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https://huyukiitoichi.hatenadiary.jp/entry/2022/02/27/080000
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管理人やドーナツなど、街を対象に実験をしている本。
日本と文化が違うので、参考になるかは疑義が残ります。
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ニューハンプシャー州西部の森に埋もれたグラフトンを舞台に、"フリータウン・プロジェクト"実現の呼びかけに応じて続々と集結したリバタリアンたちが巻き起こした社会変化を記録したノンフィクション。移住者であるリバタリアンたちを含む住人以外に、本書でその存在を大きく取り上げられるのが、グラフトンをわがもの顔に跋扈する熊たちである。主にリバタリアン代表者による呼びかけが発せられた2004年からの約15年を対象としている。三部構成、約350ページ。
ニューハンプシャー州は歴史的にも課税や規制への反発が強い土地柄らしく、本書の舞台となる片田舎のグラフトンではさらにその傾向が顕著だという。だから政府や自治体による制限を極度にまで拒否することでユートピアを実現しようとする、"フリータウン・プロジェクト"実践の場としてグラフトンが選ばれたのは偶然ではなかった。序盤は、中心人物の一人でありグラフトンに移住した消防士でリバタリアンのジョン・バビアルツと、フリータウン・プロジェクト実現のために土地選びに訪れた4人のリバタリアンの男たちとの邂逅、そして彼らの呼びかけに応じて続々と当地に集結するリバタリアンたちの様子を描くところに始まる。
バビアルツを含め、本書には先住者と移住者を問わず個性的な住人が多く登場する。本書全体を通して度々取り上げられる代表的な住人としては、ベトナム退役兵で統一教会信者の女性であるジェシカ・スール。リバタリアンたちにとっては予想外の形で移住してきた、サバイバリストで共産主義者、"テント・シティ"の代表となるアダム・フランツ。心優しいおばあさんだが、ある問題行動で注目を浴びる"ドーナツ・レディ"。神からの使命によってグラフトンに現れた、ジョン・コネル。多くの章で個々の住人にフィーチャーすることでさまざまな視点から、時の流れとともにグラフトンに起きる変化や事件を伝えていく。
リバタリアンたちの登場によって引き起こされる小さな町の変化と交互しつつ描かれ、途中からはそれらと交錯する大きな要素として扱われるのが、グラフトンに棲息する熊たちの存在だ。ニューハンプシャーは周囲の州と比較しても熊の生息数が多く、なかでも舞台となるグラフトンはとくに多い。従来からの放任主義的な州や町の性格も大きく影響し、増え続けるグラフトンの熊たちは人間をも恐れず、人々の生活を脅かしつつある。このようなある種の自然災害と並んで、グラフトンにおける歴史的な火事の多さも彼らの日々に災いをもたらす。
著者にとっての、グラフトンにおける"フリータウン・プロジェクト"の成否は明確であり、ある程度は教訓として受け取れはするものの、この町における試みがリバタリアニズムへの評価材料に値するかについては疑問符が付く。発起人による呼びかけがあったとはいえ計画性は低く、移住者による課税の回避と削減への徹底したこだわりを除けば現実的な目標にも乏しく、参加者たちの怠惰さや身勝手さばかりが目立つ。邦題にあるような、「社会実験」としての記録に大きな期待を寄せて読むと、不満を残すかもしれない。タイトルについても「社会実験」を強調する邦題よりも、直訳すると『リバタリアン、熊に遭う』あたりになる原題のほうが、本書の内容や著者のシニカルな筆致のイメージにマッチしていると感じる。なお、本書で大々的に取り上げられる熊問題についても、リバタリアンたちが押し掛けた町の変化を伝える主旨からして、そこまで多くの紙幅を割くだけの必然性は受け取れなかった。
