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先月(2017年1月)

こたにりこさんのレビュー一覧

投稿者:こたにりこ

4 件中 1 件~ 4 件を表示

もはやフラニーへのラブレター以外の何物でもない。愛をこめて、キスマークもべったりつけて、彼女のしあわせを願って。

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★2003年、ビーケーワン「サリンジャー再読!」書評フェア最優秀賞受賞★

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エレベーターで、カフェで、公園で。わたしたちは、毎日ちょっとずつファンタジーに癒されている。

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「時間」と「場所」とに著者ならではのこだわりをちりばめながら、多くのファンタジー作品を読み解く評論集。前著『ファンタジーの魔法空間』も示唆にとむ内容だが、結構ヴォリュームがあるので「コンパクト版もあったら嬉しい」などとのほほんと思っていたところ、いいものを見つけた。ついでながら、『ファンタジーの魔法空間』評に最新評論集と書いてしまったけれど、最新は本書であると判明。訂正してお詫びする。

副題にもある通り、本書の中身は全体を通して「癒し」というキーワードでくくられている(安易な「癒し」が氾濫してしまった現代では、この言葉をあらためて聞かされても癒される感覚が薄いので困りものだが……)。医学書をのぞけば、治癒・回復ということにかけて、ファンタジーほど切実に取り組むジャンルは他に見られない。本書では、さまざまな物語をとりあげながら、ファンタジーの効用「癒し」について解き明かしている。

『メアリー・ポピンズ』や『ハリー・ポッター』シリーズなどの有名どころは、俗塵をはらって偏見のない目で見渡している。この辺は知っているつもりになっている作品たちだったのだが、自分は本当に読んだと言えるのか、物語の上っ面をなでたにすぎなかったのではないかと、考えてしまうものがあった。通常はファンタジー以外の名作棚に分類されている『秘密の花園』や『赤毛のアン』、三島由紀夫の『豊饒の海』、果ては漫画『ポーの一族』まで飛び出して、豊富な読書量はもちろん、「量=質」になっているのが羨ましい限りだ。図書館で、本と一緒に井辻朱美の目も借りられたら、どんなに素晴らしいだろう。

作中の出来事だけに留まらない。エレベーターで、カフェで、公園で。エステで、旅行で。何より、読書という体験によって。日常の至るところで、わたしたちは毎日ちょっとずつファンタジーに癒されているのかもしれない。こういう日々の魔法は大歓迎である。

告白すると、怖くなってきた部分もある。ファンタジーというものは、何せ「癒し」の力を持つほどであるから、精神論的にも深いところまで根をはった問題があって、その根を掘り下げていけば、哲学や宗教や心理学のようなちょっとディープな世界に接触しないわけにはいかない。本書のように軽く触れた程度でびくついてはいられないが、それでも何作もの物語の淵に立ち、ひとの心の奥底を覗きこむ作業には身がすくむ。

「タイムファンタジーは、たんに過去の時代へのノスタルジーであったり、前世探訪であったりするのではない。そのようなところから始まり、そしてその奥にあるより深いもの、すべてのひとの魂への理解と許しへとつながっていく」(p138)

「その休息の深い意味と喜びを教えてくれるのが、旅のファンタジーであるならば、旅のファンタジーの物語を読むことから得られる人生上の休息は、さらにもうひとつ次元の深いものになるはずである」(p164)

「目ざしているのはどの場合にも、現実という固い世界に、なぞとふくらみとゆらめきと可塑性を与えることだ」(p200)

トールキンの言う「脱出(escape)」が一時的な現実逃避ではないからこそ、ファンタジーを読むという行為によって、現実という足場はぐらつき始める。自分自身の奥の奥まで落ち込んでいくような感覚を味わうのだ。自分の中に迷いこんで出てこられなくならないよう、今度からファンタジーは命綱をはってから読むべきなんじゃないかと、真剣に考えてしまった……。

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まなざしは、距離によって和らげることができる。奇妙な許しの物語。

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著者のデビュー作にして半自伝的作品であるが、そうと知らずに開いても想像力のはばたきに魅せられてしまう。芯から読んでよかったと思える、優れた作品と出会った。ジャネット・ウィンターソンという人は、本物の想像力を持った作家である。

孤児であったジャネットを引き取り育てたのは、狂信的なキリスト教に属するご夫婦だった。夫の影がひたすらに薄く、主導権を握っているのは妻なのだが、この人、あまりにも強烈なキャラクターを発揮してくれる。書物を選ばせたら旧約聖書と『ジェイン・エア』だけに拘泥する。『ジェイン・エア』に関しては、自分の都合に合わせて結末を変更している。<迷える魂の会>活動への入れ込みようも半端じゃない。養女ジャネットの行く末は勝手に伝道師と定め、幼い頃からびしびしと仕込む。いつでもどこでも一方通行で突っ走る姿に、鬼気迫るものを感じる。
困ったお母様だけど、こういう激しい人は、遠くから眺める分には「いいキャラしてる」のだ。直撃を受けた人が「すごいよね」と笑ってみせるのは、並大抵のことではないけれど。それを可能にするのが文学の力だと信じられるのは、大きな収穫であった。著者は、自分の母親の脅威であっても切羽詰った調子にならず、距離を置くことによって、まなざしを和らげるのに成功している。

