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みゆの父さんのレビュー一覧

投稿者:みゆの父

82 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本魔女の宅急便 その1

2002/06/17 22:41

本の力

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

〈魔女の宅急便〉と聞いただけで、反射的に宮崎駿が描くキャラクターの顔が目にうかび、「落ち込むこともあるけど、私は元気です」という最後の台詞を思い出し、荒井由美「やさしさに包まれたなら」を口ずさんでしまう。そんな人は、きっと僕だけじゃなくて、相当いるはずだ。それくらい映画『魔女の宅急便』は愛されてきた。『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』ほどのメッセージ性はないけれど、爽やかで、柔らかく、万人に愛される作品だったと思う。

その映画に原作があることは何となく知っていたけれど、今度文庫化されたのをきっかけに、実際に読んでみた。もちろん、魔女の少女キキが修行に出て、ある町のパン屋に居候しながら宅急便屋をするというストーリーの大枠は、この本も映画も同じ。ただし、積み重ねられるエピソードは違っている。

でも、この本と映画の違いはそれだけだろうか。この本を読んで、僕はなかなか不思議な体験をした。最初のうちは、映画のあれこれのシーンが頭の中に浮かんできて、まるで映画を追体験しているような感じがした。つまり、この本が映画の原作なのではなく、映画がこの本の原作になっているような印象だったのだ。でも、読み進めていくと、どんどん映画のシーンはフェードアウトし、この本の独自の世界が広がりはじめる。本というメディアが持つ力が威力を発揮しはじめる。

それでは、本が持つ力とは何だろうか。それは、よく言われることかもしれないが、僕ら読者に想像の余地を残していることにある、と僕は思う。映画に出てこない人物が本に出てくると、まず、この人が映画に出ていたらどんな風に描かれていただろうか、という疑問が生まれる。そのうちに、映画のことなんかどうでもよくなり、この人はどんな人だろうか、という疑問に変わる。そして、やがては、主人公キキをはじめとする、映画に出てきた人物までが、どんな人だろうか、という疑問の対象になってくる。こうして、僕らは映画の磁場を逃れ、今度は、この本の磁力に引き寄せられてゆくわけだ。

誰もが経験する(経験した)思春期の一大イベント「ひとりだち」を、魔女が修行で宅急便屋をするというユニークな設定のなかで語るこの本は、じつは様々なメッセージを隠し持っている。そして、それを、ユーモアと優しさに溢れる文章のなかに閉じ込めている。こんな時代にもかかわらず、いや、こんな時代だからこそ、僕も含めて思春期なんぞ遠い昔話になってしまった大人にこそ読んでもらいたい。あのころの、不安と期待が表裏一体をなす〈可能性の世界〉を思い出すために。

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紙の本

紙の本必読書150

2002/06/10 15:24

啓蒙という名の欲望

13人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ブックガイドとしては、まあ使えない本だろう。その理由を二つ挙げておこう。

その一。序文は「このリストにある程度の本を読んでいないようなものはサルである」(七頁)と書いているが、人間がサルに戻れることを証明したと言うのであれば、これはダーウィンの進化論以来の大発見をしたぞと宣言しているに等しい。しかも本を読まないだけでサルになれるなんて、これじゃほとんど〈トンデモ本〉の世界だ。

その二。この本は、七人の執筆者(経済学者一人、評論家三人、作家三人)による座談会、解説付きブックガイド一五〇冊分、そして一行ヒント付き文献リスト七〇冊分からなっているが、もちろんメインはブックガイドだ。ところが、そこに付された解説がくどい。〈難しいことを易しく伝えるのが大切だ〉と喝破したのはある小説家だけれど、〈易しいことを難しく伝えるのが評論家の仕事なのか〉と思わせるほど、一部の解説は小難しい。どうでもいい話を延々と続けるのもあるし(たとえば九三頁)、文献リストに付された一行ヒントのほうが圧倒的に上出来で面白い。全二二〇冊、すべて一行ヒントだけでよかったのに、と思うのは僕だけだろうか。

ただし、ブックガイドとして読まなければ、実はそこそこ面白く、また考えさせられる本でもある。その理由も二つ挙げておこう。

その一。著者のうち三人は作家、つまり自分のオリジナリティで勝負する人々だ。ところが、座談会を見ると、そんな人々までが「今の学生諸君にも教養に対する一定の欲求はある」(二三頁)とか「知的な水準を今後は維持できないんじゃないか」(三五頁)とか、他人の心配をしている。他人の心配をするのは教師であり、教師のすることは教化つまり啓蒙だから、三人は啓蒙の徒としてふるまっているわけだ。しかし作家に他人のことなんぞ気にしている暇はあるんだろうか。作家を魅了するほど啓蒙の力は強いのだろうか。それとも、作家が心配しなければならないほど啓蒙の力がなくなったのだろうか。