それを措いても、本書にそれなりの魅力を認めることができたのは、映画やドラマには表れる機会の少ない、現代アメリカのひとつの素顔を窺うことができたからだろう。個人的に「リバタリアン」と聞いて思い浮かべるのは、経済的な成功を収めた資本主義の礼賛者といったイメージだったが、本書に登場するリバタリアンたちの多くはあまり裕福ではなく、社会的にも奇異の目で見られることの多い変わり者たちに見える。そのような人々と先住者たちの言動や人間性を通して、普段は目にする機会の少ないアメリカの一面や社会のあり方を垣間見られる面白さがあった。
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途中から、飛ばし読み…。
アメリカ社会についてよほど興味のある人じゃないと、読めないのでは、と思った。
熊、怖い。
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内容に相応しい邦題をつけるなら『クマvsリバタリアン』というところでしょうか。
翻訳が生硬なせいか、ユーモラスな感じを狙ったと思われる文体がやや滑りがちにも感じられますが。
書いてあることは色々と考えさせられるところもあり興味深いです。
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第1部 野生との境界
食べられた猫
厄介な課税
論理的なリバタリアン
四人組の入植者
激した群衆
改修した管理人
自由の扇動
信念ある牧師
第2部 不揃いな成長
ユートピアの開拓
火災の歴史
牧師は紫がお好き
官僚と熊
人を襲う熊
第3部 無限の荒廃
猟師の群れ
襲撃のあと
密猟者の攻撃
牧師や窮地に陥る
隣人は苛立つ
勢いの拡張
実験の終わり
覚悟の旅立ち
あとがき 国家のあるべき姿とは
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まさかこんなに熊のことがたくさん出てくるとは驚き
と思ったが表紙のデザインや原題をちゃんと見れば
すぐに気づけたはずなのに…
とはいえ熊の行動もリバタリアンの行動も統一教会が
出てくるとかも色んな意味で面白かったが、なんか
読みにくかったかな
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読み始めたら、熊の話なので、アレ?ってなったんだけど。。。。
原題は
”A LIBERTARIAN WALKS INTO A BEAR”
じゃん。
コレって、まさに、熊の話だぞ。
熊に餌をやることに生きがいを感じてるドーナツ・レディの話とか。
実際に、ありがちな話だし、たしかに、この本の主旨は、政治や経済の話でもあるんだけど、それ以上に個別のストーリーが全面に出てくる。
この話を『リバタリアンが社会実験してみた町の話』という題名にして売ろうとするのは詐欺だよ。
少なくとも、この物語の、重要な要素である『熊』という単語は必要だろ。
でもまー、リアルな話を通して、リバタリアンって何か?それは可能なのか?
ということを、考えさせられた。
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他の人も書いているが、原題と日本語のタイトルが違いすぎ。
リバタリアンが熊のいっぱいいる町に入っていき、熊と遭遇したという話。
わかったことは、アメリカのリバタリアンという人達が、いわゆる自由主義者とかと全然違う、アナーキストであり、銃さえあれば法も警察も要らない、むしろ邪魔だという人達であること!
しかし、消防署もいらないとは凄い人達だ。
アメリカには熊がうじゃうじゃいて、人と隣接していること。
アメリカ人が銃に拘るのがよくわかった。
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ニューハンプシャー州。グラフトン。小さな田舎町。税金は低ければ低いほど良い。公共サービスも最小限にすべき。図書館や消防署にも公金を出し渋る。個人の自由を最大限に尊重。しかし町に熊が出没。熊の扱いも住民各個人の自由。熊にドーナツをあげる老婦人。熊は次第に人間に危害を加えるようになっていった。
