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renqingさんのレビュー一覧

投稿者:renqing

5 件中 1 件~ 5 件を表示

教師、学生、研究者の必読書

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「説明」とは、視聴者・読者に「説明者が伝えたい事柄を、無理なく、無駄なく、抵抗なく、明確に、すんなりと、わかってもらうこと」であることを、説得的に示しています。教師、学生、院生、研究者には、必読書といえます。

 疑問点を一つ。この本の「おわりに」で、「分かりやすい授業」と、学生の「自分で考える力」を鍛えることは、両立しないかもしれない、という大学教師の指摘が紹介されてました。が、これは間違いです。「分かりやすさ」はプロトコルに属することで、その授業を通じて鍛えられるべき「問題解決能力」云々は、コンテンツに属することです。難しい問題の「難しさ」を「わかりやすく」説明することはでき、その説明は学生を知的に刺激するでしょう。空疎な問題を、さも「難しそう」に説明することも可能です。これは、教師の貧しいコンテンツを糊塗し、学生を混乱させる効果だけを持ちます。「良い内容」を「分かりやすく」説明する講義・授業は、教師の義務です。この点、念を押しておきたいと思います。

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紙の本バスラーの白い空から 新版

2004/11/01 05:15

波濤の中の青春

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 再刊されたのを知りました。改めてレビューを書くことを許して下さい。

 表題作「バスラーの白い空から」で、筆者が出会うビジネスマンの中に、ふと自分と同じ旧海軍軍人のにおい嗅ぎ取る場面があります。お互いにそれを感じ取りながらも、あえて互いに触れずまた別れていきます。そこに、戦争に青春を賭けざるを得なかった世代の国を超えた共感と痛みが、控えめだが動かざるものとして込められていました。痛切さも自分の存在の一部であることを改めて知らされる場面です。

 皆さん、是非、ご一読を。

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紙の本バスラーの白い空から

2003/03/29 02:54

バスラ攻防戦を遠く離れて

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者は、大東亜戦争下、人間魚雷「震洋」の乗り組むべく訓練をうけながら、出撃はついに訪れず、敗戦後、商社マンとして海外で活躍していた人物です。
 表題作である「バスラーの白い空から」は、その佐野氏が、敗戦後10年を経て、商社マンとしてバスラー(今現在、米英軍とイラク軍が攻防戦を展開している、あのバスラ、です)に穀物の買い付けにきたときの顛末とエピソードを、コバルトブルーの海ような文で綴ったものです。
 このエッセイには、片言の日本語を喋るスウェーデン人の船舶技師、 第二次大戦の結果、歴史から抹消されてしまった国から、辛くも逃げ延びてきた床屋の主人、イランに任務で行く途中、故障で不時着した、快活な米空軍の若い士官たち、といった、まるでよく出来た一幕物の芝居のような人たちが配置されています。腕のいい映画監督なら、人生の深み、人との出会いの不思議さ、を淡々としたテンポで描きながら、見終わった後に、観客の心の底に、ズシリとしてはいるが、不快ではない重みを残す、映画に仕立てることの出来る素材です。
 「コルシア書店の仲間たち」の著者、 須賀敦子が、感動したこともむべなるかな、という読後感を持つことができます。戦中派らしい、戦争観も織り込んでいて、珠玉のエッセイとなっています。皆さん読んでみてください。とても、薄い本ですので。
 たまたま、我が亡父も、数えの19歳で「震洋」に乗り込んでいたくちでした。私がこの本を忘れられないのもそのせいかも知れません。

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武家−野蛮から文明へ?

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

武士は、野蛮で、人殺し、暴力団と同じようなもの、というのは、著者の野口さんだけでなく、ある程度中世史家の間では共通した認識であるようです。創文社刊PR誌「創文」2004.09.No.468東島誠「義経の結婚」p.7-11参照。

ただ、どんなに野蛮で、品性下劣でも、むき出しの暴力や武力だけでは
長期にわたる「統治」は不可能なわけです。(梁石日「血と骨」幻冬社1998における、金俊平の晩年を見よ。)

そうすると、この列島の歴史においては徳川300年は、遅々たる歩みであったとしても、武家の「文明化の過程」といえるのでしょう。この点に関する著者の見解があれば、より納得がいったと思います。

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紙の本国家の品格

2006/02/26 03:31

天下の愚書

28人中、26人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 こういう標題を付けると、諸賢の顰蹙(ひんしゅく)を買うだろうか。しかし、教養のない私でも、数学者、藤原正彦氏に垂れて戴く《数学》以外の「教養」の、あまりの似非(えせ)ぶりに、心底怒りを抱いてしまうことを率直に告げよう。
 その、頁の端から端まで、あまりの杜撰さにあいた口が塞がらない。恐縮だが、その論証は、こちらにつけた私のTBから記事をご覧戴きたい。全部で9回分書いてある。それでも、足りずに番外編まで2回も書いて、まだ、中途となっている。
 私もいい加減飽きたし、過放電状態で、他から知的点滴を補給しないと頭がおかしくなりそうなので、番外編を完結させられない気がしている。
 書評なのに、中身に触れずにおくのはフェアではないと思うので、1点だけ。
 『武士道』の著者、新渡戸稲造は、南部藩の武士の子弟として生まれ、札幌農学校時代に洗礼を受けた、敬虔なキリスト教徒(クエーカー、プロテスタント)であり、終生それは変わらなかった。ある意味で、よき武家としての躾(しつけ)をうけたことがキリスト教への感受性を高めた。だから、この書は、かつての武家の嗜み・躾と、キリスト教という両親のDNAを受け継いでいる。このことをほとんど考察の外に置く著者の態度は、知的誠実さを欠く。つまり、新渡戸の「武士道」は、日本古来の武士道とほとんど別物になっている可能性がある、ということだ。新渡戸という人間そのものが、武士の子の肉体に、キリスト教精神が受肉して出来上がったものなのである。

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