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kapaさんのレビュー一覧

投稿者:kapa

81 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

21世紀の地政学

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者倉都康行氏は、この三月惜しまれつつ放送が終了した、国谷裕子キャスターのNHKの報道番組「クローズアップ現代」に常連で登場していたコメンテーターであった。毎年二回、世界経済と金融情勢の分析と見通しを、30分間という短い放送時間の中の、さらに短いコメント枠の中で、国谷キャスターの鋭い切込みに、平明な言葉で的確に、わかりやすいコメントで応えていたように思う。
国谷氏は、シナリオなしに番組を進行させていたそうなので、ゲスト・コメンテーターも大変であっただろうが、知識・経験とも豊富なエコノミスト倉都氏は常連であったことから、国谷氏との信頼関係があったのだろう。
皮肉なことに番組が終了してから、米国大統領選挙、英国EU離脱、南シナ海領有権問題、トルコ・クーデターなど、今後の世界情勢の激変を予感させるような、耳目を集める事件が相次いだ。二人の掛け合いで、これらの事件の分析と今後の動きなどを聴ければ面白かったのだが、本書はそれを補うような内容の本である。テレビでのコメントを聞いているかのように平明な語り口で読み易い内容であり、肩が凝らずに一気に読み進めることができる。
本書の前に、「サイクス=ピコ協定百年の呪縛 中東大混迷を解く」(池内恵著、新潮選書)を読む機会があった。百年前の1916年、英・仏・露によって結ばれた秘密協定「サイクス=ピコ協定」により無理やり引かれた国境線こそが、現在欧州・世界へ難民とテロを拡散させ中東の混乱をもたらした諸悪の根源と単純にみなすのではなく、さらに古くからの中東の歴史と現実、複雑な国家間の関係から原因を説き起こす内容であるが、こちらが伝統的な意味、「地理的環境と国際政治の関係」という意味での「地政学」といえるだろう。そして911以後米国連邦制度準備理事会が「地政学」と資本市場と結びつけて用いるようになり、以後市場用語として定着した「地政学」を俯瞰するのが本書である。
本書では、この「地政学」リスクを五つの類型に整理している。環境問題と地政学リスクを結び付けているように、概念が拡張されているように読めるが、歴史軸はきちんと押さえているし、さらにそのリスクの実態は、貧困にもとづく経済格差と差別にもとづく憎悪にあることを喝破している。また、外交手段として確立した金融制裁や「世界の警察」としての地域への関与といういずれも米国主導の政策を変数とする関数として「地政学」リスクを捉えること、さらに、安全保障上の知り得る情報の三分類を地政学リスクに当てはめてとらえる視点などは、今後報道などで「地政学」リスクに接したときに、そのリスクをどのように評価すべきか参考になる視点となる。
本書は、日本は海外に起因する地政学リスクに疎いだけでなく、「日本国内に自ら抱える地政学リスク」に鈍感である、という著者の危機意識から本書は生まれたと思われるが、そこには筆写自身がディーラー時代、イランのクウェート侵攻のために投資を失敗した苦い経験もあったのだろう。世界情勢と投資は別世界の話ではあるが、「予測可能性」の重要性では同じである。本書を今後の世界情勢を読み解く参考とするか、また、投資の指南書とするかは、読む者の問題であろう。最後に著者の失敗談の後日談のエピソード。損失をカバーするためにとった、当時のマーケット環境では予想外の投資行動が、資本市場に波風を立てたようである。これも「地政学」リスクと見ることができるだろうか。

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紙の本

「二元的民主政」による合衆国憲法理論史

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現代アメリカで最も影響力のある憲法・政治哲学者の1人とされるブルース・アッカマンの主著(原題『We the People』)第1巻Foundationの翻訳。現在第3巻まで出版され、第4巻で完結する予定。邦訳副題にあるように、合衆国憲法理論の歴史とその基底にある哲学・政治について、独立革命を経た建国期から現在までを俯瞰する浩瀚なものとなるだろう。
日本でも引用されることが多い書物なので、研究者向け専門書かと思ったら、そうではない。honto書籍カテゴリ・利用対象は、「研究者」ではなく「一般」となっている。たしかに本書は、著者による「読者のみなさん」という呼びかけで始まる文章で終わるので、「一般」向けとして書いたものだろう。憲法理論とその政治・哲学という論争の多いテーマを、一般向けの言葉で著しているし、翻訳ではあるが何よりその説明の語り口というかレトリックが素晴らしい。わかりやすい例えなども理解の助けになる。
アッカマンの理論的枠組みは、合衆国憲法の歴史を「二元的民主政」としてとらえ,憲法がどのように運用・解釈されてきたかを説明するもの。「二元的」といのは、私的生活を営む市民(「私的市民」)が定期的に実施される議会・知事・大統領選挙を通じて通常の法律制定に関わる「通常政治」と共同体が何らかの危機に直面した時に、「私的市民」から脱し公共心に従って行動する「公民」となって共同体にとっての「公共善」の熟議に積極的にコミットし決定する「憲法政治」の二つを指す。そして「憲法政治」での決定は、最終的には人民We the peopleによる承認で解決し、それが「高次法」として以後の通常政治の基本枠組みとなっていく。この「高次法」は、通常の統治システム外部で形成・決定されるものであり、最終的には憲法修正または時代を画する制定法によって、また、最高裁判所による新しい原理の確認によって「憲法体制」として確立するととらえている。合衆国憲法の歴史は、この「憲法体制」の変更の歴史である。
この「憲法体制」の変更は、実質的に「憲法改正」であり、いずれも正式な憲法改正ルール(第5条)を逸脱して達成されたところに特徴がある。アッカマンによると、これまで4回の「憲法体制」の変更があったという。憲法制定期(連邦政府創設)、南北戦争後の再建期(連邦政府強化)、ニューディール期(積極的福祉国家)、そして公民権運動期(自由・平等な社会の実現)である。
この「二元的民主制」では最高裁判所にも重要な位置を占めている。最高裁判所は人民を代表する機関ではない。そのため、憲法体制の変更があったとしても、簡単に過去の憲法体制を全て廃棄するのではなく、「高次法」が形成されたかどうかを見極める憲法保障機能を果たすことになる。ニューディール期には、ニューディール立法をその時の「憲法体制」であった「契約の自由」を盾に違憲として立ちはだかった最高裁であった。しかし、新しい憲法体制の勝利が人民の意思が大統領選挙・議会選挙で明確になった場合には、新しい憲法コンセンサスを原理として打ち立て、それにより通常政治による制定法が新しい憲法体制に違反していないかどうかを審査することになる。しかし最高裁は、過去の憲法体制を支えた原理を全て捨て去るのではなく、取捨選択をしながら断片も拾いつつ憲法体制の世代間の連続性も維持しているのである。過去の時代を画した判決、Carolene Products、Brown、そしてGriswoldをこのような脈絡で改めて読み込んだ分析は斬新であった。最終巻Interplretationsは、合衆国最高裁判所の憲法解釈を「憲法体制」の世代間統合の問題として論じたものだが、その刊行が待たれる。

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紙の本

Why Don't We Do It In The “Rooftop”?

