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2024/01/13 20:13
投稿元:
居場所がなくなる怖さ
今、立っている場所が居場所、その場所に置かれたときに考えればいい。
健康法
自分に与えられて仕事に精を出すこと。
着るもの
肉体に最も近い環境、 いい加減にしない。
自分を変えたいと思ったら、自分の環境を変える 肉体と感性を変えてくれる。
読書は人の考えをなぞること。
難聴
人と話すことがない 孤独こそ最高の境地。
ハンディに挑戦する必要はない。 それを受け入れて行動すればいい。
老い
欲望や執念がなくなってくる。抵抗するのではなく受け入れる。人任せ運命任せ。
死
死の側に立つ。 死者の目で現世を眺める。
内面をさらけ出す怖さ
恥ずかしいという感情は、人によく見られたいという気持ち。
ありのままの自分を出してみる。
孤独
孤独は創造の原点 無為自然のなかに創造と美を求める生き方が積極的な生き方。
自画像
自分を描き切ることで、自分を吐き出している。
物を創るという発想の根源は「私」という意識。
創作の目的
描こうという衝動に従い、ご飯を食べるように描く
頭というより身体の赴くまま、手が動くのに任せて描く
独学
経済的な理由で大学をあきらめた後、
ポスターの応募で入賞し、印刷所に就職するが、ミスでクビに。
趣味でカットを応募していた高校生と喫茶店でグループ展を開いた際に
たまたま来た神戸新聞社の図案部長とイラストレーターの目に止まり、就職。
専門教育=約束事、「気分」を恐れる。自分の武器は「気分」に。
完成
飽きたところで放棄、それが完成。
転身
「デザイナー」は仕事、「絵」は人生であり生きるということ。
美術は機能的でも合理的でもないが生きる力を与えてくれる。
禅
語るものではなくて、まず身体による体験 思考の束縛から自由に。
旅
旅は、人生という旅のシミュレーション。
肉体を移動させると観念から離れやすく
感性が研ぎ澄まされ、未知の事項を吸収する。
今
人間は、たった今にしか生きていない
結果や目的を頭から外して、たった今やっていることをやれるところまでやる。
人生は暇つぶし
何もしない、何も考えない無為な時間をたっぷり取る、それが人生の宝。
どんな仕事にもクリエイトが大切、そのなかに「遊び」がある。
運命
MoMAのピカソ展で突然天啓の追うな衝撃を受け、絵画へ。
しかし、ピカソの絵を見てではない。
2024/01/21 14:32
投稿元:
横尾忠則さんの人生相談問答。
この本を手にするまで横尾忠則さんを存じ上げず、ファンの方には恐縮な読者の感想です。
人生相談というので手にした本です。
ラジオの人生相談のファンなのでね。その類かと思ったのですが、そうでもあり、そうでも無い…これも本を通した縁だと思い読みました。
横尾忠則は画家でありデザイナーであると知ったが、読み終えるまでは調べないで偏見を持たずに…と読み進める。
挿絵が入っており、作風は伝わってきて、うーんこれはちょっと理解が難しい。
横尾さんがどのようなお一人なのか知らずに読んだが、ふわっとしながらもちゃんと自分があって自分に責任を持っている方である。
旅についてのお考えや、巡り合わせで辿ってきた職歴、またご両親のこと、なかなか波乱に富んでいる。
最後の最後に回答しているもので、〝運命を受け入れるというのは、予測不能な未来に身を投じるということでとても怖いことです。〟としつつも続けて
〝人は皆、運命に導かれて生きていること、運命を受け入れることで開かれる人生があることを、お伝えできたのではないかと思っています。〟と
なかなか辛辣な部分もあったと回想しているところです。
横尾さん自身、家庭に本が無くご両親も読書という習慣がなかったと言うが、字もしくは本が無い環境でも、考えさえしっかりして文字起こしされ校正の協力者がいればこうした出版は可能なのだと思った。
理解者協力者がいるということは、横尾さんのお人柄なのだろう。
絵画やデザインの作風は、私の好みではありませんでしたが、お考えはとても素敵だと思いました。
