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  3. 三中信宏さんのレビュー一覧

三中信宏さんのレビュー一覧

投稿者:三中信宏

129 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本ウェブログの心理学

2005/03/17 18:02

「書き続ける」ことに意義がある

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

前評判が高い本だったこともあり,200ページあまりをするすると一気に読了した.本書は全体を通じて「社会心理学」の観点に立って,ウェブサイトやウェブログにまつわるさまざまな現象を分析していこうとする.類書にはないこの切り口が本書の大きな魅力だ.

第1章では,個人がどのような動機づけでホームページをもとうとするのかについて論じる.著者は,情報呈示・自己表現・コミュニケーション動機という三つの属性をそこに見いだす.国際的な比較をしたとき,日本のウェブサイトの多くが「情報よりは自己重視が多い」(p. 18)という特性が際立って強いことが指摘される.ウェブ日記をもつサイトの割合が日本では24%もあるのに対し,アメリカや中国ではそれぞれ8%,4%という低率であることに驚かされる.日本のウェブサイト所有者の多くは「自分を語る」ことに重きを置いているということなのだろう.

第3章と第4章は本書の核心部分である.第3章では,「なぜウェブログを書くのか」という問いに対して,ウェブ日記の心理学的な分析を通して答えようとする.著者はウェブ日記のもつ属性の正準判別分析を通して,「自己表出(自己効用)」の軸と「他者関係(他者効用)」の軸を発見した(pp. 85-86).そして,この二つの正準軸の張る空間の中で,ウェブ日記の4類型カテゴリー(p. 83)−−“事実”を述べる「備忘録」と「日誌」そして“心情”を語る「(狭義の)日記」と「公開日記」−−がうまく分かれることを示す.さらにこの章では,重回帰分析を用いて,ウェブログを書き続ける心理学的要因に関するモデルのテストを行なっている(pp. 88-92).この部分については,続く第4章において,共分散構造分析を用いた因果モデルの構築とテストという方向に発展させられる.

この章で特筆すべきことは,「日記」のもともともっていた「自己表現のためのメディア」である特性が,ウェブログという新しい環境のもとで,あらためて開花しつつあるのではないかという指摘だ.日記は明治中期に成立した読書文化としての「黙読」習慣の成立を前提とするという記述(p. 95)は確かに納得できる.ウェブ日記からウェブログへの変遷は「日記」が個人の中でもつ重みを増す方向に働きかけたということなのだろう.“心情”を語る日記についてのこのような分析は,他方で“事実”を述べる日記についても可能なのだろうか.そのような疑問は次の第4章の主題である.

第4章では,個人がウェブログを「書き続ける」(単に「書き始める」だけではなく)心理的動機を,第3章が分析した〈人間的側面〉に加えて,〈情報的側面〉にも注目して,共分散構造分析に基づく心理的潜在要因の因果モデルを構築し,それをテストしている(pp. 113-120).その結果,たいへんおもしろいことがわかった.“事実”に関する情報開示を主眼とする〈データベース型ウェブログ〉と個人的な“心情”を語る〈日記型ウェブログ〉とでは,「書き続ける」心理的動機づけが異なっていると著者は結論する.すなわち,両者のタイプは「欲求→効用→満足」という基本的な心理プロセスに関しては差がないが,〈日記型ウェブログ〉は,情報の提供や獲得が動機づけにつながっていないのに対し,〈データベース型ウェブログ〉では自己表現の満足度が動機づけに結びつかないという大きなちがいが見られる(pp. 117-118の図4-3と4-4).

最後の終章では,ウェブログのこれからを述べる.ウェブログのタイプ別を問わず「重要なポイントは,それらが継続して蓄積されていくこと」(p. 159),要するに「ただ書き続けること」(p. 136)という本書の中心的メッセージは確かに受け取りましたよ.ウェブログをやっているそこのアナタもぜひ本書を読みましょうね.付録の資料はたいへん参考になる.

三中信宏

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「電気」をめぐる人間絵巻と歴史の皮肉

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

多面的な内容をもつ伝記だと思う.読者のもつ問題意識や事前知識によってさまざまな読み込みができる本ではないだろうか.「電気」を売る企業を率いた“発明王”トーマス・エジソンと同じく独力でのし上がってきた好敵手ジョージ・ウェスティングハウス.1世紀以上も前にアメリカで戦わされた「直流」対「交流」の〈電流戦争〉は本書の背後を一貫して通る縦糸だ.
 一方,歴史のタペストリーを編む横糸となったのが,その「電流戦争」の中で産み落とされた〈電気椅子〉による史上初の犠牲者となった死刑囚ウィリアム・ケムラーである.本書は,ケムラーの処刑執行の詳細を歴史の裏面を埋もれた資料を発掘することにより明らかにした.そして,遺族からの情報も聞き出した上で彼の人生を描き出そうとする.単に「電気椅子処刑者第1号」という記号としてではなく,生きた人間が「そこ」に座らされたことを読者に再認識させる.
 本書は,この縦糸と横糸を織り上げながら,電流をめぐる当時の科学・技術の状況,そして犯罪者と死刑囚をめぐる法学論議,さらに政治や報道のあり方まで含む幅広い話題をまとめあげた労作だ.
 ウェスティングハウス側の妨害を乗り越えて,交流を通電した電気椅子の上でケムラーの処刑を“首尾よく”達成し,交流の人体への危険性を示せたという点では,直流派エジソンの戦略的勝利だった.しかし,振り返ってみればむしろ交流の方がアメリカ社会に普及し,最終的に直流を押さえ込んだという点では,エジソンの宿敵ウェスティングハウスの企業的勝利といえる.その一方で,その後も数々の歴史的発明を量産し技術史に名を残したエジソンに対し,ウェスティングハウスの名はほとんど忘れ去られる.後年,皮肉にも「エジソン賞」を受賞することになるウェスティングハウスだったが,彼の起こした会社は20世紀後半になって企業としては没落した.一方,エジソンの起こした電灯会社(エジソン・エレクトリック・ライト)は後にGE(ゼネラル・エレクトリック)社となり,いまや世界に冠たる大企業として繁栄し続けている.陳腐ではあるが,歴史の皮肉を痛感する.
 1世紀以上にもわたる「電気の世界」での二転三転する勝者と敗者の関係を描いた本書は,科学[者]の社会的波及効果についての格好の事例研究になっていると思う.私はいままでは漠然としかエジソンの人となりを知らなかったが,そうとうアクの強そうな人生を送ったようで,敵もさぞおおかっただろう.エジソンが〈オズの魔法使い〉のモデルだったとは知らなかった.
 たいへん興味深い疑問がひとつ残る —— 電気椅子が処刑装置として効果的であると多くの科学者が認めてきたにもかかわらず,「どのようなメカニズムで電流が生物を死に至らしめるのか」という点がいまだに解明されていないという点だ.この〈科学的〉な問題点の解決が脇に追いやられ,政治・法律・業界・社会などの周辺世界に生じた波紋が思わぬ方向に広がっていく過程を丹念に後追いした著者の力量は本書を読めばきっと納得できるだろう.

