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kapaさんのレビュー一覧

投稿者:kapa

133 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

Why Don't We Do It In The “Rooftop”?

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今年はビートルズ結成50周年、解散70周年記念の年である(ついでにリンゴ・スターが、その詩がいいね、といったベートーヴェンの生誕250年【BTHVN】2020の年)。今年はビートルズがいないパラレルワードの映画《イェスタディ》の公開(かわぐちかいじ氏『僕はビートルズ』2010~2012年のパロディ作品?)NHK-FMでの大河ドラマ風のビートルズ・アルバム紹介Discover Beatlesなど記念イベント目白押し。
ビートルズを知ったのは中学生の時。映画『Let It Be』公開前後の頃。東京から親の転勤で田舎都市に転向してきた同級生の家で初めてビートルズの音楽を聴いた。しかも、田舎ではなかなか入手困難な輸入盤!中でも驚いたのが、録音風景の豪華写真集付きのアルバムLet It Be。同級生の兄の蒐集であったが、中には海賊盤のようなLPもあった。東京ではすごいもんが手に入るのだ、と田吾作は思った次第。LPを借りてオープンリール・テープに録音し、よく聴いたものである。
映画『Let It Be』は映画館で見た。アルバム写真集の光景もあった。前半はポールとジョンが口論したり、まとまりない演奏が断片的にだらだら続いたり、と何で暗い雰囲気の映画なんだ、と退屈であったが、後半のルーフトップ・コンサートとスタジオのライブ演奏映像はよかったな~と満足した記憶がある。昨年1月に解散50年記念プロジェクトとして、残された膨大な映像・録音を使って『Let It Be』を再編集することが発表された。今年公開の予定であったが、コロナ禍で延期されると聞いた。
この本は、この映画とアルバムに使われた1969年1月2日から31日まで、ビートルズ解散を決定づけた22日間のいわゆる幻の「ゲット・バック・セッション」をあらゆる音源、記事、証言を使って再構築した労作である。ジョージがポールと口論するシーン、ジョンの演奏の時にポールがあくびをするシーン、ルーフトップ・ライヴでジョンが「歌詞を忘れた」といってスタッフが演奏中手にもって見せていたシーン、最後にジョンが「オーディションに受かるかな?」とジョークをいうシーン等々読み進めていくと、暗くて退屈な前半も含め、生き生きと記憶が蘇ってきた。また、ライブ演奏をやめ、スタジオ・ミュージシャンとして、数々の名曲や名アルバムを次々と作成し、解散するまでLong and Winding Loadと思っていたが、わずか2年そこそこの短い期間であったのだ。
「労作」と書いたが、私は「ビートルマニア」ではないので、「オタク」的情報には関心はないほうだ。例えば「Girl」のジョンの「ス~」という声は、吐いているか吸っているか、という小ネタ論争レベルであった。本書後半あとがきを読むと、アルバム作成の時系列的に細かなテイク情報がトレースされていることに驚いた。名曲の生まれる貴重なドキュメントであり、海賊版を含め、入手可能なあらゆる音源、記事、証言を徹底検証した、あたかも歴史学者による「史実」の発掘のようである。ビートルズの活動と作品は、もう「歴史書」レベルになっているのだと思った。当時は「暗い」「退屈」と見えた四人の会話シーンなども全く別の見方もあるのだとわかった。
本のカバーは「ルーフトップ・コンサート」の写真である。周辺ビルの屋上に上がってきた観客も写されており、当時のゲリラ的なライブの雰囲気がわかる。カバー下の表紙写真の右側のビルを見ると、映画でも登場するが、英国紳士然とした老人が、非常用階段をエッチラオッチラ昇ってきたところが写されているところが、当時の雰囲気満載で嬉しい。再編集される新『Let It Be』にもこの老英国紳士は登場することを期待したい。

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紙の本

21世紀の地政学

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者倉都康行氏は、この三月惜しまれつつ放送が終了した、国谷裕子キャスターのNHKの報道番組「クローズアップ現代」に常連で登場していたコメンテーターであった。毎年二回、世界経済と金融情勢の分析と見通しを、30分間という短い放送時間の中の、さらに短いコメント枠の中で、国谷キャスターの鋭い切込みに、平明な言葉で的確に、わかりやすいコメントで応えていたように思う。
国谷氏は、シナリオなしに番組を進行させていたそうなので、ゲスト・コメンテーターも大変であっただろうが、知識・経験とも豊富なエコノミスト倉都氏は常連であったことから、国谷氏との信頼関係があったのだろう。
皮肉なことに番組が終了してから、米国大統領選挙、英国EU離脱、南シナ海領有権問題、トルコ・クーデターなど、今後の世界情勢の激変を予感させるような、耳目を集める事件が相次いだ。二人の掛け合いで、これらの事件の分析と今後の動きなどを聴ければ面白かったのだが、本書はそれを補うような内容の本である。テレビでのコメントを聞いているかのように平明な語り口で読み易い内容であり、肩が凝らずに一気に読み進めることができる。
本書の前に、「サイクス=ピコ協定百年の呪縛 中東大混迷を解く」(池内恵著、新潮選書)を読む機会があった。百年前の1916年、英・仏・露によって結ばれた秘密協定「サイクス=ピコ協定」により無理やり引かれた国境線こそが、現在欧州・世界へ難民とテロを拡散させ中東の混乱をもたらした諸悪の根源と単純にみなすのではなく、さらに古くからの中東の歴史と現実、複雑な国家間の関係から原因を説き起こす内容であるが、こちらが伝統的な意味、「地理的環境と国際政治の関係」という意味での「地政学」といえるだろう。そして911以後米国連邦制度準備理事会が「地政学」と資本市場と結びつけて用いるようになり、以後市場用語として定着した「地政学」を俯瞰するのが本書である。
本書では、この「地政学」リスクを五つの類型に整理している。環境問題と地政学リスクを結び付けているように、概念が拡張されているように読めるが、歴史軸はきちんと押さえているし、さらにそのリスクの実態は、貧困にもとづく経済格差と差別にもとづく憎悪にあることを喝破している。また、外交手段として確立した金融制裁や「世界の警察」としての地域への関与といういずれも米国主導の政策を変数とする関数として「地政学」リスクを捉えること、さらに、安全保障上の知り得る情報の三分類を地政学リスクに当てはめてとらえる視点などは、今後報道などで「地政学」リスクに接したときに、そのリスクをどのように評価すべきか参考になる視点となる。
本書は、日本は海外に起因する地政学リスクに疎いだけでなく、「日本国内に自ら抱える地政学リスク」に鈍感である、という著者の危機意識から本書は生まれたと思われるが、そこには筆写自身がディーラー時代、イランのクウェート侵攻のために投資を失敗した苦い経験もあったのだろう。世界情勢と投資は別世界の話ではあるが、「予測可能性」の重要性では同じである。本書を今後の世界情勢を読み解く参考とするか、また、投資の指南書とするかは、読む者の問題であろう。最後に著者の失敗談の後日談のエピソード。損失をカバーするためにとった、当時のマーケット環境では予想外の投資行動が、資本市場に波風を立てたようである。これも「地政学」リスクと見ることができるだろうか。

