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もろさんのレビュー一覧

投稿者:もろ

7 件中 1 件~ 7 件を表示

バツグンにおもしろい「剥き出しの野蛮」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 聖書に代表される所謂「聖典」と呼ばれるものの中に、現代人の目で見ると野蛮で野性的でエログロで非道徳的な話が少なくない、というのは、宗教書を愛読するひねくれ者には実は常識だった。ただ、その楽しみを人に伝えようとしても、宗教にはまっている人(特に、この本でも批判されているような、自分の価値をごり押しするやつら)に見られるのは嫌だし、エログロの楽しさを熱く語っても眉をひそめられるに決まってるので、こっそりと隠れて楽しむしかなかった。だから、ケン・スミス氏と山形浩生氏によるこの本を読んで、やっとこのおもしろさをわかってくれる本が出たぜ!と快哉を叫ぶ反面、抜け駆けされた! と思っているひねくれ者は少なくないのかも知れない。
 ケン・スミス氏は、現代の宗教家・宗教学者たちが自分たちに都合のいいフィルタを通して聖書を読み、それを(自分で勝手に作り上げたものなのに)絶対的なものとして人に押し付けようとしているのをひどく問題だと思ってこの本を書いているので、立脚点はあくまでも現代だ。だから、傍観者的な立場は守られているし、それがこの本を読みやすいものにしているのだと思う。ただ個人的には、テキストにもっと深く潜り込んで、大殺戮や大破壊のビジョンを真剣に語り、書き記していた当の預言者たちのところに会いに行きたい——檻の外からライオンを見るよりも、檻の中に入ってライオンに触ってみたい——気がしないでもないので、同じような欲求がある人にとってはちょっと物足りなかったかもしれない。もちろん、タイムマシンかなんかに乗って、(単なる想像だけど)ろくに風呂にも入らないで体臭がきついであろう預言者自身と対面したとき、ナマの彼らの言動を魅力的に思うか、すごくつまらないと思うかは保証の限りではないけど。今のところタイムマシンの持たない僕らの想像力をサポートしてくれるのは歴史家・古典学者の(真の)仕事であろうし、実際に山形浩生氏の注釈にはそういう視点からのコメントがいくつか見られたので、今後、野性がさらに剥き出しになっちゃったもっとおもしろい「聖書(仏典、経典…)の読み方」がでるんじゃないかと期待しちゃうのである。
 願わくば、この本が多くの宗教研究者、歴史家、古典研究者に読まれ、野性の考古学者へと転向するきっかけとならんことを——。

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内容はいいんだけど、邦題はなんとかならなかったかなぁ

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ラジオ、テレビ、そしてコンピュータ——時々のハイテクに無分別な夢(というか思想というか)を抱いちゃった大人たち(と、そいつらに便乗した大人たち)が、それを教育現場に持ち込み、子供から先生や図書館を奪おうとしていることに対するストールの舌鋒はいちいちうなずけるものばかり。今、日本の学校や大学を見渡してみると、同じように地に足のついていないプロジェクトがスポットライトを浴びている。ストールが言うように、コンピュータを使うことは悪いことじゃないし、たくさんの可能性があることも確かなんだけど、どうも過度の期待を持っちゃう人(と、その反対の変なアンチ)は洋の東西を問わず多いみたい。
だけど、この邦題「コンピュータが子供たちをダメにする」はどうしたものだろう。まるでコンピュータを全否定してるみたいだ。本書での主たる批判対象は、上に書いたように“夢を子供に押し付ける大人たち”であって、コンピュータではない(ちなみに原題は“High Tech Heretic: Reflections of a Computer Contrarian” 下手な直訳だと「ハイテク異端者——あまのじゃくコンピュータユーザが考えたこと」かな、間違ってたらすいません)。この日本語タイトルだと、下手なアンチ本と勘違いして手に取らない人も少なくないと思う。実際ぼくはそうだったし、周りの人でもそういう人は少なくなかった。幸い、いい本だよって教えてくれた人がいたから読めたんだけど、立ち読みができないオンライン書店では致命的かもね。

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世間と学者とのゆらゆら

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 倫理学の難題について21人の専門家が答えるという内容なんだけど、「倫理学のフロンティア」「モラル・アポリア(=哲学的難問)」というタイトルに騙されてはいけない。このタイトルから、倫理(学)の一番さきっちょに論者がぎりぎりまで迫る尖った議論が読めるかと思っていたんだけど、実際には「道徳の源泉はどこにあるのか」「種の保存か、それとも人間の暮らしか」「道徳的行為は報われるのか」などなど、古典的とも思える問いに、論者がとまどいながら答えるというパターンが少なからず見られ、どちらかというと新書とか教科書にふさわしいかなという印象を受けた。すでに永井均氏などの本を読んじゃってる人には物足りないだろうと思う。