2024/03/09 20:00
投稿元:
答えられないことには答えられないと素直に言っちゃう横尾さんがカワイイ。老いると素直になるのか、はたまた横尾さんがもともとピュアなのか。横尾さんの絵と共に読めるので「このおじさん(おじいさん)なんのひと」って思う人にもいいかもしれない。
2024/06/13 11:24
投稿元:
1265
パリのポンピドゥーセンターの美術見たときに、絵とかアートを頭で見ることから真に解放された体験をした気がする。作者と言葉ではない右脳だけで会話したような経験だったあれは。ほんとに良い経験だった。
横尾忠則
1936年兵庫県生まれ。美術家。72年にニューヨーク近代美術館で個展。その後もパリ、ヴェネツィア、サンパウロなど各国のビエンナーレに出品し、ステデリック美術館(アムステルダム)、カルティエ財団現代美術館(パリ)、ロシア国立東洋美術館(モスクワ)など、世界各国の美術館で個展を開催。また、東京都現代美術館、京都国立近代美術館、金沢21世紀美術館、国立国際美術館、東京国立博物館など、国内でも相次いで個展を開催する。2012年、神戸市に兵庫県立横尾忠則現代美術館開館。2013年、香川県に豊島横尾館開館。95年に毎日芸術賞、11年に旭日小綬章、朝日賞、15年に高松宮殿下記念世界文化賞、20年に東京都名誉都民顕彰、23年に日本芸術院会員。著書に、小説『ぶるうらんど』(第36回泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(第32回講談社エッセイ賞)、小説『原郷の森』ほか多数。
さて、私ごとを書き過ぎましたが、一般サラリーマンの退職後の問題ですね。僕の周辺にもサラリーマンを辞めて、小さい出版社を起こしたり、何か特別なことはせず、退職金と年金だけで結構好きなことをしたりしている人もいます。その人たちは特別な野望もなく、好きな音楽を嗜んだり、絵を描いたり、僕からすれば気楽な生活をエンジョイしているように見えます。
環境の変化によって、着るものも自然に変わっていきます。読書をして自己を見極め探求するのもいいですが、僕は自分を変えたいと思ったときは、脳を変えるのではなく肉体を変えることで自己変革をするようにしています。脳が変わればたしかに物の見方、考え方も変わるかもしれませんが、読書は人の考え方をなぞることです。一方、環境を変える行動は肉体と感性を変えてくれます。人の考えのコピーではなく、自分の肉体が経験したことによって自分独自の考え方が得られます。読書という著者の観念によって自己を変えるのは脳の作用です。ところが、肉体を通して考えるというか感じることは、そのままその経験が肉体化しますので、肉体が覚える知性と呼んでいいのではないでしょうか。他人の考えではなく自前の考えです。その自前の考えは、環境を変えることで簡単に得られます。
僕の父は、僕が上京して半年も経たないうちに、脳梗塞で突発的に死にました。その後、母を東京に呼びましたが、六畳一間にわれわれ夫婦と生まれたばかりの長男と引き取った母の四人がすし詰め状態で住んでいました。現実があまりにも非現実で、母は大阪の親戚の家に世話になったりもしていました。その後、東京の農家の一画の三間続きの小さな家に再び母を迎えましたが、相変わらず貧乏生活を強いられていました。そんな状況のなか、僕は、母が郷里の家を売って得たわずかなお金を持ってヨーロッパ旅行をし、有り金全部を使い果たして帰ってきたら、母はがんで入院していました。そして、やがて息を引き取りました。
人生には、男時、女時という時期があると世��弥が説いています。きっと今は、女時の時期かもしれません。その間は、うんと勉学に励む時期です。そして必ず男時がやって来ます。そのときに、一気に流れを自分に引き寄せればいいんじゃないかと思います。
