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以下引用
対談の収録が終わるたびに、あれ、こんなはずじゃなかった、なんだか話過ぎてしまったぞと思ったのだが、それは嫌な感じではなかった。
被害者の告発によってはじめて加害者が立ちあがる
日本語でいうと、毅然としている。決して相手を否定しないし、尊重するんだけれど、毅然としている。これがポイント。
彼らをひととして尊重する、だけれど譲ってはいけないところは譲らない
メタ的な認知の力があることで、なぜ目の前でこのような語られているのかというアングルをとることが可能になるのですか?
複数のポジショナリティがあると話しやすいのかな
★加害の瞬間の解離は意外と多いんじゃないか
なぜこういったことが起きたのか、言葉として落とすのは大事
私からすればすごく危ないことをその子がやろうとしているように見えるときでも、先生は主体性を絶対に奪わないやり方でアドバイスをする。本人が選んでいくということを手放させない。それが長い目で見たときに、どれだけ効くのかまざまざと勉強している
専門用語は、当事者が使いこなせないと意味ない
現象をあらわす言葉がなく、それに巻き込まれることと、現象を名づけ、今度はこれができるという準備ができるというのは違う
★★あんまり共感性を私は考えない。このひとが何を感じているかというより、このひとの言っていることで、私が何を見ることができるか。見たものをどうつなげてストーリー化できるか。そこにはどんな仕組みがあるのかを聴いている
カウンセリングは、本当に頭をフル回転させないといけない。言われたことをイマジネーションで映像化して、物語化して、仕組みを考えて、次何を言おうかなって考えている
ピアグループをもっていないので、言葉がほんとに出てこない
こんなに語りづらい子にしやがって。学校は何してくれたよって
家族のなかでも話していない。そもそも幼いことから話を聴かれていません
カウンセリングは料金を支払ってもらうので、絶えずその料金に私の援助が見合うか、査定がはいる
謝罪は、被害者が責任をとることのひとつにすぎない。誤ればいいわけではなくて、自分が何に傷ついたか、あのときどんなことが起きどんなことを夫に言われたか、そのとき子どもがどんな顔をしていたか、それらを全部認めた上であやまってほしい。それを説明できることが、加害者が責任をとること。
多くの被害者は、自分が傷ついた内容をあまり理解していない。そうすると、被害者は相手がなぜあんな言動をしたかが理解できない。自分の被害の意味がわからない
射程が小さくなるということは、明晰になるということ。世界はある程度明晰でないと
→こういう意味での「ことば」の教育がないことが、結局権力や暴力を増強することになっていることを改めて。自分の言葉をつくる、自分の感覚を言葉にすることの教育の必要性を感じる
死刑は何も解決しない
★同じ経験をしたひとの体験談。グループカウンセリンぐで���、他の参加者が経験を語るのを聴く。自分の経験が言語化されることはほとんどいっしょで、同時進行。我がごとのように聞くとはこのこと
→これはうちでもあるなぁ。
教師は、子どもの声を聴く力を失っている。子供がそこからはみ出すことをしたら、それをキャッチできない自分であることに反省的にならない
カウンセリングが聞く仕事だとはあまり思ったことない。
精神分析的な素養がある人は、言った言葉を解釈する。そのひとの無意識が、たとえば言葉でなくても、今日の服装とか、どんな部屋を選んでいるとか。そういうところに現れていると。自分の無意識に気づくのが、心理療法であるみたいな
なぜこのような抑圧のなかで生きているのか、もっと良い政治はないか?