その二。そんななかにただ一人、評論家なのに、他人のことを気にしていない執筆者が屹立している。つまり、啓蒙する気がないのだ。これはこれで、現代にあって稀有な存在というか、潔い態度の表明なのかもしれない。気にさわる態度でもあるけれど。

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紙の本

ウェルメイドな推理小説の味わい(難しすぎるけど)

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

あんまり売れそうもないけど、学問の凄まじさを感じさせる一冊。マックス・ヴェーバーという20世紀を代表する社会学者の主著を徹底的に解剖し、その問題点を洗い出し、その原因を推理する。そのプロセスは、まさに上質な推理小説の味わい。

出てくる単語は英語、ドイツ語、そして多分ラテン語にギリシャ語にヘブライ語……、と壮絶だし、たとえば山ほどある各国語訳の新約聖書を問答無用で比較対照する、という知的体力には脱帽。難しくてついてゆけないところもあるけど。

唯一残念なのは著者の文章がところどころお下品になること。分析対象のヴェーバーも文章がお下品だったことの反映なのかもしれないけど、でも、ちょっとね。

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紙の本

常識が破壊されるのを見る快感

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 僕は親馬鹿だ。「娘に甘い父親」のイメージに「体力不足なのでときどき娘よりも先に寝たり、疲れると、遊ぼうっていう娘の催促を無視して寝たりする」を足すと、ちょうど今の僕になる。二歳の娘よりも寝るっていうのも格好悪いけど、それは措いといて、問題はしつけだ。甘い父親は当然しつけも甘いわけで、娘が食事中に歩き回れば、スプーンと箸を持ってあとを追いかける。テレビやビデオが見たいっていったら、もちろんオーケーして、一緒に見る。そして、あとから「これでいいんだろうか」って反省する。しつけたい気がないわけじゃないけど、娘の自発性を尊重したい気もするし、揺れる親心。その一方で、青少年犯罪をめぐって「近頃の若い者の家庭のしつけはなっとらん」って叫ぶ意見をよく耳にするようになって、僕の混迷は深まるばかりだ。
 この本の著者の広田さんは、家庭の教育力は低下してるっていう「常識」(九ページ)に対する疑問から、明治維新後のしつけの歴史を振り返った。第二次世界大戦前の農村部では、しつけをしてたのは家庭じゃなくて共同体(むら)だった。家庭にとって子供は労働力だったし、子供は放ってても育つと考えられてた。もちろん共同体のしつけには、放任しすぎるとか、余所者は対象から除外するとか、しつけの基準がローカルで閉鎖的だとかっていう問題点があった。大正期の都市部では、サラリーマンなどの新中間層が出現した。彼らは、家庭は子供のしつけの主体であり、子供は教育の対象だって考えた。戦後しばらくはこの二つのしつけ論が共存してたけど、高度成長期に入ると、農村部では青少年流出や農業兼業化や挙家離村が進んで共同体が弱まり、しつけを担えるのは家庭だけになった。一九七〇年代に入ると、都市部でも農村部でも、父兄の富裕化や高学歴化や情報化や少子化が進み、学校に対する家庭の発言力が大きくなった。こうして、共同体にも学校にもしつけを委ねない「教育する家族」が完成した。家庭の教育力が低下したっていう「常識」は間違えてる。こんな常識が広まってる背景には、しつけの全責任を家庭が担うから関心が高まった、しつけは家庭ごとに違う、モラルの基準が世代毎で違う、自主性を重視するしつけや家庭のあり方が孕むディレンマ等等、色々な理由がある。それじゃ僕らが今しなきゃいけないことは何か。それは、広田さんによれば、家庭やしつけのあり方は多様だってことを認識すること、非行としつけの関係を冷静に分析すること、そしてしつけの限度をわきまえること、この三点だ。
 この本のメリットは次の三つだ。第一、世間にはびこる「常識」に疑問を持ったこと。広田さんといえば、「最近は青少年犯罪が凶悪化してる」って主張に疑問を持ち、統計的な手続きを踏んで徹底的に批判したことでも知られてるはずだけど、疑問を持てることってやっぱり一種の才能なんだろう。第二、きちんとした手続きを踏んで、「常識」が正しいかどうかを検証したこと。ここまで丁寧にしつけの歴史を分析されると、「常識」が錯覚や誤解にもとづいてることがよくわかる。第三、「常識」を生み出した原因を考慮したうえで、僕らがしつけに悩まないための処方箋を提示したこと。つまり、しつけには大したことは期待できないって考えること、完璧な親になろうって考えないことが大切なのだ。こう考えると、たしかに気が楽になってくる。肩の力が抜けてくる。
 もちろんこの本には問題点もある。学校としつけの関係の歴史を十分に説いてないこと。提示する処方箋がわりと精神論的で、いまいち具体性に欠けること。でも、いいのだ。僕はこの本を読んだおかげで「親馬鹿でいいんだ」って思えるようになったのだから。もちろん「しつけはやーめた」って考えてるわけじゃないけど。