【目次】
序章
第1章:いよいよだ,ケムラー
第2章:電流戦争——エジソン対ウェスティングハウス,DC対AC
第3章:電気処刑新法
第4章:ハロルド・ブラウンと「処刑人の電流」
第5章:「縛り首にしてくれ」——ウィリアム・ケムラーの人生,犯罪,そして裁判
第6章:異常なほど残酷な刑罰
第7章:残酷でも異常でもない刑罰
第8章:ケムラーの遺産——人道的な処刑手段を求めて
用語について
謝辞
訳者あとがき
原注索引

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踊る裸体,ひしめく怪物,充満する寓意

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現在,スペインのプラド美術館に所蔵されている初期ネーデルラント絵画の逸品『快楽の園』を解読する本である.著者が,たった1枚の三連画に秘められたさまざまな寓意や比喩そして語呂合わせをひとつひとつ読み解いていくさまは,有能な探偵を髣髴とさせる.それにしても,著者は,何十年もの間この絵を見続けてきて,なお新たな発見があると言う.驚きだ.まだ解釈されていない図像(イコン)がこの絵にはきっと潜んでいるのだろう.寓意画の奥深さと冥さを体感させてくれる.

ヒエロニムス・ボスのこの絵には多くの裸体人物が描かれていて,著者の主たる関心はそれらの人間図像のもつ意味解きに向けられている.しかし,それ以上に多くの〈怪物〉がこの絵には登場する.それらがもつ博物学的な意味づけはどうなるのだろうか.興味は尽きない.絵は「眺める対象」としてだけではなく「読みこむ対象」でもあるのだということをあらためて認識させてくれる.

『快楽の園』の実物をこの目で見て...いや読んでみたくなった.

【目次】
はじめに

序章:『快楽の園』の全体像
 プラド美術館に入るまでの経過
 作品の構成
 解釈をめぐって

第1章:外翼パネル
 天地創造
 ノアの日々のように

第2章:左翼パネル
 主なる神とアダムとイヴ
 生命の木と知恵の木
 生命の泉とフクロウ
 後景の動物たち
 背景の山
 エデンの園

第3章:中央パネル
 前景
  穴の入り口
  前景と語呂合わせ
  人物群の特徴
  黒人とリンゴ
  果実
  イチゴ
  手足
  果実の皮
  Y字型
  貝を運ぶ男
  魚
  フクロウ
  鳥の群
  テント
  身ごもった女
 中景
  池
  円環
  卵
  騎馬行列
 背景
  泉
  岩
  空中

第4章:右翼パネル
 地獄の特徴
 木男
 僧院
 切り裂かれた耳
 音楽地獄
 便器に座るサタン
 虚栄と鏡
 賭博の罪
 豚の口づけ

結びにかえて


参考文献
あとがき
索引

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紙の本大阪の錦絵新聞

2003/08/26 12:40

明治初期の忘れられたヴィジュアル・メディアの再発見

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明治初期の出現し,たった10年という短命に終った「錦絵新聞」を新聞史の観点から掘り起こした本である.このように体系的に記録されなければ,資料は時間とともに散逸するままになってしまっただろうと思う.口絵に掲げられた十数葉の錦絵新聞は,いま目にしても好奇心を煽られてしまう.

当時の殺人・怪談・不倫・喧嘩など三面記事的なテーマが中心だった錦絵新聞は,現在であれば駅のキオスクで目にするようなケバ目の表紙のスポーツ紙あるいは写真週刊誌のような売られ方・読まれ方をしたのだろう.関係者の実名は載せる,ガセネタもおかまいなし,創刊と廃刊を繰り返す,という目まぐるしさは,このメディアがたとえ一時的にせよ広く社会に受け入れられ,しかも求められていた証しなのか.

知識層相手の〈大新聞(おおしんぶん)〉に対置される庶民向けの〈小新聞(こしんぶん)〉にやがて取って代わられることになる運命を背負った錦絵新聞——その文章を書いた記者や錦絵を描いた絵師のたどった系譜を振り返ると,時代的な危うい偶然の出会いがこのメディアを成立させていたといえるだろう.挿し絵が入ったという点では,たとえば同時代のイギリスの『パンチ』や『イラストレーティッド・ロンドン』が対応するのかもしれないが,内実や役割には大きなちがいがあるだろう.

新聞史を専攻する著者がたまたま注目してくれたおかげで,このような絶滅メディアが1世紀後に掘り起こされることになった.そのような著書に出会えた偶然にも感謝しなければならない.本書に続く『大衆紙の源流:明治期小新聞の研究』(2002年12月10日刊行,世界思想社,ISBN: 4-7907-0962-0)にも期待したい.

三中信宏(24/August/2003)

【目次】
視覚メディア史の基層を見直す(津金澤聡廣) 3
はじめに 5

第一部 明治開化期のヴィジュアルメディア——錦絵新聞のあらまし 11
 1.錦絵新聞とは何か——浮世絵,よみうり瓦版,そして新聞 12
 2.「錦絵新聞」か「新聞錦絵」か——小野秀雄と宮武外骨の研究 15
 3.東京における錦絵新聞 19
 4.大阪における錦絵新聞の誕生とその背景 36
 5.大阪における錦絵新聞の種類 40
 6.大阪における出版統制と錦絵新聞の版元 52
 7.錦絵新聞から小新聞へ 61
 8.西南戦争とその後の錦絵新聞 66

第二部 大阪の錦絵新聞 75
 其之一 夫婦喧嘩もの 76
 其之二 異人もの 86
 其之三 教育もの 98
 其之四 巡査もの 106
 其之五 妖怪もの 116
 其之六 残酷もの 126
 其之七 珍談もの 136
 其之八 経済もの 144
 其之九 役者もの 154
 其之十 孝行もの 162
 其之十一 奇談もの 170
 其之十二 心中もの 180
 其之十三 相撲・醜聞もの 190
 其之十四 遊女もの 200
 其之十五 老人もの 212
 其之十六 西南戦争もの 220

あとがき 229
参考文献 [xxiii-xxiv]
大阪で発行された錦絵新聞一覧 [xi-xxii]
東京で発行された錦絵新聞一覧 [vi-x]
索引 [iii-v]
英文要約 [i-ii]

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機会論と物活論の闘いの「力」概念の近世史をみる

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近代の「力」観念史をたどる第3巻は,ウィリアム・ギルバートの
〈磁気哲学〉とヨハネス・ケプラーの天文学で幕をあける.磁力と
重力の主役が出てくる予感がする.ギルバートの磁気哲学の影響を
受けたケプラーは星の運動もまた遠隔作用による力の影響を受けて
おり,磁気作用と同じだろうという推論である(p.696).そして,
重力を明らかにするための「数学的関数」を編み出す.

