紙の本
尊厳死という重いテーマ
2023/11/03 19:44
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投稿者:kisuke - この投稿者のレビュー一覧を見る
妻を亡くして生きる希望を失った健康体の高齢の男性が、尊厳死を求める戯曲です。
彼のかかりつけ医と弁護士の他、倫理委員会委員長、法学・医学・神学の参考人も裁判に出席して、それぞれの意見を述べます。その中で実際、今どんな国で何が起きているかも語られます。
非常に重いテーマで、読みながら自分ならどう答えるだろう?と考えました。「生きることは苦しむことを意味する」等の司教によるキリスト教の考え方が特に印象的でした。
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安楽死は、これからの社会では切実かつ避けては通れない問題です。
自分はどちらか、と言えば…賛成側です。
作中にて、最近、世間を騒がせているアノ問題にニアミスしています。
日本では、ここ半年前から騒がれ始めましたが、作者の地元·ドイツを含む欧米では、発覚した当時は大騒ぎだったようです。以前聞いた話では、「修道院では就寝時、両手は毛布から出す」のが決まりだとか…
本筋からズレてしまい、すみません
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戯曲の作りで、自死の幇助についての討論会という内容。
戯曲と言えばファウストのようかと思ったら、とても読みやすくすぐに内容に入り込んで行けました。
死にたいと考える人の気持ち。そしてそれを手助けするのはどうか。手助けした後のこと。自死の方法やその周囲への影響。
とても考えさせられるものでした。
小説とは違う角度からとても読みやすく問題提起され、私の深い部分に波紋を残しました。
きっと皆さんの心にも、何か考えさせられるものが残るのではと思う作品でした。
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安楽死についてのドイツの戯曲。
テンポよく読める。アメリカの法廷ドラマを見て法律を全く知らないのに弁護士の論破が面白く感じるアレである。
しかし本題の安楽死は、P165の解説にもあるが、西洋的価値観について日本人が同じ土俵で語ることは難しいという現実がある。
だから日本人からすると違う世界の話であり、理解できない神学論争的なものでもあり、ある意味どうでもいいものである。
誰もが納得できる「良き死」など、実際はどこにも存在しないのではないだろうか。
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テロ、が衝撃作で舞台も興味があり、それと同じような感じかな?と読み始めた。
宗教観なんかが色濃く反映されるので、意見がまとまることはないと思うんだが…
「困惑するかもしれませんが、法的には生きることは義務ではないのです。」
というセリフにああそうだなと首肯。
後半のケラー倫理委員のセリフが一番入ってきた。
「〜しかし人間は愛情、保護を必要とし、共同体に依存しています。わたしたちが生まれてから死ぬまでに相互に頼ることはないと主張するのは無理があるでしょう。たしかに生きる義務はありません。〜しかし本来、わたしたちは社会的な生きものなわけですから、死を望む者が死ぬ手伝いをするのではなく、その人を抱きとめ、翻意するように働きかけることは必要不可欠です。そういう心根はわたしたちの法と憲法よりも古いものです。それによってわたしたちの共同体ははじめて成り立つのですから、法よりも上位のものといえます。〜」
長文だが、是非お読みいただきたい。
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冒頭の方で「自死」というべきです。「自殺」ではありません。自分自身を死に至らしめることは殺人ではありませんから(弁護士ピーグラー)という箇所があるが、日本ではほぼ同義に使っているが漢字を帰るだけで印象が変わると感じた。
「わたしは死にたいのです。」(ゲルトナーの意思)
「生きていたくないからです。」(それは何故か問われたゲルトナーの回答。)ここは死にたいという意思を言い換えているだけの印象をこの時点では持った。