特権的な場所にいる男性
アルコール依存症は、近代的自己の限界をいちはやく露呈した人。がんばれば先があるとか、自分で自分の意志をコントロールすれば成長できるとか、そういう神話が崩れ去った
なぜ、みんなそんなに信田さんに語ろうとするんですか?ーたぶん聞いてもらったことがなかったんですよ。安心して語れる場というとかっこいいですが
彼女たちは話さない。あまりに話さないので、聴き取りを終わってほしいのかなと思って早めに切り上げようとしても、今度はなんか終わってほしくなさそうな感じで。それで夜になって。メールを送ると、今日はとっても楽しかったです、みたいな返信がくる。語り慣れていないひとたちなんだなぁと。だから、最近は沈黙に強くなることを意識している。焦って喋らないで、ぽわーんとのんびりしてる。私がリラックスしている顔をつくるのが、とても大事。こちらがのんびり言葉を待ってたら、話してくれる
傾聴、共感と言うけれど、傾聴は意味があるけれど、共感は意味がないと思う。向こうが値踏みして、話した時点で合格点をもらっている。そのあとの反応もけっこう査定されている。いまでもありますよ。自分が査定されている感じ。当事者のお眼鏡にかなっているかどうかは大きい
値踏みされているのは、私だけではなく調査全体。本当に敏感で。
お金の高い安いはあまりモチベーションにならない。
専門家の偉いが、お金によって水平化する。
無料って怖くてできないですよ。ボランティア相談
貧困研究界隈では、研究者が話をきいてあげること自体がエンパワメントだみたいな言説がある。とんでもない搾取の構造
当事者にお話を聴いてデータを収集して、それで終わり。それは奪っていると思います、当事者の言葉を
いい時間で楽しく、おいしいものを食べて、お金ももらて、自分ってすごいなぁって思ってもらいたい
身体はこわい。だから言葉優先で、言葉で仕事するって思う。
侵されることに敏感な子
★自分の身体の快楽を他人がコントロールするんじゃなく、自分でしていくんだよっていうメッセージ。それは本人にとってみれば冷たい行為にも思えるだろうし、もっと侵入してほしいというのがあるとは思う。でも、何よりも侵入したら暴力は発生する。、、、それで去っていく人もいる。冷��いって。自分の身体、外界、もしくは他者の身体との境界が絶えず曖昧で、だからこそ信頼するひとに入ってきてもらいたいし、ときには触ってほしい、みたいな。放出してるのがちょっとわかったりする。私は絶対に拒否する。冷たいかもしれないけれど。自分の要求は拒否されたと思うときもあるだろうけど、そういうときどうしていいか私にはわからない。
★医療では決して救い上げられないような人を対象にしているという自信がある
殴られている女性が全員DV被害者ではない。それがDVなんだと、つまり当事者性の有無
だから、こちらとしては周辺の話を聴いていたら、性暴力がぽっとでてくる。たぶんこれまで語られていない方がいっぱいいる。本人も「あれ、話しちゃった」みたいな反応
★「私は性被害、性暴力を受けました」といって、カウンセリングに来る人はほとんどいない
2年くらい来ていて、今日でカウンセリングは終わりですというときに、最後に話す人もいる
メンバーの話がきっかけで、想起というか、忘れていたどこか異空間に合った記憶が、さっとフラッシュバックする
★★→いまその記憶を思い出してもちゃんと支援してくれる専門家や仲間がいる、大丈夫だと思ったときに、フラシュバックする。
長期的な生虐待を受けた人は、夢を見ても大丈夫っていう状況まできているから、夢にそれがでてくる
★★自分の身に起きたことがわかってから、ほんとうの苦しみがやってくると思う。でも、それを信じる人ができたから、話を聴いてくれる人がいるから、その苦しみが起きる
★すこし安全なところにきたから、なんとかその記憶と生きていける道はないかと思い、想い出す
夢に出ても大丈夫って。夢に出ることで、ちょっと変な言い方かもしれませんが、回復していくんだと。
解離というより、セルフコントロールできる領域をつくって、自己の感覚を戻している。
過食がアディクションとすれば、セルフコントロールの感覚をアディクションは回復させる
自助グループって語りのフォーマットを手に入れる場所。言葉を消すために生きてきた、飲んできた。そんな彼らが、毎日いろんな語りを聞いているうちに、自分の経験が少しずつ言葉になってくる。彼らのトラウマも、それを言葉に出している人によって、すこしずつ、容器、コンテナができていく
話し方のフォーマットを手に入れて、自分の経験を言葉に、文脈にしていく。その過程で、他者がそれを聴いて助けられていることを知る。
個人カウンセリングでは、フォーマットを用意しないかというと、実はする。私は言葉を禁じる