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「二元的民主政」による合衆国憲法理論史

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現代アメリカで最も影響力のある憲法・政治哲学者の1人とされるブルース・アッカマンの主著(原題『We the People』)第1巻Foundationの翻訳。現在第3巻まで出版され、第4巻で完結する予定。邦訳副題にあるように、合衆国憲法理論の歴史とその基底にある哲学・政治について、独立革命を経た建国期から現在までを俯瞰する浩瀚なものとなるだろう。
日本でも引用されることが多い書物なので、研究者向け専門書かと思ったら、そうではない。honto書籍カテゴリ・利用対象は、「研究者」ではなく「一般」となっている。たしかに本書は、著者による「読者のみなさん」という呼びかけで始まる文章で終わるので、「一般」向けとして書いたものだろう。憲法理論とその政治・哲学という論争の多いテーマを、一般向けの言葉で著しているし、翻訳ではあるが何よりその説明の語り口というかレトリックが素晴らしい。わかりやすい例えなども理解の助けになる。
アッカマンの理論的枠組みは、合衆国憲法の歴史を「二元的民主政」としてとらえ,憲法がどのように運用・解釈されてきたかを説明するもの。「二元的」といのは、私的生活を営む市民(「私的市民」)が定期的に実施される議会・知事・大統領選挙を通じて通常の法律制定に関わる「通常政治」と共同体が何らかの危機に直面した時に、「私的市民」から脱し公共心に従って行動する「公民」となって共同体にとっての「公共善」の熟議に積極的にコミットし決定する「憲法政治」の二つを指す。そして「憲法政治」での決定は、最終的には人民We the peopleによる承認で解決し、それが「高次法」として以後の通常政治の基本枠組みとなっていく。この「高次法」は、通常の統治システム外部で形成・決定されるものであり、最終的には憲法修正または時代を画する制定法によって、また、最高裁判所による新しい原理の確認によって「憲法体制」として確立するととらえている。合衆国憲法の歴史は、この「憲法体制」の変更の歴史である。
この「憲法体制」の変更は、実質的に「憲法改正」であり、いずれも正式な憲法改正ルール(第5条)を逸脱して達成されたところに特徴がある。アッカマンによると、これまで4回の「憲法体制」の変更があったという。憲法制定期(連邦政府創設)、南北戦争後の再建期(連邦政府強化)、ニューディール期(積極的福祉国家)、そして公民権運動期(自由・平等な社会の実現)である。
この「二元的民主制」では最高裁判所にも重要な位置を占めている。最高裁判所は人民を代表する機関ではない。そのため、憲法体制の変更があったとしても、簡単に過去の憲法体制を全て廃棄するのではなく、「高次法」が形成されたかどうかを見極める憲法保障機能を果たすことになる。ニューディール期には、ニューディール立法をその時の「憲法体制」であった「契約の自由」を盾に違憲として立ちはだかった最高裁であった。しかし、新しい憲法体制の勝利が人民の意思が大統領選挙・議会選挙で明確になった場合には、新しい憲法コンセンサスを原理として打ち立て、それにより通常政治による制定法が新しい憲法体制に違反していないかどうかを審査することになる。しかし最高裁は、過去の憲法体制を支えた原理を全て捨て去るのではなく、取捨選択をしながら断片も拾いつつ憲法体制の世代間の連続性も維持しているのである。過去の時代を画した判決、Carolene Products、Brown、そしてGriswoldをこのような脈絡で改めて読み込んだ分析は斬新であった。最終巻Interplretationsは、合衆国最高裁判所の憲法解釈を「憲法体制」の世代間統合の問題として論じたものだが、その刊行が待たれる。

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紙の本憲法で読むアメリカ現代史

2018/03/27 14:05

次作は「憲法で読むアメリカ映画史」お願いします

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米国憲法政治を俯瞰する阿川尚之氏の著作が現在にまで到達した。前著「憲法で読むアメリカ史」の後を継いで、レーガンからオバマまでの時代を、大統領・議会、議会の上院と下院、連邦と州という各権力が、権力闘争として訴訟に訴えるという手法を選択し、憲法を通して問題解決を図り、そこで最高裁の司法審査が大きな役割を果たしていることが記述される。一つの例は、2000年大統領選挙で、結果を見れば最高裁がブッシュ大統領を選出したBush v. Goreである。つまり暴力ではなく、法の支配による問題解決が米国政治の発展とダイナミズムを形成してきたのである。
前作Reviewで最高裁の「国民統合」機能について述べたが、この時期はむしろ逆に「国民の分断」が目立つ。最高裁判事の政治的任命により、保守派・進歩派・中間派に分断され、国論を二分するような問題では、拮抗した評決結果になる現状が描かれる。そのきっかけは、妊娠中絶を憲法上の権利として認めたRoe v. Wade (1973)事件。この判例を巡るプロライフ派とプロチョイス派の争いを中心軸に、これに政教分離・銃規制等が絡む構図。事件毎に判決理由がモザイクのように変化し統一的な見解が分かりにくくなっている、という評価もある。トランプ時代になって最高裁は「国民統合」に向けてどのように舵取りするだろうか。
阿川氏は「憲法改正とは何か-アメリカ改憲史から考える」(新潮選書2016)を上梓されているので、「米国憲法政治史三部作」が完結したといってもいいだろう。ただ、読みやすく、また、手際よく米国憲法政治をまとめたシリーズが終わってしまうのは残念である。そこで米国研究の泰斗である阿川氏にお願いしたい次なる「憲法で読む」シリーズがある。それは「映画」である。
「訴訟社会」米国なので、いわゆる「法廷」映画は多い。その中で、最高裁がフィクション・ノンフィクションを含め登場するものもある。例えば、ジョン・グリシャムの同名原作小説をもとにしたリーガル・サスペンス『ペリカン文書』。最近では2015年の『ブリッジ・オブ・スパイ』(Bridge of Spies)と『黄金のアデーレ 名画の帰還』(Woman in Gold)がある。前者では、ソ連のスパイの弁護を引き受けた主人公が、憲法の令状主義は人種に関係なく平等に適用されるとしたYick Wo v. Hopkins (1886)により違法収集証拠排除を主張して最高裁まで争ったAbel v. United States (1960)が、後者ではナチに略奪されたクリムトが描いた親族の肖像画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 」の返還を墺政府に返還を求めたRepublic of Austria v. Altmann (2004)で外国主権免責法の遡及適用を審議する最高裁判所での口頭弁論が映像化される。ハスラー出版者・編集者のラリー・フリントの台頭と法廷闘争を描いた1996年『ラリー・フリント』(The People vs. Larry Flynt)でもHustler Magazine, Inc. v. Falwell (1988)でエドワード・ノートン演ずる弁護士として颯爽と登場する口頭弁論のシーンが登場する。
近未来のSF映画でもまだ最高裁は健在である。『アイ・アム・レジェンド』(2007I Am Legend)ではガン治療薬の投与を最高裁が認めた、というニュースが冒頭少し流れる。『サロゲート』(2009Surrogates)では、脳波で遠隔操作できるロボット「サロゲート」が普及した近未来社会で、サロゲートを使った契約は有効と最高裁が認めた、というニュースが流れる。
このように映画の世界でも最高裁が自然と登場するところは、国民の間でそれだけその地位と権威が定着しているということであろう。阿川先生、映画+憲法/最高裁の視点で米国市民社会の姿を書いた新刊をお願いします。