しかし、僕に言わせれば、定年を迎えることは人生の最大のプレゼントではないかと、ときにはうらやましく思います。「さあ、これからは今までとはまったく違う異次元の生活、生き方ができるぞ!」と、欣喜雀躍するかもしれません。目の前に未経験の地平が開けたわけです。ありとあらゆる制約と束縛から解放されて、自由になった。これからは何でもできる。最高じゃないですか。退職金と年金で、そんなに贅沢をしなければ、好きな趣味に生きることができるじゃないですか。趣味は一種のクリエイティブです。クリエイティブに生きていれば老化しません。むしろ延命して長寿が全うできます。ややっこしい会社での人間関係もなくなり、理想の暮らしに向かうことができます。
絵の見方は、りんごの食べ方や排泄の仕方と一緒で、正しい方法などありません。好きか、嫌いか、分からないか、そのどれかでいいのです。絵の見方が分からないと感じてしまうのは、絵の主題(テーマ)を探そうとしてしまうからでしょう。そして、すぐに解説文を読んでしまう。それでは、絵を見る機会を奪ってしまいます。 絵は、あくまでも「目」で見るものです。解説文を読むことは、「頭」で理解したにすぎず、絵が見えるようになるわけではありません。 あなたはふだん、人を見たり、風景を見たりするときに、頭で考えて見ているのですか? 目で見ますよね。「美人だなあ」「面白い顔だなあ」「美しい景色だなあ」なんて感想を抱くのではないでしょうか。これでいいのです。絵も同じように目で見て、そのときの気分で絵を判断すればいいのです。そして、その気分を言葉にする必要もありません。
また、「何が素晴らしいのかよく分からない」と書いていますが、すべての絵が必ずしも素晴らしいとは限りません。何が素晴らしいか分からないなら、「分からない」というのがあなたの見方なんです。「きれいな絵だな、きれいな色だな」と思えば、それで十分です。「変な絵だな」と思えば、その絵は変な絵だったんです。同じ絵でも、人は同じように見ていません。絵には、人それぞれの見方があるのです。
展覧会でも、画集でもいいので、絵を見る機会をできるだけたくさん作ってください。そうすることで、ある日突然、絵が分かりはじめます。自分の見方ができてくるのです。そうしたら、しめたものです。絵という悪魔に取り憑かれ、イケイケどんどん式に片っ端から絵が見たくなります。そして一年も経てば、評論家のようなことを言いはじめます。こうして生活のなかに絵が必需品となり、絵がないと生きていけなくなるのです。
僕はダリの絵はそんなに好きではありません。人の想像を搔き立てるような、イマジナティブなところがないのです。そのせいか、ヨーロッパでダリはあまり評価されていないように思います。また、ダリはフランコ独裁政権べったりのアーティストだったので、その人間性を批判されることも多いようです。
子どもの描く絵が、ピカソより面白いというようなことだってあります。実はピカソは、いかに下手な絵を描くかという努力をしていました。下手というよりも、純真無垢な子どもの魂を持ち続けようとした、と言ったほうがいいかもしれません。子どもは大義名分や何かのために絵を描いたりしません。活動の根源は遊ぶということそのもので、遊ぶことには、目的も計画も結果もありません。子どもは皆、生まれながらにして天才です。一方で大半の大人は、結果を考え、計画を立て、それに従って行動します。だから、面白い生き方や面白いものを創ることができません。子どもの絵に敵わないのです。
デザインは役に立つ仕事です。美術は役に立ちません。しかし、実は役に立つはずのデザインは、役に立ちません。役に立たないはずの美術は、役に立ちます。これはどういうことかというと、デザインは合理的で機能的、生活の役に立つものです。しかし重要なのは、それが人生にとってどれほど役に立つかということです。美術は、機能的でも合理的でもありませんが、生きる力を与えてくれます。
