紙の本
各種の文庫本に寄せられた解説文
2023/03/04 08:54
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投稿者:とらとら - この投稿者のレビュー一覧を見る
文庫本化された本に、上野千鶴子が寄せた解説文を集めた本とのこと。ほとんどが読んだことのない本の解説文だったけど、そのせいで解説文自体がよくわからないということはあまりなかった。解説文を読んでから、その本を買うかどうかかんがえたりすることもあるから、そんなお勧め文をよんでいる感覚でした。
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上野千鶴子さんの、産む・産まない論がズキンと刺さった。私も同意なのだ。ドーナトの研究を読んでみたい。ジェンダー論書かせたら、右に出る者がいないな、ホント。
p.15 「新しい女性たちが、結局はサラリーマンの妻であることを維持していこうとするために、母の立場に埋没して行かなければならないと言う成り行きを、悲しみを持って見守らざるを得ないのである。母と言う名の城壁の中から、いっこの生きた人間としての女を救い出すには、一体どうしたら良いのだろうか」「いっこの人間である所の女が、母で勝負しなければいけないと言う事は、やはり大変非人間的なことであるように私は思う」と。彼は同情を示すが、これから半世紀たっても、事態は一向に改善されているとは言えない。結婚は今までは「同質化した男女の共同生活」になったかもしれないが、出産とともに仕事を辞める女性が今日でも最近まで長期にわたって6割に達する横ばいを続けてきた。現実は、「サラリーマンの妻であることを維持するため」ではなく、「女性自身がサラリーマンであること」と両立するのことがどんなに難しいかを証明している。彼が予言するように、女は「働く女」になることまではできたが、「働く母親」になろうとしたら「母と言う名の城壁」ではなく、育児に冷淡な「職場の壁」が立ちはだかっている。事情は「働く父親」と同様である。昨今の「両立支援」やワークライフバランスなどと言う掛け声を、もし梅棹さんが聞いたら、半世紀も、後にまだこんなことを言わなくてはならないなんて、と絶句するだろうか。
p.21 品田知美著・平成の家族と食
p.23 阿部さんによれば、「女性飲酒を左右するのは、運命上海華ではなく、社会における男女間の区別の有無、あるいは男女関係である」と言う。全くその通りであろう。『どぶろくと女ーー日本女性飲酒考』
本書の業績は、女性子家の村上誠彦さんが、日本の女の服装、スカートズボンか、と言うシンプルな二分法だけで、古代から現代まで文字抜いてしまった大著『服装の歴史』匹敵するかもしれない。村上さんによれば、また俺のズボンスタイル(裳や袴、モンペやジーンズと)は、女性の地位の高さの指標、それを脱いで、足元がスカスカで無防備なスカート(着流しや襦袢、スカート)を履くようになったのは、女性の地位の低下の表れ。日本の服飾史には、ズボンとスカートが交互に現れる、その謎を読み解いた。アイディアと着眼点の勝利である。
p.79 安曇野ちひろ美術館を訪れた時、「大人になること」と題されたちひろ53歳、死の2年前に書かれた文章に出会いました。
「今私は(中略)、私の若い時に、よく似た欠点だらけの息子を愛し、面倒な夫が大切で、半身不随の病気の母にできるだけのことをしたいのです。これはきっと私が自分の力でこのよう渡っていく大人になったせいだと思うのです。大人と言うものは、どんなに苦労が多くても、自分の方から人を愛していける人間になることなんだと思います」