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今年はビートルズ結成50周年、解散70周年記念の年である(ついでにリンゴ・スターが、その詩がいいね、といったベートーヴェンの生誕250年【BTHVN】2020の年)。今年はビートルズがいないパラレルワードの映画《イェスタディ》の公開(かわぐちかいじ氏『僕はビートルズ』2010~2012年のパロディ作品?)NHK-FMでの大河ドラマ風のビートルズ・アルバム紹介Discover Beatlesなど記念イベント目白押し。
ビートルズを知ったのは中学生の時。映画『Let It Be』公開前後の頃。東京から親の転勤で田舎都市に転向してきた同級生の家で初めてビートルズの音楽を聴いた。しかも、田舎ではなかなか入手困難な輸入盤!中でも驚いたのが、録音風景の豪華写真集付きのアルバムLet It Be。同級生の兄の蒐集であったが、中には海賊盤のようなLPもあった。東京ではすごいもんが手に入るのだ、と田吾作は思った次第。LPを借りてオープンリール・テープに録音し、よく聴いたものである。
映画『Let It Be』は映画館で見た。アルバム写真集の光景もあった。前半はポールとジョンが口論したり、まとまりない演奏が断片的にだらだら続いたり、と何で暗い雰囲気の映画なんだ、と退屈であったが、後半のルーフトップ・コンサートとスタジオのライブ演奏映像はよかったな~と満足した記憶がある。昨年1月に解散50年記念プロジェクトとして、残された膨大な映像・録音を使って『Let It Be』を再編集することが発表された。今年公開の予定であったが、コロナ禍で延期されると聞いた。
この本は、この映画とアルバムに使われた1969年1月2日から31日まで、ビートルズ解散を決定づけた22日間のいわゆる幻の「ゲット・バック・セッション」をあらゆる音源、記事、証言を使って再構築した労作である。ジョージがポールと口論するシーン、ジョンの演奏の時にポールがあくびをするシーン、ルーフトップ・ライヴでジョンが「歌詞を忘れた」といってスタッフが演奏中手にもって見せていたシーン、最後にジョンが「オーディションに受かるかな?」とジョークをいうシーン等々読み進めていくと、暗くて退屈な前半も含め、生き生きと記憶が蘇ってきた。また、ライブ演奏をやめ、スタジオ・ミュージシャンとして、数々の名曲や名アルバムを次々と作成し、解散するまでLong and Winding Loadと思っていたが、わずか2年そこそこの短い期間であったのだ。
「労作」と書いたが、私は「ビートルマニア」ではないので、「オタク」的情報には関心はないほうだ。例えば「Girl」のジョンの「ス~」という声は、吐いているか吸っているか、という小ネタ論争レベルであった。本書後半あとがきを読むと、アルバム作成の時系列的に細かなテイク情報がトレースされていることに驚いた。名曲の生まれる貴重なドキュメントであり、海賊版を含め、入手可能なあらゆる音源、記事、証言を徹底検証した、あたかも歴史学者による「史実」の発掘のようである。ビートルズの活動と作品は、もう「歴史書」レベルになっているのだと思った。当時は「暗い」「退屈」と見えた四人の会話シーンなども全く別の見方もあるのだとわかった。
本のカバーは「ルーフトップ・コンサート」の写真である。周辺ビルの屋上に上がってきた観客も写されており、当時のゲリラ的なライブの雰囲気がわかる。カバー下の表紙写真の右側のビルを見ると、映画でも登場するが、英国紳士然とした老人が、非常用階段をエッチラオッチラ昇ってきたところが写されているところが、当時の雰囲気満載で嬉しい。再編集される新『Let It Be』にもこの老英国紳士は登場することを期待したい。

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紙の本

紙の本ゲルマニア

2016/01/31 22:40

新しい「警察小説」シリーズ登場!

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最近活況を呈しているドイツの「警察小説」Kriminal Romanにまた新しいシリーズが登場した。ハラルド・ギルバースの「ゲルマニア」。訳はこのジャンルの大家である酒寄進一氏。時代設定は1944年5月から6月、ベルリン空襲が激しさを増し、6月には連合軍のノルマンジー上陸作戦があり、いよいよ第三帝国の崩壊が迫ってきた時期。空襲警報・灯火管制下でのベルリン市民の生活とともに、このような危機的状況の中でも冷徹に機能するナチス権力中枢機構が描かれる。この中で、ゲッベルスの登場や「生命の泉」計画のように、実在の人物や歴史的事実などが背景的に紹介される工夫がされている。
主人公は、ユダヤ人で元刑事のオッペンハイマー。ドイツ警察小説では、例えばネレ・ノイハウスのピアとフォン・ボーデンシュタイン、フォルカー・クッチャーのチャーリーとゲレオン・ラートのように、女性の相棒がいるのだが、本編では、刑事ではなく、医師のヒルデという組み合わせ。犯罪者心理を分析し、オッペンハイマーの相棒の役割を十分には果たしている。
驚いたのは、実在の人物である殺人課の課長で「仏陀」ことエルンスト・ゲナート警視の名前が、ボーデンシュタインがユダヤ人を理由に警察を追われる前の上司として登場すること。ということは、オッペンハイマーとラートは、同じ殺人課で同僚だった可能性があるということに!? ラートは、世界大恐慌の1929年からナチス権力掌握、ベルリン・オリンピックから再軍備の1936年までを時代設定にしている。そしてこのゲルマニアは、1944年と第二世界大戦を時代設定にしており、二つの小説の奇妙な繋がりを感じさせる。
猟奇殺人事件の捜索を縦糸に、ユダヤ人でありながら、その手腕を買われ生死を賭けた極秘ミッションに就くオッペンハイマーとナチSS大尉との奇妙な関係、そして反ナチ国防諜報部とヒルデの支援を受けて妻リズとの国外脱出を横糸にストーリーが展開するが、最後はややあっさりしている感も…。ただ、読了後訳者解説をよんだところ、続編Odins Soehne「オーディンの息子」が9月に出版されている。続訳を期待したい。

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大河群像劇ベルリン三部作完結編!ドイツの過去を背負うヘレとドイツの未来を担うエンネの新たな家族の誕生

