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小沢純清さんのレビュー一覧

投稿者:小沢純清

7 件中 1 件~ 7 件を表示

紙の本〈魂〉に対する態度

2001/02/17 01:21

「哲学」から「思想」へ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 表現に対する内省的検討を怠り、用語の意味内容を全面的に先行文献の文脈に依存しているため、論理の空転を招いてしまっている、そのゆえに、私は大方の哲学者の書くものを嫌っていた。だが、この本は違っている。主にニーチェとヴィトゲンシュタインに依拠してはいるが、自らの実感に基づく思索によって、著者の論述がギリギリと音を立てて深まってゆくのが感じられるのだ。

 論文集の体裁をとっているこの本は、全体が三部に分けられている。
 1部は、大ざっぱにまとめてしまえば、〈道徳〉〈正義〉といった〈規範〉は、自己利益の無制限な追求から共同体を守るために生成してきたものであり、ソクラテス以来の哲学も、知を愛することを禁圧し、「より正しく生きる」ことを説いてきた。こういう「善なる嘘」に対し、「邪悪なる真理」を初めて突きつけたのがニーチェであったということを論じている。だが、ここまでは、むしろありふれたニーチェ像であり、「ニーチェ的解釈学」だといってよい。また、ニーチェが武器にした「誠実」がそれ自体「ルサンチマン」的モラルであり、ニーチェは自己破壊的(自己矛盾的)戯れの哲学者だという解釈も、ポストモダニストたちによってさんざんなされてきた。だが、永井氏の独創はこの先にある。道徳規範がその本質から判断して自己利益の追求の規制にある以上、盲目的規範ではありえず、したがって、他の規範(たとえば自己利益の追求)との選択を可能とする、より高次の「盲目的規範随順行動の水準」が存在するはずで、著者はそれを「賢慮」の段階と呼ぶ。この辺りの論述は、永井氏の緻密な思索力が十分に発揮された箇所だと思える。
 2部は、1部にくらべると統一のテーマというものが見つけにくく、1部と3部のいずれにも組み入れられなかった論文の集合という印象がある。むろん、個々の論文には随所に創見が散りばめられ、特に第四論文は、永井氏のニーチェ解釈の変容を示していて、永井氏自身にとって重要な意味を持っているが、それについてはのちに触れる。
 3部は、著者の思索の徹底性と深化の過程が最もよく窺われる論文群である。永井氏は、誰にとっても自分を意味する「私」と区別して、世界の開けの唯一の原点たる〈私〉=〈魂〉を措定する。そして、それについて様々な例を挙げ、角度を変えてくり返しくり返し説明を試みる。なぜなら、「それは、語るということが本質的に困難な見地」だからであり、語ろうとすれば、「特定の人物(すなわち永井均)を指示」してしまうか、「唯一であるはずの〈私〉が唯一でない(つまり誰もが各々〈私〉でありうる)ことを、暗に前提」してしまうからである。

 最後に、著者が「はしがき」で述べている、ニーチェ解釈の変化について言っておきたい。
 1部において、ニーチェは「邪悪なる真理」によって「善なる嘘」を批判する者として登場したが、2部の「醒めることを禁じられた夢」では、外部なき世界宗教たる《キリスト教》とは「別の夢」(別の善)を語る者に変容している。この変容が、著者のいう、著者自身の「『子供の立場』の内在的克服」と、さらには、「哲学」(子供)から「思想」(規範=「別の夢」)へという変化に対応していることは言うまでもあるまい。だが、この本では、それが十全に達成されているとは言いがたい。その意味も含め、著者永井均氏は、以後の展開を期待させる稀有の哲学者だということができるだろう。

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紙の本畏怖する人間

2001/01/16 00:12

置き去りにされた「方法的懐疑」

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 後進の批評家に圧倒的な影響力を持ち、「決定不可能性」「単独性」等の流行語を産出してきた柄谷行人氏の、二十歳代の批評文を集めた処女評論集である。
 本書のモチーフは、柄谷氏自身が「初版あとがき」で明瞭に述べているとおり、「『内的世界』をそれ自体として純化して考える」ことにある。だが、それは、最近流行のサイコロジーのように、人間の「心理」を対象化しつくし、外から見て分類するようなものではない。そのような方法は、氏によって、「自然主義的認識」として斥けられている。
 氏は、現象学的、あるいは、デカルト的な「方法的懐疑」によって、漱石における「対象化しえぬ(存在論的な)『私』」や「内側から見た生」、小林秀雄や吉本隆明における「心理を超えたものの影」について論じてゆく。そこには、若さゆえの勇み足や、同時代の思想傾向への過剰な反発からくる曖昧さがないとはいえないが、約十年を隔てて書かれた次の二つの箇所の類似性は、とかく、その問題意識の移動の速さや意外性が取りざたされる柄谷氏の、この『畏怖する人間』執筆時に持っていた「問題」へのこだわりの強さを物語っていて興味深い。