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紙の本

紙の本憲法で読むアメリカ史

2018/03/16 14:41

アメリカ憲法のダイナミズム(その1)

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米国誕生から現在までの政治を憲法の観点から俯瞰する阿川尚之氏の新刊「憲法で読むアメリカ現代史」が上梓された。これで前著「憲法で読むアメリカ史」と併せてシリーズが完結する。新刊がでたことで、あらためて読み返すこととした。当時2004年はPHP新書上下二巻であったが、2013年ちくま学芸文庫になって再版された。いずれも大統領・議会・最高裁判所の三権の間の関係、なかでも連邦最高裁の司法審査のインパクトを中心に据えて憲法政治を記述した二つの書は、新しい視点からの米国史を知ることができる良書である。
本書では建国からレーガン大統領の誕生までを扱っている。歴史的には、司法審査の確立、国土拡大、南北戦争と奴隷解放、二つの世界大戦、大恐慌とニューディール、第二次世界大戦後の超大国誕生、冷戦とベトナム戦争という出来事があった時期が対象になる。
日本の報道でも連邦最高裁の違憲・合憲判決はニュースになることは多いが、違憲・合憲の結論だけであって、何故そのような訴訟が司法の場に持ち込まれるのか、についてはふれられるところは少ない。かつてフランスの政治思想家トクヴィルは、名著『アメリカのデモクラシー』で米国では政治的な争いはいずれ司法の場に持ち込まれる、と米国社会の特徴を喝破したが、単に訴訟が好きということではない。本シリーズでは、時代の変化に対応した新しい権利保障や厳格な三権分立、議会の上院と下院、連邦と州という権力の分散と牽制の仕組が、権力闘争の解決に司法という手法を選択し、憲法を通して問題解決を図ってきた、ということが記述される。つまり暴力によって問題を解決するのではなく、法の支配による問題解決が米国政治の発展とダイナミズムを形成してきたのである。
「現代史」と較べると、本書では後半に「ウォーレン・コート」の司法積極主義時代の権利保障についても記述されているが、どちらかというと、大国化し、国際政治でのプレゼンスが増してくるようになって、大統領と議会、州と連邦の間での権限分配という問題を最高裁がどのように扱ったか、を中心に記述されているといっていいだろう。大きな流れは、連邦の権限の強化と増加である。最高裁も三権の一つとして、アメリカという国を単に州の連合体ではなく一つの国家とするために、時代の要請に応じて連邦の権限強化を認めてきている。アメリカの憲法学者マクロスキーRobert McCloskeyは、名著“The American Supreme Court”において、最高裁は連邦と州の間の権限の「ダム」のような機能を果たしてきたと述べている。ある時は州から連邦へと権限が流れていき、ある時はその流れを絞るというように。南北戦争後の再建期、そしてニューディール期の最高裁の動きもそのようなものであったといえる。
これは「アメリカ合衆国市民」という「国民統合機能」に最高裁も積極的に関与してきたということでもある。この「国民統合機能」という視点から見ると、権利保障も別の意味がある。例えば、戦前スパイ防止法を扱う裁判では、最高裁は表現の自由を侵すものとして州法を違憲としたものはない。これは州法にも修正第1条を適用し、スパイ防止が連邦権限であることを認め、合憲とすることで戦時状態での国民統合を優先したものとする考えもある(『国家と治安』木下ちがや著、みすず書房2015)。また、20世紀最大の判決の一つとされるブラウン判決もソ連との冷戦の中で、人種差別のない平等な国家を実現し、新たな国民統合を狙ったものとも評価できる。
本書を再読し、次なる時代の憲法でよむ米国政治を読み、あらたあめてこの機能がどのようになっているのか、を考えてみたい。

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紙の本

紙の本ゲルマニア

2016/01/31 22:40

新しい「警察小説」シリーズ登場!

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最近活況を呈しているドイツの「警察小説」Kriminal Romanにまた新しいシリーズが登場した。ハラルド・ギルバースの「ゲルマニア」。訳はこのジャンルの大家である酒寄進一氏。時代設定は1944年5月から6月、ベルリン空襲が激しさを増し、6月には連合軍のノルマンジー上陸作戦があり、いよいよ第三帝国の崩壊が迫ってきた時期。空襲警報・灯火管制下でのベルリン市民の生活とともに、このような危機的状況の中でも冷徹に機能するナチス権力中枢機構が描かれる。この中で、ゲッベルスの登場や「生命の泉」計画のように、実在の人物や歴史的事実などが背景的に紹介される工夫がされている。
主人公は、ユダヤ人で元刑事のオッペンハイマー。ドイツ警察小説では、例えばネレ・ノイハウスのピアとフォン・ボーデンシュタイン、フォルカー・クッチャーのチャーリーとゲレオン・ラートのように、女性の相棒がいるのだが、本編では、刑事ではなく、医師のヒルデという組み合わせ。犯罪者心理を分析し、オッペンハイマーの相棒の役割を十分には果たしている。
驚いたのは、実在の人物である殺人課の課長で「仏陀」ことエルンスト・ゲナート警視の名前が、ボーデンシュタインがユダヤ人を理由に警察を追われる前の上司として登場すること。ということは、オッペンハイマーとラートは、同じ殺人課で同僚だった可能性があるということに!? ラートは、世界大恐慌の1929年からナチス権力掌握、ベルリン・オリンピックから再軍備の1936年までを時代設定にしている。そしてこのゲルマニアは、1944年と第二世界大戦を時代設定にしており、二つの小説の奇妙な繋がりを感じさせる。
猟奇殺人事件の捜索を縦糸に、ユダヤ人でありながら、その手腕を買われ生死を賭けた極秘ミッションに就くオッペンハイマーとナチSS大尉との奇妙な関係、そして反ナチ国防諜報部とヒルデの支援を受けて妻リズとの国外脱出を横糸にストーリーが展開するが、最後はややあっさりしている感も…。ただ、読了後訳者解説をよんだところ、続編Odins Soehne「オーディンの息子」が9月に出版されている。続訳を期待したい。

