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19世紀末、トルコ・イスタンブールに留学した考古学者の村田君が、異国の人々と紡ぐ友情の物語。
人種も宗教も価値観も違うけれど、彼らの友情はとても素敵で、淡々と語られる日常のその一瞬一瞬が輝かしい。
帯に青春小説と書かれていて、最初はその要素を感じなかったが、読み終わって納得。
青春ってそのときには気付かない。思い返してそれがかけがえのないものだったと気付く。読後にひしひしとそれを感じるような作品だった。
最後の章で、彼らとの友情の集積が一気に思い起こされ、胸を打たれた。鸚鵡の言葉に、最後あんなに涙腺が刺激されるとは思わなかったな…。
出会えてよかったし、また読み返したい一作。
"ディスケ・カウデーレ"(楽しむことを学べ)
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角川文庫版からの移籍、ということになるのでしょうか。内容は鉄板です。著者あとがきが嬉しい。未読の方も既読の方も是非。
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作品紹介・あらすじ
『家守綺譚』『冬虫夏草』の姉妹編
著者によるあとがき「あの頃のこと」を収録
19世紀末のトルコ、スタンブール。留学生の村田は、ドイツ人のオットー、ギリシア人のディミィトリスと共に英国婦人が営む下宿に住まう。朗誦の声が響き香辛料の薫る町で、人や人ならぬ者との豊かな出会いを重ねながら、異文化に触れ見聞を深める日々。しかし国同士の争いごとが、朋輩らを思いがけない運命に巻き込んでいく――。色褪せない友情と戻らない青春が刻ま れた、愛おしく痛切なメモワール。
*****
再読。
記録によると前回は2009年2月8日に1日で読破している。その時は角川文庫からの出版だった。それから14年後、今度は新潮文庫から著者による「あの頃のこと」を加えて出版された。
村田とはこの物語の主人公。エフェンディとはトルコ語で「先生」みたいな意味。滞土録とは土耳古、つまりトルコでの滞在記録みたいな意味。だからタイトルは「村田先生のトルコ滞在記」ということになる。ちょうどこの本を読んでいる最中に、この物語の舞台であるトルコ(そして隣国シリア)で大地震があった。今日現在、死者は両国あわせて5万人を超えたとのこと。不思議な符合、と書いたら不謹慎になるだろうか。
不思議な符合はまだある。この作品の初出は「本の旅人」2002年10月号~2003年10月号に連載されていた。連載時期をみると、ちょうど9.11、アメリカ同時多発テロ事件の1年後のことになる。今回の「あの頃のこと」でもそのことや、その後のアメリカのアフガニスタン侵攻に触れている。今回新潮文庫から出版された際には、アメリカと並ぶ大国、ロシアによるウクライナ侵攻に関連して世界が不穏な空気になっている。やはり不思議な符合に思える。というかそれだけ世界情勢は昔から変わっていない、ということなのかも知れない。
村田は日本人で一応の仏教徒、下宿を営むディクソン婦人は英国人でキリスト教徒、その下で働くムハンマドはトルコ人で回教徒、下宿人のオットーはドイツ人でキリスト教徒、同じく下宿人のディミィトリスはギリシャ人でギリシャ正教徒。様々な国から様々な宗教を背景に持つ人々が同じ下宿で暮らし、生活をしている。人としての交流や、人以外の不思議なモノたちとの事件も起こるが、とりあえずは平穏に暮らしている。ただし、世界はそんな平穏とは関係なく第1次世界大戦へと向かっている。最後の章はまさに痛切。
以下、ネタバレがちょっとあります。
「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない」。これはローマの劇作家テレンスティウスの言葉の引用なのだけれど、色々と考えさせられるフレーズ。ギリシャ人でありながらなぜディミィトリスはトルコのために青年トルコ人として戦死したのか。なぜディミィトリスの事があまり好きでなかったムハンマドがそんな彼の死を信じられずに彼を探しにいったのか。なぜムハンマドが戦死した時、オットーは彼の遺体を探しにいったのか。「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない」。そこには国も宗教もない、ただの人間という存在があったからなのかも知れない。
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角川文庫(2007)から新潮文庫(ゆるやかにつながりあっている「家守綺譚」「冬虫夏草」も入っている)に引っ越してきた。
2022年11月付「あとがき―あの頃のこと」がついた。
梨木香歩作品のなかでも指折りの青春小説、せっかくだから再読しようと思う。