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紙の本

民主主義を僕らの手に

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 娘が生まれて二年、ものの見方が少しずつ変わってきたような気がして仕方ない。もちろん、子供と暮らせば、乳幼児向け番組や子供向けヒットソングに詳しくなるし、保育や教育の情報にも耳を傾けるようになるだろう。僕だってそうだ。でも、どうもそれだけじゃない。たとえば、僕はおよそ世間と無関係で役に立ちそうもない仕事をしてて、前はそれで満足してた。同業者のあいだで自分の評価を上げることが大切だったのだ。でも、娘が生まれてからは、色々と他のことにチャレンジしようって考えるようになったし、実際に始めてみた。僕がいう「他のこと」っていうのは、趣味とか株式投資とかじゃなくて、地方自治体が保育所におこなう助成の拡充を求める(娘は保育所に通ってるのだ)とか、住んでる地域の町内会活動に参加するとか、まちや県が募集する各種委員に応募しようって知人に勧めるとか、色々な講演会に足を運ぶとか、そういったことだ。些細でちっぽけでつまらないことかもしれないけど、本人にとっては大きな一歩なのだ。こんな心境の変化が生じた理由は、多分、将来娘が生活する社会がましなものになってほしいって親心だろう。でも、こんなことをして意味があるのだろうか。こんな疑問に頭を悩ませてるとき、偶然僕はこの本を読んだ。
 もちろんこの本の直接のテーマは、僕の疑問とは関係ない。政治学者のパットナムさんは、一九七〇年代に生まれたイタリアの州政府について、その行政遂行力や効率性(制度パフォーマンス、IP)を分析するためにこの本を書いた。ところが、各州のIPを分析して比較してみると、北部は高く南部は低い傾向にあった。この差の理由は何か。北部の市民は政治に関与し、公的な領域と私的な利益を両立させ、水平的な連帯や協力や市民的結社を生み出す。南部の市民は政治的な無力感と疎外感を感じ、私的な利益だけを追求し、力のある人に頼る垂直的な人間関係(クライアンテリズム)に頼る。つまり市民度が違うのだ。それでは、この差の理由は何か。一一世紀以来、北部では市民的な伝統を持つコムーネ共和主義が発達したのに対して、南部は封建的で専制的な支配が続いた。つまり歴史が違うのだ。理論的にいうと、行政を円滑に進めようとすると(ただ乗りや裏切りをする)フリーライダーの問題を解決しなきゃいけないけど、そのためには相互の信頼や規範やネットワーク(社会資本)が有力な武器になる。水平的な人間関係では信頼が協力を生み、協力が信頼を育てるけど、垂直的な人間関係では相互の信頼が生まれにくいのだ。
 歴史のあり方が社会のあり方(とくに市民度と社会資本の大きさ)を規定し、今度は社会のあり方が制度の遂行力や効率を規定するっていうのが、これは、下手をすると、歴史が全てを決めてしまうっていう「宿命の道」って考えにつながる。これまでの歴史で決まってるから、何をしても無駄ってわけだ。でも、歴史は人間が作ったものだから、かえることだってできるはずだ。この本は、行政や政治のあり方をかえたければ行動しなきゃいけないし、行動すればいいっていうメッセージを発してるのだ。もちろんそのときには、信頼と協力にもとづいた水平的なネットワーク組織が大きな力を果たすだろう。
 それじゃこの本は、上で書いた僕の疑問を解決するのに役立つだろうか。この本のキーワードは市民度と社会資本だけど、これは二つとも僕らの身近な生活にかかわってる。信頼や協力や連帯の力を信じ、政治や公的な領域に対する関心を失わずに、僕らができる身近なことを自分のできる範囲でやれば、いつか実を結ぶかもしれない。そう、娘が大きくなる頃にはね。なにごとも小さな一歩から始まるのだ。この本は僕にそんな希望を与えてくれた。そんなことを期待して読みはじめたわけじゃないんだけど。

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紙の本

想定読者は誰か

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

色々な読み方はできるし、色々と教えられることはあるし、色々な「侮蔑や罵倒」(まえがき)は楽しめるけれど、読みおえたあと、どこか狐につままれた感じになる本だ。

著者の野口さんといえば、これまでも経済学の素人を対象にした本を何冊も書き、経済理論に正確にもとづいて経済政策を議論し、評価することの大切さを説いてきた、日本では稀有な経済学者だ。なんたって、デビュー作『経済対立は誰が起こすのか』(ちくま新書、一九九八年)からして、〈トンデモ〉という言葉を使って、貿易に関する俗説を切りまくる、という荒業をやってのけた快著なのだ。
 