こういうふうに言いなさないではなく、使用するワードを禁じる。
★愛情とか、だって親だからと。絶対×。自分の体験にもっともそぐう言葉は何かを考える。それこそ言葉は政治。既成の家族概念に回収されるしかない言葉が使用しない
★自助グループは、メジャーへのある種の対抗文化。だから、自助グループの言葉はカウンセリングでは、カウンターカルチャー
★既成の言葉では言い表せない言葉で言い表せるようにしないといけない
禁じ手。ひとつは近代家族のなかで前提にされている役割により自己の固有の体験を語らせないこと。もうひとつは、意志をもってなんでも遂行できる自分とか、すべてコントロール可能な近代的自己
→これがなくなると、「比喩」が出てくる
そのような言葉によって当事者の体験は聴き取られなくなる。ある種の当事者性を抑圧する言葉になる
おおくくりの言葉を使うと、個人の体験が凡庸になる
抽象的な言葉を禁じる。愛着とか、意志とか。
カウンセリングに来る人は、抽象的に語らないといけないと思っている。けっこうがんばってくるんですよ。でも「私はこういう経験をしてきました。だから成育歴の過程で満足な愛着関係を得られなかった、だから」、、、。って。
→少しずつ話すことを具体的になってきて、実は自分の経験したものを語りたいように語ればいいんじゃないかということがわかってくる
私はカウンセリングでは抽象的な言葉は極力使わない
男性は自己啓発的なビジネスでいきていて、勘違いが多い。一般化する。
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信田氏と上間氏の対談をまとめた本。
最前線で活躍する臨床心理士と社会学者の対話は前提となる知識が必要でところどころ難しく感じ、何度か読み直して理解を深めたいと思う。
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【琉大OPACリンク】
https://opac.lib.u-ryukyu.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BC11402842
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読もう、読もう、と思いながらもなかなか読めずにいましたが、ようやく読めました。
印象に残ったことをここでは2つだけ書きます。
選択不能性について。
ものすごく少ない選択肢の中からしか選べない状況にある人がいるということを、私はどれだけ理解して「自己選択」「自己決定」の言葉を使ってきただろうかと、自分の理解の浅さを感じました。
性暴力、DV加害をどのように見ていくかについて。
頷くばかりで納得しかない感覚でした。
怖さや危うさを改めて感じました。
カウンセリングから、社会調査から、多くの方の声を聴いてこられたお2人の言葉には、とても説得力がありました。
加害者の被害者性を取り扱うことのリスクについて知ることができたのもよかったです。
上間さんの本はまだ読んだことがなかったので、「読んでみよう!」と思いました。
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知らなかったことばかりだった。
少し言葉が難しいところはあったが、困難な状況にある女性たちに寄り添う二人には、敬意しか無い。
この本を読んでいる頃、新聞の沖縄の記事で、上間さんと本で言及されている研究者の打越正行さんが話されていて、私的に本を補完してくれた。
基地を沖縄に押しつけている現状が、弱い立場にある女性たちを追いつめている。
現状を容認している本土のわたしたちも沖縄の女性たちの加害者なのではないか。
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当たり前なんだけど、知らない単語が多くて、きちんと調べながら読むだけで解析度が全然違う。
上間さんが、「あなた」という単語をたくさん使うのが本当に好き。「あなた」の話を聞きたいし、「あなた」の感情を、教えたいと思うものだけ私にも分けて欲しいんだよね。
すごく好き。
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DV、虐待、性被害についてや、加害又は被害を「聴く」「治療する」ことについて、考えさせられる対談だった。近接領域で働いているのでお二人の話にそうですよね〜と深くうなずきたくなる場面も結構あった。加害者って映画の世界みたいに綺麗に変わらないですよね。被害者の気持ちを真に理解できる人も少ないんだろう。
