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イタリア料理の誕生 みんなのレビュー
- キャロル・ヘルストスキー (著), 小田原 琳 (訳), 秦泉寺 友紀 (訳), 山手 昌樹 (訳)
- 税込価格:3,740円(34pt)
- 出版社:人文書院
- 発売日:2022/08/24
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2022/11/25 16:13
投稿元:
1年前に読んだ「中国料理の世界史:美食のナショナリズムをこえて」を満喫したので、今度はイタ飯だ!と手にしたのが本書「イタリア料理の誕生」です。ところが全然違う本でした。違い、その一。前著が中国三千年の歴史的なビッグヒストリーであるのに対して「イタリア料理の誕生」は1861年からのたかだか150年の歴史であること。違い、その二。前著がアジアのみならず、アメリカやヨーロッパを巻き込む世界料理としての中国料理の成立がテーマでしたが、イタリア料理は、ほぼほぼイタリア国内の話のみ。でもその違いを超えて今度の本も満喫でした。それは本書がイタリア料理が成立するために政治がどう影響したのか、政府の役割を明らかにする、というテーマ一本槍で貫かれているからです。イタリア王国の誕生が1861年なので国民食としてのイタリア料理はそこから必要とされた訳です。著名なイタリア料理家だというマルチェッラ・ハザンの「イタリア料理を知るうえでまず役立つのは、そのようなものは実在しないということである」という言葉が序論で引用されていますが、まさに読み進むうちに「マンジャーレ、カンターレ、アモーレ!」とか「マンマの味」的なイタリア料理の色眼鏡を外さなくてはならなくなってきます。そうスローフード運動の原点としてのイタリア料理についてもイメージと違ってきます。小麦粉、オリーブオイル、チーズが贅沢品でパスタというよりトウモロコシの粉で生き延びてきたイタリア国民と政府の食糧政策が生み出した欠乏料理。ないものを工夫する料理から第二次世界大戦後の食の多様性が生まれるという指摘です。そして現在のイタリア料理のイメージも過去の料理の伝統に対するノスタルジーによる新しいもの、と言い切ってしまっています。本書を読むと食料の安全保障を唱え食料自給率の上昇を目指す政策はムッソリーニが目指し、失敗した政策にも思えてきます。さて。とにかく本の帯の『イタリア料理は「政治」と「空腹」がつくった?』という新しい料理の本でした。
2023/02/05 19:40
投稿元:
イタリア料理の誕生
著者:キャロル・ヘルストスキー
訳者:小田原琳、奏泉寺友紀、山手昌樹
発行:2022年8月30日
人文書院
料理研究家の本でもなければグルメ本でもない。純粋な学術書で、歴史学者(イタリア現代史)による博士論文。イタリアにおける自由主義およびファシズム期、そして戦後における食料消費がテーマ。日本人にとって、イタリア人は大食いで豊かな食生活を送っているイメージがあるが、この本の冒頭まもなくにはこんな風に記されている。
「今日、世界中でイタリア料理として認知されているものをイタリア人が食べ始めたのはここ数十年のことである」「イタリア人は、高度経済成長期の初めに肉を以前より食べ、デザートやおやつを口にするようになった」
本書で最も強調したかったのは、我々が、そして著者自身が持っていたイタリア料理に関する知見の修正であろう。イタリアが長期にわたって物質的に豊かな伝統をもってきたというのは誤りで、消費文化がいかに国民や歴史、なにより政治の文脈の中で発展してきたかを研究している。
この本を読むと、今日のイタリア料理はまさに政治により形作られたという、驚きの事実を知ることになる。
びっくり。イタリア王国が成立したのは1861年で、日本の明治維新に近い時代。それまでは小国分立だったので、食べ物もばらばらだった。つまり、イタリア料理は存在しなかったと言っても良い状態。当然、貧しく、新しく国民となった人々は、小麦粉のパンを食べさせろと国に迫っていくことになる。
1901年のアルフレード・ニーチェフォロ(人類学者)の研究では、南部人はほとんど野菜ばかりを食べ、北部人が肉、卵、その他の乳製品など動物性タンパク質を摂取。体格差にも現れていた。