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下巻はソ連統治下、次第にかつての日常が戻りつつある光景で始まる。「かつての日常」といっても、悲惨な生活であることに変わりはないが、エンネにとっては久しぶりの穏やかな春に見える。そしてエンネは、12年間のゲープハルト一家の真実を知るようになる。ハンスの遺品から知ったおじさんの最後、また、同じ収容所の生存者から聞いた母ユッタの最後も知る。強制収容所での父の拷問、また、アウシュビッツを解放したソ連兵士のユダヤ人虐殺といった、およそ12歳の子供には聞かせたくないようなこともエンネは知り、受け入れていく。
下巻では、父親ヘレがブーヘンヴァルト強制収容場から戻ってくる。初めて見るヘレとは、親子でありながら、12年間の空白があり、ぎこちない。ヘレはナチスに抵抗し、死んでいった人たちの代弁者のように、そしてドイツ人の罪を裁く「裁判官」のように、ドイツの過去、そして現実に容赦のない批判をする。まるで、この後西ドイツの「ドイツ第二の罪」「過去の克服」論争を先取りするかのような内容である。ヘレにとっては、今のドイツにはこちら側の者とあちら側の者の二種類しかいない、いくら恐怖で支配されたとはいえ、声を上げず、あちら側に与した者は絶対に許せないのである。弟ハインツ、妹マルタも理由はどうあれ、「あちら側」であり、ゲープハルト家でも家族の分断は修復されない。上巻で仲たがいしたままであった、かつての親友フリッツとも再会する。彼も戦争で辛苦を味わい、体制に疑問を持ったというが、ヘレには受け入れられなかった。エンネは疎開していた親友グードルンと再会するが、彼女は「あちら側」、父ヘレを理解しつつあったエンネはその言動に反発してしまう。グールドンは生理があって大人になったというが、自分はまだだというエンネであったが、精神的にははるかに大人になっている。下巻ではヘレとエンネの親子が主人公なのである。
いい話もある。これまでも必ずあったが、第三部でもロマンスがある。瓦礫の中でのソ連軍演奏会に、ヘレ・ミーツェ・エンネの三人で出かける。写真家になりたかったミーツェは、演奏会の聴衆の写真を撮ったら、その題は「はじめての春」にする、という。「春」には、この小説のライトモティーフ「希望」「未来」が込められている。そしてヘレが新しい一歩を踏み出すかのように、ミーツェとの間に愛情が芽生えてくる。エンネ自身といえば、ハインツの逃亡を助け、戦災孤児グループ「カッコーの子」メンバーとなったディーターとの関係は発展しなかった。しかしそこのメンバーの一人がハインツに好意を寄せるようになる。ちなみに、「カッコーの子」は、深緑野分著「ベルリンは晴れているか」に登場したグループを思い出させる。
頑ななヘレを理解し、希望と未来に導くことができるのは、やはりハイナーであった。彼はソ連に亡命し、スターリンの大粛清を生き延びて帰国する。スターリン独裁を目のあたりにし、生き延びるために、体制に順応したのだ。ヘレが批判するナチスにすり寄った大多数のドイツ人と同様である。しかしさすがにヘレはそれを批判することはできないし、理解もするようになり、変化していく。
ヘレは、乏しい材料で凧をつくり、住宅の屋根からベルリンの空にエンネと二人であげる。凧は希望であり未来である。ようやく二人は本当の親子になったのだ。しかし、ゲープハルト一家の分断は修復されることはなく、それを受け入れた。大河群像劇ベルリン三部作は、ドイツの過去を背負うヘレとドイツの未来を担うエンネの新たな家族の誕生で希望と未来がつながることをほのめかして完結する。第三部は一気読み。

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ベルリン三部作の最終章~ゲープハルト一家の家族の分断、また、「希望」「未来」は?

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ベルリン三部作の最終章。主人公は、第二部で逮捕されたハンスとユッタの娘エンネ。第一部のヘレは、第一世界大戦開戦までのドイツ帝国が世界強国目指そうとする時代、第二部のハンスは挫折した革命後のワイマール共和国の相対的な安定期、と「指導者国家」下の独裁時代前の間奏曲のような穏やかな時期を経験している。しかしエンネはヒトラー内閣成立の年に生まれたので、まるまるナチ体制で育ったことになる。人物設定上、二人の兄は、いろいろな考えを持つ人・思想に接する機会はあったが、エンネにとってはナチズムが全てであったという大きな違いがある。
エンネは分断された家族の秘密は知らないまま、祖父母を親として育てられる。しかし敗戦時の混乱で、次第に過去の秘密を知るようになっていく。また、これまで正しいと信じていたナチ世界観教育が誤ったものであること、また、悲惨な戦争の現実を目の当たりにしていく。四半世紀に及ぶゲープハルト家の歴史、そしてドイツの歴史という膨大な情報をエンネは一気に受け入れ、そして理解しなければならない、しかも敗戦前後の混乱の時期に。このような過酷な経験をし、しかも、この大河群像小説のライトモティーフ「希望」「未来」を見出さなければならないというのは、12歳の小娘エンネにとっては過酷である。
第一部は革命前夜の混乱したベルリン、第2部はナチス政権成立前の不穏なベルリン、という設定であったが、第三部は1945年2月からドイツ敗戦、米ソ占領の8月までの物語。情け容赦ない連合軍のベルリン大空襲と防空壕の光景で始まる(地下防空壕への階段の数が「十三」なのは、著者の意図であろうか)。上巻はベルリン大空襲と防空壕の悲惨な状況が中心であり、後半にはソ連赤軍のベルリン侵攻と陥落、ソ連占領の様子が描かれる。
防空壕の中の情景と避難解除時の戦時下生活が交互に描写される。登場人物リストを見ると、・・・おばさん、と女性が多い。男は大人も子供も全て東部戦線かベルリン首都防衛に駆り出されているので、男はいないのである。防空壕の中で、また、集合住宅の住居の中で、第三帝国の政治・経済・社会が皮肉をこめて平気で口にだして批判される(帝国石鹸配給券)。地下防空壕に受け入れた東部地域難民のソ連軍の話など、著者はナチス体制の総括は、この極限的な状況にふさわしいと考えているようだ。ここでは、「希望」と「未来」は早く戦争が終わってほしい、という一点に集約されている。著者は丹念に生存者・経験者に話を聞いたのだろう、とにかく防空壕内部・空襲警報解除後の街の荒廃と被害の描写はリアルである。また、ソ連軍兵士による婦女暴行の話はエンネにはあまりにも酷な現実である。
エンネの知らなかった分断した家族について少しずつ知っていく。第二部終わりに逮捕された父ヘレは強制収容所にいるが生死はわからない、母ユッタは(病気で)死んだ、そしてハンスおじさんも死んだ・・・。マルタは、空襲で焼け出され助けを求めてゲープハルト家に来るが、拒絶され、祖父母に絶縁されたおばの存在を知る。
一方「希望」「未来」としては、ナチ体制にからめとられ兵士となったムルケルことハインツおじさんは生きていることがわかるが、脱走兵として戻ってきたのである。また、ハンスの恋人ミーツェは抵抗組織U-ボートのメンバーとしてハンスの遺志を継いで抵抗運動をしている。本書カバーは防空壕の中の光景であるが、おさげの少女がエンネであろう。金髪の彼女はいわゆる「アーリア人」。一方大好きなミーツェおばさんは2分の一ユダヤ人。学校で習ったことと折り合いを付けられず、混乱するエンネ。これも悲劇である。

