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これまで数多くの居酒屋本を著してきた太田和彦氏。その多くは自身のメガネにかなった旅先での旬の酒肴を主役に据えた諸国漫遊記。ただ、本書はこれまでの著作とは一線を画す、異質な居酒屋探訪記となっており、いささか面食らう。
太田氏は語る。『居酒屋の良さは酒肴のみでは語れない。とりわけその土地に根差す老舗居酒屋の特徴には、風雪に耐える堅固な建物・客が長時間過ごせる居心地・地の産物を使った質素な肴』があると。
それを踏まえ、提唱したのが『日本居酒屋遺産』。自然や文化にみる価値を保護しないと消滅する危惧から『遺産』と認め保護するように、老舗居酒屋も護るだけの価値があるんだと力説。
そこで、自らアクションを起こした太田さん。趣旨をしたためた企画書を作成。出版社回りをし、プレゼンをし、賛同は得るも編集会議には諮られずオシャカ寸前。そんなところに天祐降臨。それも居酒屋が手を差し伸べる。京都の『赤垣屋』で、偶然居合わせた初見の編集者との出会いが本書誕生に導く。
さて、その取材。店主へのインタビューは敬意にあふれ、撮影は微に入り細に入り、文化遺産の調査員ばりに綿密に記録。例えば、調理場・燗付け場・酒器・調度品・額の絵やポスター・坪庭・天井・壁・レジスター・算盤…に及ぶ。そこに太田氏自ら筆を執った店内スケッチが色を添える。
写真もあえてフィルム撮影をしたのか、昭和レトロな趣きもあり、凝りに凝っていて、ひとり悦に入る。東日本編と西日本編の上下二巻の大部。老舗居酒屋アーカイブの誕生である。パラパラめくるだけで、労作ぶりが伝わってくる。
芝居や歌舞伎をよく見慣れ、目の肥えた人を評して『見巧者(みごうしゃ)』と呼ぶが、それは太田さんにも当てはまり、居酒屋紹介にはひとつのパターンが確立されている。
居酒屋の佇まいを如実に表す床・梁・カウンターに宿る優美な色気を瞬時に嗅ぎ取り、それらを舐めんばかりに眺める。その通過儀礼よろしく長めの前戯を経て、ようやく酒肴と酒という核心へと至る。
それも長年居酒屋にてひとり飲みを嗜み、自然と備わった建築意匠に関する知識が、建物の放つ情報を瞬時につかみ、当時の職人の仕事ぶりを見抜き、目を細める。
テレビでの太田さんの語りは訥弁そのものであるが文章となると打って変わる。短文と体言止めを巧みに使い分け、小気味の良いリズムを刻む。音読すると、あたかも口上のようですらある。
先頃、亡くなられた上岡龍太郎さんのあのトントントンと立板に水の口跡には、明らかに講談師の影響を受けた様子がうかがえるが、太田さんの居酒屋の佇まいを綴る文章にも同様の匂いを感じる。
そもそも本書を手に取ったのは、収録されている11店舗の内、名古屋 大甚・京都 京極スタンド・大阪阿倍野 明治屋の3店には行ったことがあり、近々京都 神馬も予約済みで、その予習も兼ねて。
神戸は1995年の震災で全壊したハンター坂のアイリッシュ・パブ『ダニーボーイ』。98年に閉店したトアロードの『キングスアームス』。いずれも神戸らしいハイカラで大人な店。それを知る者から見れば太田さんの手により店の記���がきちんと整理され残されたお店はホント幸せである。
街のインフラは〈喫茶店と書店と居酒屋〉と信じて疑わない僕が通ってる、福原『丸萬』や三宮『金盃森井本店』は神戸を代表する老舗居酒屋。
ドラッグストアと携帯ショップに席巻され、どこの駅前も金太郎飴的に変わり映えしない街になってしまった昨今、せめて地域に愛される居酒屋がいつまでも暖簾を掛けられるように、我々 呑兵衛は肝臓に配慮し、痛風に怯えながらせっせと外飲みするしかありまへん。