しかし,重力の数学的定式化を試みたケプラーの精神は,次の世代
には引き継がれなかった.第19章は,デカルトとガリレオの〈機
械論〉に光を当て,遠隔作用を否定する機械論がケプラーの意図を
つかみ損ねた経緯をたどる.デカルトが遠隔作用を近接作用によっ
て説明するために編み出したさまざまな憶説(エーテル体説や渦動
仮説など:p.750)は,ことごとく失敗し,磁力を近接的に説明す
るための「施条粒子説」にいたっては空論そのものだった(p.76
4).第20章では,フランシス・ベーコンに始まるイギリスの経
験主義をとりあげ,デカルトの機械論が経験主義の土壌で変容して
いくようすが考察される.言説はデータに基づいてその真偽が判定
されるということだ.ロバート・ボイルがこの立場を代表する科学
者として登場する.

続く第21章は,王立協会の創立とともに,経験主義に則った〈実
験哲学〉がイギリスに浸透していく過程を論じる.ロバート・フッ
クやアイザック・ニュートンは,近接作用としてではなく,ふたた
び遠隔作用として磁力と重力をとらえなおした.重要なことは,問
題設定のスタイルそのものを変え,「〜とは何か」という存在論的
設問(本質と原因への問いかけ)を放棄し,「〜はどのように作用
するか」という法則性の定量的解明を解決すべき問題としてセット
した(pp.850-860).力の法則性を解明することで,〈魔術〉的性
格をもっていた遠隔力は合理化されたのだと著者は言う(p.862).
重力に関する遠隔作用論はこのようにして経験科学の中に着地した.

最後の第22章は,磁力の法則性解明と遠隔作用解釈の定着につい
てである.18世紀に入り,ヨーロッパ大陸で進められた磁力の測
定実験を通じて,重力と同様に,その法則性が解明されていった.
この経緯を振り返って著者はこのように要約する:「物理学は事物
の本質についての形而上学的な認識を求めることを放棄し,さしあ
たって現象の法則についての数学的な確実性を求めることに自足し
たのである.そしてここに数理物理学がはじまる」(p.935).

「力」概念の発展史から言えることは,遠隔作用を否定したデカル
ト的機械論は結果として敗退し,対立する自然魔術的な物活論が近
代物理学を生みだした母体ということである.魔術が確かに近代科
学の成立に寄与したことは事実であり,それを過小評価したり,逆
に過大評価することを戒めつつ,本書全体が締めくくられる.

ローカルな科学における概念形成史をケーススタディとして追求し
た本書は,単に物理学史の書物というだけにとどまらず,もっと一
般的な「自然思想史」とみなされるべきだ.物理学のたどってきた
道を生物学のそれと比較してみると,両者のちがいは明白だろうし,
そのちがいが何に由来するのかを探るのはきっと本書と同じ1000ペ
ージの本を要求するだろう.存在の学としての形而上学は,なぜ物
理学では〈無害化〉できたのか,それにひきかえどうして生物学で
は形而上学が〈野放し〉のままなのかを問いかけることは意味のあ
ることだろうと思う.クラスと個物のちがい? それとも,歴史上
の偶然?

現代物理学では不問に付された形而上学は果たしてこのまま休眠し
続けるのかという問題意識をもちつつ,本書を多くの読者に勧めた
いと思う.文句なくいい本だから.

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「自然魔術」という触媒の役割

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第2巻は〈魔術〉が中心テーマとなる.「魔術」と聞いて後ずさり
する読者はきっと少なくないだろう。しかし,この巻こそ,全体の
中でもっとも刺激的かつおもしろいと私は感じる.いわゆる〈暗黒
の中世〉からルネサンスを経て,近代の科学に連なる系譜を考える
とき,さまざまなタイプの〈魔術〉とよばれる「技芸」があったわ
けで,著者はその中でも遠隔作用としての「磁力」は〈魔術〉その
ものであったことを指摘する.しかも,〈魔術〉の発展とともに進
んできた「実験的手法」と「経験的思考」は,その後の近代科学が
育つ揺籃であったことを著者は示す.

第10章では,この〈魔術〉に光を当てる.ルネサンスにおける
〈魔術〉の復権は,人間が自然を支配できるとみなすルネサンスの
人間中心主義の精神のもうひとつの発露であると著者は言う(p.34
3).もちろん,もともとの〈魔術〉は超自然的な霊(ダイモン)
によるとみなされる行為だが,クザーヌス以降,そのような〈ダイ
モン魔術〉とは別個の〈自然魔術〉が登場してくる(p.348).著
者はこの〈自然魔術〉がその後の科学に与えた影響を「力」概念の
史的検討を通して調べる.遠隔力という〈隠れた力(virtus
occulta)〉をあやつるという点では同一であっても,宗教的な
〈ダイモン魔術〉と定量的な〈自然魔術〉とは異なっている(p.37
0)という著者の主張は,その後の章でも繰り返し述べられる.

第15章では,ルネサンス後期の自然魔術を論じる.〈隠れた力〉
も最終的には自然的原因に帰着されるのであって,ダイモンのよう
な超自然的原因をもちだすのはまちがっているという見解(p.51
7)は,「自然主義的で技術的な魔術観」(p.524)をもたらす.現
代の多くの読者にとっては,「魔術」と「科学」の並列は違和感が
ぬぐえないが,本書でいう〈自然魔術〉はほとんど【実験科学】と
同義であるといってよいことに読者は気付かされる.

欲を言えば,ここでも中世の形而上学(存在論)との関わりに言及
があってほしかった.なぜ「本質」を求める実念論的姿勢が中世の
スコラ学に広まっていたのか.対立する唯名論の立場はどうだった
のかとか.アリストテレス的な演繹主義が本質主義をベースにして
いたことは事実だろうし.いずれにせよ,演繹的なスコラ学と超自
然的な〈ダイモン魔術〉を両極端としたとき,非演繹的でしかも実
験に基づく〈自然魔術〉がその内分点に位置するという著者の主張
は説得的だ.

