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タイトルに惹かれて購入。
読みやすいけど、タイトルに対する回答に物足りなさを感じた。
後半は労働に対しての考え方、取り組み方について記載されてた。
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学生時代に比べて今は本を読まなくなったので以前から気になっており本書を読むことに。
私の簡単のエピソードをば。
高校生のときは小説を中心に読んでいましたが、大学生あたりで専門書や技術書、それにまつわる本ばかり読むことが増えました。
社会人になってから特に自己啓発本を読むようになりました。
そんな経歴であることをぼんやり思いながら読んでいました。
社会人になった今は、仕事に直結する内容を無意識に選定する要件に入れていたのかもしれません。本書でいうところのノイズを毛嫌いし、情報を漁るような読み方になっていたのだと思います。
本屋で気になった本を手に取り、予定していなかった本を買うことも好きなのでノイズは拒まずに摂取していきたいと思いました。
また、全身全霊になりすぎずに片足をつけているぐらいのつもりで生きる・・・実践してみようと思います。
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読書の歴史を知るにはいいのかもしれないが、ストーリーが綺麗すぎるので、例外を知りたくなった。
本を読めていないことのロジックがしっかり通っているのか、疑問に思った。研究というより、物語な気がした。今時間がある人は本を読んでいるんだろうか?退職した人は本を読んでいるのか気になった。
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少し読み難く感じて、読み終わるのに時間がかかった。映画「花束みたいな恋をした」を観ていたら、もっと理解しやすかったかも。働きながら本を読める社会には共感できる。
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読書を指標として、近現代の労働者のあり方を論ずる本。
表現自体は柔らかいのだが論理の展開が論文調なので読んでいると眠くなってしまった。
ためになる良い本であるが、、、
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感想
時間はないし集中力は続かない。まずは隙間時間を見つける。そこから逆算して読める量を決定する。必要な本の大事な部分だけ。効率的に。
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タイトルで期待値が高かった分、途中が少し読み進めるのがしんどい。もし読み途中で離脱しそう(した)人がいたら最終章に飛べ!と言いたい。
それは本書の言いたいこと乖離があるかもしれないが、タイトルに引かれたなら最終章は読んで欲しい、そう思った。
途中、歴史の勉強か…??と思ったが、最後は著者の意見がしっかりあって良かった。
新書にしては分厚いなと驚きもしたが、確かに読書と労働のあり方を整理していくとこの厚さになる。
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ほとんどの部分でぴんと来なかった。世代が違うからなのか。読書についてのこれまでの時代ごとのまとめも、自分の生きてきた世界とは別の話のように思える。
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働くと本が読めないなと思っている人だけではなく、本を思うように読めず、スマホなどに時間が持っていかれる人全員に読んでほしい作品だと思います。本がなぜ読めなくなってしまったのかをうまく言語化していてああそうだったんだという納得感がすごかったです。本書は明治時代から現代まで読書にどういった意味があったのかを語られていて、とても勉強になりました。またこの本を読むことで頑張って生きすぎなければいいのだと思い、救われました。
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この本が売れていること自体、知識ではなく、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という情報を得たいと思っている人が多いからなのではないかと思った。『なぜ〇〇は××か』というタイトルの本はその情報に用意にアクセスしたいという心理を突いていると思う。