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紙の本

紙の本クラシック偽作・疑作大全

2022/07/20 22:07

「異稿・編曲」、「辺境・周縁」そして「偽作・疑作」

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近藤健児氏は中京大学国際経済学教授。国際経済専門書も上梓する一方で、クラシック音楽の「マイナーな作曲家の埋もれた名品の発掘に燃えて世界中からCD」を蒐集しているクラシック音楽「オタク」である。既に『クラシックCD異稿・編曲のたのしみ』『辺境・周縁のクラシック音楽1・2』(青弓社)があるが、今回は「偽作・疑作」がテーマだ。
私も「クラシック音楽オタク」として、やや「クセ強」カテゴリを蒐集しているが、その一つがモーツァルトの「偽作・疑作」。「偽作」とはその曲の作曲家とされている人物とは別に真の作曲家がいることが判明している作品、「疑作」は真の作曲家が別にいることが疑われている作品のことをいう。
なぜモーツァルトではない作品にこだわるか。未完作品や断片を含めたモーツァルトの全作品音盤情報としては、「モーツァルト全ディスコグラフィー」(1983年ディスクポート西武・音楽之友社,増補改訂1991年小学館)があった。これを片手にモーツァルト未録音作品のLPを探し、全作品音盤を蒐集することが夢であった。今と違って当時は海外盤情報の入手は難しく、輸入店を回って足で探すしかなかった。しかしCD時代にはいり、1991年(没後200年)と2006年(生誕200年)のイベントがあり、各レーベルが全集・全曲録音や企画盤をリリースした。この結果未完作品・断片まで含めたモーツァルト真作のほぼ全てが網羅され、一つの夢は達成された。
しかし「偽作・疑作」はそうではなかった。真正の作品ではないので、録音しようというレーベルはない。また、録音されても真作録音の「オマケ」「ついでに」録音されることが多い。さらに真の作曲家は、その作曲家がモーツァルトのような大作曲家ではないことが通例なので、その作曲家の作品として録音される機会も乏しい。
著者は「偽作・疑作」のまとまった作品と音源情報をコンパクトにまとめた本があればという思いを長年抱いてきたが、一向にそんなものは出版されないので、自分で執筆したのだ。この無謀な英断と「オタク」的プロジェクトに快哉を叫びたい。
何故「偽作・疑作」にこだわるかというと、モーツァルトをより知ることができるからだ。「偽作」には、モーツァルトが作曲の参考のため筆写した楽譜が自筆と誤解されたものもある。また、勝手に「モーツァルト作」として出版された作品もあるが、出来がいいなのでそのままにしておいたために「偽作」となったものある。さらには、モーツァルト作として後世に捏造された「贋作」すらある。このように「偽作・疑作」には、モーツァルトの作曲の秘密、同時代のモーツァルト愛・受容史などが隠されている。また、「名曲」の掘り出しものの作品もある、と、まあ、これは表向きの理由。結局は「偽作・疑作」・「編曲」を含めた「全」作品音盤コンプリート、というアホな「オタク的」願望である。
モーツァルト作品情報『ケッヘル作品目録』には「偽作」88曲と「疑作」309曲が整理されている。また、最近の研究では30曲以上の疑わしい作品もあり、総数では430曲近くなる。著者は断片的で散在している情報を丹念に集めている。全ての音盤情報ではなく、65曲15%程度しか扱っていないが、有名な「偽作・疑作」はフォローしており、モーツァルトの「偽作・疑作」の全貌は窺い知ることはできる。
NHK-FM「クラシックの迷宮」MC片山杜秀氏は大学教授(政治思想史)・音楽評論家で、膨大な音盤コレクションを駆使した博覧強記を武器にクラシック音楽を論じている。近藤氏も大学教授・音楽オタク。クラシック音楽オタクの双璧として、独創的な視点でクラシック音楽を論じ、新しい聴き方を開拓してほしい。

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「カリスマ的支配」のメンタリティーに支配された「断片化した統治/下の支配」の急進化

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戦争最後の10か月ドイツ兵士の戦死者数は260万人で、これは開戦以後1944年7月(ヒトラー暗殺未遂)までの戦死者数270万人にほぼ等しい数だという。東ではソ連軍の反転攻勢、西ではノルマンディー上陸作戦、とドイツの敗戦が色濃くなる中、なぜドイツは完全な敗北と破壊となる徹底抗戦策に突き進み、最後まで戦い続けることができたのか、また、なぜそのような意志が継続できたのか、その理由を解明する大著である。
著者は既に『ヒトラー 権力の本質』や大部のヒトラーの伝記を著しているナチズム研究の泰斗イアン・カーショーであり、大いに期待を抱かせる全10章500頁を超える、研究書というより壮大な「歴史物語」であった。
「ナチ体制は、いかにして、また、なぜ全面的崩壊に至るまで持ちこたえたか」というナチズム研究者にとって大きな問題に対して、著者はこれまで検討された回答、「無条件降伏」「連合国の戦略・戦術の過ち」「民族共同体」、「祖国防衛」「国家への忠誠・義務」「テロル」「ナチ党の権限拡大」「官僚機構の組織的能力」などを吟味し、いずれも決定的な理由ではなく、副次的なものと評価する。そして最も基本的な要素は「カリスマ的支配」の構造とそのメンタリティーだという仮説にたって検証を進めていく。
ナチ支配体制は、それぞれの権力機構はすべてがナチイデオロギーの価値観に染められ、全ての正統性が「総統原理」によりヒトラーに由来する「カリスマ的支配」の構造が1933年から生成し、戦争末期にあっても衰えることなく強化されたのである。終末が近づく中にあっても、ナチ支配の特徴である「権力のカオス」は続き、ヒムラー、ゲッベルス、ボアマン、シュペーアが権力闘争を繰り広げていく。中央政府がバラバラになり統治機構が解体されて「統治の断片化」が進むにつれて重要な問題の決定権が統治機構の下方へ、地域・地区レベルへと委譲されていき、急進化した「下の支配の断片化」が進んでいく。ヒトラーの大衆的人気は急落し絶対的権力が衰え始めた時であったが、この「カリスマ的支配」のメンタリティーは「断片化」した支配でも維持され、ヒトラーの死によってしか終止符が打てなかったのであり、全面的崩壊へと突き進んだ、というのがカーショーの見立てである。
最後の10か月に登場する人物は、四人の廷臣に、軍指導者・ナチ党幹部を始め、前線の兵士・空襲に逃げ惑う市民などまで幅広いドイツ国民である。彼らの行動・発言などを公式記録から日記・手紙などの微細で断片的な物語も縦横無尽につなぎ合わせて一つの歴史物語を編み出していく。カーショー自身が「物語的(ナラティブ)アプローチ」と名付けている手法は、仏文学の「レシ」事実小説、また、「綿密な資料調査と膨大な文献渉猟を踏まえつつ、歴史の空白を埋めようとする」現代仏文学の「文学から歴史学への越境」潮流の逆で、「歴史から文学への越境」と言っても過言ではない構成と筆力だ。無条件降伏前夜の政治状況を「無意味な珍品」「パントマイム」「破産企業の整理」という散文的表現も物語的だ。
ヒトラー自身の発言、行動や心理にはあまり言及されていない。最後もあっさりと通り過ぎていくようだ。しかしそれは先に見たようにヒトラー個人がなくとも「カリスマ的支配」が強固に存在していることを示すためであろう。カーショーは「終焉」が自身の最後のナチズム関連著作になること明らかにしている。カーショーの長年にわたるナチズム研究全体への一つの解答であり、体制初期からの「カリスマ的支配」の概念を用いつつ、意図派と機能派(構造派)の両派の対立を止揚・架橋する方途を具体的に示している。