第16章は,デッラ・ポルタのベストセラー『自然魔術』(1558)
をとり上げる.タイトルとは裏腹に,ほとんど「博物誌」に近い内
容をもつとされる本書は,「思弁的な文献魔術から実証性を重んじ
る実験魔術への転換」(p.571)を遂げたという点で画期的な書物
でありとくに,デッラ・ポルタの磁石研究は後世の歴史家がことごとく
見逃してきたが,その内容は続く時代の先鞭をつけたものにほか
ならないと著者は言う.


この章の終わりの部分で,著者は〈魔術〉と〈科学〉のちがいをま
とめている(pp.599ff.).〈魔術〉の秘匿性に対する〈科学〉の
公開性という対比は,実はそれほど正確ではなく,むしろ初期段階
では〈魔術〉も〈科学〉もともに公開性と秘匿性を併せもっていた
と考えるべきだろうと著者は言う(p.601).科学の裾野が広がる
につれて,出版や教育を通じて秘匿性がしだいに消失し,世俗的に
なっていったというのが著者の意見である.

(第3巻に続く)

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「魔力」としての力の観念史

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物理学における「力」概念の歴史的発展をたどった本.とくに「遠
隔力」をめぐるさまざまな言説を通じて,【魔術】(誤解されやす
い言葉だが)が近代科学の成立に果たした役割を再評価する.序文
に書かれてあるように,「力」のような「特定の問題の解決や個別
的な概念の形成」(p.1)についての科学史的研究がこれまで乏し
かったという認識のもとに,グローバルではなくローカルな視点で
物理学の歴史を追究する.

とりわけ著者が注目するのは〈中世〉である.ギリシャ時代の再発
見を契機としてルネサンス以降の近代科学が生まれ出てくるのだが,
その間に挟まれた〈中世〉の果たした役割は無視され,「千年余は
完全に空白になって」(p.13)いた.科学と魔術が入り交じってい
たこの〈中世〉をもういちど読み直すのが,本書のもっとも意欲的
な目標である.

前半の章では,本書全体を貫くふたつの対立する自然観について論議
が進む??「物活論」vs「還元論」の対立は,言い換えるならば,
有機体的全体論に基づく遠隔作用論vs機械論的還元論に基づく
近接作用論の対立だと著者は言う(pp.59,91).しかし,中世が
はじまるとともに,近接作用論は千年の忘却を体験する.

第3章はローマ帝国時代.磁石の遠隔作用はプリニウスの博物学書
(p.117)などを通じて広く知られるようになったものの,その解
明はむしろ後退した.それに代わって「自然の共感/反感」(p.11
8)というような解釈が登場することになる.実験や観察ではなく,
文献からの孫引きのもたらした弊害は甚大だった.

第4章は中世キリスト教のもとでの自然研究のありさま.しかし,
そのような閉塞状況にあっても中世の「力」に対する関心は方々で
発現する.11〜12世紀にかけて再発見されたギリシャ時代の文化的
蓄積がイスラム圏を通じて大量にラテン語に翻訳移入されることに
より(p.178),キリスト教に対抗する経験的知識の威力が徐々に
ではあるが認識されるようになる.

関心が湧く点は,この〈中世〉にあって経験的知識あるいは経験主
義的立場がどのように維持されてきたのかということ.著者は,第
6章で,中世スコラ哲学を代表するトマス・アクィナスに注目する
(第6章).彼は異教徒と闘うには,宗教ではなくむしろ哲学(科
学的真理:scientia)を武器とすべきだと考えた(p.210).この
ラインに沿って,トマスは「異教徒」アリストテレスとキリスト教
とを融合することで〈スコラ哲学〉を成立させた(p.211).真理
と信仰とは矛盾しないというトマスの立場は,キリスト教世界の枠
内で「自然学」を可能にしたと著者は考える(p.213).

おそらくこの文脈では,中世の存在論(形而上学)についてもっと
掘り下げるべきだったのだろうと思う.しかし,著者は「本質主
義」についてちらっと言及するだけで(p.230),それ以上は議論
していない.全体を通じて言えるのは,形而上学に関わる論議には
できるだけ触れないようにしつつ,「力」の概念の成立を論じてい
ることだ.第3巻の結末で明らかになることだが,最終的には形而
上学を棚上げにしたところに近代物理学が成立したという著者の見
解のもとでは,形而上学が脇役にまわされるのはしかたがないこと
なのだろう.

続く第7章では,13世紀のロジャー・ベーコンの「経験学」
(scientia experimentalis)が取り上げられる.現実の自然界に
比べたときのスコラ哲学の貧しさを痛感したベーコンは,演繹科
だけではなく帰納科学の重要性を強調する(p.242).磁石の遠隔
作用についても,ベーコンは近接作用の立場から合理的な説明を試
みた(p.266).ベーコンと同時代のペレグリヌスによる『磁気書
簡』は,磁石の極性などの性質を指摘した最初の著作である(第8
章).彼はまさに「経験の巨匠」(p.287)だった.

(第2巻へ続く)

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これぞまさしく〈蜻蛉日記〉だ!

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どんな形態であれ「日記」を読むのは,ちょっと後ろめたくて,だからこそ愉しい.今西錦司の「カゲロウ日記」——厳密には「日記」というよりも「ノートブック」に近い気がする.1935年の春先から初夏の4ヶ月に書かれたこの「日記」は,今西が当時カゲロウ研究のフィールドとしていた京都の賀茂川(本書では「加茂川」)水系での「採集日誌」である.

「日記」ならではの個人的な思いが随所に溢れる.単に論文書きや分類専門家ではない自然探求者(Naturforscher: 68)としての「渓流生活者」(p.5)と自らを描く今西は,ひたすらカゲロウを追い求める.カゲロウの学名が頻出する本文ではあるが,カゲロウ学の専門家による詳細な傍注によって,読者の理解は大きく助けられている.この「日記」を何とか世に送り出そうとした関係者の努力が,本書の資料的価値をもたらしたのだと私は思う.

「棲みわけ理論」——今西の名とともに知られるこの学説の萌芽は本書に見られる.カゲロウの「life zone」(p.18)の概念がそれである.流域の特性によってカゲロウが「棲みわける」という発想がこの「日記」の中で育まれていったのかと思うとたいへん興味深い.幼虫の移動に関する観察,亜成虫の不思議な潜水行動の発見,成虫の大量死の目撃などなどカゲロウの生活史のすべてを知ろうとする今西の情熱が文面から伝わってくる.植物生態学の概念(たとえば遷移)の動物生態への適用, biosystematics にも通じるような分類群の概念化のあり方など,当時の(今西の)生態学理論の成立事情を垣間見る気がする.

