まなざしの記憶―だれかの傍らで みんなのレビュー
- 鷲田清一 (著), 植田正治 (撮影著)
- 税込価格:2,200円(20pt)
- 出版社:CEメディアハウス
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他者と自分の関わりを考え直すときのヒント
2001/03/26 13:33
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:東良美季 - この投稿者のレビュー一覧を見る
哲学っていったい何でしょう? 思想や思索といったイメージを思い浮かべるひとが多いのではないでしょうか。だけど、簡単に言ってしまえば哲学とは〈言葉〉です。これは哲学者・鷲田清一氏が昨年七月に亡くなられた写真家・植田正治さんの七十作あまりの作品に〈言葉〉を添えたエッセイ集であり、私達が生きてゆくうえでとても有効な〈哲学〉をいくつか伝授してくれる本でもあります。
では何故、哲学とは〈言葉〉なのでしょう。それは我々が普段の生活では、生きてゆくということをごく無意識に無作為に出来るからです。友達とおしゃべりする時、恋人とデートする時、子供を抱く時、小ネコを撫でる時、我々は特に何かを深く考えることなくそれを出来、たいていの場合楽しく過ごすことが出来ます。
しかし残念ながら人生とは常に上手くはいきません。友達とはささいな行き違いがあり、恋人とは派手な喧嘩をし、子供はむずがりネコも時に爪を立てます。そんな時我々は普段無意識にしている行為を見つめ直し、ひとつひとつ点検していく作業を強いられるのです。友人と〈話す〉とは何か、恋人と〈会う〉とは何か、〈抱く〉とは〈撫でる〉とはいったい何なんだろうと。そしてやっかいなことに、我々人間がそういった行為を点検し修正するためには、〈言葉〉という道具を用いるしかないのです。
この本の中で鷲田氏は「他者に触れる」ということに関してこう書いています。「物は眼を開けていればいやでも見え、音は耳を塞がないといやでも聞こえ、匂いは嗅がなくても匂う——」、しかしそれに比べ「触れる」とは誰かに「出会おう」という主体の意思が無くては始まらず、また「触れた」瞬間に相手と「出会った」という意思の送り返しを得るものだと。
また、鷲田氏はあとがきでこうも述べています。「ホスピタリティというものを考えるときにいつも浮かんでくるのが、植田さんが撮られた砂丘とその周辺の情景だった」と。ホスピタリティ——、これもまた本文から引用すれば、ホスピタル、ホスピス、ホスト、ホテルと同様に、「客」を意味する言葉から発生した「他者を迎え入れること」だそうです。つまりこれは哲学者・鷲田清一による〈ホスピタリティ論〉であり、私達が日々の人間関係というものを考え直す時、それを手助けしてくれる有効な〈言葉〉の集まりとも言えるでしょう。
一方、植田正治氏は六十年以上にわたって鳥取をベースにして、その人々の遠近感を狂わせてしまうような砂丘を舞台にシュールで時にユーモラスな作品を発表してきた写真家。その作風は写真発祥の地フランスでは〈Ueda−Cho(植田調)〉という単語があるほどに有名な存在です。ちなみに先のシドニー・オリンピックの際にミュージシャンの福山雅治がカメラマンとして活躍しましたが、彼が写真というものに目覚るきっかけとなり、今も〈師〉と仰ぎ続けるのがこの植田正治氏だそうです。
(東良美季・ライター/2001.2.27)
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