・・・と思っているうちにトルコとシリアの国境あたりで地震がおき、連日の報道に心を痛めながらページを繰っている。結末を知っているので、鸚鵡が悪態をつくたびに切ない。けっきょく終章はまた泣きながら読み終えた。
古今の文明文化の十字路、国も信仰も信念もさまざまな人(各国からの留学生や学者も奴隷の男も、一見籠の鳥の女たちも…)が混ざり合ってともに生きていた19世紀末の国際都市スタンブールの喜怒哀楽は思いのほか今の世界にも身近なものだとあらためておどろかされた。いつ読んでもなんらかの響くものをもつ物語だけれど、世界が分断され緊張を増しているいまこそまさに読むべきときだと感じた。
いま、新潮社のPR誌「波」で近藤ようこが「家守奇譚」を漫画化しているが、そのまま「冬虫夏草」を経てこの村田エフェンディまで続いてほしいなあと思う。
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やはり好きなシリーズ。「家守綺譚」「冬虫夏草」と読みきてこの一冊はまた繋がっているのでやはり期待どおりだった。青春かぁ…想い返してそう呼べる期間は大切です。前に進む、進化進歩せよと世は言うが、国柄、宗教、人種、時代、様々に絡み合う世界は本当に進歩しているのか。薄々そうかと思って読みすすめたが、やはり最後は涙した。もっと日常の些細な生活を読みたかった。
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国や宗教が違う人たちがどうしたら分かりあえるのか、分かりあえなくても互いの考え方を尊重して共存することはできるのではないか、そんなことを模索しようとするような丁寧な筆致がとても心地よい、そんな読書時間。
第一次世界大戦勃発直前という作品の中の時代背景が、今のギスギスした世界情勢とも重なって、考えさせられるのだけど、梨木さんの文章は夏目漱石みたいなおかしみもあって本当に好き。明治時代の異国の地の、においや感覚までが伝わってくるよう。
私の大好きな『家守綺譚』の姉妹編とは、しらなんだ…
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「冬虫夏草」を読んでサラマンドラ(赤竜)と稲荷の関係が解らずにいたのですが本作を読んで合点がいきました。
てか順番的には『家守奇譚』『村田エフェンディ滞土録』『冬虫夏草』なのかなぁって思いました。
トルコに留学した村田氏の見聞録になりますがこれは東西の異文化が混在してごった煮のような味がでてました。混じりあった体臭が独特。
宿舎の女主人はイギリス人、使用人のムハンマド、下宿人は村田氏の他にドイツ人とギリシャ人、宗教は、キリスト教にイスラム教、仏教にギリシャ正教とある。ギリシャ正教がなんなのかよく解らなかったのですがキリスト教の分派みたいです。
あっ最後にオウム、(真理教じゃないですw)
ムハンマドが通りで拾ってきたオウムなんですがこの子がいい味出してました。都合のいい解釈で拾ってきたのですがオウムって結構長生きなんですね。ググったら80年位生きるとかっw
飼主の寿命がきて相続人が不用に思い捨てたとゆう説も説得力ありますね。かなり人間嫌いな学者に飼われていたようで
「悪い物を喰っただろう」「友よ」「いよいよ革命だ」「繁殖期に入ったな」「失敗だ」の5つの語彙しか持ってないのですが適宜使いこなしてるところが凄いとゆうか、「めし」「寝る」「風呂」の3つしか使わない昭和の亭主族よりもよっぽど賢いと思いました。そして、みんなのまとめ役のように見えてきて楽しめました。
村田氏の部屋の壁に何か強い力のものが埋まってるとか、遺跡の採掘場から出てくる石板とかを建築資材に利用してるとか書いてありましたが、私はカッパドキアのような洞窟都市を想像してました。カッパだけにっw
まっそんな部屋でキツネとか犬が暴れだすとか飛抜けて面白かった。
パーティでは日本の大政奉還について関心がられたり、
裏では着々と革命に向けて暗躍してたりと目まぐるしいなか
オウムが覚えた新しい言葉
「もういいだろう」
「何時だと思っているのだ、静かにしろ」
見透かされてるかのように叫んでいたのが印象的でした。
そして、最後はジーンと来たので★5にしました。
エンディング曲には庄野真代さんの「飛んでイスタンブール」を口ずさんでしまったっw
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学校の課題図書で読んでみた。
1899年、トルコ(土耳古)・イスタンブールに留学した考古学者の村田君が、下宿先のディクソン夫人やムハンマド君など、いろんな宗教・背景をもつ人たちと日々過ごし、オウムや、お稲荷さん、竜神なども入り込んで、織りなす不思議な物語。
青春文学とあるが、そうなのか。
良くわからないけど、読後感は、何十年か前の昔の大学生活を振り返ったときのような感じを覚える。
なるほど、これが青春文学かもしれない。