「孫のことは愛しています。しかし、孫がはたして理解してくれるかどうかわかりませんが、エリザベートが死んでから、わたしは半身をもがれたような感じなのです。(ゲルトナー)」他人同士が繋がりながら結婚生活によって到達した想い、日本人的な発想かもしれないが血を分けていても孫は妻より遠い存在か。他人同士が家族なり愛情なりを築き上げていくからこそ意義があると感じた一文。
「なにからですか?自分の命を絶つ権利は、いま申しあげたように人間の自由権です。(リッテン)」ここから、個々の命とはどこに帰属するのか議論が始まる。
「刑法というのは、わたしたちの生命を守るものだと思っていました。(ケラー)」ここについては命を絶ちたいという意思も含めたものなのか?自死は認めないというスタンスなのか?歴史上、法が命を守るというのを過信するのは難しいのではないか。
「価値のない命」というナチスの言葉について、ドイツにおけるナチスの呪縛を感じた。意思にかかわらず殺すナチスに対して、意思を持って自身ではなし得ない死を他者になすよう望むのがここでの議論のそうてんではないか。
「老人は負担だ。金がかかりすぎる。資源を消費する。もう充分生きたじゃないか。(略)」ここは邦画のプラン75に類似してると感じた。日本人もドイツ人もある意味、命ですらコストのように扱うことがあるのだなと感じた。
「ナチによる犯罪は小さなところからはじまって肥大化した。最小限は医師の基本姿勢をさりげなく変化させただけだった。生きる価値がない状況が存在するという安楽士運動の基本的な考え方のニュアンスを変えていった。初期段階では重病者と慢性病者だけが対象だったが、範囲が徐徐に拡大され、社会的に生産性のない者、イデオロギー的に望ましくない者、人種的に歓迎されざる者が加えられていった」生きる価値とは個人が決めること、他者が決めるものではないと思った。しかし、人は田車に対して不寛容になりつつあるいま、また、おなじ過ちを犯そうとしていないか?
「市民はみな、自分の好きなものを信じていいということです。人間はなにを信仰し、どういう世界観を持っても言いのです」西洋社会は圧倒的キリスト教社会と思ってたので少し驚いたが納得。また以下のリッテン(法学の参考人)の言葉に共感。「全体主義国家は自らを絶対だとみなします。自ら以外に真実はなく、国家はそれを実現するものだと。戦後、ドイツ基本法を生み出した人たちはそれを否定したのです。すべての法律と仝ように、憲法もまたアクニ感染しやすく、欠点があると彼らはしむていました。国家の秩序に完璧はないのです。人間のすることには限界があると自覚すること、それが謙虚さのあらわ���なのです。ですから、憲法の前文に神が言及されているわけです。」神は人の良心に訴える存在?ティール(神学の参考人)は「古代から啓蒙主義の時代にいたる二千五百年間、自分の命を絶つという暴力的な行為は一貫して否定されてきました。(略)キリスト教かいは社会において、いまでも監視役なのです。」切腹や殉死などがあった日本と相違?!以下のティールの言葉にはポピュリズムへの問題提起を感じた。「役に立つかどうかで命を落とす天秤にかけるなら、じきに「健全な国民感情」がもてはやされ、わたしたちの社会に望ましくない人たちが特定されることになります。身体障害者、うつ病患者、高齢者、愚鈍な人。ダムが決潰する恐れはすでにているのです。」「自然死は生きることとセットです。それを奪ってはならないと思います。」
「わたしたちの命は自分ひとりのものではないということになりますね?」(ケラー 倫理委員会委員) 一人でいきているわけではないから出てくる。一方でティールの「士民には保護され、尊厳をもって歳をとり、死んでいく権利があるのです。」という言葉に、例えば発狂した姿ではなく、自分らしさ、自分の望む自分の姿で死にたいという意思の肯定も感じ、共感した部分。ティールは神学者らしく「命は神の賜であるとされたのです。生きるか死ぬかを決められるのは神だけということです。」とも語っている。個人的には日本人なので神のところは「御先祖様」と考えたほうが腹落ちした。
また、戯曲らしい極論として面白かったのは、ビーグラー(弁護士)の「幸福を追求し、苦しみを避けようとするのは人間にとってただしいことではないですか?それは人間の本性ではありませんか?(略)司教。人間が苦しむのは無意味ではありませんか?」とそれに対するティールの「いきることは苦しむことです。」という対極のやり取り。現実はこの中間といったところか。生きるというやり取りに対し、安楽死を望むゲルトナーの「ひとたび死んでしまえば、何もかも残りません。暖かいところも、すてきなドレスやきちんとしたスーツも。死の床には自分以外なにも持ってはいけません。」という言葉からは物質は無理でも愛した感情、心はその身に宿したまま死ねるという思いも感じた。