 ただ、論者たちの「とまどい」はいろんな意味でおもしろい。これは、世間における道徳観(今、いろいろ言われているよねぇ)と倫理学者の考えていることとの距離が何だかはっきりしないことからくるのだろうけど、このはざま感というか、ゆらゆら感こそが倫理学の置かれている現状を端的に表しているような気がするからだ。編者がこれを狙っていたのだとしたら、船酔いにも似た感覚を引っ張り出した腕に敬服してしまうな(後半はゆらゆら感が少なくなっていくけど)。

 あと、仕方がないことなのかもしれないけれど、仏教学者が論者に加わっていないのは残念。パーフィット『理由と人格』(この本はかなり「さきっちょ」だと思う)にちょこちょこ仏典が引かれているのに、注意されていないのかな。うーむ。

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紙の本安倍晴明伝説

2001/01/25 11:05

史実と伝説への学術的アプローチ

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 陰陽師安倍晴明の書籍は数多く出回っているが、本書は「信頼できる資料」をもとに「虚像性をはぎとる」ことを目的とした意欲作である。中世以前については名著村山修一『日本陰陽道史総説』を超えるような見解はほとんど示されていないようだが、著者の専門である近世に筆が進むと、晴明伝説の形成過程を丹念に追うことで被差別民の様々な思いを浮かび上がらせようと試みられており、読み応えがある。
 しかしながら、看過し得ないミスも目立つ。福島県を差し置いて茨城県を「北限」としてしまうのは単純なミスだとしても、式神の語源の考察で、隋書の「識神」を用例としてあげるのは、植物やモノ(=非情)に精神や魂の存在を認めない仏教の基本概念に照らしても説明不足の感を免れない。
 また、古代の陰陽道伝来に関しての議論で、「現存資料のマジック」という言葉を使って推論を組み立てるのは(それがたとえ妥当な判断だとしても)「信頼できる資料」をもとにするという本書のポリシーを著しく損しているのではないかと思われるのである。
 本書のように、史実と伝説の両方に対して学術的なアプローチを試みた例はまだまだ少ないため、専門家による後続を期待する次第である。

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中途半端なファッショナブル・ナンセンス?

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 『般若心経』の解説書には、本書のように「謎を解く」とか「今明かされる秘密」なんていうタイトルがついた本が多い。これは最近始まったことではなく、空海さん(弘法大師ね)の『般若心経秘鍵』も要するに「般若心経に隠された秘密を解く鍵」というタイトルなので、昔から『般若心経』は謎に包まれた(と思わせる)経典だったのだ。

 ところで、「〜の謎を解く」というタイトルが多いのはトンデモ本である。トンデモ本の著者は往々にして自意識過剰(人によっては教祖!になったり)で、誰を指しているかよくわからない「偉い学者」への対抗意識が強かったりするのであるが、本書にもそういうのが端々に見られる。自分が早稲田大学客員教授なのを棚に上げて「偉い学者」を批判する一方、自身のことを「現在では数少なくなった良心的な作家」などと言える人は、確かに数少なかろうと思う。

 内容はなんだか、ありがちな感じである。例えば、出家する前の釈迦が豊かな王国の王子であったとされるのは後世の捏造で、「寒村の村長さん」の息子ぐらいなら「ありうる話だと認めてもいい」などと、一見、客観的かつ批判的な態度で「伝説」を切り捨てている。かっこいー。でも、釈迦が本当に金持ちだって、後世の「伝説」では豊かな王国の王子として描写されるだろうし、また筆者が推測するメシア的な転輪聖王イメージも、釈迦が金持ちだった方がより強まったに違いない。つまり作者の態度は、客観的でも批判的でもなくて、主観たっぷりのワイドショー的な判断なんだ。

 もっとも、「皆さんと同じ一般人」である筆者が、「一般人」である読者に向かってわかりやすく謎を解こうというのだから、こういうワイドショー的な分析も悪くないのかもしれない。でも筆者は一方で、四大元素はプラズマみたいだとか、釈迦は苦行の末、脳内物質でハッピーになった、とか、科学的知識を導入して客観的な雰囲気を強化させようとしている(ちょっと前に流行ったファッショナブル・ナンセンスですな)。この試みは哀しいことにあまりうまくいっていないんだけど、芥川賞作家で早稲田大学客員教授が仰ればなんとでもなりそうな感じではある。