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「壁を背にして」~背水の陣のゲープハルト一家の行く末

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下巻はヒトラー内閣成立と松明行列という不穏な雰囲気で始まり、国会議事堂炎上により怒涛の展開となる。合法的に生まれたナチ政権に敵対するものは、非合法の烙印を押され、弾圧の対象になる。ゲープハルト一家も巻き込まれ、ハンスの身にも危険が迫る。第二部のタイトル「壁を背にして」Mit dem Ruecken zur Wandのとおり、背水の陣の展開となる。第一部では、ヘレは革命軍の伝令・武器弾薬運搬人となってベルリン市街地を駆け回るが、第二部では、ハンスは、兄ヘレと元赤い水兵で革命の闘士ハイナーの脱走とモスクワ亡命の手助けをする。この場面はハリウッド・スパイ映画さながらの緊迫した描写である。
第一部での言葉「たとえどんなことがあっても、闘っているのが自分一人じゃないことを示し続けるんだ。それがなければ、理想のためにがんばっても本当に意味がない。」を思い出したか、本作のライトモティーフになる、ヘレを革命へと誘った赤い水兵ハイナーの言葉「つまり未来に賭けるというんだな?」はハンスに受けつがれ、ミーチャと二人でナチにささやかながらも反撃の狼煙を上げ、これからも二人で抵抗することを誓う。わずか三人の「白バラ抵抗運動」を彷彿とさせる。そのメンバーの一人の名前はハンスであったのは、偶然か著者の仕掛けか。また、ヒトラーを攻撃する匿名の葉書を公共の建物に置いて立ち去る夫婦に抵抗運動もあった:『ベルリンに一人死す』(ハンス・ファラダ 著みすず書房)。絶望から希望へ。第三部に希望と未来はどのように引き継がれていくのだろうか。
第一部にもあったが、本書には著者のちょっとした「仕掛け」がある。よく読んで理解しないと、それとは認識できないが、なかなか含蓄のある「仕掛け」である。
ミーチャとのデートで見た映画がエイゼンシュテイン監督『戦艦ポチョムキン』。回想?映画は反乱軍の勝利で終わるが、実際にはその後反乱兵は逮捕されたという。著者はドイツ革命の一時の処理と挫折を暗示するものとして二人に見せたかったのかもしれない。
次にAEGで突撃隊に因縁をつけられたハンスに唯一味方となってくれたのが、ヴィリー・ヴェストホフという社会主義労働者党員。彼は1933年1月ヒトラー内閣成立を受けて、臆病で、意気地がなく、ろくでなしをこうもあっさりと強い男に変えてしまうドイツを見限り外国に逃亡する。この「ドイツ社会主義労働者党」Sozialistische Arbeiterpartei, SAは当時のいわゆる「破片政党」の一つだが、かつては社民党発足時の名称でもあった。また、この党で活動したのが、後に西ドイツ首相となる社民党のヴィリー・ブラントであった。実在したヴィリーはナチスの弾圧を受けドイツを脱出しスウェーデンで反ナチ活動をすることになるが、こちらのヴィリーはさっさと逃げてしまった。社民党に対する著者の皮肉なのだろうか。
前作でもそうだったが、本書でも、例えば突撃隊によるユダヤ人への罵詈雑言、また、テロの場面の表現など、映画だとR15指定とか、当時の社会情勢を理解るために、表現は変更していないとか、のコメントがあるだろうが、本書(たぶん原作にも)にはない。語り口のわかりやすさから少年少女向けではないと思うが、例えば、労働者の一夜を過ごした尻の大きい金髪娘のことを「そりゃもう、歩くパンケーキ」で、「機関車の緩衝器が二つ付いていたみたいなもの」のような想像力を掻き立てる下品で猥雑な発言をそのまま載せている。本当に少年少女向けなの、と思うが、本書は「銀の石筆賞」Zilveren Griffelという最も権威あるとされるオランダ国内の子どもの本の賞を受賞しているので、やはり少年少女向けなのだ。

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ゲープハルト一家の家族の分断

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前作で革命の挫折を目の当たりにして、ハンスの父親が、希望は明日や明後日じゃない、ずっと先につないでいる、自分たちが始めたことは、数週間や数か月で片づくものではない、何年も、いや、何十年もかかるかもしれない、未来に賭ける、と決意を話すが、歴史を知っている我々には、そのような「希望」はなかったことを知っている。皮肉なことに「よりよき未来」を約束し、希望を与えるナチが急速に勢力を拡大していた。
「ベルリン三部作」第二部は、1932年7月ナチスが第一党となった国会選挙から1933年1月ヒトラー政権誕生、そして独裁体制確立までの期間を描く。主人公は、第一部主人公ヘレにおむつを交換してもらったり、あやされたりされていた「ハンス坊や」。栄養失調や肺炎の危機にさらされながらも15歳の体操が得意な少年に成長し、当時ドイツの大企業の一つAEGで働くようになる。
第一部から15年後のドイツ、その間は激動の連続であった。ヴェルサイユ条約締結と巨額の賠償金負担、ハイパーインフレーション、シュトレーゼマン外交による平和実現と国際連盟加盟、政治的には社民党を中心とするワイマール連合による「相対的安定期」、「世界都市」ベルリンの繁栄と退廃…。そして1929年世界大恐慌と破局Zusammenbruchと混沌に向かう政治・経済・社会という周知のドイツ史は描かれない。相変わらず困窮を極めるゲープハルト一家、ヘレは結婚するもAEGを解雇され失業の身、政治的には妻ユッタとともに共産党を支持、一方当時の憧れの事務職となったマルタは、貧困から抜け出したいと上昇志向が強く、かつての子供時代の雰囲気のままやや蓮っ葉な性格で生真面目なハンスとはそりが合わない、また、一人家族ハインツ(ムルケル)も増え、ハンスから「坊や」は代替わり。こういった家族の変化と突撃隊が住むようになった集合住宅の変化に15年の変化は投影されている。
子供の目で見て、感覚で感じた激動の政治社会の物語であるが、前作と比べると、ハンスがヘレより大人である。家のために働きに出かけ、現実社会と否応なく向かい合っているし、周りには、父兄など革命・政治経験豊富な大人がいるから当然であろう。ハンスは、悩みながらも社会に足を踏み入れていく。前作のヘレの初恋は、本作でその続きはなく、短いエピソードで終わったが、ハンスのミーツェとの初恋は、出会った初日から絶好調で展開する。彼女がユダヤ出自であると聞けば、読者はその運命を心配せざるを得ない。しかし、未来を知らない彼女は、ハンスと手をたずさえ、時にはハンスを励ましながら、ともに困難な時代を生きていこうとする。第二部はこの二人が主人公である。
第二部では、前作の市街戦に代わり、突撃隊と共産党・社民党との街頭テロルの応酬が殺伐とした時代の背景。ハンスの周りの人の中にも、ナチスに飲み込まれていく。同じ集合住宅の住人、いい年になって仕事にもつかず、ぶらぶらしていた「ちびのルツ」が、突撃隊に入隊、そして「制服の魔力」により急に威張り散らすようになる。極めつけは前作で、ヘレの同級生でクラスから尊敬されていた、歯に衣を着せぬ体制批判をするフレヒジヒ先生を敬愛していたギュンター・ブレームがなんと突撃隊に入隊、しかもマルタの恋人となって、婚約・結婚、「赤い家族」ゲープハルト家の一員となってしまうのである。赤が黒・褐色に、黒・褐色が赤に、と鞍替えするのは当時よくあった話。しかし、それが家族の中に入ってくると、亀裂が生まれ、当時の社会と同様「分断」が始まる。「ドイツを分断する裂け目が、うちの家族にも入ったってことね。しかも、裂け目は日毎に深くなってる」