「人は、よく若かったときのことを、特に女の人は娘盛りの美しかった頃のことを何にも増して良い時であったように語ります。けれど、私は自分を振り返��てみて、娘時代が良かったとはどうしても思えないのです。思えば、情けなくも浅はかな若き日々でありました。もちろん今の私がもう立派になってしまっていると言うわけではありません。だけどあの頃よりマシになっていると思っています。そのまだマシになったと言うようになるまで、私は20年以上も地味な苦労をしたのです。失敗を重ね、冷や汗をかいて、少しずつ、少しずつものがわかりかけてきているのです。なんで昔に戻れましょう」
そう、苦労して、くろうして、大人になってきたのです、なんで昔に戻りましょう。ちひろが絵描きとして戦ってきた功績が、3つあります。
1つは挿絵画家の地位を向上させたことです。読み物に添えられる写真はおまけ。画家の名前も載らない場合もあれば、当時は著作権すら尊重されなかった時代です。消耗品のように取り扱われる、自分の作品をちひろは一点一点、出版社から取り戻しました。現在9400点を超える収蔵作品を有するちひろ美術館は、そうやって、ちひろが取り戻した作品のオリジナルが手元に残っているからこそ、成り立ったものです。初代事の展示替えや、各地の巡回展がちひろの死後も長くにわたって可能なのは、その膨大な作品のストックがあるから。ちひろ美術館は、今収蔵作品の全てをデジタル化しようとしているそうです。
2つ目は、絵本の地位を向上させたこと。絵本と言えば、子供の読む本。そう思われてないがしろにされてきました。ですが、子供向けだからといってクオリティーが低いわけでもなく、子供だからと言って理解力がないわけでもありません。それどころか、子供向けの本の中には、大人が読むに堪える「不朽の名作」と言っていいものがたくさんあります。事実、大人の中には「子供の本」の愛好家がたくさんいますし、「子供の本」専門店もあります。そこでも絵本の会は、お話の脇役、挿絵扱いでした。子どもの本の中で、視覚が果たす役割の大きさが強調されてきたのは最近のことです。ほとんど絵だけでストーリーラインを作り出す絵本が登場してきました。お話作家とコラボしなくても、画家が絵だけで絵本をかけるようになったんです。ちひろはきっと絵だけで物語る絵本を描きたいと野心を思ったに違いありません。ちひろの『あめのひのおるすばん』はそういうお話、ミニマルの絵本の1つです。それに続く『ことりのくるひ』は、1973年、ボローニャ国際児童図書店でグラフィック上を受賞すると言う評価を受けました。
もう一つは、水彩画の地位を向上させたこと。美術の王様は西洋の油絵、と言う時代に、水彩画は、文人墨客の余技に過ぎませんでした。油絵に対抗して独自の発展を遂げた、近代日本画も、厚塗りの岩絵の具が主流。水彩画はアマチュアのもの、と思われてきました。ですが、このところ、水彩画は大流行です。独特の水彩の滲みは、書に馴染んできた日本人には親しみがあるに違いありません。ちひろは書を学んだことがあるとか。計算できない滲みに任せて描いたように見える絵は、その確かなデッサン力と熟達した技術に支えられています。ちひろはそれを「気合で描く絵」と呼んでいます。日本人は水墨画の伝統を守っているのですから、それを生かすことができたのでしょう。