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梨木香歩がこんなに骨のある古典的な文章を書くとは知らなかった。
あっという間に当時の土耳古に引き込まれてしまった。
民族も宗教も価値観も違う人々が、様々な感情がありながらもお互いを尊重し合って過ごした時間は、「青春」と一言でいうには濃密過ぎるように思う。他人と一緒に過ごす時間は、必ずいつか終わりが来るものなのだ、と思いつつ、それにしてもこんな別れを迎えてほしくはなかった。時代、社会情勢、国、民族、宗教、…尊重していたものに殺され、別れさせられたと言っても過言ではない。
ディスケ・ガウデーレ!ー楽しむことを学べ。
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イスタンブールの路地裏にいるような匂い、香り、光、空気感。東西文化の交差点での日常の暮らし、部屋にいながら満喫。交差点の位置だからこそ、気の遠くなるような古から繰り返される争い。国とは何か?考えさせられる。「人は過ちを繰り返す。繰り返す事から何度も何度も学ばねばならない。人が繰り返さなくなった時、それが全ての終焉」
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1899年とあるので、まだ世界大戦前の、村田先生の土耳古(トルコ)滞在記。
村田先生は『家守綺譚』や『冬虫夏草』でも名前があがっていた、綿貫の友人。
エフェンディは、昔トルコで用いた学者・上流階級の人に対する尊称とのこと。
当然だけど、語り手が変わることで前2作とは少し趣が違う。
村田はトルコに居て、世界情勢が綿貫よりも見えているわけだし。
著者の梨木さんは当時のトルコ、スタンブール(イスタンブール)の様子について丁寧に描かれている。
時代的にも首都がアンカラに制定される前なので、イスタンブールは多くの人種でごった返し、栄えている。
その殆どがイスラム教徒だ。
そんなわけで、前半はトルコの様子や、人々との交流、村田の専門である考古学まわりの話。
鸚鵡が登場するシーンは毎回ユーモラス。
絶妙のタイミングで「It's enough !」と叫ぶのも憎めない可愛らしさ。
(このIt's enough !が、のちに読者の目を潤ませる)
それから様々な神様たち。
日本に居る綿貫の周りでは竜神や稲荷、河童や天狗、草花の聖霊たちが沢山登場した。
そしてトルコでもワールドワイドに不思議なことが起こる。
村田の下宿先は、どこの何とも判別できずに収蔵場所にも入りきれない、遺跡の寄せ集めが建築資材となった建物。
その為か、牡牛の角が埋められていて漆喰の壁が光るのだ。(この辺りが不思議な出来事)
そこに綿貫が木下氏から貰った稲荷(キツネ)の根付け、清水氏から頼まれたアヌビス神(山犬)が加わって、
神々はドタバタと大騒ぎになる。
「神も生まれ、進化し、また変容してゆくのです。その共同体の必要に応じて。そしてその社会が滅びたとき、その神も共に滅びるのです。神というのは祈る人間があってこその存在、つまり関係性の産物ですから。」
オットーのこの台詞が、不思議と心に響いた。
日本は、別の種族に追いやられて元の種族や信仰が滅んだりしたことはないのだなぁと、改めて思う。
トルコは古くから栄えていたけれど、古代ギリシャやオスマン帝国が興亡を繰り広げた場所でもある。
日本の王の交代(正しくは大政奉還で王の交代ではないけど)が平和的であったことを驚かれるシーンもあった。
これについても世界的には珍しいことなんだろうな。
普通、王が変わるだなんてクーデターや革命だもの。
少し前の時代設定といえど、トルコの様子や、世界から見た日本・日本人を、考えさせられるシーンが他にも多々あった。
例えば雪合戦から発展したオットーの話。
学生の頃、反目し合っていた隣町の高校生から雪玉を投げつけられた。
挨拶としては手荒だが、崩れた雪玉の中から人数分のキャンディーが出てきたという。
村田は「いい話だなぁ」と感嘆するが、ディミトリアスは
「そう単純ではないよ。投げられた雪玉にはやっぱり攻撃性があるんだ」
と発言する。
そしてオットー本人も、
「文化的な"したたかさ"みたいなものだ。……………泥臭い土着の知恵のようなものだ。戦略的、とでもいうか。」
と語る。
オットーはドイツ人でキリスト教徒だ。
一方ディミトリアスはギリシャ人でキリスト教徒だが、その教派はギリシャ正教。
そして村田はというと日本人であり仏教徒ということになるが、多くの日本人がそうであるように、お経も知らず、仏陀の誕生日もうろ覚え。
二人の言葉を聞いたうえでやはり村田先生は
「いや、やはりいい話だ。僕は雪玉の中にあめ玉が仕込まれていた経験など全くない。うらやましい限りだ。」
と返す。
「自分で言いながら、おめでたさに呆れてしまう」と心の中で思いながら。