ジャネットが同性に惹かれたことをきっかけに親子関係にひびが入り、娘は自立していくことになる。幾らでもどんよりと重たくすることができるであろうこの話を、独特の明るさで引き上げ、スパイシーに引き締める語りっぷりに魅了された。
主人公のたくましさに慰められながら知らされるのは、想像の世界には常に自由があるということだ。現実の痛みから目をそらさない強靭な精神力も欲しいが、決定的なダメージを食らう前に、必要とあらば架空の世界に逃避する方法も用意されている。『オレンジだけが果物じゃない』は、ただ傷口をこじ開けて不幸自慢をするのではなく、亀裂に巧みに夢を織り込みながら回復を求めていく。

「わたしは生まれてこのかたずっと、世界というのはとても単純明快な理屈のうえに成り立っていて、ちょうど教会をそのまま大きくしたようなものなのだと信じていた。ところが、教会がいつもいつも正しいというわけではないことに、薄々気づいてしまった。これは大問題だった。もっとも、その問題と本当に向き合うことになるのは、まだ何年も先のことだった」。

数年後、この問題に向き合ってみた彼女が手に入れた結論は、ファンタジーだった。

「ひょっとしたら、わたしという人間はどこにもいなくて、無数のかけらたちが、選んだり選ばなかったりしたすべての可能性をそれぞれに生きて、折りにふれてどこかですれ違っているのかもしれない」。

彼女は母から離れて生きながら、同時に母のそばにいることが可能だったのである。だから、母と娘は特に対立するわけではない。

意外にもジャネットは家に戻り、母親もごく普通に受け答えしていて、少しずつ歩み寄ったかのように見える。本当は、母親は何もかわってはいない。ただ、時間が流れただけのこと。かつてはオレンジ一辺倒だったのが「オレンジだけが果物じゃない」と言うようになったのも、彼女の興味がパイナップルに移ったにすぎない。オレンジと言い出したらどこまでもオレンジであり、パイナップルと言い出したらどこまでもパイナップルに入れ込む激しさは不滅である。
ふと微笑んでしまう。その家には秘密がたくさん眠っている。これは、この家のルールにのっとって結ばれた母娘の絆なのだ。まったく、奇妙な許しの物語である。

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紙の本大工よ 屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-

2003/05/01 00:29

グラース・サーガを愛読する者にとって、何度でも立ち返りたくなる出発点。

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まれに見る繊細な感受性を備えたグラース家の七人兄妹を描くシリーズの中でも、ずばり核心に踏み込んだ一冊、台風の目の部分だ。ついに、長兄シーモアの物語が始まった。

自らの結婚式を欠席し、ミュリエルと旅行に出てしまったシーモア。反対を押し切る必要もないのに、式当日になって花嫁その人を伴って「駆け落ち」を成立させてしまう。弟バディは冷や汗たらたらだったろうが、ミュリエルの関係者たちとの歯車がたぴしの会話も、『大工よ〜』ではまだユーモラスに見えなくもない。

だが、噛み合わない歯車を無理に回そうとすると、とてつもない負荷がかかるわけで。問題は『シーモア−序章−』で噴出する。

シーモアとミュリエルのその後は、先に発表された『バナナフィッシュにうってつけの日』に引き継がれたかたちである。そこで、バディは「グラース・サーガ」と『バナナフィッシュ〜』の連結作業に着手。シーモア自殺の要因について語るにかなりの枚数を費やす。これがひどく回りくどい調子なのだが、話をあちこちに飛ばすこんにゃく打法が、次第に心地よくなってくる。

バディ含め兄妹はあまりにもシーモアを神格化しすぎており、強い崇拝の色に巻かれた真相は、浮かび上がるよりも霧がかっていく。
実際には、シーモアは「神童」の延長線上に生きようとしながら、彼が嫌悪する卑俗さに首まで漬かったミュリエルとの結婚を決めた。ところが、土壇場に来て自らの決断から逃走、更には自殺。全く噛み合っていない歯車を無理に引き回した結果、引きちぎられて果てたのである。
残る六人は生きていく限り、噛み合うはずもない「俗世」を相手に苦しまなければならない、という恐るべき命題を突きつけられたことになる。

誤解を恐れずに書けば、引きちぎられる前に際どいところで小さな勝利をおさめたのが、『フラニーとゾーイー』だと思っている。繊細なフラニーが俗者のレーンを恋人にした点は、シーモアがミュリエルを選んだことと奇妙に符合する。シーモアやフラニーの精神を引き裂くような悲劇が起こり、後を受けたバディやゾーイーが愛をこめて言葉の曲芸を披露する、というパターンも符合するのだ。色濃い遺伝を感じずにはいられない。

徹底的に痛めつけられたフラニーを救うにあたり、ゾーイーはシーモアの伝説性を拝借する。生身のシーモアその人は救われなかったけれど、彼は死によって弟妹たちを答えに導く「伝説」の存在に昇華した。今後、弟妹たちが鋭敏すぎる神経で自分自身を傷つける時、シーモアの名が心の寄りかかれる柱になっていくことを遥かに想像させる。

「序章」というからには出発点に過ぎないのだろうが、「著者が生きているうちにグラース一家の謎を解き明かせ!」と意気込むのは、それこそ危険な「純粋の性急さ」(『薔薇の名前』のウィリアムの台詞)かも。迷宮から脱出しようとする時、入口を出口に使う方法がある。将来、「グラース・サーガ」の続篇が登場するかも分からないが、少なくとも目的の一つは既に果たされているような気がする。本書は「グラース・サーガ」を愛読する者にとって、何度でも立ち返りたくなる出発点である。

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