それがどう共通食を得、向上したかという理由が、これまた驚きだった。1890年代、イタリアでは、ヨーロッパの他の地域や両アメリカ大陸へ膨大な出移民があった。移民による送金と、イタリア国内での仕事の奪い合いが減少したことで、20世紀初頭にかけて国民の生活水準が改善された。両アメリカに移った移民たちは、慣れ親しんだ料理を再現しようとし、乾燥パスタ、缶詰トマト、オリーブ油というイタリア産品の消費母体が成長し、イタリア国内で特定の食品産業が大きく発展した。これらを相当数の在外イタリア人が消費するようになってからようやく、国内生産は本国のイタリア人に多くの製品を提供するようになった。
1901-1914年の「ジョリッティ時代」には、楽観主義と経済的成功があり、国民の保健統計にも反映された。1860年の平均寿命は30歳だったが、1910年には47歳まで上昇した。
第一次大戦期、戦間期にも少しずつ食糧事情は向上したが、ファシズムが台頭し、イタリアは穀物輸入に消極的になり、国産でまかなう方向に行くが、ファシズム政権は農業振興に力をいれず、政策は完全に失敗する。1935年にエチオピア侵略が始まり、国際連盟による経済制裁が始まると、食糧事情は悪くなり、国民に対して質素な食事、そして簡単な調理法を推奨するようになる。
これが、戦後、復興とともに豊かになり、食糧事情がよくなってもイタリア人を過去へのノスタルジーへと導くことになり、簡素なイタリア料理が愛され、それが世界へと広まることになる。誠に意外なストーリーがあったことに気づかされた一冊だった。
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自由主義期から、さらに国民の食を豊かにしたのは、1915年に参戦した第一次世界大戦だった。参戦前、海峡の閉鎖による穀物輸入の縮小などにより、イタリアの食糧事情は厳しくなっていた。豊かになり、段々と小麦粉によるパンが増えていたこともあって、パンの価格統制をせざるを得なくなった。売るべきパンも規制。するとパンの小売業者は反発をしてストライキを構えるなど、ますます厳しくなっていく。
国家として輸入穀物を増やし、価格を抑え、流通を体系化する。軍および増加する国民の消費量をまかなうために、施策を打っていく。実業家だったシルヴィオ・クレスピが食糧供給消費者次官に就任すると、市民の食生活改善にもっとも効果的な介入を粘り強く追及し、戦時中は安価で入手可能なパンが国の労働力を支えた。輸入拡大、物価統制、完全雇用によって、国民は以前よりも多くの食品を購入し、より質の高い食生活を維持できた。小麦の輸入総量は戦時中に900%増加した。
政府による輸入、さらにはパンへの助成により、小麦パンを主食として楽しむイタリア人が増加。パンが高くなかったので、乳製品やワイン、コーヒー、砂糖、加工食品や肉まで購入することができた。だが、戦後のインフレや政府による戦時編成が解かれた状態になって、購買力が落ちた中でも、イタリア人たちは戦時体制により得たもの、食生活の変化については、自分たちのものだと考えた。こうした不満の中、保守派やナショナリストはイタリア国外の力に依存することを懸念し、社会主義者も食糧の国内生産拡大と合理化を支持した。このようにして、イタリアはファシズムに向かっていくことになる。
【ファシズム料理】1922-45年
20世紀のイタリアでファシズムは最も長く続いた政権だった。そのため、20世紀のイタリア人の生活や政治に重大な影響を与えた。ファシズムの食糧政策は、自由主義期とそれほど異なってはいないものの、その背後にあった自給自足(アウタルキー)の意図は1930年代に強化された。
ファシズム期に入っても、20年代は戦時中と同じで治安維持を目的とした物価統制が集中的に行われた。そこで政府の標的となったのは小売業者だった。一度なくしたパンの公定価格は、1927年に復活させることに。卸売価格の下落ほど小売価格が下がらなかったためだった。
1920年代末になると、自給率を高める食品である米、ブドウ、柑橘類を食べることを推奨する一方、小麦のような輸入食材の消費を減らすキャンペーンを行った。
1925年から小麦戦争が発動され、輸入小麦に高い関税をかける一方で国内の小麦栽培への融資を行い、小麦輸入を減らそうとした。ところが、1925年には世界の小麦価格は下がり、実質上は失敗だった。また、国民には全粒粉(小麦の表皮や胚芽などごと粉にする)パンのみを推奨し、精白パンの製造は非難された。1932年になると、未来主義の指導者は反パスタ運度を展開。所詮はファシズムに共鳴して小麦の輸入を減らすためだった。
