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先月(2017年6月)

あらき・おりひこさんのレビュー一覧

投稿者:あらき・おりひこ

4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本永遠の出口

2005/05/04 16:18

“痛”くて、切ない。でも、いい。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まずは引用から。…(略)この世界には私の目の届かないものたちが多すぎた。とりこぼした何かを嘆いているうちに、また新しい何かを見逃してしまう。/裏を返せばそれは、私がそれだけ世界を小さく見積もっていた、ということだろう。/年を経るにつれ、私はこの世が取り返しのつかないものやこぼれおちたものばかりで溢れていることを知った。自分の目で見、手で触れ、心に残せるものなど、ごく限られた一部にすぎないのだ。/(永遠に〜できない)ものの多さに私があきれはて、くたびれて観念し、ついには姉に何を言われても動じなくなったのは、いつの頃だろう。/いろいろなものをあきらめた末、ようやく辿りついた永遠の出口。/私は日々の小さな出来事に一喜一憂し、悩んだり迷ったりをくりかえしながら世界の大きさを知って、もしかしたら大人への入口に通じているかもしれないその出口へと一歩一歩近づいていった。/時には一人で。/時には誰かと。…第一章「永遠の出口」より。
この長篇小説は、つまりそういうステップを重ねていく少女のはおなしだ。語り手の私(岸本紀子ちゃん)の10歳から高校卒業までの、ほぼ年毎の出来事…幼馴染との交流あり、大冒険的お買い物行あり、担任教師とクラス全員との暗闘あり、グレた中学時代の一時期あり、ぐずぐずの恋あり、家族旅行(浮気をした父と母を仲直りさせようと姉が画策したが、実は恋に破れた姉と受験を控えた紀子を励まそうと父が決めた)ありと、もりだくさんだ。「小説すばる」に断続的に掲載された作品。作者は68年うまれで、わたし(70年うまれ)と、ほぼ同世代だ。だから、背景には、身に覚えがあることばかり。とくに、10代前半のおはなしは、ときに“痛い”と感じた。切ないとも感じた。おそらく最初は、一話完結の連作短篇のつもりで書き始められたのではないかとおもう。途中から、長篇小説としての結構を意識しはじめた…。だからなのか、章によっては、かなり強引の閉めかたをしているものもある。文章の密度にもばらつきがかんじられる。また、「私」の成長とともに、背景が時代の風俗にまみれていき、小説としての「純度」も落ちていく気がする。などとエラソウなことを書いたが、それは私も小説を書く人だからで、この作品を貶めようという意図はない。痛くて、切なくて、「私」を抱きしめてあげたくなる。思わず吹き出してしまう表現が随所にあって、愉しい。そして、読者も励まされる。…「いろいろ自信がないの。今のことも、先のことも。今まで生きてきたことを思い出しても、なんか失敗ばかりだし」「うそ」「え」「もっとちゃんと思い出さなきゃダメだよ、紀ちゃん」「…………」「ちゃんと思い出したら、きっとちがうから」…第九章「卒業」より。高校の卒業式をひかえたある日。別の高校へいっていた幼馴染の春子がたずねてきたときのやりとりだ。おもわず、わたし自身が、励まされてしまったではないか。

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紙の本4TEEN

2005/12/14 10:34

オッサンも夢中にさせる、いまどきの子どもたちが語る普遍的な物語

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 同時期に『池袋ウエストゲートパーク』(文春文庫)も手に入れていて、その著者紹介のなかに「生き生きとした語り口と現在を映しだすエッジの鋭さが高い評価を受けた」とある。これは略して“IWGP”に対する言葉だけれど、『4TEEN』についても当てはまると思う。かれらは、いまどきの子どもたちだ。
 その、かれら、とは。帯の言葉を借りれば「太って大きなダイ、小柄でメガネのジュン/ウェルナー症のナオト、ぼくはテツロー。」となる。語り手はテツローひとりで一貫しているけれど、個性的な4人が、最初の「びっくりプレゼント」以下の各編で主人公となり活躍し、ちょっとずつ成長していく。
 ストーリーには、マウンテンバイク、携帯電話、インターネット、不倫サイト、エロ雑誌(各人好みが違って愉しい)、援交、過食、ヒップホップ、プチ家出、ホモセクシャル(しかもデブ専)、家庭内暴力、等々(以上順不同・思い出すまま列挙)、現代的な要素が、いろいろと登場する。
 ウェルナー症のナオトは誕生日に援交コギャルをプレゼントされるし、テツローはダイエットとリバウンドを繰り返す女の子と付き合うし、ジュンは携帯の不倫サイトで夫の暴力に苦しむ人妻と知り合うし(その夫との対決の場面で言う台詞がまた凄い)、ダイは酒びたりの父親を厳寒の外にほっぽり出したまま死なせてしまうし(でもその父はダイに空色のMTBを残す)で、本当に、田舎でつつましく暮らすオッサンの私になど想像もつかない話が展開される。
 舞台は月島だが、各人の住んでいるところは、超高級マンションから長屋までと、差がある。貧富の格差があり、容姿や学業成績の差があきらかにあるけれど、確実にお互いを認め合い、強い絆で結ばれて、なにがあっても、4人は友達のままだ。現代を映しながら、普遍的なものをとらえている。
 文庫のさいごに、「四人の十四歳へ」と題するとがきてきな文章が掲載されていて、この本の楽屋裏がわかって面白い。お気楽に始まったシリーズで、直木賞受賞とは。

