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「世界には学校に行っていない子どもが大勢います。なぜ学校へ行くのか。ちょっと立ち止まって、自分に問いかけてみましょう」
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#ぼくたちはなぜ学校へ行くのか
#石井光太
#ポプラ社
#読了
日本は年月を経て、誰もが学校に行ける→学校に行かなくちゃいけない→なぜ行かなきゃいけないの?というフェーズになっている気がする。学びの在り方は変化のときにある。学ぶことの意義を伝え続けてくれている石井さんを尊敬します。
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『ぼくたちはなぜ、学校へ行くのか。マララ・ユスフザイさんの国際演説から考える』
著者 石井光太
ポプラ社 2013年
なぜ学校へ行くのか?現代社会において幾百と問われてきた質問でありながら、おそらくこれもまた数多くの答えがある問いでもある。そんな問題に一つの答えを出した人物がいる。マララ・ユスフザイさんである。彼女はパキスタン人である。彼女が生まれたところ、パキスタンのスワートは武装グループに支配されており、女性の教育を禁止している。彼女の演説を本当に申し訳ないが、簡単に要約すると教育で培った言葉により、世界は良い方向へと変えていけると言ったところだ。(やっぱり要約してしまっては、それこそこの演説の持つ言葉の意味は台無しなような気がする)
前半のマララ・ユスフザイさんの演説を受けて、著者の石井光太さんの筆がはじまる。このかたは日頃から世界を飛び回っている作家の方であり、世界のストリートチルドレンや貧困、宗教の問題などを取材してきた人だ。そんな人がこのマララさんの演説を受けて何を思うのだろう。彼はこう書く
人は絶望だけでは生きていけない。無理でも、希望をつくりあげて、前を向いて生きていこうとする
ーきっとお金持ちの大人がやってきて、僕を学校へ行かせてくれるはずだ。
ー死んだおとうさんやおかあさんが僕に会いにきてくれるはずだ
かなしいけれど、これはこどもたちがつくりあげた「まぼろしの物語」にすぎない
「まぼろしの物語」…かなしい響きだ。しかし、これは日本の子供でも起こっていることであると筆者は書く。いつか、誰かそれは実現しない言葉の常套句であり、それこそまぼろしにすぎない。もちろん、それがプラスに働く時もあるかもしれない。しかし、そんな確率の低いことをいうのは無意味だ。さて、ではどうすればいいんだろう?筆者はつづける。
戦争はいけない、というだけでは戦争は止まらない。
差別はいけない、というだけでは差別はなくならない。
しっかりと自分の考えをつくりあげ、それを人にわかってもらえるようなことばにして伝えなければいけない。
そう、教育で言葉を獲得し、変えていくしかない。いつかのあの勇敢な少女のように。
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人から、親から言われてじゃなく、自分で考えて自分なりの答えを出すきっかけになればと思う。
分からないから、意味が見出せないから行ってもしょうがない、みんな行ってるから仕方なく、じゃなく。
自分にとって、意味があるとしたら何だろう?って。
もっと単純に、(勉強も含めて)楽しいから、って思ってくれれば、それで十分な気もするけど。