6月の日記は「洪水記」と記されている.賀茂川の歴史に残る大氾濫に遭遇した今西は,その被害の甚大さを眺めながら,「自然は一寸微動した」(p.137)だけなのだとつぶやく.もちろん,その天災は自分にもふりかかってくる.「人間丈でなく,川の虫も自然の微動で姿を消した.われわれの仕事もこれで一旦は中絶である」(p.138)——「日記」の最後を締めくくるこの言葉は,まさに〈蜻蛉日記〉の象徴ではないか.

今西のカゲロウ研究に啓発された研究者はほかにもきっとたくさんあるだろう.そういう周辺の事情を丹念に掘り起こしていくことで,今西はしだいに「神格化」とは正反対の「対象化」がなされていくのだと私は思う.

ぜひ多くの読者が本書を手に取られることを.

---
【目次】
刊行の辞(石田英實) i
刊行に寄せて:今西ノートの背景(吉良竜夫) v
凡例 x

採集日記:加茂川1935
 第一冊 March 3
  三月の summary 41
 第二冊 April 49
 第三冊 May 91
  上高地方面採集記 123
 第四冊 June〔洪水記〕 127

解説1 日本の水生昆虫学と今西カゲロウ学(谷田一三) 139
解説2 ノート発見の経緯、執筆時の今西さんのことなど(斎藤清明)149

関連カゲロウリスト 155
関連水系図 161
索引 162
---

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紙の本生物学名概論

2002/12/05 14:36

たそがれに魔物が見える学名学

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「余人をもって換えがたし」——この著者にして,はじめてこの本は可能になった.『学名の話』(1989)・『生物学名命名法辞典』(1994)・『新版・蝶の学名』(1999)という,同じ著者による浩瀚きわまりない「学名学」シリーズに連なる最新刊である.はじめて本書を手にした読者は,「学名」の歴史的背景を垣間見ると同時に,「学名学」の冥い淵に思わずたじろいでしまうだろう.学名研究という分野は「逢魔が辻」だと私は感じた.だからこそ著者は声を上げるのだ——

・学名学にとっては,「人類が育ててきた文化であり,人類共有の財産」(p.8)である生物の学名を「守り育てるのは生物学者の義務である」(p.230)と訓話される.
・学名学にとっては,学名は「知的欲求を満足させてくれる」(p.v)の対象とみなされる.それゆえ,「良識ある分類学者」(p.139)は,学名を支えているラテン語やギリシャ語の素養をもつ必要があるということになる.
・学名学にとっては,分類学専攻であるか否かを問わず,「学名に挑戦する意欲」(p.231)が重要であると考えられている.
・学名学にとっては,学名は「情報源としても機能」(p.8)し,「すべての情報はその学名に蓄積される」(p.228)とみなされている.

本書の大部分は「語彙辞書」と「六法全書」である.しかし,学名学の基盤には,「分類学」というもっと生物学寄りの学問があるのではないか.ぼくの目には,本書は「ある分類学的信念に導かれた語学書」以外の何ものにも見えない.リンネの時代には,確かに二名法は生物の体系化にとって,(認知的に見て)きわめて効率的な方法を与えた.しかし,リンネの命名体系のみを語学的に「単離」してその美学的評価をすることに(第3章),いったいどれほどの現代的意義があるのか,ぼくには理解できない.

すべての学名には由来があるのは当然だろう.それを知ることが学名学であるのならば,そういう学問もあっていいとぼくは思う.でも,学名の語義を云々する前に,分類学に対するもっと広い視野をともなう議論が本書に含まれてしかるべきではなかっただろうか.本書に決定的に欠けているのは「総論」である.著者は言う:「学名は人類が存在する限り存在し続ける」(p.120)と.しかし,学名学が全面的に根付いている分類学の総論的議論なくして,いたずらに詳細な語義詮索は読者(分類学者の「卵」も含めて)の意欲を喪失させるということをちょっとでも考えたりしなかったのだろうか.広い意味での「社会」への視点が欠けた構成だと私は感じた.

学名学というものが学問として成立し得ることを認めつつも,そして本書の著者が現時点では数少ないこの分野での泰斗であることを認めつつも,ぼくは本書はきわめて正確に的を外していると思う.学名学が分類学とどのようにかかわってきたのか,今後どのようにかかわっていくのか——それを理解するには「語学」と「法学」だけでは役不足だと思う.

本書のカバーデザインは,東大出版会のナチュラル・ヒストリー・シリーズにしては斬新で人目を惹く.濃紺の地に経文のようにびっしりと書き連ねられた学名を見て,ぼくは即座に【耳無し芳一】を想起した.やっぱり逢魔が辻だったんだ.

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紙の本民族という虚構

2002/12/05 14:26

アンチ本質主義から見た「民族」観

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本書のメッセージは明快である——「民族同一性は虚構に支えられた現象だ」(p.iii)という主張を社会心理学の観点から立証するのが本書の目標である.

「人種」とおなじく「民族」もまた客観的な根拠のないカテゴリーである.本書の前半部分では(第1〜2章),生物学的にみても根拠のない「民族」がどのような詭弁によって生き延びてきたのかをたどっている.確かに,「ある分類形式が人間にとって自然に見えるからといって,それが世界の姿を客観的に写していると言えないのは当然だろう」(p.6)という著者の見解に私は賛同する.

「分類の恣意性」(p.23)にこだわるあまり,著者は池田清彦や渡辺慧のいう「醜い家鴨の仔の定理」に言及しているが(pp.6, 23),これは勇み足である.また,生物の系譜や血縁まで「虚構」(pp.41, 56)であると断言しているのは明白なまちがいだと私は思う.生物に関わるすべてのことが虚構であり,社会的・文化的に構築されたとみなす本書の基本的スタンスは再考の余地があるだろう.

しかし,こういう勇み足や言い過ぎは,本書全体の価値を減じるものではない.著者の問題意識ないし問題設定は明確である.「日本人とか中国人あるいは日本とか中国とかいう対象はそもそも実在するのか,また存在するとしたらどういう意味で存在すると理解すべきなのかという点にある.言い換えるならば,集団現象はどこにあるのか,個人の頭の中にあるのか,集団というモノがあるのかという存在論が問題になっている」(p.53).この問題設定は,生物学における【種】の問題とも密接に関係する論理形式を共有している.すなわち,「民族という言葉が使用されるとき,時間の経過とともに様々な要素が変化するにもかかわらず,その集団に綿々と続く何かが存在しているという了解がある.この時間を越えて保たれる同一性はどのように把握すべきなのか.絶え間なく変化していくという認識と同時に連続性が感じられるのは何故なのだろうか」(pp.29-30)というおなじみの問題である.

