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【さらば、北町貫多!】時は2004年、貫多は小説「けがれなき酒のへど」でついに文壇にデビューする。奮戦する新進作家の日々を描く遺作長篇1000枚。
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未完の遺作。日乗を読むと、休載の記述が何度も出てくるのだが、著者がそこまで悪戦苦闘した理由が、よく分からなかった。
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遺作の本作。
こういう男女の話をユーモアたっぷりにかける作家もなかなかいないだろう。
あまりに身勝手な内容ではあったが、不思議と不快にも思えず、独特の感性を持つ作家さんでした。
最後まで笑わせてもらいました。
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この本を読み一層この続きを読んでみたくてたまらなくなった。それは永久に叶わないことが寂しいの一言だ。
長年見守ってきた北町貫多が遂に芥川賞受賞となる日を待ちわびていたし、ようやくその時分の話となり、苦役列車を書いている時の状況や、今まで鬱屈していた感情が受賞により変化したのか、受賞セレモニーや審査員の石原等著名作家達も登場し、例の北町節で描かれるのか等々興味は大きく膨らんでいたのだが、その一歩手前で著者が亡くなってしまい未完となった。全く残念でならない。
デビュー前後の様子においてもこの本でその心持ちを詳細に書いてあるのであれば、尚更読んでみたかったのである。この本の連載は最終回途中での訃報ということで、最初に候補となる(小説はここまで)も落選してしまう迄の話であったか。落選となったとき、貫多がどう感じたかなども実に興味があったのだがなぁ。受賞したのは更に5年後だから、まだまだ小説のネタは沢山有ったのだろう。
貫多には特にその女性に対する言動に嫌悪を感じつつ、更には彼が好きになった女性への執着と愛憎の激しさに驚愕とある種の羨望を覚えつつ、彼女達のことが念頭から消失するほど小説に打ち込む姿勢や、彼の生き様に人間臭さというか、人間の本質を見て共感も湧いてくる。地方紙若手インテリ文学好き記者の”クチクサ”葛山や”淫売”おゆうに対する好意と、その後の悪態の表現は本当に著者独特でまさに真骨頂だと感心する。こういうもので著者の右に出るものは居ない。その後葛山やおゆうとの関係がどうなったかも結句判らずじまいだ。
貫多の事は彼の転々とされる住居やラッキーストライクや、根は到って・・・というところも我が事に思えるようで、どうにも気になって仕方ない。
しかし貫多が住んでいたような街の雰囲気も、令和となっては絶滅危惧種であり、かつてのそういう街を妙に上辺だけ小奇麗にし、過去を無かった場所にしてしまう風潮にはどうにも気味が悪い。人間もまた上辺だけ真っ当に見せ、その実腐っている輩が上にも多数存在するように感じる。
女性がこの本を読むことはまぁ無いであろうが、男というもの全般に対する免疫を付けたい人は読んでみるもの良いかもしれない。
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雨滴は続く
著者:西村賢太
発行:2022年5月30日
文藝春秋
初出:「文学界」2016年12月号~17年4月号、6月号~10月号、12月号~18年3月号、5~8月号、11月号~19年1月号、5月号、6月号、12月号、20年1月号、3月号、5月号~21年1月号、3月号、4月号、6月号~12月号、22年4月号 *連載最終回執筆中に著者急逝
今年、54歳で急逝した西村賢太氏による未完の遺作。1000枚に及ぶ長編だが、あと1回の連載を残すのみだったとのこと。
主人公・北町貫多は、明治後半~昭和初期まで生きた無頼派作家・藤澤淸造に私淑し、彼の「歿後(没後)弟子」を自称していた。「北町貫多=西村賢太」が成り立つ私小説であり、芥川賞候補作『どうで死ぬ身の一踊り』の続編という趣の作品。『どうで』は藤澤淸造の菩提寺(石川県七尾市)を訪ね、月に一度の掃苔や年に一度の命日の法要をすることになった話だった。中学卒業で定職がなく極貧状態のなかで、毎月と年に一度行うそれらの費用捻出だけは最優先にする主人公。一応は大卒である女性と暮らしていたが、反省しつつも止まらないDVで彼女を傷つけ、逃してしまう。
『雨滴は続く』では、彼は38歳になっていた。状況は前作より悪い状況。アルバイトも肉体労働は年齢的にきつくなってきた。女性にも縁がなく、デリバリー型の買春をラブホテルで楽しむ暮らしだったが、その費用の捻出も限界に近くなってきた。そんな中、続けていた同人誌への参加を辞めようと最後に書いた短編小説が評価を得て、商業文芸誌の「文豪界」(文学界)に転載されることになった。初めての商業誌。同人誌特集なので本当の意味の掲載ではないが、かなり舞い上がり、すでに自分は作家になった気分になる。しかし、現実はそうではない。