 《「自然」は自分に始まり自分に終る「意識」の外にひろがる非存在の闇だ》(「意識と自然」、『畏怖する人間』)

 《ここでいう「自然」は、対象物のことではなく、人間による制作(建築)の可能性の限界点にあらわれる何かだからである。》(「隠喩としての建築」、『隠喩としての建築』)

 近年、“マルクス”主義的な発言が目立つ柄谷氏だが、この著書で強調されていた「方法的懐疑」をもう一度取り戻してほしいと思う。「『内面への道』とはいわば『外界への道』にほかならない」(「内面への道と外界への道」)のであるならば……。

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紙の本倫理21

2000/11/07 23:51

具体性の陥穽

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 久しぶりに柄谷氏の著作を読み、「相変わらずだな。」という思いと、「氏は衰弱しているのではないか。」という思いが、奇妙に同居した印象を持った。氏の論法は、例によってアクロバティックでスリリングである。にもかかわらず、ある時期以降の柄谷氏の著作にみられる、ある混乱の表出が、さらに顕著にうかがわれるように思えるのである。

 柄谷氏はカントを援用し、「自由は『自由であれ』という至上命令に従うことにのみある。」という。これは、むろん、同義反復である。「自由」とは何かと問うているのに、定義付けの中に「自由」という言葉を使っているからである。しかしながら、そのことについては追及しても仕方がないだろう。「自由」を「理論的」(「自然因果的」)に考察する限り、「原因に規定されていない行為や主体はない」といわざるをえないからである。柄谷氏は、そのような「決定論」を斥けるために、あえて同義反復を犯してまで、カントの道徳法則を援用したのだといえるだろう。

 けれども、私が氏の「衰弱」(「妥協」といった方がよいかもしれない)を感じ取るのは、そのような点においてではない。むしろ、その至上命令の直後に、「同時に、他者をも『自由』な主体として扱えということを含みます。」という一説が挿入されることに対してである。以前の氏は、自他の「自由」の矛盾対立を鋭く剔抉してみせたのではなかっただろうか。

 このような私の疑問は、この本の末尾の「付論」(『トランスクリティーク』第一部)を読んで、いくらか融解した。柄谷氏は、「このカント論をわかりやすく説明するために、この本を書いたのではありません。」と、「はじめに」で述べている。しかしながら、氏の弁明とは逆に、本論の後半の「戦争責任」の問題や「生れざる他者への倫理的義務」といった具体的な考察は、「付論」のような原理的考察からは遊離してしまっている。私は、このような具体的な箇所に、柄谷氏自身にもどうにもならない、氏の〈自然〉を見てしまう。

