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このタイミングで読むとまだリアリティが薄い本だったので、45歳くらいにまた読みたい。
自分の中の老いに対してのイメージが、老いている自分を傷つける。
自分の中のタブーを正しく認識して、自分の意思で決断することが大事。
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老いはすべてのひとに訪れますが、これと付き合うのはなかなか難しいようです。身体的/生理的に衰えてくるほか、定年で仕事がなくなる。出来ていた頃の記憶がありますから、自分にはもう役割がない、こんなこともできない、不甲斐ない。。。このように自分で自分を否定してしまう。多くの場合、老いは素直に受け入れることができません。
ボーヴォワールは、たくさんの事例をもとに職業による老いの違いを分析します。それがなかなか辛辣で、「人が60歳を過ぎて書くものは、まず二番煎じのお茶ほどの価値しかない」とか「化学によってもっとも重要な発見は25歳から30歳までに人間によってなされている」とか言っちゃう。フィジカルな職業だけでなく知的な職業においても、老いとともにいい仕事は出来なくなると。例外は、画家と音楽家で、技術の習得に時間がかかるため、傑作はしばしば最晩年期に生まれています。
近代になると、国家は人口を管理するようになりますが、そのために個々人の性を管理するようになる。これは、生殖能力とその先にある労働力が国家にとって大事なので、同性愛者、障害者とともに老人に性は要らないということになり、老人の性は否定されます。高齢者も、無意識のうちにこの規範を受け入れ、性的欲望を持つことやそれを表明することを恥ずかしいと思うようになってしまいました。老いは性的な抑圧を受けます。
自己否定、ろくな仕事もできない、性的抑圧、踏んだり蹴ったりですね。ボーヴォワールの語る老いは、現実を突きつけるもので、楽しい老後の生活なんていう生ぬるいものではありません。ただ、現実を受け止めて、できる範囲で豊かに暮らすということはできそうです。おそらく、対人的な豊かさまたは個人で没頭できる対象があることが大事だと思います。核家族になる前は、高齢者には子や孫の世話をするという役割を与えられていたわけですが、その役割が薄れています。長生きすると友達も先に亡くなってしまったりして、だんだんコミュニケーションも取れなくなる。そうすると、老いても続けられる趣味を持つことは大事ですね。
また、近代以前は、人は病気とかですぐ死んだので、高齢者は少なかった。少なかったから家族とか周りの人が世話をしていればよかったのですが、現代ではそうはいきません。自民党保守層的には、家族のなかで養われることが豊かな老いなのかもしれませんが、家族だけで面倒を見るというのは厳しい。それに、家族の世話になっていても、内心は厄介者扱いされているというケースもあります。年金制度に加え介護保険が開始されたことは、高齢者をそういった問題から解放する効果もあったでしょう。
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10年前、まさか自分が年を取るなんてアリエナイと思っていた。3年前、過重労働に耐えられず倒れ、体力の衰えを感じた。同時期にボーヴォワールの『老い』を知ったが、とても手に取る気になれなかった。もとい、その時初めて老いを意識し、ショックだった。いつか読まなければと気にかけていたところ、今回、100分DE名著で取り上げられたことを知り、ようやく手に取った。
この本を読んで、予想通り、辛い現実を突きつけられ、自分の将来に不安を持った。ただし、周囲の高齢者や中年層に対する見方は変わった気がする。あっという間に自分も彼ら彼女らと同じ立場になると思うと、自分自身の老い、周囲の高齢者への向き合い方、受け入れ方が変わった。
ボーヴォワールによると、老いは個人の(本人だけの)問題ではなく、文明全体の問題だと言う。平均寿命が延びて老人が増えだした頃は「老いは人生のスキャンダル」でしかなかったが、これだけ急激に高齢化が進んでおり、高齢者が社会の最大勢力になる日も近い。2100年には高齢化率が40%を超えるらしい。
若者も含めたさまざまな世代が同居する中で、自分の居場所を心身ともに感じながら生きていける文明社会を体現できるか、正念場なのだろう。
近い将来、間違いなく両親の介護をすることになるが、成熟した社会を形成する一員として、広い心を持って向き合いたい。
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100分de名著が面白かったので本著を読んだものの、あまりに大著で3章で限界を感じ、一旦離脱してこのテキストを読みました。
就活を終え最後の学生生活を満喫している今、やりたい事ができるぞ!という希望と、今じゃないとできないことをやらねば!と焦りを感じています。
その一方で、老いた時に何ができるかが大事だとも考えます。
そのどちらも、「若く」て活躍することに価値を置いているのだと、この番組とテキストを通じて気づきました。
全ての人は、必ず老い衰え、その先も生き続ける。
したがって、「老い」を醜悪とする社会は、誰もが生きづらい社会である。
ならば、老いても若々しく、ではなく「老い(=衰え)」を受け容れるほうがずっと生きやすい。
この考えを学びました。
番組中で伊集院さんが指摘されていましたが、落語家の三遊亭円楽さんが高座に復帰したニュースを見たとき、その老いた姿に衝撃を受けました。よくこんなおじいちゃんになった姿を「晒せる」なぁ、何もそこまで頑張らなくても、と感じました。
テキストを読んだ後に改めて考えると、自分は老いを醜悪と捉えてると気づいてハッとしました。
それは、数十年後の自分であり、自分の将来に呪いをかけているのだと。
老いても頑張るか、リタイアするかは自由である。肝心なのは、老い衰えている事を受け容れることなのだと感じました。
「死」に自己決定権はあるのか、という点も興味深かったです。
就活が本当に辛かった時、逃げる手段として死ぬことを考えていました。死は引退を突き詰めたもので、それを決めるのは自分だとも考えていました。
だけど、認知症患者の安楽死のケースから、死を決めるのはいつの自分?と考えると、すごく難しいなと思いました。
そんな難しいことを考えるよりも、死ぬことの判断は天に委ねて、自分はどう生きるかを考えた方が楽なのでは、と思いました。
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ボーヴォワールを話のまくらにした、上野の老年学に関する入門書といった態の本。老いの現実(主観的な経験)、性、生活(家族、介護、認知症、独居)について、ボーヴォワールだけでなく、その他のフェミニストや思想家のことばも紹介しつつ考察されている。我々が今直面し乗り越えようとしている「老い」とは、近代という文明の産物である。