〈経済学者〉と〈エコノミスト〉が別々の職業になっているらしい日本では、野口さんのようなスタンスは珍しい。経済学者は他の経済学者だけを相手にし、素人は素人で経済学者の仕事は役に立たないと見切っている。大抵の経済学者は経済理論についての専門論文を英語で書くのに忙しくて日本経済にコメントする暇がないようだし、日本経済にコメントする仕事を任された一部の経済学者やエコノミストは経済理論を勉強する暇がなくなるようだ。そして、経済学の専門家と素人の乖離、理論を研究する人と政策を提言する人の乖離、これら二つの乖離が日本経済の不幸の一つになっている。

さて、この本は、ある経済雑誌に過去二年間連載された経済論壇時評を採録した第二部と、この時評全体を顧みて、そこから野口さんが得た教訓(というか省察)を展開した第一部からなっている。

第一部は、なぜ素人は経済学を嫌うのか、という疑問から始まり、経済学をつまらないものにしている経済学者を批判し、返す刀で経済理論を正確に論理的に用いた議論をせずに俗説を振り回す一部の経済学者やエコノミストを批判している。先に触れた二つの乖離を問題にし、それを、専門家は素人に対する責任を果たしていない、という観点から結び付ける。これは、経済学者も含めた専門家が孕む問題点を正しく指摘していると僕は思う。というわけで、この第一部は学問論としても貴重なものだと思う。

第二部は、過去二年間の経済論争がどのように展開されてきたか、折々の問題に対する野口さんの立場はどのようなものか、その背景にある経済理論は何か、といったことを知るためには役に立つだろう。ただし、僕がわからないのは、そしてそのせいで狐につままれたような気持ちになったのは、この第二部の想定読者は誰か、という問題なのだ。経済雑誌に連載されていたから当然のことかもしれないけれど、そこにはデフレ・ギャップとかクラウディング・アウトとかモラルハザードとか、経済学の素人にはおよそ縁遠い世界の言葉がてんこ盛りで出てくる。これはつまり、この本自体の想定読者は多少とも経済学を知っている人であり、経済学の素人はお呼びじゃない、ということなのだろうか。しかし、もしもそうだとすれば、そんなスタンスは第一部で展開された学問論とずれていることにならないだろうか。第一部にふかく納得しただけに、僕にはそんな疑問が残ってしまった。

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紙の本

必読

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

自慢になるかどうかわからないけど、ぼくは若桑みどりさんのファンなのだ。ぼくはジェンダー論も美術史も詳しくないけど、後者の領域に属する若桑さんの『絵画を読む』も『イメージを読む』も、ともにぶっとびの快著だったのを覚えてる。

そして今回の本は、若桑さんが川村学園女子大学で担当している「ジェンダー文化論」の産物。ディズニー・アニメのなかの様々な差別意識をえぐりだすっていうのはわりとよくある話だと思うけど、この本には研究者としての、教育者としての、そして人間としての若桑さんの情熱が溢れてて、感動させられていしまう(こういう授業を受けられる学生は幸せだなあ)。なんと不覚にも涙が出てしまったのは、ぼくが幼い娘を持つ父親だったからか?

若桑さんは「知識だけが女性を解放する」(p.194)と宣言する。まったくその通り。ただし、知識が解放するのは女性だけじゃなくて男性も、なんだけど。

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紙の本

「大切なのは世界を変えることである」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

さっぱり変わんない日本(景気回復はどこに行った!)。嬉しくない方向に変わってく世界情勢(平和の配当はどこに行った!)。それでも、世界のあちらこちらでは、そして多分日本のあちらこちらでも、まともな方向に変えようとする努力が積み重ねられてるんだろう。

そんな努力の一つが、メキシコはチアパス地方の先住民運動「サパティスタ運動」だ。日本ではいまいち知られてないけど、インターネットは駆使するし、欧米の著名な政治家を呼んで国際会議はするし、運動のスタイルがお洒落。

この本は、そんなサパティスタ運動を紹介し、分析したもの。言説分析とかいう方法を使ってる部分はよくわかんないし、はっきり言ってつまんないけど、それ以外の部分は、著者の山本さんが運動に寄せる熱意がほとばしってて、熱い。

むかし「哲学者たちは、これまで世界を解釈するだけだった。しかし大切なのは世界を変えることである」という名言があった。でも、哲学者の末裔である今の学者さんたちの中で、世界を変えようとしてる人がどれだけいるだろうか。自分たちに都合の良いように変えようとしてる人はいるかもしれないけど。

というわけで、「あとがき」にある「大学を退職したら、チアパスに居を構え……、文字通りサパティスタと共闘、共生できればと強く思う」(275頁)という文章だけで、買い。こんな学者がいたなんて、日本も捨てたもんじゃない。

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紙の本

紙の本クルマを捨てて歩く!