 いずれにしても、『探究』以降の「他者」概念を、もう一度、検討、批判してみよういう意志を起こさせた一冊であった。

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紙の本きれぎれ

2001/02/08 22:03

“きれぎれ”=“解体”の行方

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 町田康氏の文体の特徴は、それを語彙の点からみれば、関西弁、古風な漢語や漢文訓読体などと、現代共通語の話し言葉との混在ということになり、修辞的にみれば、無意味な反復・換言・羅列などということになるだろう。こういう方法は、凡庸な作家が試みると、ひどく嫌味なスタンドプレイという印象を与えるものだが、町田氏の場合は、見事にユーモアへと昇華されている。これは、何故だろうか。
 むろん、作品の内容が下劣な人間たちの下劣な有様を描いたものだからだということもできよう。だが、それだけでは、人間の下劣さを糾弾しただけの小説になりかねない。
 町田氏の作品では、すべては語り手の意識での内在的な動きであるかのように描かれている。つまり、人物の行動や会話といった外界の情景も、強い〈選択〉を受け、なおかつ〈再構成〉されているため、内的独白と外界の描写が違和感なく接続し、強いプロットの推進力を持った文体を可能にしているのだということができる。
 さらにもう少し先まで言えば、町田氏の〈語り〉においては、対象化された〈私〉の意識と対象化している語り手の〈私〉の意識が明瞭に分離されているため、作品の内的世界において自他の平準化が行われ、自嘲=他嘲という現象が起こっているのである。「あんたかて阿呆ならウチかて阿呆や、ほな、さいなら」という具合である。こういう〈語り〉の方法が可能になるためには、ある〈断念〉の契機が必要であっただろうと思う。
 文芸評論家の福田和也氏は、『喧嘩の火だね』の中で、町田氏の話者の愚行は、岩野泡鳴や近松秋江にも見出され、町田氏のそれは、より身も蓋もなく下らないがゆえに、勇気があり、厳しいと言っている。だが、ここで福田氏は、文芸作品をその題材によって類推するという愚に陥ってはいないだろうか。前述のように、町田氏の〈語り〉は、伝統的な私小説作家のものとはまったく異なっている。
 しかしながら、『きれぎれ』における町田氏の〈語り〉は、デビュー当時とはいささか変質してきている。つまり、前に述べた、文体、それからプロット構成のいずれにおいても、解体の度を深めているといってよい。のみならず、冒頭と結末近くに置かれた超現実的な描写は、主人公の孤独と絶望の〈喩〉であり、これはデビュー当時にはほとんど見られなかったものだ。
 前掲の『喧嘩の火だね』の中で、福田和也氏は、町田氏の作品には、太宰治にあったような「トカトントン」という自意識の透明な空転の音は響いていないと論じていたが、ひょっとしたら、町田康氏の作品にもそのような音が響き始めているのかもしれない。

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紙の本私という現象

2000/11/25 02:43

不可避の病としての〈自意識〉

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 三浦雅士は誠実な批評家だ。氏に批判された文学者、思想家はいないであろう。三浦氏は、批評対象の共通点に着目し、一見無関係と思える発想を結び付けて理解してゆく。かつて、吉本隆明が磯田光一のことを「理解魔」だと評したことがあるが、同様のことが三浦雅士に対してもいえるだろう。この著書は、そのような三浦氏が月刊誌『現代思想』の編集長であった時期、今井裕康というペン・ネームで発表した論考を集めた処女評論集である。
 『私という現象』を貫くモチーフは明瞭だ。近代がいわゆる「近代的自我」の確立をひたすら目指してきた時代だとすれば、そのあとに続く、われわれの時代である現代は、そのような確固とした自我を持ち得ない時代、〈私〉は、〈世界〉との関係、〈他者〉との関係、さらには、〈自己自身〉との関係によって浮かび上がってくる〈現象〉に過ぎないと考え得る時代だというものだ。
 そして、そういう変容をもたらしたものとして、三浦氏は、〈自意識〉を中心に据える。だが、ここでいわれる〈自意識〉は、「彼は自意識過剰だ」などと日常的に使われる「自意識」という言葉とはいささか意味が異なっていることに注意しなければならない。氏の言う〈自意識〉は、〈自己〉の〈自己〉に対する関係付けとしての〈自意識〉、〈自己〉を対象化し、そのことによって、〈他者〉をも対象化する〈自己自身についての意識〉という意味での〈自意識〉だ。さらに、そのような〈自意識〉は、当然、〈自意識についての自意識〉を産み出し、際限なく循環していくのである。
 三浦氏は、現代をそういう時代と捉えるばかりではなく、むしろ、そのような〈自意識〉を避けて通ることのできない時代の病理と考え、そのような病理を鋭敏に感受している詩人、小説家、思想家を取り上げ、共有する病理によって括りだしてゆくのである。
 この試みは、この評論集以後、『幻のもうひとり』『主体の変容』『メランコリーの水脈』と方法的に徹底されてゆくのだが、『私という現象』では、まだそれほど自覚的ではないようだ。なおかつ、未消化で難解な印象も与える。だが、80年代を席捲したポスト・モダン、現代思想ブーム、ニュー・アカデミズムの一翼を担った書として、忘れるわけにはいかないであろう。