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リバタリアンというのが、どういう思想の範囲を指すのかよく分からないところもあるが、基本的には自分のことは自分でやるので、国は口出すなって感じなのか。税金払うなんてとんでもない。
かと言って、アナーキストとも違う。
要は、みんな、俺はこう思うなあ、って奴が、俺の自由のために勝手にするんだと言って集まるんだからうまく行くわきゃない。
最低限の、共生のルールすら決められず、じゃあ、動けなくなったら潔く逝けよと思うんだが、そこは公共が助けろよって、無理でしょう。
熊という否応のない条件もあったわけだが。
実際やっちゃって、それなりに続いたところが、米国の懐の深さっていうか、所詮はそういう田舎な国なんだな、と思わせた。
海外の、こういう奴系にしては、文章が読みやすくて面白かった。
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アメリカの田舎町を舞台にした自由と管理、人間とクマをめぐるノンフィクション物語
リバタリアンが思い描く官僚的組織を最小限とし、自治・自責を是とする社会の実現はなかなか大変そうだ。
要点だけでも知りたい人は訳者の解説を読むと良いと思う
ーーー
リバタリアン
人格や財産に対する無制限の権利を求める思想
"入植者たちは、常に恐怖の中で生きていることから来る激しい憎悪を抱いて熊を嫌った。だが、彼らがもっと嫌うものがあった。税金である。"
"死は最悪の災いじゃない。最悪なのは服従だ。人間の心を奪うシステムの中で絡み合う、長年にわたる残酷さや欠乏や隷属に比べたら、すぐに死ぬほうがよほど思いやり深い。"
"言い換えれば、グラフトン納税者は1日に70セントほどを節約するために、カナンの住民が享受するものを手放してきたのである"
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もう、私達は熊とどう生きるかでいいじゃないですか?まぁリバタリアンと言っても軸は変わんないけど細分化されるし、個々の自由を希求するんなら群れるなとも思う。イデオロギー(グ)にしてもそうだけど、個人で消化しないから最初の理想から遠ざかる。しかし、個人で消化できないモノでもある。個人的に本書で引きを強く感じたのは、トキソプラズマに感染した人の症例。ネガティブな感情を恐れなくなり、陰謀論にハマりやすいって矛盾を両立させる正にカネボウに鬼。(鬼に金棒の間違いです。)
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タイトル詐欺。
体感で6割くらいが熊の話だった。原著タイトルが『A LIBERTARIAN WALKS INTO A BEAR』なので、熊が主題の本だと分かったはずだし、事前に熊が登場することは知ってはいたのだが、想像以上に熊ばかりだった。
リバタリアンがその理想のために街を作った話も、各章ごとに一人ずつ登場人物にスポットを当てる形式なので、全体構成が捉えづらく、結局何なの?となる。税金払いたくない人が集まって好き勝手したら、公共施設がボロボロになり、住民間のトラブルが増え、害獣被害が出るって、そんなの社会実験しなくてもわかる話でしょう?
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【感想】
リバタリアンとは、国家による規制や干渉を嫌い、個人的な自由と経済的な自由を徹底的に追求する政治思想を持った人々のことである。自由の追求にも様々な強度があり、税金の撤廃といった、国家の福祉的役割の最小化を求める立場もあれば、ドラッグの合法化や近親相姦の権利の拡大といった法規制の縮小を求める立場、または国家の完全な廃止を求める立場もある。
そうしたリバタリアンが自分たちの「理想」を実現するため、ある町に一斉に移住して執政権を握る――それが「フリータウン・プロジェクト」であり、アメリカのニューハンプシャー州グラフトンで実際に行われたプロジェクトであった。その一部始終を描いたのが、本書『リバタリアンが社会実験してみた町の話:自由至上主義者のユートピアは実現できたのか』である。
