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  3. 諏訪耕志さんのレビュー一覧

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諏訪耕志さんのレビュー一覧

投稿者:諏訪耕志

7 件中 1 件~ 7 件を表示

倭(やまと)し 美(うるは)し

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ロマノ・ヴルピッタ氏による序文も素晴らしく、ここに引用します。

  保田の理解では、
 日本文化と民族国家としての日本の本質と精神的基盤は「しきしまの道」、
 つまり国語や文学、とりわけ和歌である。
 この観点から見ると、「百人一首」は日本における聖書のようなものであり、
 「百人一首」の伝播は日本文化と民族意識の伝播そのものである。
 
 ・・・一人の日本人でも日本の生活様式を守れば、日本文化は滅びないと確信した彼 (保田)・・・。



わたしが自分の仕事を通してやっていきたいと念じているのも、
ことばの芸術を通して、
「道」の奥へと歩いていくことです。

ここでは「しきしまの道」というように言われています。

ひとりの人である<わたし>が己の精神的基盤に立つこと、
それを促すために、
ことばの芸術の奥へとだんだんと入って行くこと。

そのために、日本語の芸術作品を味わっていきたい。
もっと取り組んでいきたい。
もっと使っていきたい。

『古事記』『萬葉集』、和歌、物語、俳諧、近代文学、現代文学・・・。
まずは、自分の関心の向くところから。

しかし、これら日本語の芸術に、特に古典作品に、
自分たち多くの現代人は、馴染みがなく、親しみを持てず、
むしろ外国からの翻訳文学よりも縁遠く感じているのではないか。

だから、改めて、まず自分たち大人が、
国語による古典文学に親しみ、少しずつ通じていく。
面白み、喜び、深みを見いだしていく。

今年は、このことをわが身に徹底させようと思っています。

今日、幼稚園がまだ冬休みなので、
5歳の次女と一緒に、
倭建命(やまとたけるのみこと)の故郷をしのぶ歌を朗々と声に出してみました。

 倭(やまと)は 国のまほろば
 たたなづく 青垣山(あをかきやま)
 隠(ごも)れる 倭(やまと)し 美(うるは)し

なんと、想い、念い、憶いの深く織りなされている歌だろう。
この深さ、強さは、何度も声にしてみなければ、到底感じ得ないものに思われます。
娘も大声で暗唱できるようになりました。

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紙の本保田与重郎文庫 11 芭蕉

2014/06/19 19:07

詩人に神は現れる

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「わが(国の)歴史は祭りの歴史であった。文芸の歴史も、実に詩人にあらはれた神を祭る歴史に他ならなかったのである」

保田與重郎は『芭蕉』の冒頭に近いところでそう書いている。

詩人に神は現れる。
その現れた神を祭る歴史が文学史である。
その歴史の最期に位置するのが江戸の元禄期に生涯を終えた芭蕉である。
その芭蕉がいかにして俳諧をもって神を祭ることに人生を賭けたかを保田は論じている。

2011年3月11日以降、明治維新以来近代的経済成長を至上価値としてきた日本に生きるわたしたちは、
その行き詰まりまで経験したのではないか。
そして、これほどの惨事を経験したいま、
「神を祭る」ということの現実的意味を多くの人が求め始めているのではないか。
しかし、詩人たちが代々守り通してきたその精神は、
現代を生きるわたしたちにとって、外側に何かを求めて探し回るようなものではなく、
己の内側にすでにずっと流れているいのちの原理であって、何も特別なものではない。
その精神は、教義の中にあるのではなく、米作りを中心にした日本人の生活の中にある。
その当たり前の生活こそが、神(かむ)ながらの道であるからだ。

その生活と分離せず一如である精神を、おおらかに軽みをもって、かつ激しく謳い上げたのが、芭蕉である。

そのような歴史を一貫する志の道を明確にあぶりだす保田の論は、彼自身の志とひとつになっている。
論じる対象と自分自身の生きる原理たる志がひとつになっている。

保田のものを読む時の爽快感は、
その言行一致のあり方、研究と志の一体性、そして自己と国の歴史を貫く精神の一貫性によっている。

芭蕉が、古人の跡を求めず古人の求めたるところを求めよ、と弟子に言い残したように、
この本を書いた保田與重郎も、芭蕉を求めるのではなく芭蕉が求めたものを求めて生涯を生き抜いた。

この本を読む人も古人の跡を慕うのではなく古人の求めたるところを求めて生きていくことができるのだ、
という励ましが文章の背後に満ち満ちているように感じる。

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紙の本民俗と民藝

2016/03/25 23:41

精神の邂逅

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2015年11月、再読後、再び、投稿。

柳田國男と柳宗悦の仕事。
それは「似ている」というような次元でここで語られているのでは全くない。
この『民俗と民藝』という本は、ゆっくりと再読、愛読することで、そのことをはっきりと分からせてくれる。
まえがきでも、こう述べられている。
「実際、この本は、早く読み終わる必要など少しもない本なのだから」

