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mirutakeさんのレビュー一覧

投稿者:mirutake

8 件中 1 件~ 8 件を表示

紙の本

性虐待を突きつめたところで届いた、親子の対立の一般性

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

近親者の性虐待、これから時代の問題として大きな課題となることが指摘されている。この本は日本でその先駆けとしての役目を担って編集された。その重さは各自読んで受け止めていって欲しいと思う。
ここまでの紹介だと、性虐待支援者にしか読んでもらえないことだろう。けれど私はこの書から、もっと広く深い親と子の本質への問題意識で受け止めることができた。そこでこの書を一般の人に向かって、親子関係とは何か、その深い追求の書となっていることを伝えたい。
ここではまず著者(リンダ)も指摘しているように、虐待の後遺症は、性虐待が一回なのか長く続いたのかには関係なく、生涯に渡って悩み続けなくてはならないものなのだと言っている。この生涯に渡って悩み続ける=これは普通の親子関係の悩みそのもののことではないのかと気づかせる。
そう、リンダの問いかけは言っている。性虐待か、暴力虐待か、精神虐待(一般的でなかなか解りづらい虐待)かは、問題にならないと。これらの子どもへの虐待は本質的には同じ傷を子どもに残し、生涯に渡って癒えぬ傷に悩み続けることが、等しく同じなのだと言うこと。だから精神的虐待(一般的虐待)を受けた者にも、著者の回答は癒しであるのだ。だからその回答は、親からどのような虐待を受けた子どもにも、深く等しく届くと思う。
リンダが確かな人だと思えたのは、支援者の資格について書いているところでした。
支援者が同じように性虐待を受けた人の場合、人の救済に夢中になることによって、自分への問いかけがしないで済むようにしてしまう人は危険だと言っていて、支援の難しさを指摘している。
そしてこの次のところでは深く納得させられました。それは自己への問い掛けを持っている人は、性虐待を受けていない人でも、支援者になれると言っているところでした。ここにも自分の内なる親子関係への問い掛けを持っている人というのは、信頼できるのではないかという以上に、性虐待を受けた人も実は同じ本質的な親子関係で悩んでいるのだから、これに寄り添えるには、自分の親子関係への問い掛けをやり続けているものでないと、支援や共感は得られないということなのだ思ったのでした。。いくら性虐待を受けたものでも、自己への問い掛けを止めてしまった者は、どこかで繊細な手つきを失っていると言うことでしょうか。著者の開かれている思考を感じます。
また著者は解ることこそが軽くなれることだと言っている。自分に何があったのか、虐待者はどうしてそうするのか、何を考えているのか、それを知ることは自分を肯定できることになるのだと言っている。凄いところだ。知ることこそが自己肯定を得る力だと言っている。あまりにも一般的な、生きてゆく目標のことだと思うのだが、実はなかなか一般には了解されていないことだと思う。
はたまた著者は虐待した親を許せないといい、許せなくて良いのだと言っている。
親を愛したいとは思うが、やったことは許すことができないという。(私の体験もまたそう感じていた。けれどこのことはなかなか一般的には受け入れがたい。)
著者の母親に宛てた手紙には心打たれた。父親から性虐待を受けているのに、母親は娘とライバル関係のように捕らえていってしまうと言うところが、特異なものと思うが、実は普遍的なものがあるのかも知れない。
徹底して自分の親子関係について突き詰めたい人には今までにない思い当たるところばかりで、驚きの内容になっている。