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紙の本

紙の本ベルリン1919 赤い水兵 下

2020/10/28 10:42

「希望」と「未来」が親子三世代で受け継がれていく大河群像劇

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下巻は1918年クリスマス明けから1919年ドイツ革命の挫折までの期間を描く。
ドイツの警察小説・ミステリーには、必ずと言っていいほど舞台となる都市の地図が付いている。この三部作ではベルリン市街地が重要な舞台となるので、同じようにベルリンの地図がつけられているが、当時が目に浮かぶような文章を読みながら、革命の市街戦場となった施設・広場・街路を地図で追いかけると、ちょっとした臨場感を味わえる(帯推薦コメント『ベルリンは晴れているか』著者深緑野分氏も「描写が本当に素晴らしい」)。この点でも「ロス」を埋め合わせるためだけのものではなく、大人が読んでも十分楽しめる。
ヘレは子供ではありながら、「小さな伝令」となって革命軍に情報・武器弾薬の提供という危険な任務をこなしていき、ベルリンの街路・公園を走り回り、次第に革命の意義に理解を示すようになる。市街戦の真っただ中にいるわけではないので、市街戦の様子は遠くからみるものとなるが、革命指導者に逃亡支援の場面では、ヘレも重要な役割を果たし、緊迫感のある情景が展開する。ここから、すでに革命は失敗に終わったことがわかってくる。
3か月前の勝利から革命の頓挫までの短い期間は、いわば小休止のように、クリスマス休暇などの労働者階級の日常生活が描かれる。集合住宅の住民の間には、現体制か革命かで意見の相違はうまれつつあるが、第二部のように先鋭化はしていない。
第一部は、多くの、そして小さな別れの連続の物語でもある。革命に参加したトルーデ、ネレといった若者、ヘレが親しくなった赤い水兵の何人かは死ぬ。また、ヘレの通う学校では、生徒たちの尊敬を集めていたフレヒジヒ先生が教師という職責と体制への忠誠に折り合いが付けられず、学校を去る。ヘレの初恋相手アンニの一家が集合住宅を去っていく。
革命の頓挫、親しい人の喪失と別離はあるものの、ヘレの父親は希望を捨てていない。「俺が希望をつないでいるのは明日や明後日じゃない。ずっと先だよ。おれたちが始めたことは、大変なことなんだ。数週間や数か月で片づくものじゃない。何年も、いや、何十年もかかるかもしれない。」「夢の実現をおれたちが見られなくても、ヘレが体験できるかもしれない。あるいはマルタ。あるいはハンス坊や。ハンス坊やもだめだったら、その子供たち百年なんてたいしたことじゃないだろう。おれたちは明日のことを考えるんだ。」ヘレを市街戦へと誘った赤い水兵ハイナーは、「つまり未来に賭けるというんだな?」と答える。この「希望」と「未来」は第二部以降の物語展開のライトモティーフとなり、主要な登場人物を支える言葉となってくる。この言葉と決意は、ヘレ、そしてハンス坊やに受け継がれ、第二部へと続くだろう。

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紙の本抵抗都市

2020/08/18 13:11

警察+歴史改編小説

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物語の舞台は、第二次世界大戦後の荒廃した東京ではなく、日露戦争終結後11年後大正5年の東京。したがって、空襲を受けてもいないし、また、関東大震災もなかった頃のモダン都市、世界強国に仲間入りせんとする日本の帝都東京を舞台にした警察小説かと思ったら、表紙帯には「日露戦争に負けた日本」は、ロシア帝国に外交権と軍事権をロシアに委譲し統治されているといういわゆる歴史改編小説でもある。これまで読んだ歴史改編小説は、ナチス第三帝国が第二次世界大戦に勝利し、世界に君臨するという設定のなかで、極東では同じ枢軸国の日本が米国に勝利し、太平洋を支配している、というエピソード程度で触れられる程度。その中でもフィリップ・K・ディック 著「高い城の男」(早川書房)は、日本を中心に描いた数少ない歴史改編小説であったが、本書はまさに日本が舞台の歴史改編小説であり、しかも史実では勝っていた戦争に敗れたという設定。欧州の第一次世界大戦、また、ロシア革命を予感させるロシア国内(明石大佐が登場する)の情勢も視野に入れた意欲的な改編である。
作者の佐々木譲氏の著作は初めて読むが、その構成力と描写力に驚嘆した。ロシア統治機構の仕組み、日本政府との関係の説明、ロシア風に改名された東京の地名・通り名の設定(当然ロシアの文豪の名前)などいかにも敗戦国を感じさせる現実味を持つ。事件の舞台は、ほとんどが都心部、神保町、神田という狭いエリアであるが、その街並みの情景描写やロシア施設の配置等まるで作者が当時にタイムスリップして実際に歩いて見てきたような、緻密な情景描写である。独警察小説オッペンハイマー・シリーズは、当時の敗戦後の荒廃したベルリンが目に浮かぶような筆致力が魅力の一つ。そのシリーズも本書も読者の便宜を考えて地図が付いているが、それを見ながら読み進めなければならない物語なのである。
隅田川で発見された身元不明の変死体が事件の発端。警視庁刑事課の特務巡査・新堂と所轄の西神田署巡査部長・多和田が「相棒」となって捜査を開始。ところが警視総監直属の高等警察とロシア統監府保安課という日本国内における反ロシア活動の情報収集と摘発を任務とする上位の権力機構から別々に介入を受けるところは、この手の物語の必須のプロット。
二人は、地道に「地取り」を重ね、二つの権力機構と折り合いをつけながら、ありふれた事件の背後に、現在の統治体制の根幹を揺るがしかねない、第一次大戦への日本軍追加派兵を巡る親露派と反露派の対立など政治的な陰謀が潜んでいることを突き止める。書名「抵抗都市」はピンとこないが、英語の題名Resistance Cityの意味することも解ってくる。
スマホ、ネット検索、GPSなどのIT技術を駆使する捜査手法ではなく、移動手段は市電、当時のモダン女性の花型職業であった電話交換手を使った当時としては最先端の電話による情報連絡なども物語の説得力を増す仕掛けである。多和田の娘の身の危険を救うために奔走する新堂と二人の間にロマンスの展開が…と期待させるが、わずか2日間の怒涛の捜査の日々。展開する余裕もないし、硬派的な物語全体の構成からは期待はできないが。
表紙帯にあるように、知った事実が日本の利益にならなくとも犯人を逮捕するかという多和田の質問に、新堂は「当然です、わたしは警察官です。」と答える。歴史改編の構図は明らかに第二次大戦後一貫して親米路線を続ける戦後日本を過去に引き写したものであり、「今の日本への問題意識を示すために、この舞台を選んだ」という作者の思いは、主人公の警察官としての自負、いや日本人としての自負の発露の答えに込められている。