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「自由」という名の伝染病The Pox of Liberty

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本書を読み始めた頃米国連邦最高裁判所がCOVID19ワクチン接種義務化の差止決定を下した(1月13日)。従業員100人以上の企業に求めていたワクチン接種か定期検査の義務化を認めなかったもの(オハイオ州v.連邦労働安全衛生局OSHA)。また同日保健福祉省HSSが医療従事者への義務化は容認する決定を下している(バイデンv.ミズーリ―州他)。ワクチン接種義務化が司法の場で争われた初めてのケースであった。米国に限らず、欧州ではワクチン接種・ワクチン接種・外出制限など一連の感染対策と個人の自由との関係が問題となり、反対運動も起きている。翻って日本では、ワクチン接種は義務化されていないし、緊急事態宣言下の営業制限は「自粛」であり、「行動制限」のような強烈な規制がないことから、目立った反対はなく、これらは対岸の出来事である。
原書は2015年出版なので、コロナ禍とは関係なく出版されたものだが、米国の憲法・政治制度と公衆衛生・感染対策の関係を見たもので、冒頭の事件などの背景を理解するには、タイムリーな邦訳出版である。
米国は「天然痘」「腸チフス」「黄熱病」の三つの感染症の大流行を経験してきたが、感染症克服の方法は同じではない。そこには米国憲法・政治制度とイデオロギーが大きく関係している。天然痘はワクチン接種がなかなか進まず、同時代の先進国に比べると、罹患率は高く、撲滅には長い時間を要している。当時の米国は豊かで自由であったにもかかわらず天然痘罹患率が高かったのではなく、豊かで自由であったからこそ高かった、と著者は指摘する。阻害要因となった「個人の自由」への執着は、一方で経済成長や政治的自由を促し異なる経路で感染症対策を実現させた。すなわち、ワクチン接種義務化を停滞させた憲法と政治的信念が同時に経済的繁栄と個人の自由を育ててきたのである。
腸チフスは上下水道の整備によって克服されたが、それは憲法の事後の契約不利益変更禁止により民間投資が安全にできるようになったからである。黄熱病は、水際規制が各州の権限であり、各州間の貿易港競争で有効な対策はとれなかった。連邦は憲法の州際通商条項で規制はできなかったが、発生源の国で米国軍隊が徹底した感染対策をしている。天然痘は、注射という人体への侵襲性の高い行為であり、また、いわば病原菌を植え付けるものであるので、個人の自由の観点、修正第14条適正手続条項の問題があった。しかし連邦最高裁は、ワクチン接種義務化は憲法に違反しないとした(Jacobson v. Massachusetts,1905)。しかし州の権限の問題であり、法律で義務化の権限を定めなければならなかった。そのため少数派のワクチン接種義務化反対ロビー、本書副題の「自由という伝染病」The Pox of Liberty-が法律成立を阻止したために天然痘罹患率の改善は進まなかったのである。また、どの程度の「強制」なら自由の侵害とならないかは未解決の問題である。
冒頭ケースはワクチン接種義務化と個人の自由を正面から扱っていない。連邦と州の権限の問題である。感染症対策など公衆衛生の権限は州にあり、連邦にはない。連邦組織OSHAが職業上の危険を規制する権限は連邦法で認められているが、州の権限である公衆衛生を規制する権限をより広くする権限までは認めていない、としたもの。一方医療従事者への接種義務化はHSSの権限の範囲内だとした。ワクチン接種義務化は州の権限だが、「強制」の程度によっては個人の自由を侵害する可能性はある。仮にOSHAに従業員への接種義務化できるとした場合、ワクチン接種か定期検査を選択できることから、「強制」の程度は低いと判断されるのではないかと思う。

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言論の自由と国家統合

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「双方向コンピューター・サービスのプロバイダーまたはユーザーは、他の情報コンテンツ・プロバイダーにより提供された情報の公表者または発言者として扱われないものとする。」本書は、この米国通信品位法第230条をめぐる、著者によれば「伝記」、より正確には英語26語の「伝記」である。「双方向コンピューター・サービス」とはインターネットである。230条が1996年に成立してからまだ四半世紀だが、アメリカ人の生活、ひいては世界の人々の生活を根本から変えてきた、インターネットを支えてきた230条はまさに伝記の対象にふさわしい。
著者は230条を説明する例として、地域ビジネスの口コミWebサイト「イェルプYelp」を挙げる。レストランに対する誹謗中傷の口コミがイェルプに投稿された場合、230条はレストランが投稿者を名誉棄損・損害賠償で訴えることは認めるが、イェルプは投稿の責任を問われず、訴えることはできない。その結果サイト運営者は、煩瑣なコンテンツのチェックをせずとも、苦情・損害賠償等のビジネス・リスクを回避できる。そしてネット産業は成長した。また、市民が手軽に情報発信・交換ができる手段を得たことで、真の意味で「言論の自由」が実現したという評価もされる。一方でサイトに匿名の誹謗中傷、性的人身取引の窓口、テロリスト募集、幼児搾取ポルノなどの被害者も出てくる。この法律は、言論の自由を守り、産業を発展させた一方で、多くの被害者が生まれる場を提供している企業を守ってきたという評価相反する発展成長の歴史を持っている。
著者は立法の経緯、議会議員の動きとメディアの反応、判例法の形成とその問題、最近の法改正に至るまでを俯瞰している。結論の紹介だけになりがちな判例を、訴訟の背景にある実態、裁判の経過、判決とその後の展開を原告・被告双方へのインタビューなどを通して原告が訴訟に至った経緯、政治の動き、裁判官がどのように判断をしたのか、現在の当事者の考えを丹念にフォローしつつ問題の本質に迫っている。
著者は、230条は言論の自由を守るために重要であるという強い信念を持ちつつも、悲惨な被害者の現実の状況を見ると、その信念が揺らいでいる心情を率直に吐露している。同様に裁判官も、文言の解釈、先例との関係などを考えながら、なんとか被害者救済の途を探ろうとするが結局サイト運営者には責任がないことを悩みつつ認めているのである。
審理した裁判官を指名した大統領も紹介しているが、これは共和党・民主党という党派性の影響を見るためであろうが、この裁判は中絶裁判のような党派性は全くなく、一枚岩の結論、すなわち言論の自由を制限する、また萎縮させるような規制、また、産業の発展を妨げるようなことは認めないという、意見が示されているのである。現時点で230条が争点となった連邦最高裁判所の判決はない。不思議なことに上訴されないのである(1件は裁量上訴却下)。国論を二分する事件ではないし、憲法上の問題もないことから、あえて判断をしないのだろう。最初に最高裁で審理されるとすれば、ユーザーの言論の自由を制限するような場合で、被害者救済の途を拡げる訴訟ではないであろう。
本書で感じたことは、230条は連邦制の米国にとって、国家の統合のシンボルである、ということだ。言論の自由はアメリカ国民のアイデンティティなのだ。一方で、安全保障のために言論の自由を制限することも最高裁は認めてきた(「国家と治安 アメリカ治安法制と自由の歴史」青土社2015)。これも国家を統合し、米国民を守るためであった。米国では、言論の自由は国家と国民の統合というコインの表裏の関係にあるということだ。