もちろん知識や経験の不足を痛感することも多々あった。海外ではDV加害者が裁判所命令でDV加害者のためのプログラムを受講を義務付けられると知って驚いた。
信田さんの面接で愛着障害だとか自己肯定感が……とかいう言葉を禁じているという話もなるほどと思った。その人の中で物語として完結してしまっていたらそれをそのまま受け止めたくなるけど、あえて事実を語らせることで直面化させるというか。そのまま真似するのは難しくても、そういう表現が出てきたら言い換えてもらうとか応用して取り入れたいなと思った。
上間さんの社会調査の話もすごいなと思った。学生時代に社会学の授業をとったとき、社会調査って結局なにやってるのか謎だなと思ってたけどイメージがつかめた。すごい行動力と熱意がないとできないなぁと。
選択肢の少なさの話も心に残った。同じ選択でも、3つから選んでいる人と15から選んでいる人がいる。どのような選択肢の中からそれを選んだのか。その背景にまで想像力を巡らせて他人の話を聴かないとなぁと思う。
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なかなかに感想を書き留めておくのが困難な本だ。私の知識不足、勉強不足を含めて(二人の著書を先に読んでおくべきだった)。でも、対談集なので読みやすいし、しんどい部分もあるんだけど、スカッとすることも書かれていた。
臨床心理士という仕事、DV、アルコール依存症、性虐待、上間さんが調査している沖縄の若い女性たちの話…。表面上のことしか知らなかった、というよりも、こう考えるべきだろう、という一方通行の視点しかもっていなかったことに気付かされた。学んだことがたくさんありすぎた。
「加害当事者の正当化以外の声が、なぜこの国では聞こえてこないのか?」(P52)「ひとは差異でもって、リスクとか不快の話をする」(P94)「自分の記憶を信じてくれるひとがいるというときに、安心できるひとができたときに、辛い体験がフラッシュバックする」(P234)
あと、信田さんがカウンセリングのときに「言葉を禁じる」という話のくだりがすごかった。ひとつ取り上げるなら「自己肯定感という言葉は使わない。自分で自分を肯定するとか、自分で自分を好きになるとか、それは無理じゃないでしょうか」(P253)。当たり前のように使っている便利な言葉を使うことで見えなくなっていることって、ほんとにたくさんあるな、と思った。そこを自分の言葉にしていかないと、自分とは(他者とも)向き合えない。
「いまでも、メジャーなメディアではDVの話題はあまり出ない。出るとしたらどうやって被害者を逃がすか。性暴力もそう。被告の悲惨さは言っても、加害については言わない。加害がなきゃ被害は起きないのに、加害は見えないままだった」(P327)
知らないことを知る。考える。
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言葉を失ったあと…
私達は何を語れるのか…
言葉無く語れるものとは何か
非行、虐待、嗜癖、性被害、世代間連鎖
若年妊娠、援助交際…
関係性の中で生きている私達
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対談相手、「裸足で逃げる」の人とわかってドキッとした。詳しい内容は覚えてないけどとにかく衝撃的な本だったから……。自分は心理系の仕事をしてないので「ふーん、そうなの?」と思うところもあったけど……もっと時間のある時に読みたかった。フラッシュバックは回復の兆しという話が良かった。自分は本当に恵まれた人生を生きてるけど、環境次第で人生って本当に大きく変わるしそこから巻き返していくことの大変さって凄まじいなって思う。
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上間陽子さんの言葉に触れたくてこの本を選んだ。信田さよ子さんとの対談は、DVや性被害の加害者と被害者へのアプローチが語られている。上間陽子さんは読者のためではなく沖縄の女の子の隣にいるためにどんな言葉が必要なのか上間さん自身のために信田さんの「聞く」現場が知りたかったとあとがきに書いている。信田さんの秘儀の一部は知ることが出来たらしい。そんな凄い(←貧弱な語彙)対談がここに展開している。そして豪傑な信田さんだった!
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実践を積み重ねてきた二人だからこそ、提示できる視点、言葉、違和感。
加害男性の人間的薄さやずるさが際立つ。
DV更生プログラムはそういうことなのかとか、沖縄がネタにされがちな学問の世界のせこさとか、あー↘あー↗の連続。
上間陽子さんの寮美千子批判が鋭い。善の陳腐さ、みんな被害者論の陳腐さ。