この問題に対して,著者は「心理現象としての同一性(pp.48ff.)」という解答を用意する.記憶や意識による personal identity の保持であったとしたら,かつてのジョン・ロックの焼き直しにすぎないが,著者は一歩進めて社会心理学の観点から,集団における虚構としての民族概念の成立を論じる.とくに,「対象の異なった状態が観察者によって不断に同一化されることで生じる表象が同一性の感覚を生みだす」(p.50)という主張には魅力を感じる.identify する者がいればこその identity という見解だ.

民族観を「あたかも変化を超越した実体が存在するかのごとき感覚」(p.52)を生む社会心理現象として論じている点が本書の魅力であり,後半の章では,具体的な事例(在日朝鮮人社会における民族同一性の意識など)を取り上げている.虚構をネガティヴにとらえるのではなく,むしろ虚構による民族同一性を積極的に評価しようというのが本書後半のメッセージだ:「民俗や文化に本質はない.固定した内容としてではなく,同一化という運動により絶え間なく維持される社会現象として民族や文化を捉えなければならない」(p.191)——すべて虚構だとみる著者の見解に私は与してはいないが,民族という生物カテゴリーをアンチ本質主義の観点から捉えようとする著者の姿勢には共感する.

「変化するものがなぜ同一であり続けるのか?」という形而上学の問題は姿形を変えて,さまざまな状況で表面化する.【種】しかり,【民族】しかり.

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紙の本同一性・変化・時間

2002/12/05 14:21

「食材」はいいのに,「調理」がイマイチ

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著者の問題意識は一貫している:「同一であるものが,どうして変化しうるのか」(p.2);「同一性と変化は折り合わない」(p.3)——形而上学(存在論)の大問題としての「同一性」は,the species problem に代表される生物学だけでなく,さまざまな場面で表面化する.この同一性問題を一般読者にわかりやすく説明しようと著者は努めており,第1部ではそれなりに成功しているようだ.

「ピンポン玉モデル」(pp.17ff.)とか「ソーセージ・モデル」(pp.19ff.)のような図を用いた同一性の説明は直感的でわかりやすい.ただし,いかんせん論議の深まりが足りない.講演会での討議録を踏まえた内容なので仕方がないのかもしれないが,「同一性」の主張の背後には,明示的あるいは暗示的に「本質」への支持がなされているのがふつうだ.しかし,そういう言及はない.ソール・クリプキやヒラリー・パトナムの新手の本質主義への関わり合いも間接的にしか論じられない.

「変化は変化のままに,そして同一性はそれを立ち止まってふり返るときに現れる四次元個体」(p.50)というようなもわもわした結論では,読者は消化不良になってしまう.暗に心理的・認知的な同一化過程を著者は示唆しているようにも私には思えたのだが,そうであればまだ論議の展開としてはましだったかもしれない.

しかし——第1部の「討議」(参加者は郡司ペギオ-幸夫,津田一郎,茂木健一郎,団まりな,松野孝一郎,計見一雄,池田清彦,法橋登)以降,議論の道筋は私の期待からは大きく外れていく.著者の踏み込みの浅さは討論者の何人かが指摘する通り——たとえば,「日常でわれわれがもっている“個別性”に対する一種の信憑というか,思考のパターンを抽出したいということなんですか? それとも,なにか,“存在論”に関わるようなことにも手を出したい,ということなんですか」(茂木,p.56)——だが,著者を含む討論はいまひとつ要領を得ない.

そのうち,同一性の問題は「言語」の問題だという著者の考えが出現してくる.著者は「同一性というのはけっきょく ... 世界を語る“語り方”に依存する—— ... “理論に依存する”のだということです」(p.66)と言う.本書の後半部分は,「存在論が異なるならば,その言語は異なる」(p.246)という主張のもとに,同一性に関わる「言語の問題」を論じています.「テセウスの船」を想起させる「ノイラート丸」の分岐ケースは説明事例として確かにおもしろい.

でも「言語」をよりどころとして解決できる問題ではないと私は思う.なぜって,著者はくり返し「直観」(p.228)による同一性の認識を論じているからである.むしろ,なぜわれわれが「直観的」に,変化するものを同一とみなすのか?——それが問題なのであって,言葉がどうこうというのは根本的なレベルでの「誤爆」ではないだろうか.分岐ケースの解決として,「存在論の変化によって言語変化を引き起こしている.その二つの言語を整理して捉えるならば,もう矛盾に悩まされる必要はない.これがぼくの結論です」(p.251)と言われても,悩みは実は何も解決できていないのではないか?

存在の問題を言葉の問題として解こうとしたのがまちがいなのだと思う.

せっかくいい「食材」だったのに,「調理」の仕方をまちがったために,出てきた料理はイマイチだった.

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紙の本死体につく虫が犯人を告げる

2002/08/25 15:59

「法医昆虫学」は,とてもワクワクする!

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これは,法科学(forensic science)と昆虫学の接点に生じた「法医昆虫学」(forensic entomology)を紹介した一般向けの本だ.新しい研究分野が開拓されていくさまは,たいへんドラマチックだ.ある学問が,周囲の無理解に発するさまざまな障害を乗り越え,社会的な認知を獲得していく過程は,それだけで十分に物語となる.法医昆虫学とは,人間の腐乱死体をリソースとする動物相(昆虫などの節足動物が主)の生態を研究する分野である.その研究成果が,殺人事件の解決に大きく寄与する成果を次々にもたらしたことが,研究分野としての社会的な認知を定着させた理由だと著者は言う(第12章).

人間の死体が他者によって発見されたとき,その死体はさまざまな腐乱ステージにある.そして,その死体を接触する数多くの虫たちの群集組成や発育ステージなどの情報は,リソースである死体が生じた時間・状況・経緯について驚くほど正確な知見を与えられることを,著者は数々の殺人事件の事例を挙げながら紹介していく.本書の大部分を占めるケース・スタディーは,「人間の」という形容詞句を除外するならば,きわめてよく書けた生態学の記述になっていると私は思う.状況によって,腐乱死体の動物相がおもしろいように変化する——「人間」ということを切り離せるならば,研究対象としては申し分ないかもしれない.

法医昆虫学の最大の特徴は,他の法科学と同じく,「法廷」という研究発表と討論の「場」があるということだ.この点が法医昆虫学の社会的認知にとってプラスにもマイナスにも働いていると著者は率直に述べる.本書のおもしろさは,「学界」と「法廷」での科学的知見の取り扱われ方の差異,さらには科学をめぐる科学者と法曹との駆け引きが随所に描かれていることだ(とくに第11章).法廷論争を通して科学の社会的受容のあり方についても読者に考えさせる本書は,複層的に読みこめる.