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紙の本

軒遊びを失った子ども達の不登校・引きこもりの時代

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私たちは子ども達の不登校や引きこもりが、普通の子どもがおかしくなった、子ども達がおかしくなった、と言う視線で考えようとしてきましたが、これだけの大きさになってしまうと、社会そのものが子ども達をそこに追い込んでいるのだと考えなくては、解決しないところに来ています。そのことの取り出しがこの「幼年論」の主要なテーマで<「軒遊び」ができない時代と「引きこもり」>と言うことなのです。
 ここでは「軒遊び」というのを自分の時間を生きること=部屋で母親は針仕事をしておき、玄関(軒)に座って外を見ている自分(吉本)がいた、というイメージで提出されています。このゆったりとした一人の内省の時を、一人遊びの時間へと引きつけています。
 乳幼児期、母親が傍らにいることで、子どもは自分の遊びを無心に遊べるという一人遊びの時間、これをたっぷりすごすことで、やっと外に出て行けるのに、現在これが無用に見える時間として切り捨てられてきてしまったと。
 このことを「母親がいるのにいない」という言い回しで表そうとしています。
それは家に母親がいることで一人遊びができるとか、次の段階の外遊びも、母親が家にいることで安心して遊びに行けるということになっているのだ。この母親は家にいるだけで有効な役割を持っていないようで、何かあったらすぐ駆け込める存在として安定を与えていた。これが幼年と言うことなのだ。現在この母親との関係が飛んでしまっていると言っている。そのために引きこもりとは、そのやり直しに当たっているといえるのではないかと。
 また乳房は当時では子どもをあやすためにさえあった。
何か子どもがむずがると乳房を差し出すという風にあったと。このころ乳房は子どもの物であったことが語られる。失った物が鮮烈だと感じる。現在乳房は女性の物になっており、自己の物であることが最優先されている。
 それは日本的な育児と欧米の育児との決着でもあり、芹沢さんから、自分の子たちににやってしまったことの体験談としても報告されている。必読。
 対幻想という概念についても、より詳細な規定が出てきています。
 他者との関係で距離を詰めていった<対>と、愛着関係としての距離のない<対>と、取り出されています。これを吉本の二人の娘との関係の違いとして説明されています。
 この新しく出された規定は、私にとっては次のようになりました。
男女は恋愛という関係の深まりで始まるが、子どもができた時点で恋愛関係は後退し、子どもを含んだ3人の関係として愛着関係が大きく前面に登場する、と言う風に。
 これを言い換えると、男女関係の時に乳房は女性の物で、どの男性に与えるか、どれだけ与えるか、と言うことになっている。が、子供が生まれると乳房はまず最優先に子どもの物となることが、男女の内に承認されると。そして2番目は誰になるのでしょうか。男女の関係が子どもができることで大きく変わると思っていたのですが、それを確実に取り出せ、こんな風に言えることになりました。
 その他多くの話題が取り上げられていますが、こんな話題が私でも書けるところでした。

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紙の本

紙の本引きこもるという情熱

2002/07/28 02:13

引きこもりの広がり

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 大変な本が出たと思います。引きこもりは良くないという時代の風潮に対して、「引きこもる情熱」が大切だというのです。
情熱を持って、しっかりと、「正しく」引きこもりましょうと。正しく「十分に」引きこもったとき、子供たちは自己の生きる道を自身で歩き始めることが、初めてできることが書かれています。そして最後の戦いの相手は自分自身の無意識に住み着いている「社会性」だと。ここまで子供たちの引きこもりの思いに寄り添える人は中々いない。正しく引きこもれないから、「事件」に発展してしまうと。
 そればかりではありません。
引きこもりは、自宅の個室に引きこもってしまった子供たちだけの「社会現象」ではないと、私たち一般社会人の内面さえ解明してくれました。恥ずかしがり、引っ込み思案>対人関係が苦手、集団が苦手>引きこもっている状態、というように連続しているというのです。それは一見社会人として何事もなくこなしている人の内面にも、実は大変に無理をしているそのことです。それを私たちはいろんなことで気を紛らわしながら、何とか切り抜けていることも解明されています。そのひとつが携帯電話なのだと。私たちは電車の中でメールを見つめるとき、「自己領域」に引きこもって、安心の感覚を味わっているのです。時代のアイテムの面白さを受け入れられた私たちは、この道具によってみんなと繋がった感じを持てる。そう逃げ切れると言うことでしょうか。引きこもりの子供たちだけでなく、一般の人たちにさえ救済の手を差し伸べてくれました。著者の視野は大きい。

 著者の今迄の時代に対するさまざまな読み込みが、ここにきて、大きく全体像を形作ったと思います。あちこちに散見された時代の事件・家族・フリーター・モラトリアム・時代習慣たちが、消費資本主義の発展の時代に、必然的な関係をもって起こっていることが解明されています。本当に大変な本だと思います。時代を読み解きたい人にもお勧めです。

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紙の本

紙の本もういちど親子になりたい

2008/03/30 22:49

家族の本質は何処へ行くのか?

