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抽象的なプロレタリア作品
2014/12/30 11:34
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投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
『二百十日』について書いてみたい。
社会主義的な小説である。漱石も一歩まちがえたら、プロレタリア文学の先駆をなしていたかもしれぬと疑われるそんな作品だ。同時に、初期の彼の文学に典型的にみられるしゃれっ気のある会話に、はじめから惹きつけられる。(特に旅館の女中と二人の会話は絶品!)
内容としては、圭さんと碌さん二人の若者が九州の阿蘇を旅するその様子が描かれているそれだけの物語である。二人のうち圭さんが、社会主義者で、この社会を金持ちが威張る不公平な世であると勇ましげに主張する。碌さんは専ら聞き役に回り、圭さんの議論に合いの手を入れる。
社会主義といっても、圭さんの議論は抽象的あるいは暗喩的である。彼は、民衆を圧迫した上、彼らに頭を下げさせようとする金持ち連中の行為を、人の足を踏んだり、頭をひっぱたいたりしておきながら、相手にあやまれと要求するのと同じと見なす。
彼はまた自分がめざしているものを「文明の革命」と呼ぶ、それは血を流さず、頭を使う革命であるという。その敵とは「金力や威力で、たよりのない同胞を苦しめる奴ら」、「社会の悪徳を公然商売にしている奴ら」すなわち 華族や金持ちである。批判は最後まで続く。
「...華族や金持ちの出ない日はないね」
「いや、日に何遍云っても云い足りないくらい、毒々しくってずうずうしい者だよ...例えば今日わるい事をするぜ。それが成功しない...すると、同じようなわるい事を明日やる。それでも成功しない。すると、明後日になって、また同じ事をやる。成功するまでは毎日毎日同じ事をやる。三百六十五日でも七百五十日でも、わるい事を同じように重ねて行く。重ねてさえ行けば、わるい事が、ひっくり返って、いい事になると思ってる。言語道断だ」
「言語道断だ」
「そんなものを成功させたら、社会はめちゃくちゃだ。おいそうだろう」
「社会はめちゃくちゃだ」
「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」
「ある。うん。あるよ」
「あると思うなら、僕といっしょにやれ」
「うん。やる」
「きっとやるだろうね。いいか」
社会に現存する悪を、ありのままの姿で描いた(少なくとも作者たちはそう思っていた)のがプロレタリア文学ならば、漱石の批判は、最初から最後まで漠然とし、具体性を欠いている。この作品と、直後の『野分』をピークとして、その後彼の社会批判は急速にしぼみ、その後はむしろ人間の内面へと関心が向けられる。その後、『坑夫』などで、具体的な社会の現実を描くことはあるものの、そこにはこの作品に見られる毒づくような鋭い社会批判はない。そこでの現実はむしろ内面を覚醒させてくれるものとして描かれる。
『二百十日』はそれゆえ、漱石作品の中では最もプロレタリア臭の強い異色の小説である。しかしながら、彼がその後これに乗じ、安易で軽薄な国家・社会攻撃に突っ走ることなく、文学が本来目ざすべき内面の世界へと方向転換していったことは、漱石文学の愛好者としては喜ばしい次第であった。
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