「わたしたちの命は誰のものなのか?」「みなさん、わたしたちのしは、わたしたちのものでなければ、イッタイだれのものなのでしょうか?」個に帰属してきたものとはいえ、生かされているということを忘れてはいけないと感じた。
ハルトムート•クレスト
「自尊心が傷つけられ、尊厳をもって死ぬ権利が毀損されると見ているのだ。こうした人々は、矛盾をはらんだ死のプロセスを避けるために、医師といったしかるべき人による自死の介助や最期の看取りを求めている」
◎「孵化に耐えうる答えを、わたしたちはまだ持ちあわせていないといえるだろう。生きる喜びや生きる意味を高齢になってもいかにイジするか、また、それが失せたときにどうするかといった、長寿との付き合い方を、甥も若きもまなばなければならない。」これからの大きな仮題
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戯曲形式で自死の問題を議論する書籍。高齢化が進むなか、自分も100歳を超えて自力でご飯が食べれなくなったらどう考えるかなと思っていた。本作品は78歳で妻に先立たれた人が医師による自死を求めて訴えるという内容。自分が思っていた対象とは少し異なるが、一度認められるとどんどん拡大解釈され、優性思想が蔓延りかねない。また、本書は著者がドイツ人のため、自死してはいけないという意見は宗教的な面から議論されていてそれも日本とは異なる状況だった。あとがきに記されていたがまずは日本独自の死生観を議論することが大事だと思う。
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個人的に大好きなドイツの作家フェルディナント・フォン・シーラッハ。いつもながらに難しいテーマを今回も取り扱っている。そのテーマは「神との関係性における安楽死」。キリスト教信者のみならず、他の宗教信者に対しても、安楽死の本質とは何かを問いかけている。われわれ日本人が「神」から推察できる事は何か。西欧諸国がとらえる「死ぬ権利」について、日本人が同じ土俵で語る事は難しいという現実を読んでいて感じざるを得なかった。それにしてもシーラッハ作品を扱う酒寄氏の翻訳はいつ読んでも爽快である。
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欧米の近代的な自由の理念や自己決定権とキリスト教のせめぎ合いが、安楽死の問題を舞台に、抜き差しならない形で展開する。これは、思考実験とかではなく、まさに今、ドイツで起きていることと言っていい。ドイツ連邦議会が2015年に自死の介助を罰する法を制定したのに対して、ドイツ連邦憲法裁判所は2020年にそれを違憲としたのだ。西欧でここまで法的に安楽死を認める流れになっているとは知らなかった。
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最近気づいたシーラッハの新作。
タイトルから別の話を想像していたのですが、主題は「臨死介助の是非」でした。「自死選択の是非」ではなく。
法学、神学、医学の観点からそれぞれ意見を求め、戯曲なので、観客に最終判断を委ねる…「テロ」の時と同じ手法。
個人的には、なしであってほしいです。
倫理観は、時代で変わっていくものかもしれないですが、ナチの事例をシーラッハが持ち出していることが、警鐘だと思いたいからです。
この本を読む寸前にジャン=リュック・ゴダールがいわゆる安楽死を選択していた、という記事を読んだこと、また、やはりこの本を読む寸前に読んだアチェベの「崩れゆく絆」の主人公の最期のシーン、など、時折脳裏をかすめなました。
シーラッハ、好きです。
ドラマチックなタイプの書き方ではないのですが、作品のひとつひとつに心が揺さぶられます。
短編と戯曲が特に良いと思います。
酒寄さんの翻訳もすばらしいです。これからもよろしくお願いします。
マイナス一つ星は、やはり書き手として、結論はどうか、が見えないので。でも、それはそれで良いんですけどね(笑)読み手もアマノジャク(笑)