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著者のバックグラウンドを知らないと、なかなか理解が進まないはずだ。
クルド系トルコ人のソンメズ氏は、1980年の軍事クーデターの混乱のなかイスタンブルで法律を学び、人権弁護士として活動していたが、その活動中に警察に襲撃されて瀕死の重傷を負い、その後英国へ亡命。現在はトルコと英国を行き来しながら作家活動をしているが、イスタンブルの街への痛切な思いが、この小説に込められていると言う。
イスタンブルの地下牢獄の一室に、学生のデミルタイ、温厚なドクター、気難しい床屋のカモが閉じ込められていた。苛烈な拷問を待つあいだ、彼らは互いに物語をして時を過ごす。そこに激しい拷問を受けたばかりの老人キュヘイランが加わる。彼は幼い頃から父が影絵で物語ってくれたイスタンブルに憧れていた。彼らはまるで疫病を避けて家に閉じこもり物語をし合った『デカメロン』のように物語り合い、空想の世界でお茶を飲み、煙草を味わう。やがて彼らの過去が少しずつ明らかになり、と同時にそれぞれがまた拷問へと連れだされていく。
創作物語ではなく、これに似た経験から書かれたものではないかと思って読むと、心が騒ぐ。
ただ暗いだけではなく、嘲笑を誘う皮肉も込められている。そして芯にはイスタンブルへの愛が感じられた。
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著者がクルド人というので興味ひかれて読んだ。イスタンブルの地下牢で拷問に怯えながらすごす人たち。現実とも空想ともわからない物語をなんども話すことによって生きる、無実の人たち。
苦しく読んだ。
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『「ここでは、あらゆる物語がイスタンブルの所有に帰すんです」「もう知っとる話をするだけじゃなく、好きな形に作り変えるわけですか」「あなたの父上も同じことをしたんじゃありませんか、キュヘイランさん? イスタンブルの水夫たちを大海に投げ込み、白い鯨を追わせたじゃないですか? 狼の物語の狩人たちを、はるばるイスタンブルへ連れてきたんじゃなかったですか?」』―『五日目 学生のデミルタイの話』
クルド人と呼ばれる人々の受難はトルコに限らず中東における人権問題としてしばしば語られる。もちろん、それはどの民族的な集団にも起こり得ることで、人為的に引かれた国境線で区切られた国という定義からはみ出してしまう人々の、民族浄化という名の下で受ける差別や非人道的な行為については目を背けてはならないと思いながらも、この本をそういう視点からのみ読んでしまうことにも躊躇いをまた覚えもする。
もちろん、例えば小川洋子の「人質の朗読会」を読むように、特殊な状況下に置かれた人々の中に湧き上がる善良なる部分だけを読むというのも単純過ぎる。しかし暗喩を越えたところで響く物語というものを作家が目指しているのだとすれば、文脈を読み過ぎることにもまた注意が必要な一冊であるように思うけれど、どうだろう?
