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本書を貫く軸の一つは、日本国憲法前文に明記されている「平和のうちに生存する権利」(平和的生存権)。
彼らは医師と憲法研究者をしながら、パレスチナでの医療・子ども支援活動やアフガニスタンの女性団体との連帯活動などに従事してきた。
NGO活動を実践するうえで平和的生存権がどのような意義を持ち、けっして安全とはいえない現地での活動をどのように支えてきたのか、という点を実践的に描く。
どれだけの日本国民が、パレスチナの歴史やガザでのイスラエルによる軍事侵攻のことを理解しているのだろうか。まずは知ることが大切だ。
一部の強権国の論理で、世界がコントロールされ、弱い立場の人々が虐げられる現状を見るにつけ、将来を憂慮してしまう。
大戦から人類は学んでいるのだろうか?
以下メモ。
ガザの人々はイスラエルによる軍事封鎖で、殆どがガザの外に出ることができない世界最大の「天井のない牢獄」といわれるところに16年間住んでいる。つまり16歳以下の子どもたちは生まれたときから戦争しか知らない。16年間で中大規模な軍事攻撃が4回あり今回で5回目。小規模なものは無数にある。封鎖により、物資の搬入出が制限されてきたことから、経済が全く立ち行かなくなっており、失業率は平均50%、15歳から28歳までの若者に限定すると、60〜70%の失業率にあえいでいる。
これはパレスチナを占領しているイスラエルが、16年にもわたり封鎖してることが最大の原因だ。
ジュネーヴ第4条約(戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約)などに抵触する行為を継続的に繰り返し、パレスチナ人の生活を圧迫してきているが、法の支配からすれば決して許されることではない。
1948年のイスラエルの建国の過程で多数のパレスチナ人が虐殺されたことや故郷から追放されたこともわすれてはいけない。パレスチナ難民の帰還標国連総会決議194号(1948年)で認められているが、イスラエルは無視し続けている。
法の支配という場合、例えば、今回のハマー
スの急襲、イスラエルがこれまで行ってきた数々の行為、ハマースの急襲をきっかけとする今回の大規模な無差別攻撃の全てが問題だろう。イスラエルはガザのゲート7か所のうち、イスラエルの管理下にある6か所を完全封鎖し、電気・水・燃料も入らないようにライフラインを止めているが、国際法上は許されない。しかもライフラインが握られるのは今回だけでなく、それは継続されてのことなのだ。
国連憲章が認める自衛権の行使の範疇にあると考える国々や人もいるかもしれないが、占領下の非国家主体に対してなされていることに鑑みると、国連憲章に沿って行使できるか否かの解釈は賛否両論があるところだ。仮に行使できるとしても、ここで求められるのは必要性や均衡性の要件を満たすかという点。イスラエル軍が行っている軍事攻撃は、人口密集集地帯に対して警告なしに行われており、無差別攻撃に相当し均衡性はほど遠い。いったい何を目的にしてここまでの破壊をするのか、そのことの意味を深く考えなければならない。
1945年の、あの東京大空襲の��きに投下された2200tonの爆弾量が、イスラエルの空爆が始まった最初の2日間で投下され、開始から8日間のうちに投下された爆弾の量は6000tonになっている。しかも空爆の対象となったガザの面積は、東京23区の約3分の 1だ。
以前はターゲットとなった建物の住民に事前警告をしていたが、今回はそれもない。ガザの人口の40%以上が18歳未満の子どもで、その子どもたちが無差別攻撃で多く犠牲になっている。
国際社会の目の前で公開処刑が起きているのに、それを問題視するどころか、自衛権の名の下で正当化する国々がある。
2010年7月12日に立ち上げられた「北海道パレスチナ医療奉仕団」の主な役割は、
①パレスチナで、生存に関わる困難な医療状況を明らかにし、診療などの具体的な支援を行う
②イスラエルの占領下にあるパレスチナの実態を社会に伝える
③パレスチナでの支援活動を通して、日本社会が抱えるさまざまな問題を見つめ直す
で、運営資金は医療関係者を中心に市民からの募金と自己負担でまかなうことにした。
そしてその根底には日本国憲法、とりわけ前文の平和的生存権が位置づけられた。
「われわれは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(日本国憲法前文2段後半)が全世界の人々を対象とする平和的生存権だが、爆撃の恐れの中1日4時間程度の電力供給しかなく失業率が60〜70%にもなるガザの人々は、この権利を享受出来ていないことは明らかだ。
このような動きを止めるためには
①不処罰の歴史を止めること
②法の適用の回避を目的とする曲解を認めないことを含む法の支配を追求すること
③法の支配が政治的圧力により揺るがされないこと
が必要不可欠だろう。
日本国憲法の平和的生存権の鍵となる言葉は「恐怖」と「欠乏」であり、基本的にはこれらから等しく解放される権利が平和的生存権ということになる。そのルーツは、日本独自のものではなく、国際的な流れのなかにある。
ルーズベルト大統領による「大西洋憲章」(1941年8月14日)は、恐怖と欠乏からの自由を平和の確立と結びつけており、この流れは日本国憲法だけでなく、1948年採択の世界人権宣言の前文、1966年採択の社会権規約と自由権規約の各前文にも踏襲されている。これを見るうえで重要な点の一つは、平和が人権と不可分な関係にあるとする道筋がつくられてきたことを理解することにありる。
占領の実態でもう一つ重大なことは、入植者の問題。
ガザからはすでに入植地がなくなっているが、ヨルダン川西岸地区はあいかわらず
入植者が拡大している。入植地を増やそうと考えるイスラエル人が、パレスチナ人の土地を占拠したり、パレスチナ人に暴力をふるったりしている。
イスラェルは国際機関やNGOによる人道支援を無条件で受け入れてきたわけではない。イスラエルの市場から物質を購入することを前提に許可している。
「対テロ」という言葉とセットで用いられるのは「自衛」「防衛」。それらも「対テロ」と同様の効果を発してきた。また、「自衛」「防衛」の論理は、9・11以前から軍事主義国家が自らの思惑を隠すために、都合よく使ってきた。「自衛」「防���」という言葉をオブラート化し、激しい攻撃や多数の人々に恐怖を与える掃討作戦のようなものを正当化するのは、言葉が人に与える印象を利用した怖さだろう。
01年のアフガニスタン戦争は、米国は当初9・11への報復と主張していたのに、空爆開始から1か月ちょっとしたら「対テロ」には女性の人権や尊厳を守ることが含まれる、といいだした。
あれからちょうど20年後の2021年の段階で、女性の権利や尊厳は守られるようになったといえるのかというと、決してそうとはいえない。現実は米軍による攻撃や外国軍の駐留が治安の悪化をもたらしたり、女性の生活を破壊したり、農村部での女性の外出の制限につながったりなど、女性たちの状況をまざまに悪化させる要因の一つにもなってきたのだ。
2021年のガザ攻撃の際、中山泰秀防衛副大臣(当時)は「私たちの心はイスラェルと共にある」とSNS で流したが、憲法9条で戦争の放棄を謳っている国の政治家がリアルに攻撃している国を擁護する発言をするというのは、「対テロ」と言う名目があれ全てが肯定されるととらえられ非常に問題があるのではないか。