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うらやましいゾ、坪内祐三。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まず装丁が素敵だ。MAGAZINE STANDと書かれた三角屋根の陳列棚に、取り上げられている雑誌が並ぶイラスト。いや陳列棚と書いたけれど、よく見るとこれは、駅の売店らしき建物を裏側から描いたもののようだ。この装丁のおかげで、これまでの坪内作品の中で、いちばんカッコいい本になった。
「小説新潮」に連載されていた雑誌をめぐる長篇エッセイである。帯に、『1960〜80年代。/雑誌が一番/輝いていた、あの時代。』『小学生の頃から「雑誌小僧」だった/著者による、/百科全誌的/思い入れ/クロニクル』とあり、「百科全誌的」の「誌」の上に「・」がふられている(表紙側)。背表紙側に『忘れられない「雑誌の時代」』。そして裏表紙側に、取り上げられている雑誌名がいくつか列挙され、『この雑誌たちが、/私の血となり骨となり肉となった。/総合誌からサブカル誌、あらゆるジャンルで/キラ星の如く登場しては消えていったあの雑誌たち。』とある。誤解されそうな表現もあるが、ノスタルジックなところは微塵もない。私的な回想をしつつ「時代」が語られていく。その雑誌を知らなくても充分に愉しめる。
それにしても、うらやましい時代を過ごしてきたんだなあ、と思う。また、「時代」に、だけではなく、「家庭環境」にも、恵まれていたことも、坪内にとって重要だったことは間違いない(裕福で、本や雑誌が身近にあった)。いま、青春時代をすごしている若者のなかから、坪内のような存在は、うまれてこないだろう。別に、坪内祐三は複数は必要ないけれど…。私の場合は、趣味が狭いこともあり、現在は某ジャズ専門誌くらいしか定期購読していない。そういえば、この本の中にも出てくる「噂の真相」が休刊する直前の10数号は、毎月10日を楽しみに買ったものだ。間に合ってよかったと、この本を読んで改めて感じた。
書店やコンビニにあれだけ雑誌がならんでいるというのに、手元に残したいものもなければ、のちのち語ってしまいたくなるようなものも、ほとんどないのぱ、どういうことだろう。

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紙の本女という病

2006/09/18 17:31

過剰なひと・中村うさぎを見直す。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「女の自意識というのは、それだけでひとつの病なのではないでしょうか」とは、この連載をはじめるとき、『新潮45』の中瀬ゆかり編集長が言った言葉だそうである。賛否両論あるだろう。『私という病』(新潮社)で赤裸々に語られるように、デリヘル嬢までやってしまう、あの中村うさぎである。過剰なひとであり、そこに中村うさぎを持て囃す人々は反応するのであり、そしてこのひとは羞恥心を知らぬひとだ、つまり「壊れた」女だ、と偏見を持っていた。ところが、この本は見事にその見方を裏切り、その視線が偏ったものであること思い知らせてくれた。
 目次をみると、各篇のタイトル横に「同人誌〝やおい〟漫画家殺害事件」とか「ニセ皇族の結婚披露宴詐欺事件」とか「佐世保小六同級生殺人事件」「赤い自転車連続通り魔事件」というふうに、事件名が添えられている。これだけ読めば、あの中村うさぎが、事件のルポを書いたのだ、と考えるだろう。でも違うのだ。
「ここに並べた十三人の女たちは、全員、私のグロテスクな鏡像である」と「あとがき」で述べているように、取り上げられている事件の、被害者・加害者を問わず主役とされる「女」を分析しているようでいながら、実は「中村うさぎ」自身の“私語り”でしかない本である。「これは「彼女たちの物語」という体裁を取りながら、じつは「私の物語」だ」と「まえがき」で、いきなり断りがついてもいる。
 でしかない、と書いたが、それは否定の意味ではない。中村うさぎの覚悟、に対する賞賛と受け取っていただきたい。文章を読めば、もう一目瞭然。中村うさぎは、自分の女を凝視している。そして、ときに対象に憑依する。ときに突き放していることもある。死者に鞭打つような分析もある(ちょっと酷いと思う部分もある)。女が、女の自意識が、胸苦しいくらいに迫力を持って綴られている。「中村うさぎ」がいっぱい、になっている。ちょっとうんざり。でも中村うさぎ恐るべし。あんた純文学書けるよ、と思ってしまった。
 私はこのひとを「過剰なひと」だと思っていたが、過剰であり、そしてどこかで「欠落したひと」なのだとも捉えなおしたのだ。あまっちょろい私探し小説よりも、読む価値がある。ただ、一歩ひいて読むべし。巻き込まれないようにね。

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