法医昆虫学者としての仕事に携わるときには,取り組む物件が「人間の死体」であることを「切り離す」ことが肝要だと著者は言う:「私は扱っている事件と自分の感情を切り離しておかなければならないのだということを学びました」(第10章,p.168).研究に忍び込むバイアスを恐れての自制心だが,その一方で「完全に自らを切り離せるようにはなっていない」(p.169)とも告白する.事件に深入りしたあまり,精神に傷を負った同僚もいたとか.やはり「つらすぎる仕事」なのだろうかと,私は推察するしかない.

テーマがテーマだけに本書を手に取る前から「ひいて」しまう人も多いかと思う.ただし,昨今の「ミイラ本」によくある「ご対面〜!」スナップはいっさいない.もちろん,法医学の専門書や報道写真にありがちな「目を覆いたくなる現場写真」も皆無.あるのは,死体を目ざとく発見するオビキンバエさんやチーズバエちゃん,あるいは脇役エンマムシ君のイラストがちょこちょこと載っているくらい.下世話な興味を引こうとする姿勢はまったくない.おぞましい素材にもかかわらず,冷静な執筆態度だと私は感じた.

翻訳文は読みやすい.しかし,よくあることだが,原書の参考文献と索引が省略されているので資料的価値はゼロだ.必要な情報は,たとえば法医昆虫学のWWWサイト から得られるだろう.

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【目次】
プロローグ——一九八四年,ホノルル
第1章:昆虫学者,死体と出会う
第2章:虫の証拠を読み解く方法
第3章:腐乱死体を研究する
第4章:ハエはすばやく事件を嗅ぎつける
第5章:乾いた死体を好む虫たち
第6章:死体が覆い隠された場合
第7章:ハチ,アリのたぐい
第8章:海上の死体,吊り下げられた死体
第9章:殺虫剤と麻薬の影響
第10章:つらすぎる仕事
第11章:証言台の昆虫学者
第12章:法医昆虫学を認めさせる
エピローグ——新しい挑戦
訳者あとがき
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神田村「方丈記」を読んで——ほんの街のほんとうの姿がほんの少しわかったみたい

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こういう「日記」って好きだなぁ.忙しい日々の仕事をこなし,多くの客や仕事仲間と接し,いろんなイベントに顔を出しながらも,自分の趣味や生活はしっかり確保して楽しんでしまう——本書の著者の二人は,その書きぶりやものの見方こそ違っていても,同じ書店を切り盛りする働き手の立場から,本をめぐるさまざまな事情を垣間見せてくれる.本や読書のあり方そして出版不況をめぐっては激しい論議が絶えないが,本書はそういう場から一歩だけ身を引きつつも,ことのなりゆきをじっと見つめている.肩肘張らない「方丈記」になっていると私は感じた.

確かに本書の舞台である書店「書肆アクセス」は誇張でなく「方丈」である.神保町すずらん通りに面した店舗はうっかりすると通り過ぎてしまう.「書肆アクセス店内図」がはじめて公開されているが(p.63),客の立場から言えばこんなに広々としてはいないぞ.レジ前なんかすれちがうのも不自由するほどだ.この狭い店内のいったいどこに「半畳もの」スペースを取ることができたのかはじめて理解した.そうか,ヒミツの一角が奥にあったのか.

この狭さにもかかわらず,置いてある本のユニークなことと言ったら.書肆アクセスは,フシギな神田古書店街の中でも,とりわけフシギな異空間である.沖縄のミニコミ誌,紀州の南方熊楠資料,東北の方言記録,北海道アイヌの民俗資料など,日本の南から北まで目配りした,他の本屋ではぜったい出会えない本たち.地方・小出版流通センター直営ショップならではのラインナップだ.

以前ならば,私的な巡回コース——小川町方面からすずらん通り進入,東京堂書店洋書コーナーを経由して,書肆アクセスに到達,「茶房きゃんどる」で一休み——があったのだが,中継地点だった「茶房きゃんどる」はもうなくなってしまった(他にも今はもうない店がたくさんあるが).本書の端々にはこのような神保町の移り変りがさりげなく記されている.本屋だけの街ではなかったのだ.見返しに載っている「神保町路地裏MAP」は,このエリアを歩こうという読者には絶好のガイドとなるだろう.

無明舎出版のWWWサイト連載中から「半畳日記」を楽しんできたのだが,まとめて読めるのはとてもうれしい.でも,こんな本を読んだら,また神保町に行きたくなってしまうじゃない.今度は「スヰートポーヅ」でお昼をすませようかな.「さぼうる」にもしばらく行ってないなぁ.ああ,なんて罪な本.「書肆アクセス」の方丈が豊穣をもたらし,半畳日記が繁盛日記となることを祈りつつ.(三中信宏/bk1ブックナビゲーター)

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【目次】
はじめに(黒沢説子) 7
仕事と映画と仕事の日々 9
神田村が危ない! 17
私は「インチャリの会」会長です 23
ヨコハマ映画祭に行ってきたゾ 30
エレキギターの「あけぼのさん」 36
宇宙艇の俗信さん 42
三年ぶりの神田明神大祭だッ 49
MXテレビと結婚式 55
ペンフレンドとはとバスツアー 65
玉川温泉で一皮むく 71
食べた飛んだ引っ越した 80
準備に余念なし 86
幸せ気分地獄経由出雲行 94
それなりの年末 99
イチゴに釣られる 105
本屋さんのカガミ 114
(ここまで黒沢説子著,以下は畠中理恵子著)
二十一世紀最初の日 123
狭い店内,やること無限 131
仕事ばかりが人生じゃない 139
へんな終わりかたの四月 146
お店がリニューアル,来てください 153
人が減り,売り上げあがらず六月の空 159
書店は「一番荒廃した沼地」? 166
夏休みは猫といっしょに 171
猫と暮らせる家を探して 178
私だって戦争だわよ 185
猫持ちはつらい 193
鈴木書店の影 202
五キロ減量の一月 208
考えることがたくさん 217
パニックだ!春よ早くこい 224
あとがき(畠中理恵子) 231
「地方・小出版流通センター」のあゆみ 234
書名索引 [1-5]

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紙の本書評はまったくむずかしい

2002/06/10 21:10

書評はまったくおもしろい

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本書のタイトルに惑わされてはいけない.民俗学の書評集として読んだとき,本書はたいへん充実した内容をもっていると私は感じた.最近10年あまりの間に著者がさまざまなところで発表した書評の集成である.内容は,朝日新聞書評欄をはじめとする単行書の書評で,長いものでも10ページを越えることはほとんどない.柳田国男の思想を中心として,民俗学と歴史学にまたがるさまざまな話題が,重心をずらしながらも,くり返し登場する.