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一大叙事詩『断腸亭』を読む視点

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永井荷風の小説のファンではないが、1917年から59年まで42年間書き綴られた日記『断腸亭日乗』に関する本はよく読んでいる。「関する」本というのは、全集に収められた42年分を始めから最後まで通読することは、その量、また、擬古典的な文章を読破する能力・気力もないので、あるテーマにしたがって、「日乗」を縦横無尽に、時空を超えて渉猟するような本を読むこととなる。
例えば、川本三郎「荷風と東京」(1996年、都市出版)は、日乗をモダン都市東京から廃墟の東京までをフラヌール(遊歩者)の視点で読み解き、38のテーマ別のエッセーにまとめたもの。また、草森紳一「荷風の永代橋」(2004年、青土社)は、永代橋を荷風の行動のアンカーと位置付けて日乗を読み解いていくもの。日乗全集よりは少ないとはいえ、いずれも500頁を超える大著であり、こちらも読むのは大変であったが。
これら2冊は、時間軸では最初から最後までの「大河ドラマ」仕立てであるが、太平洋戦争が始まる前の昭和15年から「暁四時わが偏奇館焼亡す」る昭和20年3月までの戦時下の東京を描き尽くした日乗についてのエッセイである。「ヨーロッパ戦線に思いを馳せ」、こよなく愛したフランスのことを気にし、同盟国ナチス・ドイツが敗れてほしいと口にするなど、「非国民」ぶりを(死後公開されることを知りながら)堂々と書いている。日米開戦前と初期は、まだ余裕があったのか、「昭和十五年の援助交際」「素人女性の不可解さ」のように世相観察もしている。また、「昭和二十年発刊の全集を契約」するなど、さすが元銀行員、戦後の経済的な備えも怠らない。しかし戦争が始まると、統制経済・国威発揚のための思想的な総動員に対し辟易とし、批判・愚痴が多くなるが、次第に「戦争への関心がうすくなる荷風」。それでも創作欲は衰えず、「浮沈」「踊り子」「訪問者」などの短編も書いている。「欲」といえば、「色欲」も齢60歳を超えてもお盛んで、「巫山之夢」の日には、日乗に秘密の暗号として印をつけて記録していたという。毎週のように付けていたということは、「荷風は元気である」。
戦時下とはことなるが、コロナ感染禍のため日常生活が制約を受けている現在に荷風がいたなら、日乗にはどのような記載をかいただろうか興味津々である。
著者は、原本を通読したときに、とにかく知らない言葉が多いことに辟易とし、辞書片手に単語帳を整理しながら読み進めたと言う。和漢の書に通じていた荷風なので、中国古典の言葉、いわゆる故事に由来する漢語(四字熟語)を自由に操ることは朝飯前であっただろう。ネット社会であっても、そもそも読めないと検索できないし、また、漢字検索するにしても部首・画数等検索と面倒であった。自分も著者と同じように、辞書で調べ知らない言葉を整理しながら、読み進めた。言葉の意味と由来を知ることは、日乗の新しい情報を得るということだけでなく、少しは「頭がよくなった」気がする。
整理した言葉の中から、荷風が老いても愛してやまなかった男女の交わり関連。日本語では猥雑な印象を受ける言葉も漢語で書くと、何かしら立派に聞こえる効用があり、日常生活でも使えるか?
「私窩子」【しかし】:淫売婦(いんばいふ)、私娼(ししよう)。
「折花攀柳」【せっかはんりゅう】:遊女の働く花柳街で、女たちと遊ぶこと。
「巫山之夢」【ふざんのゆめ】:男女の情交
また、荷風が嫌った「戦争」には、「干戈倥偬」【かんかこうそう】、戦争に明け暮れ、休む暇が無いことがあるが、本書後半の戦時下の独居老人にとっては食糧不足・統制という窮屈な生活を大文学者らしく批判している。