この場面は、敬虔なクリスチャンであるディクソン婦人の
「男って、本当にどうしようもないわ!」
で幕引きとなるのだが。
オットー、ディクソン夫人、ディミトリアス、ムハンマド(ちなみに彼はイスラム教徒)、その他の面々…ルーツは違えど、皆、信念を持った心優しき人たちだ。
だが後半から、世の情勢が不穏になってゆく。
トルコを後にする村田先生は最後に、壁の中の神々の行く末を相談し、火の神とキツネの神を日本国へと連れて帰ることになる。
火の神(サラマンドラ=赤竜)とキツネの神(稲荷)については、前2作とここで繋がってゆくんだね。
その夜の村田先生の夢での台詞。
きっとこのトルコ滞在で村田が手にした考えなのだろうな。
「……………殺戮には及ばぬのだ、亜細亜と希臘世界を繋げたいと思ったのだろうが、もう既に最初から繋がっているのだ、……………」
帰国後の村田にはディミトリアスの言葉がよみがえる。
「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁なことは1つもない…。」
切ない話だった。
著者の梨木さんが時間をかけて丁寧に、当時のトルコの様子や登場人物を描いた分だけ、その気持ちは大きくなった。
ディクソン夫人は母国イギリスに帰国することとなる。
だが第一次世界大戦は、イギリスや大日本帝国は連合国であるけれど、トルコ(オスマン帝国)やドイツなどの中央同盟国とは敵対している。
村田が滞在中に過ごしたあの日々は、もう戻ってこないのだ。
「私の スタンブール
私の 青春の日々
これは私の 芯なる物語」
あとがきも必読。
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読んだのは5回目くらい?大好きな本。
わたし的には、「THE 青春」なお話。村田みたいな感性を持って、村田みたいな友との出会いをして、村田みたいに得難い経験ができたらって、人生後半の真ん中くらいになった今でも思ってしまう。
鸚鵡の「友よ。」で毎回落涙。
そしてラストの村田の慟哭は、今日現在の世界情勢そのものにも通じる。
今また読んでおいてよかった。
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評価は星3つだが、この人の話の星3つは面白かったかどうかではなく、中庸であり、主張すべきところがない安定の星3つといえる。(実質星5つといえるが、その情熱が湧かないところが重要)
最終的に『家守綺譚』『冬虫夏草』と舞台が共有され、同じ世界観で描かれていることに謎の安堵感を感じる。特定の人物を好きになるわけではないのに、話に親しみが得られるのはそれだけ人の良心に寄り添った土壌が築かれているからだろう。展開はともかく、不穏な影を感じない。
人生の幸せとは、かくも流れゆく時の上に描かれた1本の線であると知る。連なりこそが味わいであり、一時的な期間がその人間の人生を広げてゆくきっかけとなる様を見せてもらった。
個性溢れた人物像にも静かな魅力が光っている。
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異文化交流とか異文化理解と言うと大袈裟なわりに浅薄な感じになってしまう。異国の人(に限らず他者)と関係を築くことは肩肘張るような特別なことではなく日常の延長なんだと感じた。国籍を越えたおつきあいの場合は、〇〇人という認識も必要ではあろうけど、その上で〇〇さんというように個として理解することが、あたりまえだけど大事だなと改めて実感した。
その一方で、特に国際情勢が緊張感を増している時は国という概念は否が応でもつきまとうということも考えさせられる。いくら個人間で強いつながりを築いていても国同士の関係が悪化している場合は個人間の絆が断ち切られたり、時には不本意ながら殺しあうことになる可能性も生じてしまう。正に物語の終わりで村田が言っているように、国って何なんだろうというのは難しい問題だと思った。
自己と他者とか、他者との心地よい距離感とか、自己が属するコミュニティ(国)とかを考えさせられる点で、いつもの梨木さんらしい深いテーマの小説だと感じた。最後の章は胸に迫るものがあり二度読んだ。
余談だけど、コテンラジオで学んできたもろもろ(ギリシャ、ペルシア、ローマ、ビザンツ、オスマン、ヨーロッパ各国、と日本の維新とか日清日露戦争とか)の歴史の知識と結びつけながら読めたので、再読だけど登場人物たちの心の機微がイメージできて以前読んだ時よりかなり味わい深く読めた気がした。
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再読。9年ぶり。新潮文庫版ははじめて。
結末がわかっててもやっぱりないた。この年になって読むと「芯なる物語」のある村田がうらやましいと思った。あとがきを読んで、今の世界の情勢に思考が向かいうまく言葉にならない。