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・ 私はドラキュラや吸血鬼が好きだが、このやうな書を読んだことはなかつた。丹治愛「ドラキュラ・シンドローム 外国を恐怖する英国ヴィクトリア朝」(講談社学術文庫)である。元版は東京大学出版会から出てゐる。 原題を「ドラキュラの世紀末ーヴィクトリア朝の外国恐怖症の文化研究」といふ。いかにも学術書である。この副題の方が内容を想像し易いとは言へる。「本書のどこが文化研究なのでしょうか。(改行)それは端的にいって、この本の関心が最終的に『ドラキュラ』のテキストそれ自体にむかっているのでは なく、テキストに認められる外国恐怖症というヴィクトリア朝の文化的コンプレックスにむかっているからです。文化がこの本の最終的な関心だからなのです。」(317頁)これだけで明らかである。ストーカーの 「ドラキュラ」が分析対象ではあつても、引用書は当時の政治家や社会情勢に関するものがほとんどである。「ドラキュラ」=吸血鬼小説としか考へられない人間には無縁の世界であるかに思はれる。しかしそれがおもしろいのである。それが「文化研究」によるのはまちがひない。「テキストに認められる外国恐怖症というヴィクトリア朝の文化的コンプレックス」、これがいかなるものであるのかを順次書いていく。それは私には考へられないことどもであつた。
・目次は「イントロダクション」に始まる。文字通りの導入 部であるが、この後半は「ドラ キュラの年は西暦何年か」 (23頁)といふ章である。私は、西暦何年にドラキュラが出没したのかなどと考へたことはなかつた。これ以後との関係で、この年は大いに問題になるらしい。そこで子細な検討が加へられてゐる。さうして1893年といふ西暦年が出て くる。ごく大雑把に言つて世紀末である。これは「文化的コンプレックス」にも関係してゐる。「コンプレックス」は「帝国主義の世紀末」、「反ユダヤ主義の世紀末」、「パストゥー ル革命の世紀末」と続き、更に文庫版の補遺として「もうひとつの外国恐怖症ーエミール・ゾラの〈猥褻〉小説と検閲」で終はる。これらがかつての英国にもあつたであらうことは容易に想像できる。それが「ドラキュラ」にも関係してゐたのである。「帝国主義」の最後は新興国家アメリカである。「他民族をたえず『同化/吸収』しつつその領土を拡大していくアング ロ・サクソン民族は、吸血しつつ彼の『同類』をふやしていくドラキュラとなんと似ていることでしょう。ドラキュラとはじつは抑圧された彼らの自己イメージだったのかもしれません。」(148頁)この時点で、アングロ・サクソン世界の「一方のセクションは多くの部分に分割分断されており、他方は分割されていない全体として大いにその力を増大させている」(146頁)といふ状況にあつたが、「分割分断」が英国、「力を増大させている」のが米国であつた。よりはつきり言へば、ドラキュラは「つぎつ ぎに植民地を失っていく二〇世紀末の大英帝国の運命を予徴するかのように、ついにその肉体を切り裂かれることによって、『支配者』たる地位を失っていく」存在でしかない。これが 「コンプレックス」である。このやうにドラキュラと英国が関係してゐるのであつた。「反ユダヤ」でも「パストゥール」でも、そして「ゾラ」でも同様のことが言へる。正に蒙を啓かれる思ひであつた。「『ドラキュラ』は、多種多様な主題のもと、それが生み出された一九世紀末の政治的・歴史的コンテク ストのなかでさまざまに解釈されてきた。」(325頁)といふ。その「さまざまに解釈された」一つが本書なのであつた。 かくして「ドラキュラ」は本当 に特権的な書である(同前)と思ふ。