柳田と柳の実際の出会いは、すれ違いに終わったのだが、二人の仕事は、精神の次元において、全く軌を一にしている。
二人は、まさに、前田氏の言う「原理としての日本」を認め、愛し、失われてゆくのを惜しむところから、
何か大きなものに動かされるように、それぞれ自分の仕事をしたのである。
この『民俗と民藝』という本は、その二人の精神の邂逅を見てとり、描き切った前田氏の傑作のひとつである。

「原理としての日本」とは、米作りを基とする手足を投じてなされる暮らしそのものであり、
それがそのまま信仰の道でもある生き方である。

それは、二人が生きた頃から随分と時を経たこの現代においては、
表側ではほとんど徹底的に破壊されたように見えてはいる。

しかし、それでも、いまだに密やかにひとりひとりの日本人の内側も内側に息づいているのではないか、と、
この本を読み終えて、わたしは感じている。

たとえ、自分自身が米作りに携わってはいないとしても、
この繰り返される毎日のなかから、いかにして精神の産物を産みだしていくことができるか。
そのことを問い続けながら暮らしを創造的に織りなしていくことが、きっと、できる。

繰り返される毎日の暮らし。毎日の仕事。
その中で営まれる当たり前の幸せ。
そのような、いまも、わたしたち日本人の精神に微かに流れ続けている、
生きること自体の美しさ、正しさ、善さへの訴求は、決して、止んではいないと、思う。

前田氏は、その清流の微かな流れの音を聴き取り、
その調べを、まさしくフーガのごとく美しく、かつ力強く、歌うように奏でた。

この本に注ぎ込んだ前田英樹氏の精神の労働量をまざまざと感じる。

____________________________________________________
(以下は、初読の時のレヴュー)

この前田氏の本は、柳田國男と柳宗悦、各々の本を更に読み深めていきたいという欲求をわたしのうちに呼び起こしてくれる。

自分自身が生きていくための指針を思い起こしたいという、こころの深い憧れを刺激するからだと思う。

柳田と柳が仕事において貫こうとした主要なモチーフが、
今の日本で生きる自分自身のリアリティーと深いところでいまだ繋がっていて、
その繋がりを更にこれから積極的に育んでいきたいという憧れだ。

そのリアリティーとは、
この肉体は先祖の血を引き継いで、いま、ここにあるが、
その肉体を通してこそ、先祖や民族を超える普遍的な生を生きること。

肉体をもって、いかに精神を生き切るか。

この肉体に秘められている血の深みを踏まえつつ、
いかにして精神の骨を天に向けて直立させるか。

その問いがわたしにとってリアリティーを持っている。

この本を再読したくなるのも、自分自身の人生とこの本とを繋げるためだと感じている。

前田氏は、そんな憧れを読む者に呼び起こさせる文章を書き続けてくれている。

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紙の本五十鈴川の鴨

2016/03/25 23:36

文学の希み

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本屋で表題作『五十鈴川の鴨』を立ち読みしはじめ、
これは腰を据えて読まなければ、と感じ、購入しました。

もともと、竹西氏の評論作品は長年の間に数多く読んできて、
深い感銘を受けてきたつもりでいたのですが、
わたし自身の不明から彼女の小説にはなぜかこころが向かなかった、
向き合えなかったのです。

しかし、わたしも年齢を相応に重ねてきたからなのか、
いま、この短編集のすべての物語において描かれている、
人というものの陰影の深さに、静かに、強く、こころを動かされています。

人のこころに寄り添うということが、
いったいどれほどの労力を用いるものなのか、
いかに細やかで粘り強い内なる力を要するかということを、
恥ずかしながら、よく分からずにいたのだと思います。
 
人のこころとは、
なんという尊さと聖さをもちうるものであり、
また怖しく、畏しいものであることだろう。

静かな調べを奏でている竹西氏の文章の奥深くに、
そのことへの畏怖が流れているのを感じます。

人というものを、深みから、細やかに、汲みとる。

文を刻むとは、その行為そのものであるように思われます。

そうして文学は、つまるところ、人というものへの希みと愛を想い出させる。

竹西氏の文章からそのことを改めて鮮烈に感じさせられています。

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紙の本日本人の信仰心

2014/06/26 22:35

「ことよさし」されている仕事

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わたしたちはめいめい仕事を持っている。

その仕事というものが、機械によってではなく、その人その人によってからだとこころを総動員させながら数限りない反復を通してなされる時、その反復は極めて微妙で繊細ながらも確かな手応えというものを人に授ける。