読書論であり、仕事論でもあった。半身で働くことができたら、どんなにいいだろう。
読書の歴史の変遷を見て、今はノイズ扱いになっていても、また変わっていくのではないかという希望が抱けた。
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新刊情報を見てから、ずっと楽しみにしていた本。(なぜなら、わたし自身、働き始めて本が読めなくなったから)
・明治・大正は、仕事に必要な教養を手に入れる手段が読書だった。
・現代は、情報を効率的に取捨選択し自分の行動を変革することが称賛される故、ある意味不必要な情報が入ってくる読書はノイズになる。
・スマホなら見れちゃうのは、自分に必要な(興味のある)情報以外が出てきにくいから。
なるほど。言われてみれば当たり前だし、結果的に出てくる提言も別に新しいことを言っている訳じゃないけど、読書史と絡めつつ働き方との関係に触れつつ言われると「確かにな…」と思う。
えげつない仕事量だとしても読書できる人もいるわけで、結局、自分が仕事に対してどう思っているかが読書量に反映されるのかもしれない。
と考えると、「本を読める」は仕事と生活の一つのバロメーターになるかも。
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タイトルに書いてある内容はほとんどなく、ほぼ読書の歴史についての内容だった。
結局、本気で働くのはやめて、半分の力で働きましょう。そういう世の中になってほしい。みたいな内容だった。
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読書や働き方、時代性等の様々な参考文献を引用し、時代によってなぜ本が売れたのか、当時の本の立ち位置は何かを論じ、現代における『なぜ仕事と読書は両立していないのか』が書かれている。
現代の読書はノイズだ。
今も昔も真剣に精一杯仕事をしているのは同じでも、なぜ現代では本が読めないのか。
自分は本を読むことを第一にしているからそこまで心配はしていないし、人によって本の代わりに娯楽として、または趣味として大切にしているものがあれば、それで良いのではないかとも思う。本は大切だけれども、本が全てではないし、本を読んでいれば偉いわけでもない。本書の主題とは異なるが、読み終わって感じたことは、時代に翻弄されずに自分の大切に気付けることが重要だということだ。
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要は意識の問題かなと思った。一人の人間の一日のエネルギー量を100とした場合、仕事に100使ったらエネルギー切れだから、本読めないよねって話な気がする。だからと言って仕事に使うエネルギーを(気持ち的な問題で) 60や70にできないのは、日本では仕事に100のエネルギーというか情熱をかけることが美徳とされているから。で、なんで仕事に情熱を傾けることは美徳だという認識があるのかと言うと、日本の労働史を振り返る必要があるといった流れ。
日本以外の国のように仕事より生活が大切という価値観が一般的になればいいんだけど、今の日本では難しいから自分で意識的に仕事で使うエネルギーを調整する必要があるよねってことかなと。そのムーブが大きくなれば、仕事での燃え尽きを良しとする考えも風化していくのでは。
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2024年を迎えてから読書の冊数がガクンと落ちた。厳密に言えば、読んではいるけれども最後まで読みきれない。これまでは隙間時間が10分でもあれば本を開いていたのに、今では片道1時間以上かける通勤電車の中でさえ本を読む気になれない。読まなきゃ読まなきゃと思ううちに、月日は流れ、葉桜が目立つ時期になってしまった。
時間はある。また、読みたい気持ちもある。ただ、読むためのエンジンが駆動しない。現に本を開き読み始めさえすれば、次が気になり読み進めてしまう。だが本を開く行為そのものが億劫で、読み始めるのに膨大な労力を要する。
これはいったい何なのか──
さて、縁は異なもの味なものとは言い得て妙で、本との出会いは不思議なものだ。面白い本を求めているときに限ってめぼしい本が見つからない。逆にふらっと立ち寄ったときに「これは…!」という本に出会ったりする。
本書はまさにその一冊だ。
前置きはこのくらいにして、なぜ私は本を読むことができなくなったのか。分析するに、