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「これからお読みいただくのは、親子関係をなごやかで充実したものにするための一助となればと願って書き下ろしたものです。」と穏やかな前書きから始まります。求めているものはとてもシンプルです。でも現在の家族の状況は、社会の在り方を徹底して問うしかないものです。

 日本の家族は子どもの教育を第一と考えること=勉強のできる子なら自分の子どもだとか、テストができたら何を買ってやろうとか、できなければ小遣いを下げるとか、できない子は自分の子ではないとか=親の教育への意向によって子を振り回す過酷な親子となってしまっている。そんな中で「親子になる」にはどうしたら良いのでしょうか。こういう現在に著者は子どもを「無条件に受け止める」親子関係を切望して、多くの切り口から書き続けている。

今回は優れた養護施設の保母さんの著作をテキストに、話を進めています。
里親里子関係では「親子になる」ステップを踏まないでは、「親子である」という所には立てないものでしょう。この里親里子関係の「親子になる」プロセスを解読してゆくことで、本当は実親実子関係でも「親子になる」プロセスは必要なのに、欠落してしまっているのではないか?という視点を提出してゆきます。
まず一つ取り上げると、里親里子の関係で「真実告知」と言うことがどうしても必要なのですが、これは血縁でない真実を伝えることに意義があると言うことではないのです。血縁でないのにもかかわらず「あなたのいない暮らしはもう考えられないという、親子であることの充足感、肯定感情を伝えることにある」と言っています。
 そしてこのことは「血縁の親子にあっても、共通しているはずであることに気付いた」と。「あなたがいてくれるだけでうれしいし、あなたと<親子である>ことに満足している。こんな我が子への丸ごとの肯定のメッセージを発しているだろうか」と問い掛けてくいます。日々暮らしてゆく中で、こんな確認の親子関係になっているでしょうか?と。

養護施設から引き取られた里子が新しい生活が始まると、初めは優等生的に規律ある生活をするのだそうです。ところが数日で理不尽な行動が始まるのです。里親は言っています。
「ひで君(二歳八ヶ月)初めの三日間はとてもお利口さんで、全く手が掛からなかった。しかし四日目からひで君はだんだんわがままな子になっていった。朝目が覚めてもぐずぐず言って起きてこない。用意したご飯を手づかみで食べる。手づかみにしたご飯をぐちゃぐちゃにして、ほうり投げる。たちまちダイニングキッチンはゴミ捨て場のようになってしまった。」
「ところがある日、もうどう汚れても良い、とあきらめ居直った私が「もっとしていいよ。おもしろいねえ」と言うと、私の顔を見て、ぴたりと止めてしまった。」
そこに著者は書いています。「食べ物を用意したのだから、食べ物として扱うべし、そのほかの扱いはまかりならんというのは大人の理屈です。おっぱいの使い方にあらかじめ限定を加えてはならないということです。『私はひで君のしたいようにさせることにした。』という箇所が、そのことに気づいた里親の内面を語っている言葉です。里親がおっぱいを無条件で差し出せたとき、その子どもは受け止められ体験をしたのです。」と。

「受け止め手と出会い、受け止められ体験をもつことで、子供は自分に課せられた負荷を自身で背負っていけるようになるきっかけが生まれます。」
「受け止められ体験こそが子どもの成長・自立、言い換えれば「自己受けとめ」へのプロセスを内側から促すことができるというのが、わたくしたちの養育論の骨格なのです。」と。
 このことは一般的にも同じことです。子どもが自分で考え内側から行為できるようになるためには、受けとめられること、親が、社会が干渉を止めること、その後でなければ子どもは自立へ出発できないのだ、と言うことではないでしょうか。

児童養護施設の在り方にも著者の言葉が及びます。
「全国に五五八ある児童擁護施設の七〇%が依然として大舎制の集団養育のレベルにあり、しかももっと多くの施設の現場が、受けとめというテーマをもたない場当たり的関わりの域を出ていないのが実情だと思います。」と辛辣です。
またこの本に取り上げられている、優れた保母さんの実例を読み込んだテキストの出所に付いて書いています。
「「光の子どもの家」は、グループホームの形態を取った、小舎制の施設です。(地域小規模児童養護施設)・・・保母と子どもとの関係は、意図的に母親と子の関係に擬せられているのです。子ども達が保母を、時に「ママ」と呼び、ときに「おかあさん」と呼ぶことは、前章で記したとおりです。<親子になる>ことがめざされていることがわかります。」と。社会的な施設で、ここまでできるのかと、感嘆するばかりですが、家族が解体してしまった時代には、家族以外の社会的機関が家族を代行しないことには、子どもたちが救われないということでしょうか。それも「母」としてと言う本質も著者によって提出されてしまったのですから、社会的機関は狼狽するばかりでしょうか。