買春において、30代半ばの女性と出会う。本が結構好きだという彼女のことを、少しずつ気に入り、仕草や発言などの控えめなところにすっかり惚れ込んでしまう。1回25000円で交わる仲ではなく、付き合いたいと思う。彼女は保育園に通う娘がいるシングルマザーであることが分かるが、結婚して自分が父親としての役割を果たしてもいいなどと妄想を膨らます。
憧れの藤澤淸造と同じ作家として生られる可能性と、女性。この2本立ての彼にとっての大柱に関して、ああでもないこうでもないと夢想し、妄想を膨らます。ネガティブな考えとポジティブ思考とを行ったり来たり。心の内の葛藤を原稿用紙千枚分、繰り返し描いていく。千枚分というのは大げさだが、8割以上はそれが占めている。とくに最初の100頁(200枚?)は、9割以上がそれであり、少し辟易してくるが、それを超えたあたりからこの小説は面白くなる。純文学なので大したストーリー展開はないが、出版社の編集者の発言に一喜一憂し、女性との電話やSMS(古い機種なのでカタカナのみ)のやりとりにああでもないこうでもないと解釈を施す。
作家面では、文豪界への転載作品を読んだ購談社(講談社)の「群青」(群像)編集者から連絡が来て、初めての依頼原稿が来るか来ないかの一喜一憂に突入する。絶望したかと思うと、作家として天下を取ったかのような思いにもひたる。
一方、女性面では、買春相手の女性を店外デートに誘い出せたが、その直前に貫多に��って非常に好みの女性が現れ、店外デートの時間もそちらへの妄想を膨らせて上の空状態だった。好みの女性とは、七尾で行った藤澤淸造の法要の取材に来た新人新聞記者だった。彼女は作家志望で、京都の一流大学を出たエリートにしてスレンダー美人だった。自分が書いた原稿が載った雑誌などを彼女に送り、その礼状を待つ。それが送られてくるタイミングや内容、封筒やそこに貼られた切手の角度など、細かいことにまで彼女の自分に対する思いがどうなのか、勝手に解釈をしていく。
一度、新聞記者を諦め、買春相手の女性に気が戻った時、セックスをすることに成功した。お金のともなわない男女のセックスだった。しかし、仕事(作家)での道が拓きかけてくると、買春相手ではなく新聞記者の女性への妄想へと気が戻っていく。自分は大先生、頭の悪い文学少女の憧れのはず、可愛がってやろう、というような気持ちに。そして、買春相手からは慕いの電話やSMSが来るが、全て無視。あのクソ婆!の世界になる。
***(以下、暫くネタ割れ注意)***
貫多は、「群青」に短編を書き、次に中編『どうで死ぬ身の一踊り』を書く。しかし、後者は全く反響がなかった。編集者からも連絡はなく、これっきりで作家としての道も閉ざされたと奈落の底に落ちたかのような悲嘆にくれる。女性に関しては、連絡を無視していた買春相手はすでに電話番号を変えていたし、新聞記者からは礼状すら来なくなっていた。
ところが、「週刊深朝」(週刊新潮)で有名演出家である巨勢輝彦(久世光彦)が『どうで死ぬ身の一踊り』を絶賛した。舞い上がる貫多。すると、以前に「群青」の編集長をして今は書籍の部署に移った購談社社員から単行本化の連絡が来る。しかし、誰も知らない藤澤淸造のことを誰も知らない北町貫多が書いた本など、売れないに決まっていると悲観し、それならばと単行本は自身の「文豪界」への転載作、「群青」に掲載された2作で構成して欲しいと希望する。
ここで初めて分かってくる。『墓前生活』『どうで死ぬ身の一踊り』『一夜』という劇中3作品は、とりもなおさず西村賢太氏自身の単行本の構成作品。つまり、本書は『どうで死ぬ身の一踊り』の続編でありながら、それが単行本として世に出るまでの著者自身の身の上話だったのである。
最後、『どうで死ぬ身の一踊り』が芥川賞候補になったという連絡を受ける。ただ、この小説はここで未完となる。
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藤澤淸造の代表作は大正11(1922)年の「根津権現裏」で、その後3年をピークに作品に恵まれることなく、42歳の時に東京の芝公園で凍死。警察による拘留、内妻への暴力などあって、常人扱いはされずに最期を迎えた。西村賢太氏も、今年54歳で早逝している。タクシー乗車中の突然の鬼籍入りだった。
西村賢太氏の文体は、文語的表現とまでは言わないが、旧字体をつかうこともあり、大和言葉を格式張った漢語に置き替えるなど、実に堅苦しい。読みづらい漢字も当て字を含めて山のように出てくる。辞書を引きつつ読むが、載っていない言葉もある。ネットで検索して辛うじて出て来たりする(業界用語や一部の間で使われているスラングめいた漢字言葉)。格調の高さにこだわっているのか、遊んでいるのか。確かにそう安っぽさは感じないし、���みづらくもない。ただ、そんな中に突然「コーマン」みたいな下品な俗語が出てくると、文の流れが阻害され、読者のテンションを崩してしまう。ちょっと納得できない。
それにしても、これだけの大作が未完に終わってしまうとは、残念極まりない。
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「あぁまたいつもの展開だなぁ」
と思うのに読むのをやめられない中毒性。
未完の遺作となった本作、これが最後かと思うと寂しい。さらば、北町貫多!
