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とりが中学2年(14歳)のとき、はじめて出会った哲学書。
著者は「哲学入門は哲学概論ではない」と言い切る三木清。ここに眠たいだけの哲学史はない。「現実の中から哲学する」という哲学する姿勢を学べる一冊。
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哲学を志す者に向けての入門書でなので基本的哲学用語、思考方法などが身についていないと読み難いだろう。一般向けでは無い。京都学派的道徳観が明白に出ている倫理学寄りの内容。簡にして要を得る歯切れの良い記述が心地よい。
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(1966.08.25読了)(1966.05.05購入)
内容紹介
哲学の以前に、我々は常識において、また科学において、現実を知っている。しかし、哲学は常識の単なる延長でもなければ、科学の単なる拡張でもない。では、哲学とは何か。現実の生活から出発して、人間生活の中における常識と科学と哲学の機能を明らかにし、つねに現実から問題を汲み上げつつ哲学的諸概念を展開した画期的な入門書。
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哲学の入門書というと、「タレスは万物の根源を水と論じ、、、」のように、哲学の歴史や流れが書いてあるが、この本はちょっと違う。
考え方、臨み方が書いてある。
何十年も前の本とは思えない。
読んでから知ったけど、この作者の運命がとても悲惨なもので不憫に思った。
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序論(出発点;人間と環境;本能と知性;経験;常識;科学;哲学)
知識の問題(真理;模写と構成;経験的と先験的;物 関係 形;知識の相対性と絶対性;知識の倫理)
行為の問題(道徳的行為;徳;行為の目的)
著者:三木清(1897-1945、たつの市、哲学者)
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人間が日常的に見るモノや経験する事柄はどう認識されるのか、そしてその認識がどう知識と結びつくのか、知識とはどのようなものか、そしてその認識が行為とどう結びつくのか、そして行為とはどのようなものか、といったことが語られている。「先験的と経験的、合理的と実証的、構成的と模写的、主観的と客観的というように対立したものは認識において形成作用的に、弁証法的に統一される」(p.113)といった話。
…と思うのだけれど、とても難しかった。一昔前の人はこういう本を書いたり読んだりして、頭いいなあと思う、というなんか的外れな感想をまず持ってしまった。そしておれは全然知らなかったのだけど、三木清という人は戦前戦中に活躍した哲学者で、治安維持法で投獄されたり、遂には45年に獄中で死ぬという人だったらしい。
高校の時に倫理の勉強が好きだったが、特に「認識論」みたいなところが本当に難しかった記憶がある。カントの悟性、とかヒュームの認識の束、とかキーワードを覚えればとりあえずセンターはOKだったので、とりあえず覚えたけど、それ以上のところはなかなか理解できなかった。この本も字面を追うのが精一杯というところがたくさんあって、難しかった。「知性の自律性は合理性として現われる、合理的とは思惟によって自律的に展開され得ることである。そして知性はカントの意味においてアルヒテクトニッシュである。カントに依ると、アルヒテクトニックとは『体系の技術』であり、知識は一つの理念のもとに、全体と部分の必然的な関係において、建築的な統一にもたらされることによって科学的となるのである。しかしながら(後略)」(p.23)といった感じで、全体の意味を捉えるより前に、部分部分の意味を順番に捉えていき「~は~である」という記述をそうなのか、そうなのか、と捉えていって終わってしまった。
あと考えたことのメモ。全く関係ないが、英文法で「不変の真理は現在形」という用語が出てくるけど、ヒュームによれば「物の因果関係の知識も習慣に基づく信仰に過ぎぬ」(p.106)らしく、そうすればやっぱり現在形は「習慣」がキーワードになるのだろうと思う。あとヘーゲルを倫理で勉強した時も、弁証法とか世界史とかいうキーワードだけ覚えた気がするが、特に後半は「歴史」という言葉がたくさん出てくるが、難しい。歴史的世界に道徳が位置づけられるというあたりを、もう少し勉強したいと思った。(18/01/02)
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哲学は全知者と無知者との中間である(プラトン)
哲学は無知から知への運動
不完全性から完全性へのこの運動は愛と呼ばれた
フィロソフィア=智を愛する という語源
科学は分科的⇔哲学は全体的
科学は「如何に」を明らかにする⇔哲学は「何故」を明らかにする 価値を決める学問 前提を問う学問
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三木清著『哲学入門 第51刷改版 (岩波新書 赤版)』(岩波書店)
1940.3発行
1976.5改版発行
2020.7.9読了
私は行きすぎた科学万能主義には反対の立場である。三木清がこの著書を執筆した時、核兵器はまだこの世に存在しなかったと思われるが、科学の危険性については、三木清も当時から感じていたらしい。52頁で氏は「科学は物の原因を研究するにしても、自己自身に拠って立つ根拠は反省することがない」と言っている。科学は価値の問題については中立の立場であり、科学はそれを用いる人間の価値の尺度によって、天使にも悪魔にもなり得るのである。氏は「科学は『何故に』ということに答えるものではなく、単に『如何に』ということを明らかにする(p54)」に過ぎないとも言っている。故に哲学の存在意義がそこに現われてくるのであるが、氏の「形成力」の哲学はどこまで科学の暴走に有効なのだろうか。「人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作っていく。作られて作るものというのが人間(p15)」だと言うが、氏の哲学からは人間に道徳的行為を期待することは困難と思われる。私にはなお未完成で未成熟な印象を受ける。人間がこれ以上環境を破壊せず、土から離れずにいるためには、なお何か尺度が足りない気がする。ヘーゲルの弁証法を用いて行為の立場から人間を統一的に把捉しようという試みは、かえって硬直的な人間像・世界観を生み出しやしないか。ヘーゲルの絶対精神は究極的には国家というシステムに結び付く。何でも作り出すことが出来るという人間の傲慢をくじく哲学こそ求められていると私は考える。
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I28111102387179