 養護施設の人はもちろんながら、保育園幼稚園の人にも身につまされるものが提示されていると思う。社会サービスの行くべき遠い道=「母」が示されているのですから。

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紙の本

紙の本自然死への道

2011/05/09 23:01

医療の現在が見える

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

こんなコンパクトな形で、重い医療の現在が突き詰められているのが伝わってきます。
医療漬け薬漬けの世の中で「自然死」なんて思いもよらないことなのに、これを導きの光の元に、医療を老いを社会問題を考える。先端のエッセンスが満載です。文章は確実に問題を掴み取って直裁。あまりに簡潔で、これで伝わっているかの不安も。重いテーマがテンポ良く解題され、読み進むことができる。それに微笑ませるテーマも結構あり、実は読みやすいよう配慮されているのでした。

内容は医療と養育とケアそして社会問題について多義に渡り取り上げられている。著者は医療関係者ではなく、批評家だ。今回は自説を自分で述べるより、多くの引用によって、他者にそして医療者に語らせている。それは医療の現在への批判が医療者自身から、すでに何人もの人により成されていることも、ここで解るのでした。

「老いる」「病いる」「明け渡す」と三つの章とそれぞれに十いくつかの段落で構成される。読もうと思っている単行本など、週刊誌、テレビ番組など多くの分野が取り上げられています。一つの段落に何冊もの本があり、これが簡潔に解題されているという内容になっている。そこには集中的に「往きの医療」の現在が取り上げられ、「還りの医療」へのトータルな視点を読者の自己の位置への見識が得られると感じた。
これをもって自分に何が出来ると言うことではないが、医療に対する自分への意識の構えが始まったと思う。

私は幸いなことに未だ医療のお世話になったことがない為、新聞・テレビで医療の現在に接することはあっても、当事者意識を持てない者です。ですから医療関係の本を読むのは気が重い。買っては見たけど、当事者となった時に読めばいいやということになっているのでした。ところがこの本はそんな私にも最適のもので、簡潔であるがゆえに重さを感じさせずに読み進んでしまうのでした。多くの書籍の医療者の紹介があり、「還りの医療」への厚みを感じさせてくれます。

ではここで「往きの医療」の最前線を一つ取り上げる。
「老いる」の章から 12 がんの呪縛----早期発見、早期治療 
《2007年にガン対策基本法が施行されてから、テレビなどにガン対策推進のキャンペーンが流布されるようになり、国立がんセンターがリーダーシップを取ってきた。
がん予防・検診研究センターのホームページを覗くと、がん検診の最大の利益は「がんの早期発見・早期治療により救命されること」だとしている。
ところが同時に次のような「受診のデメリット」も記載されている。これを読めば検診効果を期待する前に不安を抱くのではないか。そしてつぎなる「早期治療」は過酷な侵襲医療の代表格なのである》と紹介される。
ここまできて『患者よ、がんと闘うな』(文春文庫)近藤誠著が紹介される。《「がんは自然に死に至る避けられない身体の老化現象の一種であり、人は老化と戦って勝ったためしがない」と言う指摘に躓いたがウソがない説得力に圧倒された。
そして10年後の『がん治療総決算』(文藝春秋)は、「がんは放っておくと、あっという間に増大して、すぐに死んでしまう」「手術は徹底的にした方がよい」等々。しかし「こういった見方はほぼ誤りだ」と近藤医師の姿勢は前著と一貫していた。「臓器を残すことができる治療法を探し、それが無理なら、無治療・様子見という選択肢を考えてみる。」と自然状態の受け入れが示されている。》と。
稲田芳弘『ガン呪縛を解く』(Ecoクリエイティブ)《がんと闘わない、病院治療を受けないという元気な生き方が、ある医学説の解読と重ねて記述された不思議な本である。》と。
ここに著者の主張する「還りの医療」が示されている。それは「明け渡す」と言う受け入れのことでもある。

「往き」の見境無い医療が、ガン治療の早期発見早期治療にあるだけでなく、健康診断や喫煙行為への過剰な干渉は、健康という権力の成立を感じる。この「自然死」というテーマは「自然な毎日」と言うところにも波及してゆけると思える。