邦題を読むと、リバタリアンの移住とその結果町はどう変わったか、を描いた本のように思えてくる。しかし、実際の本書の大部分は、人間と熊との戦いの物語である。
リバタリアンが移住してくる前から、グラフトンには多くの熊が住み着いており、たびたび目撃情報が報告されてきた。移住後も熊の数は減るどころか増えていくのだが、自由至上主義者のポリシーによって、害獣への対応がなおざりにされた結果、手が付けられないほど被害が深刻化していく。
まず前提として、アメリカ人はとにかく熊が大好きで、その愛護ぶりは日本を上回る。グラフトンで大量の熊被害が報告されているにもかかわらず、熊殺しは狩猟シーズンに許可を受けた者しか許されていない。州公認の狩猟以外で熊を殺すことについての規則は、人間を殺すことについての規則と同じだ。つまり、正当防衛のみ許される。人間に近い権利が保障されているというわけだ。
不運にも熊に襲われて、皮膚が剥がされるほどの裂傷を負ったのが、登場人物の一人であるトレーシーだ。しかし、自由主義を標榜するグラフトンのコミュニティは、彼女に冷ややかな目線を向けた。多くの人が同情ではなく彼女を責めており、どこからともなく熊の擁護者が現れて事実をねじ曲げ、トレーシーをさらに悪く見せた。ある人々は、熊に飼い犬のカイをけしかけたとしてトレーシーを非難した。彼らは犬が熊の腹を裂いて子熊に大怪我を負わせたと言い、子熊は噂が広がるにつれ小さくなっていき、最後には無力な赤ん坊だったことにされた。トレーシーは鳥の餌で熊をおびき寄せた、ほうきで熊を殴った、麻薬でハイになっていた、開いた窓枠に熱いビーフシチューを置いていた、などと言われた。「まるで、何をして相手を興奮させたのかと問い詰められる性的暴行の被害者になった気分だった」という。
グラフトンにはもっと直接的な愛護者もいる。熊に1日バケツ2杯の餌付けをする「ドーナツ・レディ」がその筆頭だ。一方で、熊の密猟者も存在する。彼らは娯楽でも食料調達でもなく復讐のために熊を狩る。冬眠中の熊の巣穴を襲撃し、子熊を含めて皆殺しにするのである。
熊問題が象徴するように、グラフトンは「何でもアリ」なのだ。熊を殺そうとも、税金を踏み倒そうとも、麻薬を密造しようとも。しかし、その「何でもアリ」は「自由」という意味ではない。むしろ「無法」という意味のほうが近いだろう。そして、この無法さが住民から連帯感を奪い、町は一気に荒廃していく。
グラフトンの地区および住民は昔から租税回避的だった。共和党支持者が多く、自由主義を好んでいた。ニューハンプシャー州は所得税や一般売上税がなく、自賠責保険の強制もない。規制に関しては全米でも相当にフリーな州だからだ。
しかし、リバタリアンが掲げるほどの強固な租税回避には問題がある。なぜなら、町税の回避は、ある意味ゼロサムゲームだからだ。一人が税金の支払いを回避することに成功したなら、差額を埋め合わせるため町のほかの人間が、その分余計に税金を払わねばならなくなる。そうしたシステムがまかり通ってしまうと、人々は自分が税金を払わない理由を主張しつつ、隣人が提示した理由を攻撃するようになる。かつ、いくらグラフトンといえども、救急サービスや道路の保全といった最低限の公共サービスは必ず行うよう、州から法的に要求されている。そうした負担が隣人に向かってしまうのだ。
それがゆえに、グラフトンのコミュニティからはどんどん連帯感が消え去っていった。フリータウン・プロジェクトが始まる前の年に比べて、2010年に通報のあった民事事件の数は2倍、隣人同士の喧嘩の数は4倍近くになったという。公共サービスの低下が生活環境を悪化させ、幸福度を下げ、隣人に猜疑心を持つ人々が公的支出に反対したり税金の取り立てに「自由」を振りかざして抵抗したりすることで、すでに緊迫している財政がさらに厳しくなる。グラフトンは完全に破滅の輪の中に入っていたのだ。
――多くのリバタリアンはアメリカの黎明期に強い憧れを抱いている。彼らはその時代を、政府は小さく人々は自由に生きたユートピア的黄金期と考えている。自由について語り合いながら車を走らせていくあいだに、その幸福な時代への親近感はますます強まっていった。建国の父たちと同じく、彼らもしばしば手の届くところに銃器を置いており、個人の権利を非常に強く意識している。そして建国の父たちと同じく、新たな世界を創造しようとしている。
