刺激的だった。SFというジャンルの成立自体にASDが関わっていること、ディックが描いた「感情移入検査」は自閉症者が受けている差別の構造にとても近いこと、自閉症者は非自閉症者の3倍共感覚を得やすいこと。初めて知ることばかりだった。読者を機械やテクノロジーに感情移入させるのはSFの面白さのキモだと思うのだが、それを理由にSFを「文学」から差別して語る研究論文が発表されていたことには驚いた。しかも2016年て!
「文学がそもそも自閉症的だ」という一文に正直言って最初はギョッとしてしまったが、読み進めるほどになるほどと納得せずにいられなかった。たとえば最近読んだ阿部公彦『スローモーション考』では、詩的表現のスタートは世界を細分化することとされていたが、それはまさしく本書で語られる自閉症者の特性と重なり合うのである。サヴァリーズによれば「文学というのは意図的に感覚をシミュレートすること」「知覚の習慣を打ち破るようなしかたで現実を再現すること」であり、ニューロティピカルが自閉症的に世界を眺める窓になり得るのだ。
本書で語られる自閉症者たちの読み方を私たちが〈新しい〉と感じてしまう裏には、自閉症者自身が書いたものを読んだり、同じ本を読んで解釈を話し合ったりする機会が少なすぎる現実があることは覚えておかなきゃいけないと思う。私はオリヴァー・サックスの著作をこの数年面白く読んできたが、サックスの本で一躍有名になったテンプル・グランディンと読書対談を試みる本書の第5章では、その功罪を考えずにはいられなかった。
アメリカで自閉症といえばテンプルというくらい有名で、自著も多く出版しており、自閉症者のパブリック・イメージを作った一因でもある彼女にサヴァリーズは思うところがあったようで、かなり先入観に満ちた選書をしてしまう。私も第3章あたりから「なんで自閉症者本人に本を選ばせないのかな」と不思議に思っていたのだが(好きな本を知りたいので)、サヴァリーズ自身もここに至って反省する。第4章のユージェニーも、小説を読んですぐメタ的な構造分析に移ろうとするサヴァリーズの質問は性急で余韻を消し去ると漏らしているし、大学教授だからこそ自分に疑問を持たなかった部分が、テンプルとの対話で一気に瓦解していったのだろう。まず、「やっぱりパートナーほしい」となるのを期待して独身主義者にそういう小説を読ませるって、普通にセクハラだしな……。最後の最後に自分のなかにあった差別的な視点と向き合う姿を書き留めておくのも含め、全体を通してフェアな書き方ではあると思う。
とにかく勉強になったし面白い本だった。勉強になったというのも自閉症について知れたというだけじゃなくて、言語というものの捉え方や文学の意義についての考え方、「クィア」とか「ダイバーシティ」という単語の語法について新しい見方を教えてくれた。世界にはまだまだ別の側面がある、と教えてくれる本がやっぱり一番面白いのだ。