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骨太な「ナチス芸術」思想研究書

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久しぶりに邦人研究者による、読み応えのある「骨太」ナチス研究書であった。しかもテーマが、これまで研究書の少ない「ナチス芸術」である。これまでナチス芸術、とくに美術の思想といえば、あの悪名高い「退廃芸術」の対極という形で示されることが多く、明確な思想・理論に基づいて体系的に示されているわけではない。他の研究書でも、ナチス期の絵画を示してこれがナチス美術である、というように視覚的に示されることが多かったのではないか。
本書の入り口は、1937年ミュンヘンで開催された「退廃美術展」のメイン作品となったアドルフ・ツィーグラーの『四大元素』である。この絵画は典型的なナチス美術として取り上げられるが、戦後接収され「お蔵入り」されたと思っていたら、現在ピナコテーク現代美術館で展示されているとは知らなかった。著者はこの絵画を徹底的に解剖し分析していくが、その論述は精緻である。
そもそもヒトラーがナチス芸術について公の場で説明したのは「退廃芸術展」の開会式挨拶「真のドイツ芸術とは明瞭であること」だけである。そのプロパガンダ的要素や国民にとっての「わかりやすさ」と理解されている。著者は、しかし、より広い文脈でこの定義を考え、そこにはさまざまな要素や背景が絡んでいることを示していく。そこでは、ゲッベルスとローゼンベルクの文化闘争といったカオスのような政権内部のナチス研究だけでなく、「恥毛の画家」としてナチスのポルノ趣味に迎合した画家、というイメージしかなかったツィーグラーが、実は当時の美術界の諸勢力のせめぎ合いの中で時流に乗って政治的に動いたこと、美術アカデミー制度とモダニズム美術の関係、ナチス美術における絵画技術と複製技術メディアの問題、ドイツ・近代美術史におけるミュンヘンの位置、世紀末ドイツ美術界における「ドイツ芸術論争」などの論点を手がかりに複合的学際的に視点から全体像に迫っていく。そこでは政治は芸術であるというゲッベルスの言説とナチス期法学者カール・シュミットの「決断主義」理論が接合されるが、そのレトリックには素晴らしいものがある。結論的に言えば、ヒトラーが否定した当時の印象派、表現主義、象徴主義のようなモダン芸術の前の、馴染みのあった官製美術が、ドイツ特有の、また、ドイツ国民にもわかりやすい「手業」の評価と折衷的に合体し、「ドイツ的なもの」=「わかりやさ」となった、ということになる。本書副題「逆襲するアカデミズム」である。
著者はナチス美術の分析をもとにナチス芸術全般について分析を広げていくが、その一つが建築である(間奏「ナチス建築あるいは決断主義的折衷主義」)。ナチス建築というと、「ゲルマニア計画」のようなメガロマニアックな建築(スターリン建築様式と同じ)と、美術と同様にビジュアルな印象論で片付けられてしまいがちである。著者は、これまでの建築様式の勃興がナチス期に折衷した形で決着させたというナチス絵画と同様の思考回路があることを示している。
また、ナチス期建築の章を読んでいるときに、関心があってナチス期都市計画について調べてみた。都市計画・都市開発は、すぐれて技術的な法制度であり、したがって政治思想の影響は受けにくい。事実ナチス期の都市計画・都市開発の制度・思想には戦後も継承されているものも多い。その一つに建築物のデザインを規制する「景観規制」がある。当時の基準は「ドイツの共感覚(Gemeinsinn)及びドイツの建築文化の表現物」と、これまで見た「ナチス芸術」と同じである。典型的なドイツの街並みもナチス芸術、『強制的同質化』の一端ということになろうか。

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大河群像劇ベルリン三部作完結編!ドイツの過去を背負うヘレとドイツの未来を担うエンネの新たな家族の誕生