――プロゼイも初めてグラフトンに来たとき、いろいろな物事の仕組みや誰が誰に何をしたかについて過度に多くの質問をしたとき「友好的アドバイス」を受けたという。
「ここには、人が絶対に掘り起こそうとしない場所がたくさんある」彼は穏やかな口調で言った。「そういう場所を見つけようとしないほうがいい」
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【まとめ】
0 まえがき
過去20年で、グラフトンは2回だけ全国ニュースになった。2004年には、現代アメリカ史上稀に見る野心的な社会実験、いわゆる「フリータウン・プロジェクト」の地として短期間注目を浴びた。自由を求める全国の自由至上主義者が、政府による息が詰まるほどのくびきから町を解放するため、グラフトンに移住すると宣言したのだ。そして2012年、野生の熊が人間を襲うという話がメディアをにぎわせ、グラフトンは再び悪名を轟かせた。
グラフトンの熊は厄介なことに、人間をまったく恐れていなかった。
1��リバタリアンの移住
リバタリアンはアメリカについて、個人のおおいなる自由、非常に小さな政府、気候変動や教育の不平等や医療費の高騰といった「社会的問題を解決する純粋な市場」というビジョンを描いている。リバタリアンが信じているのは、宗教的価値観や、弱者を助ける道義的責任ではなく、合理主義である。
リバタリアンのバビアルツ夫妻とジョンとロザリーは、「自由な生か、もしくは死」をモットーにするニューハンプシャー州に移住し、最終的にグラフトンに行き着いた。ここグラフトンで、彼らはついに自由に生きることができた。校舎にソーラーパネルを並べ、野菜を植え、農業を試みた――蜂や豚、温室、鶏や七面鳥や羊。ボランティアの消防士は、バビアルツの少年っぽい熱心さを発散するのにうってつけの仕事だった。緊急事態が発生したら、彼は映画のアクションヒーローの役を演じきった。本業はより個人的な趣味の世界になっていった。新しく作った小さなコンピューター会社を銀河ソフトウェア社と名づけ、それに続いてエンドア・コミュニケーション社を設立した。会社は校舎の敷地内にある小屋に置かれ、グラフトン初のインターネット・サービスを提供した。
2004年2月、夢想家の男4人組――コンドン、ペンダーヴィス、ボブ・ハル、リーカス、がニューハンプシャー州を訪れた。彼らは現代アメリカ史上最も大胆な社会実験の道筋をつけるために来たのだった。フリータウン・プロジェクトである。
すべてが計画どおりに運べば、フリータウンに住む何百人もが結集して投票し、政治的刷新を起こして、アメリカの小さな町を、煩わしい規制だらけの退屈で魅力のない場所から、なんでもありの最先端地帯に変えられるだろう。ペンダーヴィスが作成したウェブサイトによれば、そこでは住民は、私有地に2台以上の廃車を置く権利、賭博の権利、学校をサボる権利、麻薬売買の権利、近親相姦を行う権利など、絶対に奪うことのできない権利を主張できるのだ。
それに加えて、ペンダーヴィスは臓器売買の権利、決闘する権利、そして、神から賜ったのに正当に評価されていないいわゆる「浮浪者拳闘」を催す権利をも主張しようとした。浮浪者拳闘とは、ホームレスや貧乏人が少額の金をもらって殴り合いをする見せ物だ。
彼らは最終的にグラフトンに土地を買った。そのときのグラフトンに商業はまったく無く、コーヒーショップも、レストランも、どんな種類の小売店もなかった。唯一の例外は、たった一つのガソリンスタンドを見下ろすたわんだ木製のポーチに面した、昔ながらの古ぼけた雑貨屋1軒だった。建物といえば、グラフトン・センターに、グラフトン中央教会、公立図書館と消防署程度だ。ここは、コンドンの忌み嫌うおせっかいで馴れ馴れしい雰囲気が薄い土地らしい。