2001/10/08 14:40

揺れる親心

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 僕は、車(マイカー)を持ってない。運転免許も持ってない。別に環境問題とか自動車の社会的費用とかを慎重に考慮した結果じゃなくて、学生のころは貧乏生活してたから車を買う金がなかったし、その後はしばらく東京で勤めてたので、車が必要だって思わなかっただけのことだ。結婚して、今のまちに引っ越して、小金もできたし必要も出てきたけど、今度は自動車学校に行くのが面倒くさい。というわけで、僕は車と無縁の生活を送ってきたし、うちにも車はあるけどかみさんの通勤用だ。ところが、娘が生まれて、僕は車についてちょっと真面目に考えるようになった。つまり、一方では「かみさんの不在中に娘に何かあったら困るから、やっぱり免許を取っておこうか」って考えてみたり、他方では「娘が交通事故にあったら悲しいだろうから、やっぱり車が少ない社会がいい」って気もしてきたのだ。こんな二つの考えの間で、今でも僕の気持ちは揺れ動いてる。

 この本で、著者の杉田さんは、「あの」北海道で車のない生活を数十年間続けてきた体験をもとに、車のない生活が個人にもたらすメリットを様々な角度から考えた。それは三つにわけることができるだろう。第一、精神的なもの。他人を傷付けずに生きるっていう、人間の最低限のモラルを取り戻せる。いつ加害者になるかわからないっていう不安がなくなる。歩行者同士は対等な関係だから、相手の身になって考えたり人間関係を良くしたりできる。せかせかした時間の使い方をしなくなり、計画的に一日を過ごすようになる。第二、経済的なもの。車にかかる費用がいらなくなる。無駄な買い物をしなくなる。駐車場がいらなくなる。第三、体力的なもの。体力が付く。そのうち歩くのが快感になってく。こんなに良いことだらけなのだから、車じゃなくて歩行者を優先する方向に、社会の仕組をかえていかなきゃいけない。そのための具体的な方法として、杉田さんは、車止め、ジクザク道路、ハンプ、「横断車道」、貸し自転車、遮断機付き横断歩道などを組み合わせた歩行者優先ゾーンを作り、身近な生活道路を安全にしてくことを勧める。すでにオランダでは「ボンエルフ」って名前で実用化されてるらしいし。

 娘が二歳になって、毎日職場から帰宅した後に散歩に連れ出す係を仰せつかった僕としては、娘の安全を考えると、杉田さんがいうことには大抵同感できる。とくに、車生活の(とくに道徳的な)デメリットを並べ上げるんじゃなくて、歩く生活のメリットを伝えるっていうのは、とても良い方法だと思う。「乗ってはいけない」って叱られるよりは「乗らないほうが楽しいよ」って誘われたほうが、読者も気分がいい。また、車よりも歩行者を優先するための具体的な方策を教えてくれたことも、ポイントが高い。とくに、公共交通機関が、人々を運ぶだけじゃなくて、様々な人々が共有する空間を提供してること、生活にリズムをもたらすこと、ちょっと不便だけどその分子供の自立に役立つことなど、色々な役割を果たしてるっていう指摘は、僕の住んでるまちみたいに公共交通機関がいつも赤字で「廃止しろ」って声が出るところでは、とても大切なものだと思う。

 でも、杉田さんの意見に全面的に賛成してるわけじゃない。まず「クルマは時間泥棒」(四二ページ)って言葉には違和感がある。これって割とよく聞くようになった言葉だけど、どこか実態のないレトリックみたいで、僕は嫌いだ。それから「クルマは強者の論理」(三九ページ)っていうけど、どうしても車が必要な人もいる。うちのかみさんは、車があるから娘を保育所に預けられるし、仕事に行ける。杉田さんは車を捨てれば残業しなくてすむっていうけど、車を捨てたら首になる人も沢山いるだろう。こんな人々に届くメッセージが必要だ。それだったら、僕の動揺も静めてくれるかもしれないし。