それは、仕事という「もの」のなかにその人が入りこんで、共に呼吸をするような具合とも言える。

その時、自身のこころが静まり、清まり、深まっていることにも気づく。

そして、そのようなこころのありようによって喜びと感謝と共に初めて見えてくるもの・ヴィジョンがあることをも知っている。

それをわたしたち日本人は、神として捉えてきた。

前田氏はこの本で、幾人かの先人たちの仕事を通して、そのことの内実を観ようとしている。

保田與重郎、小林秀雄、柳宗悦、柳田國男、本居宣長・・・
その先人たちはいずれも、「もの」のなかに入り込むことによって仕事をした人たちである。

彼らは、無数の無名の水田耕作者が神からの「ことよさし」である米作りを通して、植物的生命の中に入り込み、神への感謝と喜びと畏れと共に生活してきた、その信仰を身をもって感じ取っていたからである。

日本人の信仰は、経典や説教や伝道で育まれて来たのではない。

米作りという生産生活そのものが信仰を育んできたのだし、米作りによる祭の生活そのものが信仰生活だった。

それは、「神ながらの道」「ものへゆく道」であった。

「言挙げ」を拒む静かな日々の労働、無言の反復こそが、人を神に導く。

いま、わたしたちは、各々、各自の仕事を「ことよさし」された仕事として捉え直すことができるだろうか。

そして、外側の何かに反発するのでも同調するのでもなく、自分の生業に静かに立ち戻り、感謝をもってそれに取り組むことができるだろうか。

それ以外の言動や行動は、結局のところ、いったい何を引き起こすことになるのだろうか。

あまりにもかまびすしい「言挙げ」に満たされている現在、いかにしてあえて目を塞ぎ、耳を閉じ、理屈を言わずに、手足を動かしていくか。

その胆力が問われている。

_______________________________________

この本には、これまでの前田氏の仕事のエッセンスすべてが注ぎ込まれているように思われる。

そして、2010年の12月に出版されたこの本が、その約三ヶ月後に起こった未曾有の出来事に対して、すでに、ある「ことば」を予兆のように鳴らしている。

それは、人に根本的な覚醒を促す呼びかけの「ことば」である。

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俗語を正す詩人たちの歴史

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この本の一頁一頁は、なんと熱い情と遠くを見はるかす深い見識に裏打ちされていることだろう。頁を繰るごとにそう感嘆する。

俗世ではとかく紛れがちな、「人間らしく生きることとは何か」「人は本来何を求めて生きようとするのか」という、
人のこころの奥底にある憧憬。

その憧れを人と人との間で育み、確かめ、守ろうとする時、人は日常生活においてある指針、規範を求める。

我が国においてその指針、規範は、神代の初めからもうすでに「皇國(みくに)の道義(みち)」として与えられており、
その「皇國の道義」は「言霊の風雅(みやび)」として現れる。
それを大切に守ろうとしてきたのが都風(みやこぶり)の文化であり、王朝の文学、ことばの芸術であった。

人のこころの乱れは、ことばの乱れとしても現れる。

だからこそ、多くの俗耳にも、
芸術的なことばから生まれる美を入れるために、
「皇國の道義」「言霊の風雅」を育み、守るために、
代々の詩人たちは胸に熱い情を滾らせて「俗語を正す」べく働いてきた。

ヨーロッパその他の国から輸入した精神史、文学史からの理論を下敷きにせずに、
今も日本人のこころの奥底に流れている情をこそ基にして、
ことばの美を目指して築き上げられてきた先人たちの営為のみを見て、
歴史を一貫している「みち」を明らかにすることで書き上げられた、
保田與重郎氏の『日本の文学史』。

この一貫しているものを感じ、知ることができるということは、
自分の国と国語への愛を自覚し、育んでいくためにはとても大切なことではないだろうか。

自分の国、自分の国のことば、そして自分自身を愛するがこそ、
他の国、他の国語、そして他者を愛することができるのだから。

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セザンヌ画家のメチエ

2014/03/14 17:46

未来のセザンヌ論

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画家とは、何をする人なのか。
道楽で絵を描くのではなく、「仕事」として絵を描くとはどういうことか。
セザンヌのその「仕事」が過酷なまでに自然から命ぜられたことであり、「感覚を実現すること」、それこそが彼の「仕事」であったことを、彼が荷ったモチーフやひとつひとつの作品に沿いながら、前田氏は書き記していく。
この前田氏の作業は、セザンヌというある意味での透視者の仕事の内側に入ろうとしなければ成り立ち得ないものだ。
セザンヌが強い意欲をもって、ものを見ようとすればするほど、自然が自然そのものの内に秘めている持続的な、強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。それはすでに肉体の目を超えて受信される「もの」である。
セザンヌによって受信されたその「もの」が、キャンバスの上で絵画記号としての色彩に転換される様を描こうとするには、従来の外側から(例えば、パースペクティブのことなど)の視点に拠る評論では埒があかないだろう。その様を書き記す前田氏自身がその「もの」の受信に通じていなければ、書くことができないはずだ。
その意味で、前田氏のこのセザンヌ論は、おそらく、未来においてより深くより広く理解されてゆくものだろうと思う。

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