ちひろはよきもの、美しいもの、���しいものを守るために戦ってきた女性です。その闘いは、絵の中になまなかたちでは現れません。ですが、ちひろの世界の無垢を支えるのは、それを誰よりも強く意志した彼女の選択であること…それを知って、私たちはちひろの絵がもっと好きになるのです。
p.128 ドーナト『母になって後悔してる』
著者は、イスラエルの社会学者、子供を生まないと決意した女性だ。「今の知識と経験を踏まえて、過去に戻ることができるとしたら、それでも間になりますか?」と言う問いにノーと答えた。23人の女性を対象にした。2016年に刊行された本書は注目を集め、すでに12カ国語に翻訳され、ようやく日本語でも読めるようになった。
子供を産んだ後にも「子供を好きになれないのよね」とか、「赤ん坊のうんちだって、臭いものは臭い」と口にする母親たちが登場した。「あんたなんて産むんじゃなかった」と子供に告げる母親だっている。子供に虐待し、ネグレクトし、あまつさえ死に至らしめる母親もいる。本当は、子供に対する母親の感情はアンビバレントなのだけど、「後悔」は禁句。あっても、一時の迷いで、最後には「母になってよかった」「子供は宝物」と肯定するしか選択肢がないのが女の経験なのだ。そして母にならなかった女は、規格はずれの欠陥品とみなされる。他方、男は簡単に父親になったことを後悔してなかったことにしようと逃げることに全力を尽くす。そしてまんまと逃げおおせる。父になったことを忘れさえする。「父親になって後悔している」男に対して、社会は恐ろしく関大だ。著者ドーナトの研究が貴重なのは、女性が「自分の思考、感情、想像力の所有者」、すなわち、人生の主体であるべきだからだ。あってはならない感情に場所を与えたのは、聞き手がいたからこそである。「後悔している」母親たちは、夫にも子供にも言わなかった感情を、ドーナトに対して告げたのだ。
そして、社会がこの感情に許可を与えない理由はこうである。「母が他者のために存在する客体であることに依存する社会にとって、彼女たちがそこに留まらない事は、あまりにも恐ろしいことだからである」
…熊本には「母親になって後悔している」女性のための「こうのとりのゆりかご」がある。賛否両論を招いたと言うが、あって良いのではないか、後悔が新しい命の抹殺につながらなくて済むように。いつも思うのは、親がなくても子は育つ…仕組みを、社会が用意すべきだと言うことだ。
p.130 産むこと・産まないこと
「子のない女の世は闇よ」ーーかつてからゆきさんだった老女のこの言葉を書き留めたのは、森崎和江だった。過酷な性労働で「産めない体」になった。その老女は、自分の運命を呪った。同時代の女たちが、次々に5人も6人も孕み、産み、場合によっては9人も10人もの子供の母になった時代だった。子供は親にとって重荷でもあったが、同時に誇りでも、喜びでも、宝物でも、老後の保証でもあった。ときには、売り渡して、お金に変える財産でもあった。たかがセックス(!)をしたばかりに予期せぬ妊娠をし、自分とは別の生命が容赦なく胎内で育ち、逡巡する間もなく引き返せない段階に到達し、味わったことのない体感に揺さぶられながらある日、見知らぬ生命体が生まれている。母親になって後悔しているのはたくさんいる。妊娠したと分かったときに、それをなかったことにしようとキャンセルを選ぶ女もいる。生まれをした途端に嬰児(えいじ)殺しをする女もいる。子供の虐待死の半数近くは0歳児の赤ん坊だ。生んでしまってから子供を捨てる女も、子を殺す女もいる。少なからぬ数の女たちだ。これだけの現実があるのに、なぜ社会は「母親になって後悔している」(ドーナト)と女が発言するのを許さないのだろうか?