ファシストは反パ��タまではできなかったが、米の消費を後押しした。だが、第一次大戦中に代用品として配給された思い出や、南部では食べる習慣がなかったために、政府はプロパガンダを強化した。また、最も力を入れたのはブドウの消費増加だったが、そのために開催された全国ブドウ祭ではワインの飲酒は認められなかった。体制は表向き、アルコール飲料に消極的だった。
ひとたび白パンや赤肉を手に入れた消費者は、決してそれを手放そうとしなかった。
戦間期(1次大戦と2次大戦の間)に出された料理書は高級料理志向ではなかった。僅かな食材で手軽に料理できるものが中心で、中産階級に好まれた。歴史かピエロ・メルディーニは「合意の料理」と名付けた。中産階級の食習慣がファシズムの経済的・政治的要求に順応していたことを意味する。
「合意の料理」は、古い消費生活に関する考えを復活させるもので、ファシズムの政治的な都合によるものだった。調理面での技術的なアドバイス、衛生面、マナーについて主婦に指南。いまでは中産階級を連想させる定番料理や伝統の多く、すなわち、午後のおやつ、ミネストラなど具だくさんスープ、質素な肉料理、プディングやコンポートのようなお手軽デザートが勧められた。
ミネストラは、コース料理が定着する以前に前菜と主菜の間に出されるパスタや米料理などの第一の皿のこと。安価で調理しやすく、アレンジもきくことから、レシピがたくさん紹介され、ナショナリズムが後押しをした。栄養学的にも完璧だとわかり、例えば、バターやチーズをかけたパスタはがっしりした労働者にもタンパク質と脂質が十分であり、果物とサラダを加えればビタミンとミネラルも補給できた。
【軍国社会の節約料理】1935-45
平穏だった1920年代に対し、1935年から10年間続くエチオピア軍事的侵略と第二次大戦期間は、食糧不足や物価高、生活必需品の欠如の面で対照的だった。エチオピア戦争中にはまだ国民の不満や物価高で済んでいたが、二次大戦時には食糧不足や配給停滞、闇市拡大へと深刻化し、ドイツに占領された大戦末期の2年間は深刻な食糧難と栄養不足に。
1935年からのエチオピア侵略により、国際連盟は経済制裁を課した。ムッソリーニは戦争プロパガンダで禁欲的な生活習慣を称賛し、逆に経済制裁を利用して団結を強めようとした。食糧の輸入は3分の1減ったが、物価高と低賃金に抗議するも、食料が手に入らないという不満は国民のごく一部だけだった。石油の輸入も継続された。
それは逆に、食糧管理について体制側が何も学ばなかったという点で二次大戦中のより深刻な事態を招くことに繋がった。1925-35の10年にわたる穀物生産への特化が、青果や柑橘類、トマトの生産量と供給量が減少させ、小麦より利潤の少ない畜産業も衰退させた。イタリアが本来有したはずの生産力を歪めた。さらに、植民地を穀倉地帯にすることを夢見たものの、人手も資金も欠いたなかで実現できるどころか、逆にその地で自給自足ができず、入植者がイタリアから食料を輸入せざるをえず、イタリアの食糧供給問題を悪化させた。
1935年以降に急増した禁欲生活を強いるプロパガンダにより、理想的な食事は国産品だけからできているものとされた。
・毎日食べるもの:パン、穀類、トマト、柑橘類、野菜
・週に数回:オリーブ油、ラード、果物、牛乳、砂糖
・週に2-3回:豆類、卵、肉、チーズ、魚
貧困を意味したが、1935年以降は経済制裁に対する国民的抵抗のシンボルになった。
少ない肉の購入でも、卵、臓物やブタの耳などあらゆる肉の部位を用いて補う方法も教えられた。
ムッソリーニ自身が禁欲生活を送り、決してコーヒーやアルコールを飲まず、喫煙せず、朝はホットミルクを1杯、午後に少量のステーキとオムレツ、あるいは煮野菜と煮魚を食べ・・・月に1度か2度は全く食べず・・・という内容が伝わった。彼は勤勉で頭の回転が速く、近世の獲れた体の模範としてイメージが定着した。
学者たちは、生理学的にイタリア人は国際基準より少ないカロリーで大丈夫といい、別の学者は国際基準とのギャップを補うためにこのようなものを作るべきだと推奨し、また別の学者はそれではだめだと主張した。