1) 時間がない
2) 仕事による疲労
の二つの要因に分けられると考えた。しかし考えても考えても、①読書する時間はあるし、②疲労困憊するほど働いているわけでもない。
では、なぜ本が読めないのか。これにはさまざまなアプローチがあると思うが、本書は歴史的な文脈からこの問題を徐々に紐解き最終的には社会的な側面からアプローチを試みている。その過程が正しいのかは別として、非常に興味深い手法であり一読に値する価値がある。
私たちが読書をする目的を考えてみよう。勉強するため、情報収集、仕事へ役立てるため、単純に趣味として、などなど高邁なものから凡俗なものまで多岐にわたる。それぞれにそれぞれの良さがあり、どれが良いと区別できるものではない。しかし、どのような意識を持って読書するかによって読書の「仕方」が変化するのは事実だ。そして、現代の社会人が読書できなくなったポイントはここにある。
大衆による読書という知的慣習は日本開国に遡る。欧米諸国に追いつき追い越せを果たすために、明治政府は国民へ教育の重要性を説き読書を推奨した。だから昔も読書をする習慣は存在していた。当時の日本国民は資本主義が流入し長時間労働が蔓延する中で本を読んでいたのだ。そしてこの慣習は今もなお続いている。
要するに現代の読書は何かしらの答えを探すための読書であるのだ。出版業界の業績は下がりつつあるが、その中でも「自己啓発系」のジャンルは堅調である。それは自己啓発本が何らかの答えをくれるからだ。
その根底には「コスパ」「タイパ」の考え方が潜んでいる。無駄なく効率よく情報を集めたい、答えを知りたい。そんな下心が見え隠れしている。つまり私たちは無駄が嫌いなのだ。
本書では、小説などの本から得られる芋蔓式の知識をノイズありの知識と定義付けし、反対に、読み手が知りたい情報そのものをノイズのない知識と位置づけをしている。読者は、前者を不要なものと捉え、後者に至上の価値をおく。
しかし、そんな偶発的な知識を切り捨て���良いものだろうか。そうして得た知識が役に立つものであれ役に立たないものであれ、恩恵を与えてくれるのは確かだろうし、そうした厚みが精神的な余裕へとつながる。これを俗に「教養」と言う。
そう、私たちは「教養」が大事なものであるとは頭で理解しつつも、そんなものに労力を費やしている余裕がない。答えは今すぐに知りたいし、教養を培ったところで何の役にも立たない(可能性の方が高い)。
だから私たちは気軽に情報の手に入るSNSにのめり込むのだし、直接的な解が導出されない文学作品を読む気力が起きない。実用的な情報を絶えず求めるウォーキングデッドさながらだ。
しかし、私はこれを書いていて思うのである。即物的な情報は結局はすぐに廃れる。新聞と同じだ。新聞はありとあらゆる情報が記載されているが、一年と経てばただの紙屑でしかない。激動の荒波に耐えうる本質的な知識は長い時間をかけて収集し、知識と知識を掛け合わせて自らが見つけ出していくしかない。つまりそれは「知恵」だ。
皆さんも胸に手を当てて考えてみてほしい。ついこの間仕入れた実用知を現実世界へ上手く使うことができただろうか。おそらく多くの人が失敗に終わったことと思う。
なぜなら、状況に応じて実用知を使い分けていないからだ。のべつまくなしに「チシキ〜」「チシキ〜」とさまよい求めてみても、そっくりそのまま適用できるわけではない。情報や知識は状況に応じて「加工」する必要があるのだ。
にもかかわらず私たちは実用知を「加工」せずそのまま使おうとする。だがその試みは得てして失敗に終わりがちだ。だから私たちは次から次へと情報を求め続ける知的ゾンビへと化してしまう。
言うなれば知識は食材だ。新鮮なうちに適切な調理をすれば美味しい料理になる。しかし、腐った食材を調理しても美味しいものはできない。また、いかに新鮮でも調理法を謝れば美味しくはならない。
一方で、知恵つまり料理の技術があればどうか。食材が新鮮であればなおのこと、たとえ多少劣ったものであったとしても調理法ではいくらでもよくなる可能性がある。
要するに知恵とは既存の知識に付加価値をつける技法なのだ。
知恵の前段階には「教養」が存在し、教養の前には「ノイズありの知識」が存在する。そして、ノイズありの知識の前には「ノイズなしの知識」が横たわる。私たちはこの「ノイズなしの知識」を仕入れて満足している。本当に重要なのはその先の先だというのに。
これまで私が切り捨てたモノの中にどれだけ高価ものが眠っていたことか。それを思うと、本の隅から隅まで暗記するほど読みたくなる。
まあそれこそ本当に読む気が失せるんだろうけれど。