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下巻はソ連統治下、次第にかつての日常が戻りつつある光景で始まる。「かつての日常」といっても、悲惨な生活であることに変わりはないが、エンネにとっては久しぶりの穏やかな春に見える。そしてエンネは、12年間のゲープハルト一家の真実を知るようになる。ハンスの遺品から知ったおじさんの最後、また、同じ収容所の生存者から聞いた母ユッタの最後も知る。強制収容所での父の拷問、また、アウシュビッツを解放したソ連兵士のユダヤ人虐殺といった、およそ12歳の子供には聞かせたくないようなこともエンネは知り、受け入れていく。
下巻では、父親ヘレがブーヘンヴァルト強制収容場から戻ってくる。初めて見るヘレとは、親子でありながら、12年間の空白があり、ぎこちない。ヘレはナチスに抵抗し、死んでいった人たちの代弁者のように、そしてドイツ人の罪を裁く「裁判官」のように、ドイツの過去、そして現実に容赦のない批判をする。まるで、この後西ドイツの「ドイツ第二の罪」「過去の克服」論争を先取りするかのような内容である。ヘレにとっては、今のドイツにはこちら側の者とあちら側の者の二種類しかいない、いくら恐怖で支配されたとはいえ、声を上げず、あちら側に与した者は絶対に許せないのである。弟ハインツ、妹マルタも理由はどうあれ、「あちら側」であり、ゲープハルト家でも家族の分断は修復されない。上巻で仲たがいしたままであった、かつての親友フリッツとも再会する。彼も戦争で辛苦を味わい、体制に疑問を持ったというが、ヘレには受け入れられなかった。エンネは疎開していた親友グードルンと再会するが、彼女は「あちら側」、父ヘレを理解しつつあったエンネはその言動に反発してしまう。グールドンは生理があって大人になったというが、自分はまだだというエンネであったが、精神的にははるかに大人になっている。下巻ではヘレとエンネの親子が主人公なのである。
いい話もある。これまでも必ずあったが、第三部でもロマンスがある。瓦礫の中でのソ連軍演奏会に、ヘレ・ミーツェ・エンネの三人で出かける。写真家になりたかったミーツェは、演奏会の聴衆の写真を撮ったら、その題は「はじめての春」にする、という。「春」には、この小説のライトモティーフ「希望」「未来」が込められている。そしてヘレが新しい一歩を踏み出すかのように、ミーツェとの間に愛情が芽生えてくる。エンネ自身といえば、ハインツの逃亡を助け、戦災孤児グループ「カッコーの子」メンバーとなったディーターとの関係は発展しなかった。しかしそこのメンバーの一人がハインツに好意を寄せるようになる。ちなみに、「カッコーの子」は、深緑野分著「ベルリンは晴れているか」に登場したグループを思い出させる。
頑ななヘレを理解し、希望と未来に導くことができるのは、やはりハイナーであった。彼はソ連に亡命し、スターリンの大粛清を生き延びて帰国する。スターリン独裁を目のあたりにし、生き延びるために、体制に順応したのだ。ヘレが批判するナチスにすり寄った大多数のドイツ人と同様である。しかしさすがにヘレはそれを批判することはできないし、理解もするようになり、変化していく。
ヘレは、乏しい材料で凧をつくり、住宅の屋根からベルリンの空にエンネと二人であげる。凧は希望であり未来である。ようやく二人は本当の親子になったのだ。しかし、ゲープハルト一家の分断は修復されることはなく、それを受け入れた。大河群像劇ベルリン三部作は、ドイツの過去を背負うヘレとドイツの未来を担うエンネの新たな家族の誕生で希望と未来がつながることをほのめかして完結する。第三部は一気読み。

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ベルリン三部作の最終章~ゲープハルト一家の家族の分断、また、「希望」「未来」は?

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ベルリン三部作の最終章。主人公は、第二部で逮捕されたハンスとユッタの娘エンネ。第一部のヘレは、第一世界大戦開戦までのドイツ帝国が世界強国目指そうとする時代、第二部のハンスは挫折した革命後のワイマール共和国の相対的な安定期、と「指導者国家」下の独裁時代前の間奏曲のような穏やかな時期を経験している。しかしエンネはヒトラー内閣成立の年に生まれたので、まるまるナチ体制で育ったことになる。人物設定上、二人の兄は、いろいろな考えを持つ人・思想に接する機会はあったが、エンネにとってはナチズムが全てであったという大きな違いがある。
エンネは分断された家族の秘密は知らないまま、祖父母を親として育てられる。しかし敗戦時の混乱で、次第に過去の秘密を知るようになっていく。また、これまで正しいと信じていたナチ世界観教育が誤ったものであること、また、悲惨な戦争の現実を目の当たりにしていく。四半世紀に及ぶゲープハルト家の歴史、そしてドイツの歴史という膨大な情報をエンネは一気に受け入れ、そして理解しなければならない、しかも敗戦前後の混乱の時期に。このような過酷な経験をし、しかも、この大河群像小説のライトモティーフ「希望」「未来」を見出さなければならないというのは、12歳の小娘エンネにとっては過酷である。
第一部は革命前夜の混乱したベルリン、第2部はナチス政権成立前の不穏なベルリン、という設定であったが、第三部は1945年2月からドイツ敗戦、米ソ占領の8月までの物語。情け容赦ない連合軍のベルリン大空襲と防空壕の光景で始まる(地下防空壕への階段の数が「十三」なのは、著者の意図であろうか)。上巻はベルリン大空襲と防空壕の悲惨な状況が中心であり、後半にはソ連赤軍のベルリン侵攻と陥落、ソ連占領の様子が描かれる。
防空壕の中の情景と避難解除時の戦時下生活が交互に描写される。登場人物リストを見ると、・・・おばさん、と女性が多い。男は大人も子供も全て東部戦線かベルリン首都防衛に駆り出されているので、男はいないのである。防空壕の中で、また、集合住宅の住居の中で、第三帝国の政治・経済・社会が皮肉をこめて平気で口にだして批判される(帝国石鹸配給券)。地下防空壕に受け入れた東部地域難民のソ連軍の話など、著者はナチス体制の総括は、この極限的な状況にふさわしいと考えているようだ。ここでは、「希望」と「未来」は早く戦争が終わってほしい、という一点に集約されている。著者は丹念に生存者・経験者に話を聞いたのだろう、とにかく防空壕内部・空襲警報解除後の街の荒廃と被害の描写はリアルである。また、ソ連軍兵士による婦女暴行の話はエンネにはあまりにも酷な現実である。
エンネの知らなかった分断した家族について少しずつ知っていく。第二部終わりに逮捕された父ヘレは強制収容所にいるが生死はわからない、母ユッタは(病気で)死んだ、そしてハンスおじさんも死んだ・・・。マルタは、空襲で焼け出され助けを求めてゲープハルト家に来るが、拒絶され、祖父母に絶縁されたおばの存在を知る。
一方「希望」「未来」としては、ナチ体制にからめとられ兵士となったムルケルことハインツおじさんは生きていることがわかるが、脱走兵として戻ってきたのである。また、ハンスの恋人ミーツェは抵抗組織U-ボートのメンバーとしてハンスの遺志を継いで抵抗運動をしている。本書カバーは防空壕の中の光景であるが、おさげの少女がエンネであろう。金髪の彼女はいわゆる「アーリア人」。一方大好きなミーツェおばさんは2分の一ユダヤ人。学校で習ったことと折り合いを付けられず、混乱するエンネ。これも悲劇である。