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紙の本

紙の本絵画を読む イコノロジー入門

2001/09/25 23:55

良質で知的な推理小説の味わい

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 見果てぬ夢だと思うけど、娘にはオペラ歌手になってほしいと僕は思ってる。それにしてもなぜオペラ歌手なのかといえば、答は簡単だ。親は自分にないものを子供に期待するっていうけど、全くその通り。要するに、音楽に限らず、芸術全体のセンスが僕本人にないからなのだ。だから「二歳だからまだまだこれから」って根拠なく思ったり、テレビの音楽で踊ってる姿を見たり音楽教室に通うのを楽しんでるって聞いたりして、心密かに期待してるわけだ。もちろん、ものごころ付いた娘が「いやだ」っていったら、すぐに諦めるだけの覚悟はあるけど。
 そんな僕にとっては、音楽だけじゃなくて絵画も禁断の領域だ。国立西洋美術館とか大原美術館とかルーブル美術館とかオルセー美術館とか、一応それなりにツボは押さえてきたつもりだけど、「それじゃ絵を見て心から楽しんでますか」って聞かれたら一瞬くちごもるだろう。何度か絵を見て魂をゆさぶられるような経験をしたことはあるけど、あまり打率は良くない。やはりセンスの問題なのだろうか。
 美術史家のの若桑さんは、イコノロジーっていう方法を紹介しながら、僕みたいな絵の素人が絵を(ここが大切だけど)楽しく鑑賞する方法を知らせるために、この本を書いた。彼女によると、日本では、絵は読み解くものじゃなくて感じ取るものだって考えられてきた。でも、画家は能力と技術と経済力の全てを使って絵を描いてるわけだから、見る側も知性と知識と洞察力を総動員しなきゃ失礼だろう。しかも、知性を使うと、そのうちに感受性も鋭くなる。何よりも、画家が(意識的か無意識にか)絵に隠したメッセージを読み取れるようになるから、絵を見るのが楽しくなる。この絵の読み解き方を研究するのがイコノロジー、日本語では図像解釈学だ。
 若桑さんはこの方法を使って、ボッティチェッリからミケランジェロからレンブラントからブリューゲルまで、主に一六世紀に活躍した有名な(僕ですら知ってる)画家の絵を次から次へと読み解く。たとえば、この当時、静物や切り花は世俗的快楽のはかなさを表現してた。ボッティチェッリの有名な絵「春」は新プラトン主義哲学の主張する「対立するものの調和」っていう「弁証法」を表現してた。聖母子像(イエスとマリア)が減って聖家族像(イエスとマリアとヨゼフ)が増えたのは、北イタリアで父の権威が高まったことを反映してたた。初代ローマ教皇のペテロ像の表現する意味が「栄光」から「人間的な弱さ」に変わったのは、対抗宗教改革と関係してた。老人は「賢明」を意味したけど、老女は「滅び」を意味してた。若桑さんの鮮やかな手つきにみとれてるうちに、はっとするような発見が現れる。それはまるで良質の推理小説を読むような快感だ。でも、この本のハイライトはブリューゲルの絵「バベルの塔」を読み解いた最終章だ。岩を削って立ってる塔は(岩は初代ローマ教皇ペテロを表わすから)カトリック教会だ、ブリューゲルは歪んだ塔を描くことによって教会の没落を証言した、この主張は両方とも説得的だしエキサイティングだ。芸術を鑑賞する側にとって、知識や知性を持つことがどれほど大切か、どれほど視野を広げ、深くしてくれるかを、僕らはここから読み取ることができるはずだ。
 ということは、感受性がないとしても、ちゃんと勉強して知性と知識を身に付ければ、少しはまともに芸術を鑑賞できるかもしれない。感受性だけじゃなくて知性も必要だっていう若桑さんのメッセージは、僕には心強い味方になりそうだ。でも、よく考えると、この二つをうまくつなげるためにはかなり芸術的なセンスが必要みたいだ。やっぱり僕には無理そうだから、娘に期待することにしよう。期待された方は迷惑だろうけど。