『「男女の一団が、ペストの流行を避けて都を逃れ、ある小さな家に籠るんです。疫病が過ぎ去るのを待つためにね。死を逃れる方法は街を脱出することでしたが、時間をつぶす方法は語り合うことでした。十日間、彼らは毎晩、火を囲んで物語をしました。"デカメロン"とは、その昔、イスタンブルの人々が使っていた言語で"十日"という意味です。それが本の題名になりました。彼らは猥談や恋物語、スキャンダラスな噂話をして、大いに笑いました。人生を軽くいなすふざけた物語によって、疫病への恐怖を希釈したんです。砂漠へ逃げた姫の話は、そのなかのひとつです」「千と一晩かけて語ったという物語のことなら知っとりますが、十日間で語った話のことは聞いたことがありません。親父はどうしてこの話をせんかったのかなあ。ほかにも語る話がありすぎたからかもしれませんが」』―『六日目 ドクターの話』
先の「白鯨」といい、この「デカメロン」といい、全ての物語がイスタンブルの物語となると登場人物たちは言うのだが、それをナンタケットの水夫だよとか、ギリシャ語だよとか、フィレンツェの物語だよとか、言わずもがなのことを言い出す前に、人は物語を、そして往々にして同じような物語を、語りたがる生き物だという伝言をここに読み取りたいと思う。そもそも千夜一夜物語にしたところで、ペルシャの物語と言うよりは、より広域に様々語られていた土地どちの民話を集約し、舞台を揃えて語られているのだから、「どこの」という「所有格」で示すことが既に的外れなのだ。一方で、その「的外れ」なことを営々と繰り返してしまうのもまた人の業ということになるのだろうし、作家が言いたいこともその辺りにあるのだろうと思う。
さて、出口のない牢獄でひたすら非人道的な拷問に苦しめられながらも、同じ房の囚人たちが語り合う十日間の物語は、もちろんデカメロン踏まえた構成でもあるけれど、ここに閉じ込められている(その状況はデカメロンと同じ)人々は自らの意思でここに入っている訳ではないという点が異なる。むしろ、どこか千夜一夜物語を思い起こさせると思うのだが、連想の元になるのは四人の政治犯たちとペルシャの王様に嫁がされたシェヘラザードの境遇の類似性にある。
シェヘラザードは千と一晩かけて物語を語り続けて、次々に街の娘たちに一夜の相手をさせた後首を跳ねるという王の悪習を止めさせたという。そんな風に何となく知っている話としては「そうして二人は末永く幸せ暮らしましたとさ」というお伽噺風の結末のようであるものの(異譚もあるらしい)、シェヘラザードの置かれた立場は、一応妻という立場ではありながら、後宮に囚われた身であり、かつ、何時王の気まぐれで首を撥ねられるかという恐怖の下での命懸け夜伽であった訳だから、ことはそう単純ではない。これに対して、拷問に耐えて同じ房の住人を相手に作り話を聞かせる囚人たちもまた、命懸けで真実を知らせまいと夜伽を続けている。語らないことが語ることに、語るまいと思っていたことが語られてしまうことに入れ代わりはすれども、政治犯たちが互いに語るのは、生きる希望の裏返しであり、その点においてシェヘラザードと何も変わりはない。
もちろん、四人の政治犯も、そしてシェヘラザードも、自らすすんで囚われの身になったのではないが、囚われの身にならないことを選択しないという選択をしているという意味では、自らの意思でその場に留まっているとも言える。つまり、囚われの身であることに葛藤を覚えるのは、自分自身の中の何か得体の知れないものとの対峙によること、という構図がここにはあるだろう。対外的な悪と対峙している(そんな勧善懲悪の物語は現実には存在しない)のではないのだ。そういう葛藤は旧約聖書(アブラハムがイサクを神に捧げる時の葛藤とか)にも新約聖書(イエスのゲッセマネでの祈りとか)にも枚挙に暇がない訳で、ということはそれもまた普遍的な物語であり、その葛藤を物語を聴く側も容易に理解し得るということが暗黙の前提としてある訳だ。つまり、物語が訴える肝心な点は、その何か得体の知れないもの(恐らくはどす黒いもの)と対峙することから逃げ出さず、そういうものが自分自身の中にも巣食っているということを認識し続けることなのだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、レヴィナスの説教に出て来るような話(神が全能なら何故アダムとイブが林檎の実を食べることを止めなかったのか)が語られる。
『娘は言いました。神様にお仕えするよりほかのことをしたがる者は皆、愚か者でございます。でも、わたくし一晩ずっと考えておりましたの。なぜ神様は初めから悪魔を打ち滅ぼされなかったのでしょう? 神様が悪魔を打ち滅ぼしたくても、力が足りなかったのなら、神様は弱いことになります。でも、もしほんとうはできるのに悪魔を打ち滅ぼされなかったのなら、神様は悪を認めておられるということです。神様が悪魔を打ち滅ぼせるほど強いお方であって、そうしたいとお望みなら、なぜ悪魔はまだ存在するのでしょう? この悪はどこから来るのでございますか?』―『六日目 ドクターの話』
クルド���に対する非道な仕打ち、という型をこの物語に当て嵌めることに対する躊躇は、この娘の問い掛けの中に燻ぶっている業火のようなものにあるのだと思う。