入植者と一部の賛成派地元民は頭を寄せ合い、町政の権力掌握に向けての戦略を練った。グラフトンの登録有権者数は800に満たず、その大半は投票所に現れない。志を同じくする既存の基盤にあと数十人の有権者が新しく加われば、新たな秩序に有利なように局面を変えることはできそうだ。4人はインターネットで、グラフトンに移り住むリバタリアンを募集し始めた。
こうして、フリータウン・プロジェクトが幕を開けた。
2 熊のユートピア
グラフトンには何年も前から先客がいた。熊である。熊は飼い猫を襲った。木製の蜜蜂の巣箱を叩き壊して、中の甘い蜜を奪った。羊を内臓から食い荒らした。フリータウン信者がコミュニティを作り始めたのと時を同じくして、町の熊たちは自分自身のユートピアを作ろうとしていたのだ。
1935年から2002年までに郡の農地の92パーセントが失われ、畑は鬱蒼としたイバラの茂みに、そしてもつれた若木の森に戻った。かつて税金で維持されていた道路は、熊が喜んで略奪するブラックベリーの林となった。州内で最も農業化が進んでいた地帯は、最も森林化した地帯になった。今世紀最初の20年で多くのキャンプが森の中にできた一方、国勢調査データはグラフトンの恒久的な家屋の3分の1が空き家であることを示している。
現在、州はグラフトンの地域全体を一つの熊生息地と考えている。ただ、州には6500頭の熊がいると考えられ、毎年平均635件の熊に関する通報を受けているが、雇用している猟銃監視員は2007年にわずか32名で、各監視員は1人平均770平方キロメートルの範囲を担当していた。
最初、熊は夜間に人知れず行動した。コンポスト容器を割り、蜜蜂の巣箱を壊し、裏庭のグリルに残った牛脂を紙めて、空が白みはじめると同時に姿を消した。
だがやがて不自然な行動が確認された。冬になったら冬眠するはずの熊が冬眠せず、民家の鳥のエサ箱や食料を漁っているのである。また、通過する車のライトを意図的に避けていた。
基本的に、グラフトンには熊に関して「人に頼むな・人に言うな」というポリシーがあった。そのため、グラフトンの人々は、問題解決能力を持つ熊へ多様な態度を示した。あらゆる家には栄養源となるものがあるが、そこに住む人々は、逃げることも、ラマをけしかけることも、食べ物を与えることも、その頭に爆竹を投げつけることもある。自由至上主義のもとで、対処法は無限にあった。
2012年初頭、干ばつにより自然の食料が不足すると、熊は積極的に人里に出るようになった。トレーシーは裏庭のポーチに現れた熊に殺されかけて重症を追った。ロジャーズは台所に現れた熊に対して「一切声を上げる」ことはなかったが、そのまま顔を引き裂かれた。この事件にあたって、州当局は遠回しにロジャーズを非難した。「熊が人を襲うのはきわめて稀だということです。これを熊の襲撃と呼ぶのはあまり正しくありません」「自分の住む地域に熊がいるとわかっている場合は責任ある行動を取る必要がある」。ただその一方で、ドーナツ・レディと数人のリバタリアンは熊に餌をやりつづけた。熊は今までに増して食料を必要としていた――なにしろ干魃の年だったのだから。
地域の多すぎる熊への対処方法について、当局と住民の溝は州レベルにまで広がり、野生動物管理局は許容できる熊の数の上限を引き上げつづけ、リバタリアンは市民の不服従と個人の権利の尊重という文化を押し進めつづけた。その権利には、自宅の裏庭にいる熊に餌をやる権利も撃ち殺す権利も含まれる。
熊を始めとした害獣対策の成否は、つまるところコミュニティの成否である。市民の関心が強く、熊を誘引する食べ物に関して最善の対策が積極的に実行さ��、政府にやる気がある場所では、人間に慣れた熊についての最悪のシナリオも、最後には八方丸くおさまるように解決できるのだから。
3 やばい奴らが押し寄せてきた
フリータウン・プロジェクトのためグラフトンに移住した人の正確な数は不明である。国勢調査によれば、町の人口は2000年から2010年までのあいだに200人以上増えた。しかし、フリータウン信者は一つ、重大な計算違いをしていた。フリータウンに引き寄せられてきたのは、リバタリアンだけではなかったのである。
・アダム・フランツ(半野生的な生活をするサバイバリスト。資本主義否定派の無政府論者)
・ドーナツ・レディ(動物愛護家。熊に1日2回の餌付けをしている)