最後に「明け渡す」15 無縁社会の死 『池袋・母子餓死日記』を取り上げる。
《東京の都心アパートで、77歳の母親と病気で寝たきりの41歳の息子の文字通りの無縁死である。死後20日以上経過して発見されたふたりの死因は栄養失調、餓死。その間の事情を克明に書き込んだ母親の日記が発見され、(前掲)として公刊された。わたしはいまでも聖書を開くような気持ちで読むことがある。》と紹介されている。
著者のマトメの言葉は、「さいごまで市民の矜持と自尊の姿が示され、つらぬかれている。」と。自ら営んでいる毎日であることを最後まで守えた母の心に寄り添い、これも自然死と位置づけている著者の思想を思わずにはいられなかった。

「往きの医療」が肥大化して突っ走っており、医の健康への権力化が進んでいますが、ここには、はっきり医や健康の未来を指し示す「自然死」という指標が示されたのだと思う。
そして、《「介護を受ける喜びと」言うことも想像してください》と、思いも掛けない未来にも出会えたのでした。

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紙の本

内部空間意識の連続性としての建築史

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 今までに無い、画期的な論考と思います。
今までの建築史は外観史であり、様式史であり、時間軸で並べただけとしか言えないと思う。建築の内的な連続性を書けるものは構造材料別展開史観や、仕上げ材料別外観史観くらいが部分見解として少しあるくらいと思う。そして建築内部空間については、個別の建物について書かれているだけと思う。本書は建築の特徴である内部空間の変容に着目し、これを日本近代建築史上での重要作品の連続的な「内実」の「通史」として、1930年から現在へと長期に渡って展開しえたものです。しかも一般向けの新書として書かれたというもの凄いものです。

 閉じる・開く・水平・垂直など建築内部空間の性格は建築家達が自作の説明でも使われてきているものですが、本著は日本的な家型解放空間と西欧的な閉じられた上昇内部空間との対比の内に、多様な展開を見せる建築の変容を、新たに練り上げられた5タイプの内部空間概念を駆使してなっています。(これらについては著作で楽しんで下さい。)
 初めに西欧の近代建築の達成として、コルビュジェのサヴォワ邸を、薄い膜のような壁で「包み込まれた空間」が、地上から持ち上げられ軽快な「伸び上がる」感を与えているものと定義される。著者は前作コルビュジェ論でもサヴォワ邸へと結晶する形態の内的関連を追求している。今回は日本の伝統家型解放空間から出発し、著者前作で確かめられたサヴォワ邸の到達に向かって、日本の建築家達の内面化がいかに試行されたかが書かれていくと言う物語になっている。各建築家の不連続な個性を超えて、「無意識な次元」での内部空間意識の連続性として提出されえたところが、大変困難な、今迄に無い確かな連続性として示し得ているものになった。
 また建築家達の内部空間意識に対しての思い入れの深さをも取り出し得ていて、遠くから眺めるような建築史ではなく、かつて鑑賞者として私が雑誌で見てきた建築家達の、格闘の内面に触れ得ているように思えました。長期の時間を大まかに内部空間意識として追う課題にもかかわらず、ハッとさせられる建築家の内実が随所に示されています。
 私が注目したところは、丹下健三の代々木屋内総合競技場は時代の大きな変換点=水平から垂直方向への建築の変換点に当時としては回帰趣味と見られそうな屋根型を大きく反らせて示したり、篠原一男から原広司の白い見上げる内部空間から思いもよらない安藤忠雄の住吉の長屋へと接続される、また行き詰まったかに見えた閉じた空間は伊東豊雄の中野本町で水平移動内部空間へと結晶、山本理研の屋根は内部空間変容史に連続している、等々、なかなか興味深い限りです。
 この建築内部空間の分類法が、建築を捕らえるときの共通言語になって、建築鑑賞が盛り上がることを願っています。