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紙の本辺境・近境

2000/11/18 01:06

(辺境)消滅の時代に書くこと

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 近くは故郷神戸から、遠くはメキシコの田舎町やモンゴルの草原まで、この本には、世界の様々な場所を旅したときの旅行記七篇が収められている。読者は、同時に出版された『辺境・近境 写真篇』を併せ読むことによって、まるで著者とともに「辺境」(メキシコやモンゴル)や「近境」(神戸や讃岐)を旅しているかのような楽しさを味わうことができる。『辺境・近境』というタイトルの意味もそこにあるのだろう。けれども、村上春樹にとって、〈辺境〉と〈近境〉は、もう少し複雑な意味を持っているようだ。
 「あとがき」にあたる「辺境を旅する」の中で、村上氏は次のように言っている。
「こうして誰でもどこにでも行けるようになって、今ではすでに辺境というものがなくなってしまった」
「いちばん大事なのは、このように辺境の消滅した時代にあっても、自分という人間の中にはいまだに辺境を作り出せる場所があるんだと信じることだ」
 村上氏にとっては、〈辺境〉とは、地理的な遠隔地ではなく、「旅行する人に意識の変革を迫る」〈非日常〉の喩である。奇怪で暴力的な事件(氏にとっては「阪神大震災」と「地下鉄サリン事件」に象徴される)が〈日常〉的になった現代、〈辺境〉を旅し、それを旅行記に描くことは、村上氏にとって、「面白さ珍奇さを並列的にずらずらと並べ」ることではなく、「〈それがどのように日常から離れながらも、しかし同時にどれくらい日常に隣接しているか〉ということを(順番が逆でもいいんですが)、複合的に明らかにして」いく行為なのである。
 したがって、それは旅行記を書くことにのみ当てはまることではない。「旅行記というものが本来的になすべきことは、小説が本来的になすべきことと、機能的にはほとんど同じなんです。」
 〈辺境〉消滅の時代にあって、村上春樹にとっての、書くという行為の核心的意義について触れているように思えてならないのだ。

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紙の本甘美な人生

2001/01/16 00:08

甘美な〈批評〉と〈批評〉のストイシズム

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 〈批評〉を生業とするものなら誰でも、意識の水面に浮かび上がってくる言葉を、批評対象も、読者も、さらには、文法さえも一切考慮せずに、自動筆記のようにまったく無造作に執筆してみたいという密かな願望を持っているにちがいない。『甘美な人生』を読みながら、そんなことを思った。それは、福田和也氏が強い影響を受けている小林秀雄が、わが国ではじめて、〈批評〉を〈作品〉として自立させたからというわけではない。また、必ずしも、「精神の散文——佐藤春夫論」において、佐藤春夫の文章上の信条である、「しゃべるやうに書く」ことについて考察しているからでもない。むしろ、福田氏自身の批評が、“思考の澱み”や“情緒のゆらぎ”といった、批評家にとっては隠しておきたい破綻や、自意識欠乏症かと思えるほどのスタンドプレイを、敢えて(時には嫌味なほどに)記述するスタイルをとっているように思えるからである。
 たとえば、福田氏は、「放蕩小説試論」を小林秀雄の批評スタイルに倣って、氏が高校二年のとき、スキー場で突然憂鬱に襲われた経験から書き出している。これは、自らの遊蕩が快楽を伴うものではないという実感を、古代の現世肯定と快楽が消失したあとの放蕩小説の誕生と重ね合わせるための装置だが、大方の読者には、金持ちの道楽息子が蕩尽の限りを尽くすことにも飽き、改心しつつも遊蕩生活がやめられない状況を、いささかの郷愁をまじえた武勇伝として語っているくだりとしか読めないであろう。
 また、「批評私観——石組みの下の哄笑」や「甘美な人生」に見られる、ほとんど一、二文で改行するスタイルは、氏が論理構築を途中で放棄し、それを逆手にとって、戦略としたことを物語っているのではないだろうか。
 「芥川龍之介の『笑い』——憎悪の様式としてのディレッタンティスム」のように、それ自体興味深い解釈がないわけではないが、私には、この『甘美な人生』を名著と呼ぶことはできない。氏は、幻滅や絶望が一つの〈概念〉として像を結ぶまで、自己否定による沈黙に耐え続けなければならないのではないか。「放蕩」のイメージや「甘美な」批評言語へと逃げ込むには、まだまだ絶望の仕方が足りない。〈批評〉というジャンルは、その程度にはストイックであらねばならないだろうと思う。

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