僕が禅を始めたきっかけは、一九六七年に初めてニューヨークに一人旅をして、四ヵ月近く滞在したことです。この頃、ニューヨークは、ヒッピーカルチャーやサイケデリックムーブメントなどの若者文化が沸騰していました。一方、ベトナム戦争で、アメリカ中が揺れ動いている時期でもありました。そんな最中、僕は何人もの知識人に会いましたが、彼らの多くがZEN(禅)に興味を持っていました。僕が日本人だと知ると、たびたび禅について問いを投げてくるのですが、僕は日本人でありながら禅についてはチンプンカンプン。 彼らは、禅を鈴木大拙の書物から学んでいました。前衛音楽のジョン・ケージも、禅の精神と思想を自分の音楽に取り入れようとしていましたが、あくまで禅を芸術の発想に活用しようとしていて、禅を体得しようとする気持ちは真似事程度、言葉や観念を通じて禅を思想化することに関心が向いていたように思います。 僕は、禅をほんとうに知るためには、書物ではなく、座禅によって体得すべきではないかと思い、帰国すると、まず横浜の鶴見にある曹洞宗大本山の總持寺に参禅することにしました。 そこでは、一炷といって線香が一本燃えつくす時間、だいたい四十五分くらいですかね、その間ただ黙って座るのです。少しでも姿勢が崩れたり揺れたりすると、雲水の警策が入ります。別に痛くはないですが、心身がピシッとします。
僕はニューヨークに約四ヵ月滞在しましたが、最後の一ヵ月は妻を呼んでの海外生活になりました。一人旅が良いのか家族と一緒の旅が良いのか、旅の目的によって変わるでしょう。 長期の休暇が取れるなら、やはり海外旅行が良いと思います。このときの体験と記憶は、その後の人生にかけがえのない利益をもたらすと思います。
僕はそんなに多くの海外旅行をしていませんが、それでもスペインを車でまわったり、インドやネパールに何度も行ったり、イースター島やタヒチ、サモア、バリといった南国の島々を巡る旅をしてきました。半分仕事を兼ねた旅先には、パリ、ローマ、ミラノ、ロンドン、ロスアンジェルス、エジプトなどがあります。まだまだ行ってみたい国はたくさんありますが、もうこの歳になると国内旅行も厳しくなりま���た。
旅をすると、意識は外に向かい自分から離れていくように思えますが、実際には、旅先では常に自己と対話を続けています。だから僕は、旅は自己への回帰ではないかと思っています。映画や演劇を観たり、小説を読んだりするのも一つの旅かもしれませんが、これらは肉体を移動させない旅です。やはり、肉体を移動させるほうが観念から離れやすく、知らず知らず感性が研ぎ澄まされ、未知の事柄を吸収しやすいんじゃないでしょうか。旅によって日常からいったん離脱して、自分を俯瞰すると、ふだんの生活では一面的にしかとらえられなかった自分が、まるでキュビズムの絵画のように三次元的、立体的にとらえられるようになる。未知の自分を知って、思わぬ自己発見をするかもしれません。 旅は、人生という名の旅のシミュレーションです。その後の人生を、旅するように生きられるかもしれませんよ。
人生を変えたいから旅に出る。しかも、海外へ一人旅に出たいというのは素晴らしいです。僕も若い頃はよく、言葉も通じないような国へ出かけたものです。 僕が、もっとも大きな影響を受けた国はインドでした。初めて行ったのは、僕が三十代の頃。最初はカメラマンの友人を誘って行ったので、一人旅ではなかったのですが、彼も僕も、もちろん自費で、行く場所もやることも決めず、帰りの飛行機代がなくなる前には日本に帰ろう、くらいの気持ちで行きました。そのときは二十日間ほどの滞在でしたが、その後、僕はインドに七回行くことになります。 インドでは、それまで自分が培ってきた常識や概念がまったく通用しません。粉々になって崩れてしまいます。自我や欲望や煩悩など、何かに執着した気持ちを持ったままでは、インドは受け入れてくれません。日本を捨てるぐらいの覚悟、今まで自分が学んだものをすべて無きものにするくらいの覚悟がなければ、インドに入っていくことはできないのです。 インドでは、見たものを何かに喩えようとしても、何に喩えたらいいか分からないという経験をします。今まで得た知識を総動員しても喩えようがない、分からないところに放り込まれるのです。今まで経験してきたことは、どれも当てはまりません。こんな世界が現実にあったのかと思うほど、強い衝撃を受けました。 そもそも、なぜインドに行ったのか。僕の場合、動機は二つありました。 