書評を読む楽しみは,ターゲットとなる書評本の内容と併せて,書評者のスタンスをじかに感じ取れる点にあると私は思う.とくに,自分が過去に読んだことがあるあるいはこれから読もうと思っている本が書評されていると,同意/異論は別にしてつい深く読みこんでしまう.その点で,民俗学という特定分野のまとまった書評集が出たことは一読者としてたいへんうれしい.タイトルに迷わされることなく,多くの読者が本書をひもとくことを期待したい.

一読者としては確かにおもしろく読めるのだが,書評者の立場から見るとそれほど単純なことにはならないのかもしれない.冒頭の3エッセイ——「書評は批評の場ではない」,「書評に疲れている」,「書評のモラルとは何か」——は,書評に対する著者の見解を簡潔にまとめている.「この国のジャーナリズムの世界では,書評は書物の批評を意味するわけではない.批評など,誰ひとり期待していない」(p.11).著者・編集者など関係者との人間関係に気を使うあまり,「なるべく波風の立たない,お茶を濁すだけの書評を心掛けるようになる.そうして,さらに書評からは,面白味やスリリングさといったものが欠落してゆく」(p.17).このような書評の難しさを前にして,著者は「書評がこれほどに,労多くして報われぬ仕事であることを知る人はたぶん,いたって少ない」(p.18)と言う.

人文系の書評ってなんだかたいへんだなぁと同情する.自然科学系の本ならば,まちがっている点はそう指摘すればすむ話だし,著者側に反論があればパブリックに言えばいいわけ.実際,私の知っている自然科学系の雑誌では長大な書評論文に対して,著者が噛みつくという事例は事欠かない.私にとっては,書評は,ターゲットとなる本の内容を吟味した上で,他人の購読意欲に効果的に影響を与えられるかどうかがポイントとなる.ダメな本はダメだし,いい本はいいと言うだけ.もちろん,箸にも棒にもかからない本は最初から書評しないので,あえて書評にとり上げるからには自分なりの判断がそこに入る.また,署名書評しかしないので,逃げ場はもともとないと私は腹をくくっている.

全体を通読し終えた後でふりかえると,書評に対する著者の見解には私は共感できない.というか,「書評に疲れた」(p.22)と告白する著者が,なぜこれほどまで精力的に「書評」を書き続けてきたのだろうか? この発言と実践との齟齬が私には納得できない.著者はこの点についてもっと言うべきことがあるのではないだろうか.

本書を読んだ私の第一印象は「書評はまったくおもしろい」だった.こういう書評集ならば,続刊を期待したいほどだ.

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【目次】
I 9
II 77
III 133
IV 253
あとがきにかえて 336
初出一覧 338
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頭骨,身体,知能指数を測ることで,人間を測りそこねてしまった歴史の教訓

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先日惜しくも逝去した著者の残した数多くの著作の中でも,本書はひときわ異彩を放っている.その中心テーマは生物学的決定論だ.「生物学的に決定されている」という主張は,教育や環境によっていかに人間を向上させようとしても,しょせんは「限界」があるとみなす運命論・宿命論を育んだ.優生学や優生運動はその延長線上にある.本書を通じて著者は,社会の中に埋めこまれた活動としての科学が,人間に関していかに誤った決定論的主張を繰り返してきたかを科学史的にたどっている.

生物学的決定論の何が誤りなのか——著者は「実体化」(reification)と「序列化」(ranking)という二つのキーワードに沿って決定論の誤謬を暴こうとする(第1章).19世紀には,人体計測を通して,民族・人種・社会階層の間のちがいを定量化しようとする研究が大流行した,人体計測学とか頭蓋計測学とよばれる学問分野は,生物学的決定論に客観性を与える上で大きな貢献をした.著者は,これら人間の計測学の系譜を詳細にたどることで,そのような研究がいかなる文化的・社会的バイアスのもとで推進されていったのかを明らかにする(第2〜4章).

とりわけ頭蓋骨の計測は特別な意味があった.それは,人間の「知能」を客観的に計測できるかもしれないという希望を科学者に与えたからである.20世紀に入ると,その動機づけは知能の実体化を目指すという心理測定に置き換えられた.知能指数(IQ)をいかに測定するか,そして人種間の知能指数の差異がどれくらい遺伝的に決定されているかを解明することが当時の大きな研究目的となった.心理学者によって編み出された知能テストは,軍事・移民・優生・断種政策など多方面にわたって強大な影響力を及ぼした.しかし,その研究を進める中で置かれたさまざまな生物学的仮定が根本的にまちがっていることを著者は片端から指摘していく(第4〜5章).

統計学を駆使した定量化は,知能なるものの巧妙な実体化と序列化をもたらしたと著者はみなす.続く第6章は本書の中でもっとも技術的な内容を含む.古生物学者としての訓練を受けた著者は統計学とくに多変量解析の素養をもっているが,この章では多変量解析の1手法であり,心理測定学で広範に用いられてきた因子分析の批判的検討をしている.著者は,一般知能なる量が実在するという因子分析からの結論はまちがっていると言う.

生物学的決定論に向かって決然と「ノー」を突きつける著者は,その後の増補改訂版でも新たな遺伝決定論の出現に対してさらなる闘いを挑み続ける.近年の人間社会生物学や進化心理学に対しても著者は終始批判的だ.読者は過去の歴史をふりかえることで,人間を対象とする生物学的研究(とその社会的影響)の抱える問題の根深さを再認識するにちがいない.

本書は,古生物学や進化学に関する数多くの洒脱なエッセイで知られる著者のもつもうひとつのハードな側面を見せてくれる.

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【目次】
謝辞 9
第1章:序文 13
第2章:ダーウィン以前のアメリカにおける人種多起源論と頭蓋計測学
——白人より劣等で別種の黒人とインディアン 27
第3章:頭の測定——ポール・ブロカと頭蓋学の全盛時代 80
第4章:身体を測る——望ましくない類猿性の二つの事例 132
第5章:IQの遺伝決定論——アメリカの発明 175
第6章:バートの真の誤り——因子分析および知能の具象化 294
第7章:否定しがたい結論 403
エピローグ 420
原注 423
訳注 435
訳者あとがき 439
参考文献 [xii-xxii]
索引 [i-xi]
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