 ということで、中途半端だなぁという印象。『般若心経』のトンデモ本が読みたい人は般若心経現代語訳 釈迦の怒りと二千四百年目の真実が管見の範囲でバツグンにキレているので、個人的にはお奨め(でも、楽しむには、トンデモ本を楽しめる心と仏教の知識が必要)。

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補足

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

共著者の一人です。上の説明じゃちょっと足りないと思うので宣伝もかねて補足をば。

〈目次〉
本書のねらい
序論 「日本史」という安堵と陥穽(見城悌治)
第1部 歴史学的アプローチの最前線
 1)歴史学とテクスト分析—〈事実〉と〈フィクション性〉—(稲城正己)
 コラム1 歴史の物語り論(三浦具嗣)
 2)考古学研究におけるスキーマ理論の応用—遺物の系譜研究を例にして—(池田
敏宏)
 3)法会と桜—絵画史料を読む—(工藤健一)
 4)史実と伝承の間—厩戸王から聖徳太子へ—(内藤亮)
 5)データベースがもたらすもの—コンピュータの中の歴史/物語—(師茂樹)
 コラム2 漫画と古典(森下園)
第2部 開かれる過去/解体する現在
 1)生活文化の相対化
  ・割り箸から探る日本文化(中澤克昭)
  ・環境問題と日本文化—自然との新たな関係をめざして—(北條勝貴)
  コラム3 ジェンダーとセクシュアリティ(工藤美和子)
 2)宗教文化の相対化
  ・「日本神話」というパースペクティブ(斎藤英喜)
  ・戦死者の記憶と表象をめぐる試論(佐藤壮広)
  ・仏教文化の超域—平安時代の密教と陰陽道—(中尾瑞樹)
 3)政治文化の相対化
  ・戦争と責任をめぐる選択(及川英二郎)
  ・「日本」の身体化(兒島峰)
  コラム4 日本人起源論の背景—アイヌ=コロボックル論争—(池田敏宏)
 4)日本史の相対化
  ・日本の西洋史研究と西洋の日本史研究(森下園)
  ・歴史という言説—オリエンタリズムと歴史学—(三浦具嗣)
  コラム5 「日本人=単一民族論」という装置(池田敏宏)
ブックガイド 〈知〉の森を進むための文献案内

刊行の趣旨を読んでいただければわかると思いますが、本書は「新しい歴史教科書をつくる会」をはじめとした所謂歴史修正主義を超えようという試みであります。とは言え、別の史料を持ってきたりして「本当はこうだった、あいつらは間違いだ」というようなタイプのよくありがちな批判ではなく、多様な歴史(認識)のアプローチを提示することでそういった実証主義的な方法論とそれに基づく議論自体を乗り越えようぜ、という方向で議論を重ね、世に問うたものです。

ぶっちゃけて言えば、「多様な歴史(認識)」の部分については、読んでいただければわかると思いますが、「作者はいない」的なところから史料=テキスト独自の価値をそれなりに認めるところまで(私は割と後者かな)、論者によって議論がけっこう分かれちゃってます。冒頭「本書のねらい」にある「新たな価値基準への*序章*」という表現になっているのは、落しどころを見出しきれなかったそのへんの事情もあったりします(多分)。開き直って言えば、こういった共著のあり方も多様性のひとつの表現方法なのです、ゴホン、ゴホン…

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愛さえあれば

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 立ち読みしててついつい買ってしまった。あー。トンデモ本を買うってことは、小さな自己満足と後悔とがないまぜになった買物なんだなぁ。

 「真理の世界は非情であって、情けが無い!」とか「目を睡(さ)ませ、カァーッ!」とか言い放ち、自分が推測して作った小説を「推理小説」と豪語したりと、壊れた言語感覚を披露するのにも抜け目がない。ちなみにこの「推理小説」のタイトルは「出来上がった人」——これを見ただけでついつい顔がほころび、もう読まずにはいられない!という破壊力である。

 「波羅蜜多」は「バラモン(波羅)の教え(蜜)がたくさんあること(多)」なんだそうな。すばらしい。もっとも、こういう風に、サンスクリット語の音写語であることを無視(あるいは無知)して無理やり解釈しようというのはこの人が最初ではないんですけどね。中国だと明代ぐらいからはあったような気がする。他にも、空海さんを指す「南無大師遍照金剛」を、ある経典の章名と読んでしまったりして、この人は本当に徳島出身なのかと疑ってしまうが、そんなことはこの面白さに比べれば小さなことなんだろう。

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