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紙の本アメリカの憲法訴訟手続

2020/08/17 21:28

憲法の司法権の定義を司法審査の手続の観点から理解すべきである

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日本の違憲立法審査のモデルとなった米国司法審査に関する研究は多い。しかし、それらは三権分立の中での司法審査の在り方、役割論などの動態分析、また、審査基準論がテーマの中心である。日米の司法審査は、付随的違憲審査、具体的な事件・争訟の解決の中で行使されるものであり、手続的には訴訟法の問題である。そして日米とも、「憲法訴訟手続法」なる特別の手続法があるわけではなく、通常の訴訟手続の中で、その理論が形成され、判例として積み重なってきたものである。
日本には戸松秀典「憲法訴訟」(有斐閣、2008)や高橋和之「体系憲法訴訟」(岩波書店、2017)のような憲法訴訟手続を研究した著作がある。米国については、個々の論点の論文はあるものの、体系的な著作はなかった。本書は初めての「体系的」米国憲法訴訟手続論である。
日本では、裁判所法3条1項の「法律上の争訟」の解釈から、憲法の「司法権」(第67条)が定義されるという倒錯した理論状況にある。米国の「具体的争訟」「当事者適格」の議論は「司法権」の内容を、憲法から理解するうえで参考になる。「司法判断適合性」の理論が、議会・大統領の政治部門を侵害しないように司法権の役割を限界づける判例法として生成・発展してきたところは、わが国でも参考になる。
「口頭弁論」は興味深い内容であった。日本の最高裁で口頭弁論があると原審の判断が変更されるので、注目事件の報道で扱われる程度。裁判は公開の法廷で行われるので、どのような論点がされたか、少なくとも新聞/TV等でそれらが紹介されることはない。しかし米国では、口頭弁論が録音され、判決文とともにHP上に公開され、誰でも聞くことができると知って驚いた。TV中継を認める法案の審議もされているという。
ハリウッド映画には、「法廷」場面のある映画は多いが、最高裁の口頭弁論の場面が登場する映画もいくつかある。最近では2015年の『ブリッジ・オブ・スパイ』と『黄金のアデーレ 名画の帰還』がある。前者は、ソ連のスパイの弁護を引き受けた主人公が、憲法の令状主義は平等に適用されるとし、違法収集証拠排除を主張して争ったAbel v. United States (1960)事件、後者ではナチに略奪されたクリムトの「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 」の返還を、遺族が墺政府に返還を求めたRepublic of Austria v. Altmann (2004)事件の口頭弁論が映像化されている。映画のクライマックスに口頭弁論を持ってきたのは、「ハスラー」出版者・編集者のラリー・フリントの法廷闘争を描いた1996年『ラリー・フリント』であろう。1987年12月開廷のHustler Magazine, Inc. v. Falwell (1988)事件の口頭弁論のシーン。エドワード・ノートン演ずる弁護士アイザックマンが颯爽と弁論する。判決は判事全員一致で「ハスラー」誌勝訴。映像と実際の口頭弁論の録音を比較すると、実際には30分あるものを短くしているので、一部端折っているし、質問する判事の順番も違っているが、雰囲気はわかる。冒頭アイザックマンは、この裁判ではこの国の自由な言論が問題なのだ、と単刀直入に論点を提起し弁論を始める。法廷意見を書いたレンキスト長官はあまり質問はせず、陪席判事が弁論を遮って矢継ぎ早に質問を浴びせるが、これに対し答えていく、というところは本書にある通り。映画よりも音声のほうが緊張感が伝わってくる。映画では、オコナーの質問場面はなかったが、実際にはオコナー、そしてスカリア、スティーブンスの3人がよく質問していた。重鎮ブレナン、マーシャルはほんの少しだけであった。こういう応答内容を見ると、口頭弁論が判決の内容を左右するということが理解できる。

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ミステリー・推理小説に求められる「再現力」

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ヴァイオリンの名職人にして名探偵でもあるジャンニ・シリーズの3作目。5年ぶりの新作。日本の愛読者のために書き下ろしたオリジナル作品とのこと。
ヴァイオリンを扱うミステリーや推理小説は、主役でもあるヴァイオリンが名器でなければならない。そうなると、「ストラディヴァリウス」。しかし現存するストラディヴァリウスは約520挺もあり、別の付加価値が必要となる。第1作は幻の『メシアの姉妹』、第2作はパガニーニ愛用の名器『大砲』た。しかしこのプロトにも数的な限界がある。
今回はストラディヴァリウスではなくノルウェー民族楽器でヴァイオリンに似た楽器ハルダンゲル・フィドルが主人公。前作で知り合い恋人となったマルゲリータと第1作からの相棒で息子のような友人の刑事アントニオの3人の「チーム・ジャンニ」が、ノルウェーにまで遠征しての謎解きツァー(とアントニオとノルウェ-女性のロマンス)である。ただ、歴史的な価値があるものではないが、『ペール・ギュント』を想起させる悲しい秘話が隠されていた。
エピソード的にヴァイオリンの名器、グァルネリ・デル・ジェズが登場する。現存数が少なく取引額はストラディヴァリウス以上になることもあり、しかもノルウェー初の国際的スターで『ペール・ギュント』のモデルとされるヴァイオリニスト・作曲家オーレ・ブルOle Bull(1810-1880)が使っていた、という由緒ある名器。チーム・ジャンニは本筋の事件の流れの中で、この名器の盗難事件に巻き込まれるが、こちらも見事に解決。民族楽器はジャンニの専門外、ジャンニとヴァイオリンはセットなのである。今後のシリーズを予感させるプロトではなかろうか?
ミステリー・推理小説の面白さには、ストーリーは重要であるが、事件の書割である「情景の描写」というのも重要な要素である。ノルウェーに行ったことがない読者のために、街・自然・天候などを現前に再現できないと、物語の現実感がなくなってしまう。筆者がノルウェーを舞台設定にしたのは、行ったことがなかったからという理由かもしれないが、冬の破天荒やフィヨルドの光景などその再現力・筆致力には驚くばかりである(もちろん訳のすばらしさもある)。また、アントニオは高い物価への不満を口にするが、おそらく著者の取材の実体験からきているのだろう。
ヴァイオリンのミステリーは、名器と来歴という2つの条件を満たすヴァイオリンでなければならないので、作品は少ないように思う。蔵書の2冊の紹介。
ジョン・ハーシー著『アントニエッタ、愛の響き』(1993)55歳で恋に落ちたストラディヴァリウスが恋人のためにつくり上げ、《アントニエッタ》と名づけられた畢生の名器 (もちろん架空)を巡って繰り広げられる物語。実在の大音楽家も登場し、《アントニエッタ》が彼らの人生を変えていく300年にわたる愉快で感動的な愛と冒険の物語。
このプロトは、映画『レッド・ヴァイオリン』(1998)と似ている。出産で妻子を失った悲しみから、ある職人が死んだ妻の血を調合したニスで仕上げた伝説の名器“レッド・ヴァイオリン”をめぐり、17世紀イタリアからオーストリア、イギリス、文化革命時代の中国、そして現代のカナダまで、時空を超えたヴァイオリンと人々の数奇な運命がミステリアスに描かれる。
クリスティアン・ミュラー著『謎のヴァイオリン』(1999)主人公はもと麻薬犯罪捜査官。退職後に身につけたヴァイオリン鑑定の知識と技術で世に認められた変わった経歴の人物。元はドイツの作曲家で名ヴァイオリン奏者であったルイ・シュポア(1784-1859)のグァルネリを巡って繰り広げるハードボイルド風のミステリー小説。