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紙の本

無認可保育所は民主主義の学校である

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 かみさんが働くことになり、二歳になる娘は保育所に通わなければならなくなった。学期の途中だったので、公立や認可の保育所は無理。そもそも僕らが住んでるのは、保育施設の充実度では政令指定都市ワーストワンの地位を争ってるようなまちなのだ。というわけで、当然のごとく娘は無認可の保育所に通うことになった。ところが、無認可保育所はピンキリだ。そのなかから一つを選ぶのは大変だけど、実は面白かった。僕らが選んだのは、ぼろぼろの一軒家と、お世辞にも低いとはいえない平均年齢だけどお世辞にも高いとはいえない給料で頑張る保育士と、どたばた走り回る二〇人の子供が印象的な保育所だった。保育所の全体が醸し出すまったりした雰囲気が、僕には捨てがたかった。
 それから四ヶ月。保育所にかかわるのがこんなに面白いとは予想してなかった。もちろん、キャンプとかバザーとかいった公式の行事が楽しいってこともある。でも、それ以上に、たまに娘を迎えにいって他の子供たちと取っ組み合ったり、父母会などの席で保育士や他の父兄たちと育児のあり方を話し合ったり、まちの保育行政の問題点を考えさせられたりと、非公式な場で体験することの一つ一つが新鮮で面白いのだ。娘にとっても保育所が面白ければいいんだけど、こればかりは本人に聞かなきゃわからない。喋れるようになったら聞いてみたいけど、表情から判断する限りでは、今のところ割と楽しんでるようだ。もしもそうじゃなくて、親だけ楽しんでるんだったら、娘よ、すまん。
 というわけで、せっかく楽しむんだったら理論武装もしておきたい。つまり他の保育所の本を読み、そこで紹介された良い点を娘の保育所に提案することだ。もちろん父兄の提案に聞く耳を持たない保育所だったら、はい、さようなら、だけど、そうじゃない保育所にしていくのも父兄の役割だろう。そんな目的を持って僕はこの本を読んだ。
 大阪にあるアトム保育所は独特な育児の方針を持ってる。大きくまとめると二つになるだろうか。第一、子供は意志を持って努力することによって自信を得るから、なるべく子供の自主性に委ねること。「どうしたかったんやと聞いて、その欲しかったという気持ちに共感してやる」(一七六ページ)っていう言葉は、育児してると時々いらいらして、ついつい自分側のペースで進めてしまう僕には、効いた。第二、「お節介の精神」(一三五ページ)をキーワードにして、父兄や保育士同士が本音でぶつかりあおうとすること。そうすると「トラブルはよいこと」(二二一ページ)になる。涙と笑いと怒りのなかで、大人同士の人間関系が深まってくわけだ。父兄にとって保育所がありのままの自分をさらけ出す場になるのは、よく考えるとすごいことだと思う。
 もちろん、こういったアトム保育所のメリットをそのまま僕の娘の保育所に移植することは不可能だし、望ましくもないだろう。でも、ヒントとして覚えておくことは大切だ。いつか役に立つときが来るかもしれないから。また、アトム保育所のやり方にいくつか疑問を感じたことも事実だ。二つだけ挙げておこう。第一、ここの父兄や保育士は一種のコミュニティを作ろうとしてるけど、ノリきれない父兄にとって、コミュニティって疲れるものだ。絆としがらみっていう、二つの側面を持ってるんだから。そういう父兄にノリを強制するのは望ましいんだろうか。おりる余地を残しておかなくていいんだろうか。第二、信頼感があるから何でも言えるわけだけど、何か言わなければ信頼感は生まれない。それでは糸口はどこにあるんだろうか。
 娘の保育所は小学校入学までの一貫制だから、二歳の娘にはまだ沢山の時間がある。僕ができること、そしてしなきゃいけないことは色々沢山ありそうだ。そう、無認可保育所は、今どき珍しい民主主義の学校なのかもしれない。

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紙の本

愛と勇気と好奇心

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 僕は親馬鹿だ。三六歳で生まれた一人っ子なので仕方ないといえばいえるけど、それはこっちの理屈で、いい迷惑なのは本人(二歳になる娘)だろう。なにせ、音楽にあわせて歌ったり踊ったりするのが好きなばかりに、音楽が好きに違いないって決め付けられ、将来は音楽関係の仕事だって論理が飛び、あげくの果てに(親の趣味と実益が入って)絶対オペラ歌手にするって決められてしまったのだ。一歳半から音楽教室に通い、二歳の誕生日には祖父母からピアノが贈られ、三歳になったらピアノ教室に通う予定だ。もちろんこれは半分本気・半分冗談で、娘が「いやだ」っていったら、この遠大なオペラ歌手化計画は即座に放棄。僕は、好きな仕事をすることはとても大切だ、好きな仕事が出来るように環境を整えてやる(つまり選択の幅を広くキープしておく)のが親の仕事だ、そう思ってる。だから、本人がいやなのにやらせるのは第一の条件に反するから「なし」だし、放っておくのは第二の条件に反するからこれも「なし」だ。
 とにかく、仕事をするんだったら好きな仕事でなくちゃいけない。そんな夢を実現したリナックスの作者トーバルズが書いたってことで、僕はこの本を手に取った。僕はIT弱者だから、この本に対する僕の関心はただ一つ、つまり(娘に好きな仕事をみつけてやるためじゃなくて)娘が好きな仕事をみつけるためのヒントが書いてあるかどうかだ。これって不純な読み方かもしれないけど、「それがぼくには楽しかったから」ってタイトルには、パソコン好きだけじゃなくて、そんな読者も引き付ける力があるような気がする。というわけで一気に一晩で読んでしまった。四つにわけて感想を書いておこう。
 第一、オープンソースって素敵だって感じた。ボランティアで、共同作業で、無償で無料で、改良が自由で、どこか反権威主義っぽいコンセプト。水から空気から人の命に至るまで値段が付いてるこの社会で、こんなコンセプトが放つメッセージは魅力的だ。しかも、このメッセージの背景には哲学がある。人間は、他人からやってほしいことをやり、誇りを持って行動し、楽しまなきゃいけない。人生の意味は、生存すること、社会秩序を維持すること、楽しむこと、このように進化する。オープンソースは「楽しむこと」って段階にフイットしてる。テクノロジーは手段であって目的じゃない。
 第二、仕事は楽しくなくちゃいけないって改めて感じた。仕事の目的は、人間関係を築き、人々から意見や評価をもらうことだ。仕事の原動力は、好奇心と意志と楽しさだ。貪欲はつまらないし、トーバルズもいってるように「絶対によくない」のだ。
 第三、でも、好きな仕事をして生活するのって難しいって感じた。わりと恵まれてたトーバルズも、大学の助手や企業の研究員をしながら、半分は趣味でリナックスを作ってく。もちろん趣味で活躍するうちに仕事の声がかかることはあるだろうけど、はじめの一歩は結構大変だっていうことが、この本を読んで改めてわかった。
 第四、自然体でいるって大切だって感じた。トーバルズは、オープンソースと商用リナックスの関係とか、既存のプログラムとリナックスの関係とか、一部の人々が熱くなる問題に直面しても、「どっちでもいいじゃないか」って自然体を崩さない。これは、いい加減ってみられるかもしれないけど、じつは選択の幅を広くキープしておくっていう態度を反映してるはずだ。
 好きな仕事を楽しくするっていうのは、じつは大変なことだ。でも、沢山の友人や隣人の力を借りながら、一歩一歩夢を実現することは不可能じゃない。そんな勇気をこの本はくれる。働く人には辛い世の中になったけど、僕もいつかこの勇気を娘に伝えたい。