・ジョン・コネル(グラフトン中央教会の新牧師。教会を購入し、そこを「平和アッセンブリー教会」と名付け、リバタリアニズムと神を核とした新しい信仰を生み出した。税金の支払いを拒否し続けている。後に火災によって教会は消失し、コネルは死亡した)
フランツは言う。
「あれこれうるさく言ってくる人間はいない。ここはやりたいことができる場所だ。なりたいものになれる場所。何も心配しなくていい」
4 グラフトンはどう変わったか
フリータウン・プロジェクトによって、グラフトンの町は変わっていった。
・町の100万ドルの予算を30パーセント削減し、郡の高齢者評議会への資金拠出を拒否する案を通すことに成功した。町計画委員会を廃止するために必要な票数は集められなかったものの、委員会にリバタリアンを送り込むことはできたので、彼らが委員会を事実上廃止した。
・キャンプ場にリバタリアンの浮浪者が住み着くようになった。麻薬密造の拠点として使われている。
・リバタリアンたちは電気代を節約するため町の街灯のほとんどを永久的に消し、幹線道路の資材や設備を節約するため長い砂利道を分断した。町はクリスマスの照明や独立記念日の花火といった虚飾への支出をやめた。町計画委員会は残ったが、フリータウン信者や彼らと志を同じくする住民は、委員会の2000ドルの予算をまずは500ドルに、次にはわずか50ドルにまで減らした。公共サービスに穴が空き、アスファルトは割れ、下水が漏れ、橋が崩壊の危険に晒されていると通告を受けた。町役場は完全に荒廃し、雨漏りやシロアリの被害に見舞われた。
・パトカーは1台しかなく、修理のため稼働不可能なときが多かった。
・警察が報告する年間の性犯罪登録者数が、2006年の8人から2010年の22人へと増えた。
グラフトンの財政は切り詰められていたが、かといってグラフトンの税はとりたてて低いわけではない。隣町のカナン(人口3909人)――グラフトン(人口1340人)と比べて公共サービスの量も質も高い町――は、数十年にわたって人口を多く保ってきたおかげで、税率を比較的低く抑えながら公共財に多額の費用をかけることができた。2010年、グラフトンでの税率は建物評価額1000ドルにつき4.49ドル、一方カナンは6.20ドルだった。つまり、15万ドルの価値がある家に住む人は、グラフトンなら地方税を年間673.50ドル払い、カナンなら930ドル払うことになる。1日たった70セントの差だ。
5 実験の終わり
12年前��抑えきれない楽観主義と熱狂でグラフトンに移住したリバタリアンたちは、既にさまざまな悩みを抱えていた。内部対立は続いており、人々は派閥に分かれ、以前は楽しく旗を燃やしたりお祭り騒ぎをしたりした雰囲気にも緊張が生まれていた。プロジェクトで大きな影響力を持つ人が次々と死んでいたことも勢いを失う要因となった。
しかし、フリータウンのエネルギーを奪った最大の加害者は、フリーステート(ニューハンプシャー州に移住して、州の権力構造や文化を再構築するプロジェクト)だった。リバタリアンのユートピア建設を望む人々にとって、グラフトンは一時期、世界で最も際立った重要な地点だった。ところがフリーステート運動後、グラフトンは州内の多くの選択肢の一つにすぎなくなった。
新たなフリーステート信者が、グラフトンを通り過ぎて人口2万3000人の都市キーンのような場所を選ぶようになったため、移住者は入ってこなくなった。キーンの固定資産税率はグラフトンの3倍で、しかも制約の多い土地区画条例があるにもかかわらず、リバタリアンすらキーンの持つ魅力に引きつけられたようだ。野球チーム、テニスコートやバスケットボールコート、野外音楽堂のある緑地、遊び場、再建された歴史あるコロニアル劇場、手入れの行き届いた公園、にぎやかな商店街。すべては、税金によるしっかりした行政サービスに下支えされている。
こうして、グラフトンからリバタリアンは去っていった。
グラフトン図書館の司書と郵便局長を務めているデブ・クラフはこう言う。
「この2年ほどで、多くのリバタリアンがいなくなった。80年代に統一教会信者がいなくなったみたいに。私たちは、あいつらを噛み砕いて吐き出した。グラフトンはそういう町なのよ」