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紙の本憲法で読むアメリカ現代史

2018/03/27 14:05

次作は「憲法で読むアメリカ映画史」お願いします

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米国憲法政治を俯瞰する阿川尚之氏の著作が現在にまで到達した。前著「憲法で読むアメリカ史」の後を継いで、レーガンからオバマまでの時代を、大統領・議会、議会の上院と下院、連邦と州という各権力が、権力闘争として訴訟に訴えるという手法を選択し、憲法を通して問題解決を図り、そこで最高裁の司法審査が大きな役割を果たしていることが記述される。一つの例は、2000年大統領選挙で、結果を見れば最高裁がブッシュ大統領を選出したBush v. Goreである。つまり暴力ではなく、法の支配による問題解決が米国政治の発展とダイナミズムを形成してきたのである。
前作Reviewで最高裁の「国民統合」機能について述べたが、この時期はむしろ逆に「国民の分断」が目立つ。最高裁判事の政治的任命により、保守派・進歩派・中間派に分断され、国論を二分するような問題では、拮抗した評決結果になる現状が描かれる。そのきっかけは、妊娠中絶を憲法上の権利として認めたRoe v. Wade (1973)事件。この判例を巡るプロライフ派とプロチョイス派の争いを中心軸に、これに政教分離・銃規制等が絡む構図。事件毎に判決理由がモザイクのように変化し統一的な見解が分かりにくくなっている、という評価もある。トランプ時代になって最高裁は「国民統合」に向けてどのように舵取りするだろうか。
阿川氏は「憲法改正とは何か-アメリカ改憲史から考える」(新潮選書2016)を上梓されているので、「米国憲法政治史三部作」が完結したといってもいいだろう。ただ、読みやすく、また、手際よく米国憲法政治をまとめたシリーズが終わってしまうのは残念である。そこで米国研究の泰斗である阿川氏にお願いしたい次なる「憲法で読む」シリーズがある。それは「映画」である。
「訴訟社会」米国なので、いわゆる「法廷」映画は多い。その中で、最高裁がフィクション・ノンフィクションを含め登場するものもある。例えば、ジョン・グリシャムの同名原作小説をもとにしたリーガル・サスペンス『ペリカン文書』。最近では2015年の『ブリッジ・オブ・スパイ』(Bridge of Spies)と『黄金のアデーレ 名画の帰還』(Woman in Gold)がある。前者では、ソ連のスパイの弁護を引き受けた主人公が、憲法の令状主義は人種に関係なく平等に適用されるとしたYick Wo v. Hopkins (1886)により違法収集証拠排除を主張して最高裁まで争ったAbel v. United States (1960)が、後者ではナチに略奪されたクリムトが描いた親族の肖像画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 」の返還を墺政府に返還を求めたRepublic of Austria v. Altmann (2004)で外国主権免責法の遡及適用を審議する最高裁判所での口頭弁論が映像化される。ハスラー出版者・編集者のラリー・フリントの台頭と法廷闘争を描いた1996年『ラリー・フリント』(The People vs. Larry Flynt)でもHustler Magazine, Inc. v. Falwell (1988)でエドワード・ノートン演ずる弁護士として颯爽と登場する口頭弁論のシーンが登場する。
近未来のSF映画でもまだ最高裁は健在である。『アイ・アム・レジェンド』(2007I Am Legend)ではガン治療薬の投与を最高裁が認めた、というニュースが冒頭少し流れる。『サロゲート』(2009Surrogates)では、脳波で遠隔操作できるロボット「サロゲート」が普及した近未来社会で、サロゲートを使った契約は有効と最高裁が認めた、というニュースが流れる。
このように映画の世界でも最高裁が自然と登場するところは、国民の間でそれだけその地位と権威が定着しているということであろう。阿川先生、映画+憲法/最高裁の視点で米国市民社会の姿を書いた新刊をお願いします。

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紙の本オーディンの末裔

2018/03/26 23:15

警察小説Kriminalromanではなく警部小説Kommissarroman

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『ゲルマニア』の続編。前作は主人公のユダヤ人元刑事オッペンハイマーが、女性医師ヒルデの支援を受けて妻リズとともに国外脱出しようとするところで終わったので、今回はてっきり終戦を迎えているだろう、と読み始めたが、未だ陥落していないベルリンが舞台であった。ソ連赤軍と国防軍との市街戦が激しくなり、脱出の機を逃したのだろう。ユダヤ人であるオッペンハイマーは身分を偽り、リズと離れ離れになりながら、カオス化したベルリンで息をひそめて生きている様が描かれる。年が変わって1945年初め、ヒトラーの自殺、ナチス・ドイツ無条件降伏まであと少しのようだ。
今回はヒルデが物語の軸となる。ヒルデの前夫は、医者でナチ協力者。戦争負傷兵の治療薬(ナチス・ドイツで開発されたサルファ剤のような化合物による薬)の研究開発過程で人体実験をしていたこと、ソ連侵攻で東部地域の開発拠点を追われ、研究データを秘匿してベルリンに逃げ帰っている。そして、そのヒルデは研究データ争奪戦のなかで前夫殺しの疑いをかけられて捕らえられ、死刑にされそうになる。そこにナチス人種思想につながる源流のような、本作のタイトルである不穏な秘密結社「オーディンの末裔」Odins Soehnが絡んでくる。
今回はオッペンハイマーの相棒?として犯罪組織を仕切る「友人」エデが登場する。彼の交友範囲は広い。オッペンハイマーは、殺人容疑をかけられたヒルデを救うため、前夫を探すことと彼が持っている秘密文書の探索をするのだが、自らの命の危険も冒しながら、決死の行動に出る。最後は人民法廷を舞台とする息詰まる展開となる。
前作はゲッベルスが登場したが、本作でも「ヒトラーの裁判官」人民法廷長官ローラント・フライスラーが登場する。こういう仕掛けが、断末魔で喘ぐベルリンの情景と相俟って、この物語の本物らしさを演出している。といっても彼は法廷でヒルデと対峙し、彼女を罵倒するのではなく、1945年2月のベルリン空襲で死亡したために裁判ができなくなる、という、これも史実に基づくエピソードとしてなのだが。
前作は脱出劇、今回はヒルデの運命がどうなるかで終わるのだが、昨年5月に第三作「Endezeit」が出版され、そして今年9月には第四作「Totenliste」が予定されているようだ。出版社の紹介文では、第三作はタイトルのとおり「最後の時」1945年4月ナチス・ドイツ降伏一か月前のベルリン、第四作「死亡者名簿」は終戦後の年が変わって1946年のベルリンが舞台。戦争が終わってやっと落ち着くかと思われたが、終戦後はナチから占領軍であるソ連に代わっただけ。相棒エデに厄介になりながら、相変わらずオッペンハイマーは事件に巻き込まれる。第三作ではナチスの原爆開発、第四作ではナチ裏切り者の暗殺リストなど東西冷戦に絡むミステリーのようである。
翻訳は「警部小説」Kommissarroman専門家の酒寄進一氏。もう一つのシリーズ、フォルカー・クッチャーの「ゲレオン・ラート」シリーズは、1929年から36年までのベルリンが舞台で、ちょうどギルバースの「オッペンハイマー」シリーズ前のベルリン。全6巻の予定で翻訳は三作まで、原作は『祖国の記録』Die Akte Vaterland(1932)、『三月の投降者』Marzgefallene(1933)、『ルナパーク』Lunapark(1934)で完結。また、現代では、ライプツィヒ警察の警部ヴァルターとウィーンの女性弁護士エヴェリーンとのコンビによる「復讐」Racheシリーズは四季四部作で現在夏「夏を殺す少女」と秋「刺青の殺人者」があり、今年9月には第三作「復讐の冬」Rachewinterが予定されている。酒寄氏にはシリーズ完結に向けて翻訳期待したい。

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