母親にならずに後悔している女も、母親になれずに後悔する女もいる。人は、一回きりの人生しか選べない。母親になることが女の運命であり、人生の上がりであり、人格の完成であると考えられている社会では、母親にならない/なれない女は、女の欠陥品、企画ハズレである。したがって、母親になれない女は哀れまれ、蔑まれる。母親にならない女は批判され、攻撃される。「母親にならないことを選んだ」と公言するドーナトは、ために激しい非難を浴びた。「母親になって後悔してる」と女が口にすることを許されないように、その裏返し、「母親にならなかったことを後悔していない」と今ない女が口にすることも許されていない。
父親になって後悔している男はたくさんいる。彼らは妊娠を否認し、疑い、女を責めて逃げ隠れする。子供が生まれた後も子供を捨て、忘れ、逃げおおせる。その「父親になって後悔してる」男たちを世間を責めない。いつから子供は「授かる」者から「作る」ものに変わったのだろうか。子供を作ることには、選択と責任が伴う。長い間、女は運命に掴まれて、妊娠し、出産し、否応なしに親になり、その運命を受け入れてきた。望まない子供を授かることもあれば、子供を望んだからといって、思い通りになるとは限らない。不妊の原因は男女半々にあるが、それも運命として受け入れてきた。生殖技術が進んだばかりに、子供は努力して得るものになり、「手段があるのに、なぜ努力をしないの?」と責められる。場合によっては、他人の精子や卵子、果ては、胎(はら)を借りてまで産んでもらうものになった。
子を「作る」と言いながら、その実多くの人々は、親になることを自覚的に選択してすらいない。多くの男女は、大人になったら、結婚をするもの、子は産むもの、と、なぜ子をなすのかを問われることもなく、慣習に従って親になる。なぜ子供を産んだのか、と問われて答えられるものはいるだろうか?「そういうもの」「当たり前だから」「成り行きで」、「夫の親に頼まれたから」と言うものもある。選ばなくても、運命と慣習に従って親になれた時代は、かえって幸せだったかもしれない。
これに反して、子を作らない事は、とことん選択できる。妊娠しないと決めた女を徹底的にそれを選ぶことができる。「間違って」妊娠した女は、その日、「間違えたかった」から「間違った」のではないかと。私は怪しむ。
私は運命と慣例に抗って、子供を作らないことを選択した女だ。その選択にまた後悔は無い。親になることばかりが成熟への道ではない。だが、私の選択に、人類の運命を変える力は無い。私1人が産んでも産まなくても、生命は続いていくだろう。たとえ日本人が全滅しても、人類は続くだろう。そして産んでも産まなくても、私の前にいた人々も��私の後に続く人々に対して、私の責任はなくならない。カール・マルクスは、資本論の中で、生殖を「他人を作ること」と喝破した。人間が人間を作る…その事実に私は畏れを感じすぎた。おそらく未来は畏れを知らない人々が作るんだろう。
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内容を正確に読み取り、それを自分の考えと照らしながら咀嚼し、自分の考えをさらに深められるような、知識が自分には圧倒的に足りなかった…
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えぇ、そんな見方もあるのか〜と厳しい視点にびっくりしながら読んだ。
名指しで批判的なことを書けるのはすごいな。
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色々な有名な文学(小説など)を社会学的に考察する本だと思ってたから、思ってたのと全然違う…というのが読み始めた時の感想。
著者の知り合いとかの論文について、主観大で感想を語っているというのが率直なイメージ。
だけど、不思議。こんな視点があったのか…この表現は秀逸…って唸るところも多くて勉強になったし結果面白かった。
全体的にはフェミニズム論がメインテーマ。
フェミニズムって本来の女性の権利も認めるし、異性差別主義じゃないよ〜ってことのはずだけど、一部の過剰に女の権利を主張し、男という姓を否定したいだけの人たちのせいで地雷扱いされてると思ってた。
本書の著者も若干、男性が読んだら不快そうな表現が多くて、著者の年齢も見て、まだ女性がもっと女性であることを社会から求められてきた世代だからかなぁとか思った。
今は当たり前に女性の格好をして女性らしい心で生きている男性も溢れてて、性転換した人や同性カップルも大勢いるし、それが特段浮いたりすることもなく受け入れられてて、女性でも昔でいう男性らしい生き方をする人もいるし、そもそもLGBTも当たり前で、性差だけで思想にそこまで大きな違いはないような気がする。(もちろん違う以上、差はあるとは思うけど)
今でも亭主関白っぽい人もいるし、男もサポートは当たり前って人もいるし…今は単純な性差よりその人の環境によって培われた価値観が大きいような…。
ただ美人の民主化とか、パワーワードも多くて、結局面白く読み終えた。民俗学とか面白そうで読んでみようかなぁと思ったり。
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幅広い分野の本が選ばれていて、その本に対する好奇心も湧くし、上野さんの解説から気付かされることも多いしで、勉強になった。