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紙の本

時代の意識の水準を読み解く

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この著作は、作家自身によって犯罪愛好家を名乗っているが、決してそんな物ではない。そんな表明は犯罪を自在に考察しえるための隠れ蓑に過ぎない。その結果ここには犯罪を自在な観点から扱うことを可能にしたところから、大変に本質的な解明が行われている。その成果が今までの犯罪物に無い、大変な読み応えのあるものになっている。
 この書物は犯罪の時間変化の系列をたどること、論じることで、犯罪者と言う特異な事件や在り方の中から、現在の人々の一般的な社会意識の水準が何処にあるのかを探って行く試みとなっている。このことは心理学や哲学が、特定の個人の特殊な病理や異和を読み解くことで、一般の人の普遍的な意識を解読して行く作業と同じことが行われている。特異な在り方が、一般の人では得られない、鮮明な主張によって、その変化を伝えてくれると言うふうに。

 その一つとして特に最終章を取り上げて、この本を簡潔に代表しよう。
 それは作者長年のテーマである「女性は今何処にいるのか?」と言う問いかけの、現在の最先端の位置を解読してみせているところが、すごい迫力で迫ってきた。女性の犯罪者は、男性の性的に優位な位置に翻弄される在り方に呑まれており、銀行業務員が横領を重ね貢いでいたりと言うのを典型に、多くの事例が取り上げられている。ところがこれを越えた在り方が出現している。インターネットの出会い系サイトで知り合った18才の少年に刺された既婚女性と言う構図に対して、「性的主導権をにぎった年上の女性が少年をそそのかして起こしたものであったように思える。」と言う分析を示し、また奈良県での准看護婦の母親が15才の娘に3000万円の保険金をかけた薬物殺害未遂事件では、女性の自己と言うテーマが浮上してきているところが、古典的な型を大きく踏み外したものと言えるとして取り上げられ、最後に、神奈川県大和市の「スマイルマム大和ルーム」での幼児に対する暴行殺人に対しては、女性が全能の自己と言うテーマを浮上させていると読み込まれる。この章だけでもこの本を手に入れた価値を感ずるところ。
 その他、「ストーカー行為の本質」に見る幼児期の母親との関係、千葉県成田市のホテルで発見された遺体を「まだ死んでいない、治療中だ」とした発言や考え方が、臓器移植の時代ゆえの民間治療とも言うべき意識を表わしているのだとか、現在を捕らえたいと願う読者には多くの発見をさせてくれるものです。

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紙の本

紙の本ここって塾!?

2005/08/18 16:36

こんな塾ありえるの!

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

こんな塾があり得るのだ。
それは今の学校が子ども達を、お前はこのくらいの力しかないとか、しっかり勉強やってるのかと、脅かし萎縮させてばかりなので、子ども達の能力の最低ラインの偏差値でしか振り分けられない学校状況だから、このことの反証だと思ったのです。
この塾での東さんは、学習はやりたいときにやればいいという在り方で、まずは安心していられる場所を提供しているという感じです。ですから子ども同士が安心して話せる場を作ること、個々の子どもの思春期の問い掛けによく答えてきているんだろうと思いました。そうして得られた子ども達の内面の安定だから、君ならこういう風に大丈夫だよと、個別に安心を提供しえており、面接試験での安定と、少しの試験問題の暗記は安いことなのかもしれないと思われた。こう言う心理的な安定こそ大事なのであり、結果に結びついているのだと読めました。
だからこの安定が、学校の押しつけから逃れて、自分を見つけて歩き出している子ども達がいるんだと、その離れ具合をいろんな子ども達の在り方で示してもらえる。そんなことがあり得るんだと、うれしくさせてもらえるのでした。
卒塾生とのインタビューがいくつもあります。
信じられないくらいですが、子ども達との友達付き合いである関係が、あからさまに子ども達から語られています。こんなにストレートに塾の居心地のよさ、それを造っている東さんの在り方を全面肯定で示されている。読者として呆れながらもいい場所になっているんだなーと、羨ましいことしきりです。そしてそんな生き方が、こんな場が本当に可能なのだと、そのあからさまから信じることもできました。
最後に現在の子ども達が置かれている情報化社会の密度と、学校の教えているものとの余りの乖離に、子ども達が学校での学習意欲を失っているのは当然だと指摘されている。そして学力テストの脅かしで延命しようとし、ますます子ども達の不適応をおこさしている。社会(学校)の在り方がおこした引きこもりは、社会(学校)が受け入れる体制に変わらねばならぬはずなのに。そしてその答は、この塾の遊びと勉強が一緒(時代への興味)という在り方が解答なんですよね。学校がここに行くにはあまりにも遠いことになっているのでしょうが。

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