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「壁を背にして」~背水の陣のゲープハルト一家の行く末

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下巻はヒトラー内閣成立と松明行列という不穏な雰囲気で始まり、国会議事堂炎上により怒涛の展開となる。合法的に生まれたナチ政権に敵対するものは、非合法の烙印を押され、弾圧の対象になる。ゲープハルト一家も巻き込まれ、ハンスの身にも危険が迫る。第二部のタイトル「壁を背にして」Mit dem Ruecken zur Wandのとおり、背水の陣の展開となる。第一部では、ヘレは革命軍の伝令・武器弾薬運搬人となってベルリン市街地を駆け回るが、第二部では、ハンスは、兄ヘレと元赤い水兵で革命の闘士ハイナーの脱走とモスクワ亡命の手助けをする。この場面はハリウッド・スパイ映画さながらの緊迫した描写である。
第一部での言葉「たとえどんなことがあっても、闘っているのが自分一人じゃないことを示し続けるんだ。それがなければ、理想のためにがんばっても本当に意味がない。」を思い出したか、本作のライトモティーフになる、ヘレを革命へと誘った赤い水兵ハイナーの言葉「つまり未来に賭けるというんだな?」はハンスに受けつがれ、ミーチャと二人でナチにささやかながらも反撃の狼煙を上げ、これからも二人で抵抗することを誓う。わずか三人の「白バラ抵抗運動」を彷彿とさせる。そのメンバーの一人の名前はハンスであったのは、偶然か著者の仕掛けか。また、ヒトラーを攻撃する匿名の葉書を公共の建物に置いて立ち去る夫婦に抵抗運動もあった:『ベルリンに一人死す』(ハンス・ファラダ 著みすず書房)。絶望から希望へ。第三部に希望と未来はどのように引き継がれていくのだろうか。
第一部にもあったが、本書には著者のちょっとした「仕掛け」がある。よく読んで理解しないと、それとは認識できないが、なかなか含蓄のある「仕掛け」である。
ミーチャとのデートで見た映画がエイゼンシュテイン監督『戦艦ポチョムキン』。回想?映画は反乱軍の勝利で終わるが、実際にはその後反乱兵は逮捕されたという。著者はドイツ革命の一時の処理と挫折を暗示するものとして二人に見せたかったのかもしれない。
次にAEGで突撃隊に因縁をつけられたハンスに唯一味方となってくれたのが、ヴィリー・ヴェストホフという社会主義労働者党員。彼は1933年1月ヒトラー内閣成立を受けて、臆病で、意気地がなく、ろくでなしをこうもあっさりと強い男に変えてしまうドイツを見限り外国に逃亡する。この「ドイツ社会主義労働者党」Sozialistische Arbeiterpartei, SAは当時のいわゆる「破片政党」の一つだが、かつては社民党発足時の名称でもあった。また、この党で活動したのが、後に西ドイツ首相となる社民党のヴィリー・ブラントであった。実在したヴィリーはナチスの弾圧を受けドイツを脱出しスウェーデンで反ナチ活動をすることになるが、こちらのヴィリーはさっさと逃げてしまった。社民党に対する著者の皮肉なのだろうか。
前作でもそうだったが、本書でも、例えば突撃隊によるユダヤ人への罵詈雑言、また、テロの場面の表現など、映画だとR15指定とか、当時の社会情勢を理解るために、表現は変更していないとか、のコメントがあるだろうが、本書(たぶん原作にも)にはない。語り口のわかりやすさから少年少女向けではないと思うが、例えば、労働者の一夜を過ごした尻の大きい金髪娘のことを「そりゃもう、歩くパンケーキ」で、「機関車の緩衝器が二つ付いていたみたいなもの」のような想像力を掻き立てる下品で猥雑な発言をそのまま載せている。本当に少年少女向けなの、と思うが、本書は「銀の石筆賞」Zilveren Griffelという最も権威あるとされるオランダ国内の子どもの本の賞を受賞しているので、やはり少年少女向けなのだ。

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ゲープハルト一家の家族の分断

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前作で革命の挫折を目の当たりにして、ハンスの父親が、希望は明日や明後日じゃない、ずっと先につないでいる、自分たちが始めたことは、数週間や数か月で片づくものではない、何年も、いや、何十年もかかるかもしれない、未来に賭ける、と決意を話すが、歴史を知っている我々には、そのような「希望」はなかったことを知っている。皮肉なことに「よりよき未来」を約束し、希望を与えるナチが急速に勢力を拡大していた。
「ベルリン三部作」第二部は、1932年7月ナチスが第一党となった国会選挙から1933年1月ヒトラー政権誕生、そして独裁体制確立までの期間を描く。主人公は、第一部主人公ヘレにおむつを交換してもらったり、あやされたりされていた「ハンス坊や」。栄養失調や肺炎の危機にさらされながらも15歳の体操が得意な少年に成長し、当時ドイツの大企業の一つAEGで働くようになる。
第一部から15年後のドイツ、その間は激動の連続であった。ヴェルサイユ条約締結と巨額の賠償金負担、ハイパーインフレーション、シュトレーゼマン外交による平和実現と国際連盟加盟、政治的には社民党を中心とするワイマール連合による「相対的安定期」、「世界都市」ベルリンの繁栄と退廃…。そして1929年世界大恐慌と破局Zusammenbruchと混沌に向かう政治・経済・社会という周知のドイツ史は描かれない。相変わらず困窮を極めるゲープハルト一家、ヘレは結婚するもAEGを解雇され失業の身、政治的には妻ユッタとともに共産党を支持、一方当時の憧れの事務職となったマルタは、貧困から抜け出したいと上昇志向が強く、かつての子供時代の雰囲気のままやや蓮っ葉な性格で生真面目なハンスとはそりが合わない、また、一人家族ハインツ(ムルケル)も増え、ハンスから「坊や」は代替わり。こういった家族の変化と突撃隊が住むようになった集合住宅の変化に15年の変化は投影されている。
子供の目で見て、感覚で感じた激動の政治社会の物語であるが、前作と比べると、ハンスがヘレより大人である。家のために働きに出かけ、現実社会と否応なく向かい合っているし、周りには、父兄など革命・政治経験豊富な大人がいるから当然であろう。ハンスは、悩みながらも社会に足を踏み入れていく。前作のヘレの初恋は、本作でその続きはなく、短いエピソードで終わったが、ハンスのミーツェとの初恋は、出会った初日から絶好調で展開する。彼女がユダヤ出自であると聞けば、読者はその運命を心配せざるを得ない。しかし、未来を知らない彼女は、ハンスと手をたずさえ、時にはハンスを励ましながら、ともに困難な時代を生きていこうとする。第二部はこの二人が主人公である。
第二部では、前作の市街戦に代わり、突撃隊と共産党・社民党との街頭テロルの応酬が殺伐とした時代の背景。ハンスの周りの人の中にも、ナチスに飲み込まれていく。同じ集合住宅の住人、いい年になって仕事にもつかず、ぶらぶらしていた「ちびのルツ」が、突撃隊に入隊、そして「制服の魔力」により急に威張り散らすようになる。極めつけは前作で、ヘレの同級生でクラスから尊敬されていた、歯に衣を着せぬ体制批判をするフレヒジヒ先生を敬愛していたギュンター・ブレームがなんと突撃隊に入隊、しかもマルタの恋人となって、婚約・結婚、「赤い家族」ゲープハルト家の一員となってしまうのである。赤が黒・褐色に、黒・褐色が赤に、と鞍替えするのは当時よくあった話。しかし、それが家族の中に入ってくると、亀裂が生まれ、当時の社会と同様「分断」が始まる。「ドイツを分断する裂け目が、うちの家族にも入ったってことね。しかも、裂け目は日毎に深くなってる」

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