一つは、三島由紀夫さんの影響です。彼はよく、「インドは、行ける人間と行けない人間がいる。その人のカルマ(業)が影響している。そして、インドに行くには、行っていい時期と、行ってはいけない時期がある」と話していました。その三島さんが、割腹をする三日前、電話で「君もそろそろインドに行ってもいい時期が来たね」と言うんです。まさかそれが、彼と交わす最後の会話になるとは思いもしませんでしたが、そのときにインドに行くことを決断しました。 もう一つの動機はビートルズです。当時、僕はビートルズを追いかけていて、新聞を読まなくても、テレビのニュースを見なくても、ビートルズを追いかけていれば生きていけるんだなんて考えていました。そのビートルズが、特にジョージ・ハリスンがインド思想に傾倒し、修行のためにインドを訪れていました。それがなんだか、カルマの話と一致してるように思えたのです。��一人旅は常に、危険と背中合わせです。そんなときは極度の孤独に襲われますが、こうした体験すべてが、あなたの魂の栄養となります。対話の相手は自分自身です。私のなかの私と四六時中向き合っています。文学作品を一冊読む以上に、自分のなかの文学と語り合うことができます。 人生において、変化はとても大事です。そして、旅は変化の連続です。溜まった水は汚れますが、流れる水は常にきれいです。変化とは水の流れです。水はどんな形にも馴染みますが、変化も同じです。固定したものは「死」ですが、変化は「生」なのです。 あなたは、人生を変えたいと書いていらっしゃいますが、そんなこと考えなくてもいいんです。知らず知らずのうちに変わっていきます。どの国がよいか? それはどこでもいいです。あなたのなかに、何か動機となる出来事はなかったでしょうか? あなたが行きたい国があれば、そこが、あなたが行くべき国です。
僕も昔から、器用貧乏なところがありました。絵でいうと、なんでもそこそこの絵は描けるのですが、「これ」という自分だけのものが描けないのです。だから不器用な人に憧れました。不器用な人は一つのことしかできないので、当然個性的に見えます。だけどプロにはなれないでしょうね。そこで考えました。じゃ、徹底的に器用になってやろうと。個性なんか必要ない。器用を売り物にしてやろうと。玄人はみんな器用です。もう、そこからは根性です。そして、この根性こそがプロ意識です。つまり器用貧乏を生かすことにしたのです。
ご質問のなかで「突き抜けることができない」と書かれていますが、そう簡単に突き抜けるのは無理です。まず結果や目的を頭から外して、たった今やっていることを、やれるところまでやってください。そのうち、自分のやるべきこと、得意なことに気づきます。突き抜けようという意識など持つ必要はありません。気がついたら自然に突き抜けているものです。それに「自分に物足りなさを感じる」ということは、今やっていることに夢中になれていないのかもしれませんよ。あれこれ目移りして、熱中できていないのかもしれません。早く答えを出そうとすると、今やっていることから気持ちが離れます。 いちばん大事なのは「今」です。今をおろそかにして、「先」のことを考えると不安になります。人間は、過去にも未来にも生きていません。「たった今」にしか生きていないのです。その生に夢中になってください。
あなたは完璧な人間を目指そうとしていらっしゃいませんか? 完璧な人間など、この世にはいません。人間ならば誰しも、何らかの欲望や執着があります。 打算的で冷たい部分なんて、誰だって持っているはずです。そして、そのことに気が付いていない人間が大半で、無意識に生きてしまっているものです。 でもあなたは、そんな自分の嫌な部分に気付いており、そのことを嫌だと感じている。ならば、やめればいいだけです。自分にとって気持ちの悪いことを続ける人はいないんじゃないでしょうか。あなたは自分を客観的に見る能力があります。ここまで自己を客観的に見る能力があれば大丈夫です。
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