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紙の本

紙の本制度

2003/03/29 09:41

政治学の最前線

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政治学なんて学生時代以来ウン十年お近づきじゃなかったけど、偶然本屋で手にとったこの本を読んでびっくり。こんなに変わってたなんて知らなかった。

政治学っていうと、政治評論家の政治談議や、新聞の政治欄の政治記事というよりは政界記事のつまらないノリを思い出してしまうせいか、どうも偏見があって手が伸びなかった。手が伸びないからわからず、わからないから偏見を持ち、偏見があるから手が伸びず、という悪循環。

でも、こと政治制度の問題については、最近の政治学はどんどん体系的で理論的になってきてる。隣接する社会学とか経済学の知見もどんどん取り入れてる。この本で、著者の河野さんはそのことを丁寧に説明する。政治学の最前線を耳学問するにはもってこいの一冊だろう。

しかも、バランスがいい。河野さんによれば、ただ隣接領域におんぶにだっこすればいいんじゃなくて、政治学の独自性を考えなきゃダメだし、政治学の伝統をバックに見ると、社会学や経済学の知見も批判できるんだそうだ。たしかに、そりゃそうだ。

ちなみにあとがきも格好いいぞ。欠点といえば、値段が高すぎること。どうして東大出版会の本はどれもこれも割高なのだ!

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紙の本

全面的に、許す

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フランスのクオリティ・ペーパー『ル・モンド』の月刊版(正確にいえば違うけど)にして、日本の月刊オピニオン誌並みの量と質を誇る『ル・モンド・ディプロマティーク』通称『ディプロ』の記事23本の翻訳。その(多分)全ては同紙日本語版サイトで読むことができるらしいけど、やっぱり紙媒体は読むのが楽だから、この企画は全面的に許すぞ。

ちなみに日本で『ディプロ』に相当するのは『世界』だと思うけど、『ディプロ』の発行部数は公称24万部だとか。『世界』の発行部数は知らないけど、日本とフランスの人口比を考えると、いやになってしまう。何でこんなに違うんだろうか。

内容的には世界各地の諸問題を扱ってて、ほとんど「知らなかった」の連続。「医薬品の国際アパルトヘイトって何?」みたいな、日本の三大紙の外国情勢に対する疎さのことを考えると、これまたいやになってしまう。何でこんなに違うんだろうか。

記事のなかでとくに読みごたえがあるのは、ブルデューとサイードかなあ。やっぱりシャープだ。

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紙の本

ここがロドスだ、ここで跳べ

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全共闘世代の評論家・笠井さんと団塊ジュニアの評論家・東さんの往復書簡集だけど、絶品。なんたって、途中で東さんが「もう、やめよう」とまで言い出す。世代の差なのか、思想的立場の違いなのか、これだけかみ合わない(対談ならぬ)対論も珍しい。

中身については、とにもかくにも、ポモ系でサブカル系だと思ってた東さんが次から次へとまっとうな発言をかまして、驚天動地。「東は素朴すぎる」って皮肉られるかもしれないけど、最後は素朴でまっとうなほうが勝つ。それが歴史の法則だって。

これに対して笠井さんは(主敵・社会主義が崩壊したせいで魂を抜かれちゃったのか)押され気味で分が悪い。「ああ、そうですか」って感じで、さっぱり何も迫ってこない。

結局、全共闘世代って、「大文字の政治」と「小文字の日常生活」を対置し、両者の間で右往左往するだけで、両者の間に広がる「小文字の政治」や「大文字の日常生活」に目が行かなかったんじゃないのか? でも、とにかく、ぼくらは「今、ここで」行動するしかない。そこにつながらない言葉は、結局は言葉遊びなんじゃないの? というわけで「ここがロドスだ、ここで跳べ」。そんなことを考えさせてくれる点でも、絶品の一冊だと思う。

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