経済制裁に抗して噴出したナショナリズムの高揚感は、イタリア料理の歴史を発見することに繋がった。雑誌は、ミネストラや米、マカロニのルーツなどイタリア料理の起源を誇らしげに解説し、また、ピエモンテ地方のバーニャ・カウダからロンバルディアのサフラン入りリゾット、トスカーナのカンネッローニ(詰め物パスタ)、ラツィオのアマトリーチェ風スペパゲティなど地方色豊かなイタリア料理を詳しく取り上げた。
ファシズムの食糧政策は、農業政策と物価統制、消費者統制のためのプロパガンダからなっていた。輸入を制限して国内で農産物を賄うことにこだわったものの、農業生産を軽視したため失敗した。また、ドイツとの同盟関係を強化すればするほど、イタリア人はドイツの搾取の対象となった。ヨーロッパ、北アフリカ、中東に由来する人々の混血であることが科学者により明らかになり、人種的な視点もそこにはあった。イタリア料理は、1920年代~30年代、肉や油脂に対する穀物や青果の過多、簡素な調理法、地方料理自慢が基本要素となった。
【戦後】
戦後数年間は、各地の食糧不足がさらに悪化したものの、1947年にローマ市民が1日平均2000キロカロリー以下で生活していたのに対し、1952年には戦前の1938年と同程度の食料を消費し、50年代半ばには生活水準の劇的な変化を経験していく。エンゲル係数は50%を下回り、食品の輸入は全輸入の3分の1を占め、コカコーラやリッツクラッカーなど新たな食べ物を試していった。
復興期、新政府は食糧問題に関してあらゆる点でファシズム体制と区別した。一次大戦後の自由主義政府とも異なり、ためらうことなく食料の確保に着手した。キリスト教民主党は、ナショナリズムと自給自足から離れ、貿易を自由化し、農業社会から工業社会へと舵を切る。多くのイタリア人は、社員食堂や大衆食堂、企業の購買部や生協で食料購入や外食をした。貧困者のために安価または無料で食料を提供する組織もあり、家庭に余裕ができていった。
外食化は1920年代からあったが、家庭で食事をすることを好むイタリア人にはあまり広まらなかった。しかし、戦後はやっと受け入れられるようになった。キリスト教民主党は、高い消費水準、特定産業への特化、自由主義優先というアメリカ的な経済成長モデルを目指した。
食糧事情は改善していくが、格差はあった。階級格差より、南北格差だった。中部は北部に追いついていったが、南部は厳しかった。それも、60年代になると差が縮まっていく。
【大量消費社会の到来】
イタリアは1958-1963年にかけて「経済の奇跡」を迎えた。欧州経済共同体に加盟し、輸入食品が増えると、食事に関する物資的制約は大幅に和らぎ、高い賃金のおかげで外食が以前よりも一般的になった、しかし、柔軟性に欠ける文化的制約によって、多くの人たちは慣れ親しんだ食品を購入し続け、確立した方法を守り続けた。賃金が上がり、貧困の証であるトウモロコシの消費量は下がり、肉の消費は増えたが、以前からの鶏肉はやはり食事の中心だった。
「経済の奇跡」の時期、新たな中産階級は外食するようになり、肉や高級食材を使った上品な料理が提供された。しかし、それに加え、昔の料理と新しい料理の混在もあった。長年にわたり「なしで済ませてきた」ことは、過去へのノスタルジーをも呼び、結局、過去が捨てがたく、食習慣は保守性を繁栄しがちだった。
イタリアでは戦間期と戦時中に、政治が国民の消費実践を規定してきたが1945年以降、国は貿易自由化を通じて、消費週間に間接的にしか介入しようとしなかった。それでも、イタリア人は地中海料理の保持を選び、飽食や外国の影響に屈しなかった。こうした食の保守性の期限は、自由主義期にまで遡り、ファシズム体制によって強化され、戦後のも捨て去りがたいものとなった。
本書で最も強調したかったのは、我々が、そして著者自身が持っていたイタリア料理に関する知見の修正だと思われる。イタリアが長期にわたって物質的に豊かな伝統をもってきたという誤った考えを覆し、消費文化がいかに国民や歴史、なにより政治の文脈の中で発展してきたかを深く知る、という点だと述べている。
奇妙なことに、以前は単調で栄養価に乏しいとされていた多くの料理や食材が、イタリア国外で今や呼吸路売りの代名詞となっている。真のイタリア料理の発見は、1980~90年代の観光地としてのイタリア再発見による部分もある。アメリカの料理書やレストラン、旅行業界は、質素な農民料理人気に飛びつき、イタリアの地域的多様性を掘り下げ、イタリア系以外の消費者のためにイタリア料理の伝統を作り直した。
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