でもまだ読んでない作品は結構あるので、
ちょっとずつ舐めるように楽しんでいこう。
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西村賢太のいつもの私小説であり、そんないつもの私小説を残して氏は逝ってしまった。
今回は商業作家人生の始まりから芥川賞受賞までが描かれている。これまでの作品と比べて明確に作家北町貫太が描かれており、貫太が小説論を打つ様は西村賢太のメタ的な語りであり、またサービス満点の手の内明かしでもある。
ここまで作家としてきたからこそ、この作が書けるということだろうか。
相変わらず誇大に誇大を重ねた貫太の尊大さや妄執が滑稽であり、それでありながらそのエモーションにジンと来させる時もある。これこそが西村賢太の魅力だろう。
もうこの物語が進むことがないのが残念でならない。
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年末年始の読書課題やっとこさ読了。終わらない話を読んだ。読んでいて、貫多や、もうこの話自体を不快に感じる人も正直多いだろう。特に最後の最後、なんだかんだと貫多を見捨てず貫多の最終的なお金の頼み処でもあった落日堂の新川への罵声はもう最低中の最低である。しかしその新川がなぜか謝ってきて(なぜなんだ~⁈)今後の貫多を前に進める発見を告げるのであるから、この展開に読者も度々覚えてきた不快感をまたしても飲み込んでいっしょに進んで「きた」のである。「さすが」の貫多の続きが読めないのはやはり残念というよりすこしさみしいのである。
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ブルドーザーのような馬力のある小説。
小説家に興味がないといいながら、小説家に対する憧れ、そして女にもてないという悩み。強烈な肉欲。最大のサポーター新川との関係。
アップダウンを繰り返しながらぐりぐりと進んでいく。身勝手な欲望や耳をふさぎたくなるような罵詈雑言にはやはりリアリティがある。普通は自分にも隠してしまうだろう身勝手な醜い欲望を暴きたてる。それがやはり人を驚かせるし、共感を呼び起こすのだと思う。めちゃくちゃ心無いけれど、確かにこういう感情を自分も持ったことがあるなと。
性についても考えさせられる。貫多の支配欲、暴力性、フェティシズムを孕んだ性欲はきつい。相手の心を無視していると思う。そして卑しく欲情する自己へ嫌悪もある。一方で承認されたいという願望の切なさはやはりリアルでなんともいえない気持ちになる。
ただ昔、賢太の作品を読んだ時には破滅的自己のすごい暴露に驚いたが、本作を読むとかなり盛っていたのだなとも思う。本作中でも針小棒大に書いたと言っている。ちょっとそこだけは鼻についた。罵詈雑言には作り物感を感じなくもなかった。
でも、「どうで死ぬ身のひと踊り」を彼がどんな気持ちで書いていたかを知ると、もう一度読まないとなと思う。
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前半は、主人公の身勝手さや女性蔑視のひどさに呆れつつも、そんな主人公を客観的にみている語り手や古書店主の視点がときどき挟まれるおかげで読み進められた。己の身勝手さを自嘲する芸なんだろうとも思えた。でも、後半二人の女性が主人公に振り回され、女たちに惚れているはずの主人公がちょっとでも都合が悪くなると淫売だの口臭さだの罵倒しまくる描写に、もうほんとうに結構です、とページを閉じてしまった。こういう男、時々いるんだけれど、ほんと怖いんですよね。二人とも無事貫多から逃げられてよかったね、と思いました。